この箇所では、イエス様は再びパリサイ人たちに出くわします。
その時、目が見えず、口がきけない人がイエス様のもとに連れて来られました。この場合、その原因は悪霊でした。そこで、イエス様がその悪霊を追い出された後、その人は目が見えるようになり、話せるようになりました。
周りの人々は驚きましたが、パリサイ人たちは、この奇跡がベルゼブル(つまり、サタン)の力によって行われたものだと言いました。
ここで注目すべきなのは、パリサイ人たちはイエス様の奇跡を否定しなかったことです。彼らはただ、イエス様の力がどこから来たのかを疑ったのです。
現代の人々だけが、イエス様が奇跡を行われたかどうかを疑います。なぜなら、2000年前に起こったことは疑いやすいものだからです。けれども、目の前で起こった出来事は否定しにくいものです。
それこそがパリサイ人たちの問題でした。彼らはイエス様のことが嫌いでしたが、イエス様の奇跡を否定することはできませんでした。
このパリサイ人たちの態度は、重要なポイントを示しています。
以前にも述べましたが、どんな証拠を見ても、意図的に信じない人がいるものです。彼らは「信じられない」のではなく、「信じたくない」のです。そのため、彼らは心を固くし、神様の存在を否定するために、できる限り神様の御業を歪めようとします。
その結果、パリサイ人たちは「イエス様は汚れた霊に取り憑かれている」「サタンの力によって悪霊を追い出している」と言いました。
しかし、イエス様は彼らに二つのことを言われました。
1.もしサタンが自分自身と戦うなら、その国は立ち行かなくなります。
2.イエス様が悪霊を追い出されたことは、イエス様がサタンの味方ではないことの証明です。イエス様はサタンの国を攻撃され、その悪霊は逃げ去りました。そして、イエス様はサタンを縛り、人々を自由にされました。
そして、イエス様はパリサイ人たちに警告されます。
だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。
しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイ12:31-32)
マルコはイエス様の言葉を解釈しました。
このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。(マルコ3:30)
つまり、パリサイ人たちは自分の心をあまりにも固くしたため、神様が何をされていたのかが分からなくなりました。さらに、彼らは神様の御業をサタンのものだと言いました。
これが、心を固くすることの危険性です。それを続ければ、最終的に聖霊の声が聞こえなくなり、神様の御業を見ても、それを認識できなくなります。そして、もしそうなってしまったら、救いの希望はなくなってしまいます。
そのため、イエス様はこの態度を「赦されない罪」と呼ばれました。彼らの心があまりにも固くなりすぎたため、彼らには救いの希望がなくなったのです。
モーセの時代、パロも同じ罪を犯しました。そのため、彼は滅びました。
では、人はいつその境界線に至るのでしょうか。それは神様だけがご存知です。ある人々の心は、救われるには固すぎるように見えるかもしれませんが、彼らが最終的に救われる可能性もあります。使徒パウロは、そのような例の一つです。
時々、クリスチャンは「私は赦されない罪を犯してしまったのではないか」と心配します。
けれども、もしそのように心配しているなら、たぶんその罪を犯していません。自分の罪を認識し、神様に対して柔らかい心を持って悔い改めるなら、心配する必要はありません。
本当に注意すべきなのは、自分の心を固くしてしまっている人たちです。
では、どのように柔らかい心を保つことができるでしょうか。それは、謙遜な態度を持ち、罪を犯したならすぐに悔い改めることです。そして、毎日、イエス様のように天の父の心を求め、従うことです。
あなたはどうでしょうか。どのような心を持っていますか。
