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マタイの福音書のデボーション

深く根差している信仰?

また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。

しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。(マタイの福音書13:20-21)

イエス様は、石灰岩の上に土の薄いところに蒔かれた種について描写されました。その石灰岩のために根が張ることができず、困難や迫害が訪れると、信仰の芽はすぐに焼けて枯れてしまいました。

それを読んだとき、私は考えました。「根の成長を妨げた石灰岩とは何だろうか。」

もしかすると、それは“不信”という石灰岩かもしれません。つまり、神様の愛を疑い、神様が本当に良い方であることを疑う心の状態です。

ある人々は、「神様は良い方だ」「神様はあなたを愛している」と聞くと、すぐに喜びます。

しかし、試練が訪れ、迫害を受けると、心の奥深くに埋もれていた疑いが表面化します。

「神様は本当に良い方なのだろうか。神様は本当に私を愛しているのだろうか。もしそうなら、なぜこんな悪いことが起こるのだろうか。」

その結果、彼らの信仰はすぐに枯れてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。試練や迫害が訪れるとき、あなたが最初に考えるのは、「神様が良い方なら、神様が私を本当に愛しているのなら、なぜ私は苦しんでいるのか」ということでしょうか。

それとも、あなたの信仰は、「神様は良い方である」「神様は私を本当に愛しておられる」という確信に深く根差しているでしょうか。

あなたの根は、どれほど深く張っているでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

イエス様のようになる

弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。(マタイの福音書10:24ー25)

たぶん、すべてのクリスチャンたちが「私はイエス様のようになりたい」と言うでしょう。

もちろん、イエス様はそれを聞いて、とても嬉しいでしょう。

でも、イエス様のようになることは、いつも楽な人生というわけではありません。

24〜25の前後を読むと、イエス様が私たちに警告しているのは、ある人々が福音を拒絶し、イエス様が迫害されたように、私たちも迫害されるかもしれないということです。

だから、私たちが自分自身に問いかけなくてはならないのは、それを受け入れられるかということです。良いことも悪いことも受け入れるほどに、私たちはイエス様のようになりたいのでしょうか。

イエス様、あなたのようになりたいのです。でも、そのような人生は、いつも楽しくて、楽ではないということがわかります。

時には、あなたが苦しまれたように、私も苦しまなくてはならないのです。また、あなたが拒絶されたように、私も拒絶されることがあるかもしれません。

でも、私には、あなたが私と共におられることが十分です。もし、私があなたのようになることができるなら、私は満足です。

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使徒の働きのデボーション

人生が辛いときに、どう生きるか

人生が辛いとき、私たちはどのように反応するでしょうか。

もし使徒たちが人々や神様に怒っていたら、私は彼らに共感できたと思います。

なぜなら、彼らは悪いことを何もせず、むしろ人を癒し、イエス様の福音を述べ伝えたのに、迫害されたからです。

でも、彼らはどのように反応したでしょうか。

彼らは喜んで自分たちのミッションに集中しました。それは、死にかけている世界に福音を述べ伝えることです。

私たちはどうでしょうか。辛いとき、私たちの反応はどのようなものでしょうか。

ただ落ち込んでしまうでしょうか。

ただ怒ってしまうでしょうか。

ただ歯を食いしばって頑張るでしょうか。

それとも、主の喜びに満ちた心を持ち、主を本当に必要としている人々に触れるでしょうか。

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ヨハネの黙示録

忍耐と信仰の必要性

今日の箇所では、さまざまな出来事があり、聖書学者たちは例によってその意味を議論しています。

竜(つまりサタン)と共に、二頭の獣が現れます。今回の記事では、最初の獣について取り上げ、次回のブログで二頭目の獣について扱います。

第一の獣は海から現れます。それは不思議な存在で、ダニエル書第7章に出てくる四頭の獣の特徴を併せ持っています。

竜の力を授けられたこの獣の七つの頭のうち一つは致命的な傷を負って死にましたが、その傷が癒え、世界の人々は驚きました。その結果として、世界の人々はこの獣と、それに力を与える竜を拝むようになります。

では、この幻の意味は何でしょうか。

ダニエル書では、四頭の獣がバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの各帝国を象徴しています。

ある程度、黙示録に登場する第一の獣は、それら四つの帝国に似た性質を持っています。これらの帝国は次々に現れては滅び、別の帝国に取って代わられました。

けれども、その結果はいつも同じでした。すなわち、竜を礼拝する新たな帝国が登場し、神の民を迫害するのです。

このように、黙示録において獣に従う者たちは竜を礼拝し、神の民に敵対します。

興味深いことに、黙示録第17章では、その獣が「昔はいて今はいないが、やがて底知れぬ所から上って来るもの」と描写されています(17:8,11)。

もしかすると、ヨハネはかつて獣を見たが、この書を書いた時点ではその獣がすでに滅びていたことを示しているのかもしれません。つまり、ヨハネは過去の皇帝、ネロについて言及している可能性があります。

いずれにせよ、ヨハネによれば、その皇帝は致命的な傷を受けたものの、いつか別の皇帝が現れ、ネロのように神を冒涜し、神の民を迫害するのです。

ヨハネがそのような意図を持っていたとすれば、獣は単一の人物ではなく、歴史の中に登場した多くの人々を象徴していることになります。ヨハネ自身、「キリスト教が始まってから、多くの反キリストがすでに現れている」と述べています(第一ヨハネ2:18)。

これらの反キリストたちは現れ、死に、そして新たな反キリストが再び登場します。そのパターンは何度も繰り返されてきました。

しかし、ヨハネによれば、最終的な反キリストが現れます。そして、かつての反キリストたちと同様に、人々を竜を礼拝するように導きます。

おそらく、その反キリストは「サタンを礼拝せよ」と直接は言わないでしょう。けれども、かつてのローマ皇帝のように、彼は救い主として人々に礼拝されるのです。なぜなら、一時的な平和と繁栄をこの世にもたらすからです。

ところが、人々は、自分が実際にはサタンの代理者に従っていることに気づいていません。

おまけに、反キリストは神様を冒涜し、多くのクリスチャンが迫害されます(7)。

第7〜8節によれば、クリスチャンでない者たちは喜んで獣に従います。言い換えれば、クリスチャンを迫害し殺害することが、政治的に正しいとみなされる時代になるのです。

それでは、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちが第一の獣に直面する時、彼は私たちを激しく虐げるでしょう。だからこそ、ヨハネは私たちに警告を与えているのです。

捕らわれの身になるべき者は捕らわれ、剣で殺されるべき者は剣で殺される。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。(黙示録13:10)

その言葉は、スミルナにある教会の人々に対するイエス様の言葉に似ています。だからこそ、おそらく彼らがこれらの言葉を読んだ時、それは心に深く響いたことでしょう。

しかし、10では、ヨハネは私たちすべてに語りかけておられます。

「心構えをしなさい。迫害は来ます。でも、忍耐と信仰を保ちなさい。そうすれば、あなたたちはいのちの冠を与えられます。また、あなたたちは決して第二の死によって害を受けることはありません。」

このメッセージを私は何度も繰り返してきたので、あなたの耳にはタコができているかもしれません。でも、私たちが反キリストに直接直面しなくても、他者による迫害を受ける可能性はあります。家族や友人、隣人、同僚、そして政府ですら、私たちを迫害するかもしれません。

アメリカでは、クリスチャンたちはこうしたことを経験し始めています。日本の歴史においても、クリスチャンたちは迫害を受けました。今は想像できないかもしれませんが、その時は再び訪れる可能性があるのです。

だから、気持ちを引き締めましょう。信仰を保ちましょう。そして、忍耐を保ちましょう。もしかすると、神様は私たちが迫害を経験するように召しておられるのかもしれません。

それでも、もし迫害を受けるなら、忘れないでください——イエス様はすでに私たちのために迫害を受けておられます。

だからこそ、『へブル人への手紙』の著者は次のように語っています。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル12:2-3)

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ヨハネの黙示録

打ち倒された敵、怒りに燃える敵

なぜ私たちは苦しまなくてはならないのでしょうか。なぜ迫害されなくてはならないのでしょうか。なぜ神様はそのような苦難を許されるのでしょうか。

もしあなたが私と一緒に黙示録を読んでいて、特にこのブログを読む前に反キリストと向き合うことはないと思っていたなら、なぜ私がそれを信じているのか不思議に思うかもしれません。

正直に言えば、反キリストが来る前に神様がクリスチャンを天に引き上げてくださったらいいのにと思います。でも、黙示録、特に今日の箇所を読むと、私たちが反キリストを避けられると信じることはできません。

今日の箇所では、私たちはマリアがイエス様を生んでからのキリスト教の歴史を大観します。ヨハネはこう語りました。

また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。(黙示録12:1-2)

私はさっきマリアの名前に触れたので、あなたは上記の女がマリアだと思うかもしれません。でも、たぶんマリアはその女ではありません。

ヨハネが太陽や月や十二の星について語るとき、彼は旧約聖書に出てくるヨセフの夢に言及している可能性があります。その夢では、太陽と月と星はヨセフの父ヤコブ(別名イスラエル)、母、そして十一人の兄弟を象徴していました。そして、その夢で彼らはヨセフを拝みました(創世記37:9ー10)。

そういうわけで、その妊婦はイスラエルという国を象徴していると思います。そこから、私たちのメシアであり王であるイエス様がお生まれになりました。

しかし、イエス様が人間としてこの世におられる間、サタンを象徴する竜はイエス様を滅ぼそうとしました。例えば、サタンの影響を受けたヘロデ王がベツレヘムの赤ちゃんたちを殺したという出来事があります(マタイ2:16ー18)。

そして、十字架でイエス様は殺されました。けれども、その後、イエス様は復活し、天に戻られました。

それを見た後、ヨハネは天にある戦いを目にします。その戦いで、サタンとその使いたちは天から追放されました。そこでサタンは地に降り、女(つまりイスラエル)を追い詰め、滅ぼそうとしました。

私ははっきりとは分かりませんが、これは西暦70年のエルサレム崩壊を指している可能性があります。そのときサタンはイスラエルを滅ぼそうとしましたが、すべてのユダヤ人が殺されたわけではありません。

特に、ユダヤ人のクリスチャンたちはイエス様の警告(マタイ24:15-21)を覚えていて、ローマ軍の攻撃前にエルサレムから避難しました。

サタンはイスラエルを完全に滅ぼし、ユダヤ人たちを皆殺しにすることができなかったため、女の子孫の残りの者たちを殺そうとしました。その「女の子孫の残りの者」とは誰を指すのでしょうか。

それは、アブラハムの肉体的な子孫ではありません。むしろ、彼らは「神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たち」です。(17)

言い換えると、その子孫とは教会のことです。ユダヤ人でも異邦人でも、イエス様を信じる私たちクリスチャンは、真のイスラエルの子孫とされました(ガラテヤ3:29)。

では、なぜサタンは私たちに激しい怒りを燃やしているのでしょうか。なぜそれほど私たちを滅ぼそうとしているのでしょうか。

ヨハネはその理由を説明します。

悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り(ます)。(12)

悪霊たちは天から追放され、天にいる者たちは歓喜します。けれども、ヨハネは地上の人々に警告を与えます。

しかし、地と海はわざわいだ。悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、おまえたちのところへ下ったからだ。(12)

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、私たちはすでに打ち倒された敵に直面しているということです。サタンはそれを知っていて、自分の時が短く、やがて裁かれることも理解しています。

第二に、その時が来るまでは、サタンは怒りを持って私たちを襲ってくるということです。だから、これまで見てきたように、そして後の箇所でも見るように、あるクリスチャンたちはイエス様のために殺されます。

それでも、私たちは最終的な勝利を手にします。サタンは私たちのからだを殺すことがあっても、私たちの魂を滅ぼすことはできません。だからこそ、サタンが天から追放されたとき、大きな声がこう天で叫びました。

今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。(10)

つまり、イエス様の十字架の御業によって、サタンはもはや私たちを責める権利を失ったのです。だからサタンが私たちを責めようとしても、神様は彼を黙らせてくださいます。

さらにヨハネによれば、私たちは一時サタンに敗れることがあっても、結局、

兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった。(11)

サタンは私たちを襲い、命を奪うかもしれません。それでも、私たちは最終的な勝利を手にします。

なぜなら、イエス様は十字架で私たちのためにすでに勝利を収められたからです。そして、私たちのいのちと死を通して、私たちは神様が私たちの心を新しくしてくださったことを証し、サタンが私たちを責める権利をもはや持っていないことを証明するのです。

それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。(12a)

私たちはすでに勝利を手にしているのです。

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ヨハネの黙示録

悪化の末に、救い

私は以前も言いましたが、私たちは聖書の深海に入っていて、これからその海はさらに深くなっていくでしょう。😊

クリスチャンたちはこの章の解釈をめぐってよく議論します。

だから、私は以前にも言ったように、とりあえず私の意見を述べますが、後にその意見が変わるかもしれません。

今日の箇所では、ヨハネは測り竿を与えられ、神殿と祭壇を測り、礼拝している人々を数えるよう命じられます。

しかし、御使いはヨハネにこう言います。

神殿の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはいけない。それは異邦人に与えられているからだ。彼らは聖なる都を四十二か月の間、踏みにじることになる。(黙示録11:2)

それはどういうことでしょうか。

たぶん、御使いはルカ21:24にあるイエス様の言葉に触れているのかもしれません。その箇所で、イエス様はエルサレムが倒れることを預言されました。

西暦70年に、その預言は成就しました。

多くのクリスチャンたちが考えるのは、その預言が西暦70年の出来事だけではなく、将来の出来事にも触れているということです。そうであれば、将来エルサレムに新しい神殿が建てられるはずです。

でも、もう一つの可能性があります。それは、西暦70年の出来事が将来の出来事の象徴であるということです。

つまり、神殿や聖なる都(つまり、エルサレム)は神様の民を象徴しています。(第一コリント3:16-17;黙示録21:2)

そして、多くのクリスチャンたちは神様に守られますが、他のクリスチャンたちは迫害されます。

私たちはすでに読みましたが、それは黙示録に繰り返し現れるテーマです。

そして、12-13章でそのテーマは再び現れます。(また、ダニエル書7:21および12:7でもそのテーマを見ることができます。)

黙示録では、1260日間や、一時と二時と半時の間という言葉が繰り返し登場します。それらは同じ意味を持っています。つまり、神様の民は三年半ほど苦しむということです。

それは、文字通りの三年半かもしれません。でも、比喩的な数字かもしれません。聖書では、「7」が「完全さ」を表します。

だから、私たちの苦しみは完全なものではなく、短くされるのです。イエス様によれば、神様に選ばれた者たちのために、大きな苦難の日数は少なくされます。(マタイ24:22)

いずれにせよ、ヨハネによれば、将来二人の証人たちが現れ、この世の人々に神様の裁きと救いを宣言します。

クリスチャンたちはその意味についてもよく議論します。

ある人々は、その二人が文字通りの二人の証人だと考えます。ですが、他のクリスチャンたちは、その証人たちが教会全体を象徴すると考えています。

私の意見ですが、その二人は教会全体を象徴していると思います。なぜなら、その二人は、二本のオリーブの木、また二つの燭台に例えられているからです。(黙示録11:4)

そして、2-3章で、教会は燭台に例えられました。

さらに、預言者ゼカリヤによれば、二本のオリーブの木は支配者と祭司を象徴しています。(ゼカリヤ3-4章)

そして、黙示録では、教会はその二つの役割を果たしています。(1:6;5:10)

いずれにせよ、三年半の激しい迫害の間、その証人たちは預言します。しばらくの間、神様は彼らを守り、彼らを通して人々を裁きます。

けれども、その三年半が過ぎると、獣、つまり反キリストが彼らを殺します。そのとき、この世の人々は喜びます。

なぜなら、その証人たちは彼らの説教によってこの世の人々を苦しめ、彼らの祈りによって人々は裁かれていたからです。(黙示録11:5-10)

ヨハネがキリスト教の長い歴史におけるすべての殉教者について語っているのか、それとも将来の殉教者たちについてだけ語っているのかは分かりません。

6節を読むと、私たちはモーセとエリヤを連想するので、もしかすると象徴的な描写であり、二人の証人がすべての殉教者を象徴しているのかもしれません。

とはいえ、それが文字通りの記述だとすれば、おそらく将来の出来事を指しているのでしょう。

ただ、5節によると彼らの口から火が出るため、やはり象徴的な表現なのかもしれません。

いずれにせよ、三日半が過ぎると、神様は彼らの敵の目の前で証人たちを復活させ、天に引き上げられます。

もしその証人たちが教会全体を象徴しているのであれば、ヨハネはキリストの再臨に触れているのかもしれません。その日、神様は死んだクリスチャンのからだを復活させ、私たちは空中で主に会うのです。(第一テサロニケ4:17)

それが私の見解です。なぜなら、その後に七つのラッパが吹かれ、多くの人々が叫びをあげるからです。それは、

この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。(黙示録11:15)

そして、長老たちは歌い始めます。

私たちはあなたに感謝します。今おられ、昔おられた全能者、神である主よ。あなたは偉大な力を働かせて、王となられました。諸国の民は怒りました。

しかし、あなたの御怒りが来ました。死者がさばかれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる時、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。(17-18)

その後、天にある神の神殿が開かれ、ヨハネは神の契約の箱を神殿の中に見ました。

そして、裁きが始まり、稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、地震が起こり、大粒の雹が降りました。

では、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

それは、神様の民にとって、物事は段々と悪化するということです。

福音書で、イエス様は私たちにこのことを警告されました。さらに、イエス様は黙示録に登場する7つの教会にも警告されました。そして、今日の箇所でもイエス様は同じ警告を私たちに与えておられます。

迫害は必ず訪れます。けれども、その迫害は永遠に続くものではありません。迫害は短くされます。

そして、イエス様がもう一度この世に来られるとき、私たちは救われます。

やがて、神の正義が訪れます。 もし私たちが迫害に耐えるなら、救われ、大きな報いを受けます。 そして、その日に、私たちのすべての涙はぬぐい取られます。

なぜ私はこのテーマを何度も繰り返すのでしょうか。 それは、このテーマが黙示録全体を貫いているからです。 私たちはすでに以前の箇所で読みましたし、今日の箇所にも登場しました。 そして、この書の後半にも現れます。

では、なぜ神様はこのテーマを何度も繰り返されるのでしょうか。 きっと、私たちの苦しみが激しくなっていくからです。 そして、その苦しみに耐えることは、とても難しいからです。

しかし、神様が私たちに伝えたいのは、「その苦しみは一時的なものだ」ということです。

ですから、黙示録の後半でも、このテーマを探してみましょう。

黙示録の目的は、私たちに未来の出来事を知らせることだけではありません。 神様が望まれるのは、私たちが心構えすることだけではありません。 むしろ、神様は私たちに希望を与えたいと願っておられます。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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ペテロの手紙第一

神様のしもべとして生きる(4)

ペテロは、夫婦や奴隷たちがどのように神様のしもべとして生きるべきかについて語った後、私たち全員に向けて話を続けます。

まず、ペテロは私たちの人間関係について話します。

最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。(ペテロの手紙第一3:8)

その言葉を読むと、イエス様の言葉を思い起こさせます。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34-35)

第一ペテロ3:8では、ペテロがイエス様の言葉をさらに深めて膨らませているように思います。

異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。(ペテロの手紙第一2:12)

しかし、クリスチャンたちが常に喧嘩しているならば、自分たちの証しを失墜させてしまいます。

その後、ペテロは、クリスチャンたちが神様のしもべとして、苦しみや迫害にどのように反応すべきかというテーマに戻ります。

私たちは、この世の模範に従って苦々しい思いを持ったり、相手に復讐したりしてはいけません。その代わりに、私たちは相手を祝福するべきです。(ペテロの手紙第一3:9)

その言葉もまた、イエス様の言葉に似ています。

あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。(ルカ6:28)

また、ペテロによれば、私たちが相手を祝福すると、私たちは神様の祝福を受け継ぎます。だからこそ、私たちは悪に対して悪を返してはいけません。(ペテロの手紙第一3:9)

さらに、ペテロは詩篇34篇を引用しています。簡単に言えば、私たちは自分の言葉遣いに注意し、悪を避け、平和を追い求めるべきだと教えています。(10-12節)

それは簡単なことではありませんでした。特に、ペテロの時代では、それは非常に困難なことでした。ネロ皇帝は宴席の場でクリスチャンたちに火をつけ、彼らをトーチとして使いました。ペテロ自身もまた、ネロの命令によって十字架にかけられました。

それでもなお、ペテロはこう言いました。

たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。(14節)

そして、ペテロはこの箇所の核心を伝えます。

むしろ、心の中でキリストを主とし(なさい)。(15節)

どうして奴隷たちは悪い主人たちに耐えなくてはならないのでしょうか。

どうして妻たちは自分の夫に従うべきなのでしょうか。

どうして夫は自分の妻を敬うべきなのでしょうか。

どうしてクリスチャンたちは互いに愛し合うべきなのでしょうか。

そして、どうして私たちは迫害されるときに悪に背を向け、相手を祝福するべきなのでしょうか。

それは、イエスが私たちの主だからです。そしてペテロは、私たちがイエス様を主とするように訓戒しています。

私たちは、自分が主のしもべであることを心に留めていなくてはなりません。そして、イエス様のしもべとして、私たちはイエス様の光をこの世に照らすべきです。

けれども、自分勝手に生き、神様の御国のためではなく、自分の目的と計画を果たすために生きるならば、私たちはその光を照らすことはできません。

だからこそ、私たちが苦しみや迫害に直面するとき、ペテロは私たちにこう言います。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。

そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。(15b-16節)

私たちがキリストのしもべとして生き続けるならば、最終的に周りの人々は、なぜ私たちがそのように生きるのかを疑問に思うでしょう。たとえ私たちを迫害する者たちであっても、その理由を尋ねてくるかもしれません。

彼らがそう尋ねるとき、私たちには彼らを神様の御国へと導く機会が与えられるのです。

しかし、自分勝手に生きているならば、そのような機会を決して見出すことはできません。だからこそ、ペテロはこう言います。

神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。(17節)

もちろん、苦しみたいと願う人は誰もいません。けれども、自分の罪のためではなく、神様のしもべとして苦しむならば、私たちは神様の御国が広がるのを目の当たりにし、最終的には神様が私たちに報いを与えてくださるのです。

あなたはどうでしょうか。何のために、そして誰のために生きているのでしょうか。

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テモテへの手紙第二

この世はますます悪に落ちていくのに

もしこの世が良くなると考える人がいれば、その人は私が読んでいる聖書を読んでいないでしょう。聖書によれば、イエス様が帰って来られるまで、この世はますます悪くなります。

特に、この世の人々の不敬虔さはだんだん悪化します。自分がクリスチャンと自称する人の性格も悪化します。

だから、私は今パウロの言葉を読むと、その言葉の重さを10年前に感じたよりも、感じることができます。パウロはこう言いました。

キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます。(テモテへの手紙第二3:12-13)

パウロは、「もしかしたら、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は迫害を受けるかもしれない」と言いませんでした。むしろ、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は迫害を受けます」と言いました。その言葉は確実です。

どうしてでしょうか。なぜなら、悪者や偽クリスチャンたちはますます悪に落ちていきますから。偽教師たちがみ言葉に反することを教えます。そして、その聞き手はその偽教師たちを信じて騙されてしまいます。

その結果は、人々の道徳観念が曲がってしまって、この世がますます罪に落ちていくことです。それだけではなく、もし神様の光を暗闇に照らす人がいれば、その人は嫌われます。

だからイエス様はこう言われました。

そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。

悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。(ヨハネ3:19-20)

この世では、その真理を見ることができます。人々はいろんな新しい道徳の教えを受け入れますが、神様のみ言葉を拒絶します。

パウロ自身、この世の憎しみを経験しました。だからパウロは光のための自分の苦しみに関してテモテに思い出させます。パウロはテモテに警告します。

「私の経験は意外なことではありません。この世の人々が暗闇に落ちれば落ちるほど、私たちは迫害と苦しみを経験します。

では、私たちはどのように反応するべきでしょうか。パウロは私たちに教えます。

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。(テモテへの手紙第二3:14-15節)

簡単に言うと、真理にしがみつかなくてはいけません。周りの人々は真理に背を向けるかもしれないし、あなたを迫害して、その真理を絶滅しようとするかもしれませんが、真理を持っていて、宣言し続けるべきです。

どうして、私たちはみ言葉を持ち続けなくてはならないのでしょうか。

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。(16-17節)

神様のみ言葉は私たちのいのちです。そして、私たちがこの世の暗闇と向き合うと、そのみ言葉はすべての良い働きのために私たちを整えます。

み言葉は神の剣で、人々の心を貫いて、その心の中の暗闇を追い出すことができます。

さらに、神様のみ言葉は義について教え、私たちが罪に落ちると、そのみ言葉は私たちを訓戒します。それだけでなく、そのみ言葉は私たちを引き上げ、私たちがどのように生きるべきか訓練します。

最後に、そのみ言葉によって、私たちは試練を耐えることができます。私たちは暗い世界に生きていますが、神様は聖霊様を通していのちの言葉を私たちの心に静かに語りかけてくださいます。

イエス様は「私に従うと、あなたは楽な人生を送る」と約束されません。むしろ、イエス様はこう言われました。

世にあっては苦難があります。 (ヨハネ16:33a)

もしあなたは真理を宣言し、この暗い世界に光を照らすと、苦難を経験します。でもその光を手放さないでください。暗闇によって、その光が消えるように許してはいけません。

むしろ、イエス様の心強い言葉を覚えていましょう。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33b)

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テサロニケ人への手紙第二

苦難のただ中にある希望

私は前にも述べましたが、クリスチャンたちは反キリストを見ることになり、迫害を受けると信じています。

そして私は、イエス様が反キリストを滅ぼすために来られるまでは、ご自身の民を集められないと信じています。

どうして私がそう信じているのでしょうか。この箇所の言葉が、その理由の一つです。

一部のクリスチャンたちは、反キリストが現れる前に、イエス様がご自身の民を集めて天に連れて行かれると考えています。

彼らの主張によれば、もしキリストの再臨に先立って、ある「しるし」が成就しなければならないのだとすれば、「イエス様がいつでも来られる」とは言えなくなってしまう、というのです。

だから彼らの理解では、その「しるし」を見るまでは、私たちは特に準備をしなくてもよい、ということになります。

私は、その考えに対して二つの答えを持っています。

一つ目は、イエス様がご自身の民を集められる前に、いくつもの出来事が起こらなくてはなりませんが、それでもイエス様は、いつでもあなたを天に連れて行かれるかもしれません。

イエス様は、あなたに明日のいのちを約束しておられません。あなたは交通事故で死ぬかもしれません。また、犯罪者によって命を奪われるかもしれません。

そうしたことが起こったとき、あなたは何らかの備えをしているでしょうか。もしかしたら、イエス様のたとえ話に出てくるように、神様が突然あなたを裁くために呼ばれるとき、あなたは何の備えもしていないかもしれません。(ルカ12:13〜21)

二つ目は、その議論がパウロの言葉と矛盾しているということです。パウロ自身がこう言いました。「イエス様はまだ来られていません。その前にあるしるしが成就されなくてはなりません。」

パウロの時代から今日に至るまで、何かが変わったでしょうか。何も変わっていません。イエス様はまだ来られていません。そして、私たちはイエス様がいつ来られるのかを知りません。

ですから、もしパウロが今も生きていたら、私たちに同じように語るはずです。「イエス様はまだ来られていません。まだ、あるしるしが成就されなくてはなりません。」

もちろん、クリスチャンが反キリストを見ることは、不穏なことです。特にこれまで、私たちクリスチャンが反キリストを見ることは決してないと信じていた人々にとっては、そのような話は聞きたくないと思うかもしれません。

しかし、私たちには希望があります。

パウロによれば、酷い苦難の時、つまり反キリストの時代には、この世の人々が神様の御怒りを受けますが、私たちはその御怒りを受けることはありません(第一テサロニケ5:9)。

また、ペテロはこう語っています。

主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを試練から救い出し、正しくない者たちを処罰し、裁きの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。(第二ペテロ2:9も別訳、脚注を調べてください)。

さらに、パウロはテサロニケの人々にこう語りました。

しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。

神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。

そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。(テサロニケ人への手紙第二2:13-14)

要するに、あなたは試練に遭うかもしれませんが、神様がすでにあなたを選んでおられるので、必ず救ってくださいます。そして、あなたはイエス様の栄光にあずかるのです。

そういうわけで、パウロはこう言います。

ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。(15-17)

私たちがどのようなことを経験しても、たとえ反キリストに直面するとしても、パウロは私たちにこう語っています。

「あなたが受けた真理にしっかりとしがみつきなさい。何よりも、イエス様にしがみつきなさい。なぜなら、最も暗いときにこそ、イエス様は私たちに励ましと希望と力を与えてくださるからです。」

実のところ、もし私の考えが間違っていて、私たちが反キリストに会う必要がないのだとすれば、それは私にとって本当に喜ばしいことです。

しかし、もし私たちが反キリストを見ることになるのなら、イエス様にしがみつきましょう。イエス様は、私たちがその試練を乗り越えることができるように助けてくださいます。

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テサロニケ人への手紙第一

迫害と向き合う覚悟をする

迫害を受けるのが好きな人など、誰もいないでしょう。 また、憎まれて喜ぶ人もいないはずです。

それでも、クリスチャンとして、そうなる可能性を覚悟しておかなければなりません。 私たちが信仰に生きるなら、ある人々は私たちを憎むことがあるのです。

このようなわけで、パウロはテサロニケの人々に警告しました。

私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。

あなたがたを信仰において強め励まし、このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。

あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。

あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。(テサロニケ人への手紙第一3:2-4)

「苦難にあうように定められている。迫害にあうように定められている。」

クリスチャンは、そんな言葉を聞きたくはないでしょう。 けれどもパウロは、その可能性についてテサロニケの人々に警告しました。

その結果、実際に迫害がやって来たとき、彼らの心はすでに備えられていたのです。 彼らの信仰は揺らぐことなく、むしろ堅く立ち続けていました。(3:6〜8)

私たちもまた、そのように歩むべきです。

でも、覚えておいてください。 神様は、私たちに「自分の力」で立つように命じておられるのではありません。 むしろ、私たちは神様の力に拠り頼まなければならないのです。

では、どのようにすれば、神様の力に頼ることができるでしょうか。 一つの方法は、みことばを読むことです。 そうすれば、自分の信仰は養われ、成長し続けるのです。

パウロは、テサロニケの人々にこう語りました。

私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。(10)

イエス様についての知識を完全に持っている人は、誰一人いません。 だからこそ、私たちの人生においては、その知識と信仰が成長し続けるべきなのです。

それは、私たちが教会に行く理由の一つでもあります。 なぜなら、霊的な栄養を受けることによって、試練に直面するときにも、堅く立つ力が与えられるからです。

もちろん、説教を通して霊的な栄養を受けることができます。 しかし、それだけではありません。 兄弟姉妹との関係を通しても、私たちは豊かな霊的な養いを受けるのです。

神様が私たちの心に愛を注いでくださるとき、 私たちは互いに愛し合うことを学び、 教会の外にいる人々をも愛することを学んでいきます。(12)

けれども、霊的な栄養の源は、神様ご自身です。 私たちのうちに住んでおられる聖霊を通して、 神様は私たちの心を日々強めてくださいます。

だからこそ、パウロはこのように祈ったのです。

そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。(13)

私たちがイエス様のために生きるなら、 サタンは必ず、私たちに反対してきます。 それは、クリスチャンにとって当然のことなのです。

実際、パウロも、テサロニケの人々も、 そして初代教会から現代に至るまでの数えきれないクリスチャンたちも、 迫害を受けてきました。

あなたは、そのような迫害に直面する覚悟ができているでしょうか。

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使徒の働き

苦難があっても

控えめに言っても、パウロとバルナバの宣教旅行は決して退屈なものではありませんでした。

彼らは数々の成功を経験しましたが、同時に多くの試練にも直面しました。あるとき、パウロは石打ちの刑に遭い、死の危機に瀕しました。そのため、彼らが失望し、諦めてしまうことは容易だったでしょう。

けれども、彼らはそうしませんでした。むしろ、迫害された場所にまで戻ったのです。なぜでしょうか。それは、そこにいる信者たちを励まし、信仰に堅く立つように勧めるためでした。

彼らは何を語ったのでしょうか。

私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない。(使徒の働き14:22)

もし私たちがそのクリスチャンたちの立場だったなら、きっと試練ではなく、神様の祝福について聞きたかったことでしょう。

しかし、パウロは、新しいクリスチャンたちが試練に直面することを理解していました。もし、パウロとバルナバが訪れた都市の人々が彼らを迫害するなら、新しいクリスチャンたちも同じように迫害される可能性が高いのです。

だからこそ、パウロはその試練の現実を隠そうとはしませんでした。彼は、「あなたがたは確かに苦しみを経ることになる」と語ったのです。

それでも、良い知らせもありました。それは、彼らがその苦しみに一人で直面する必要はなかったことです。神様がパウロとバルナバとともにおられたように、神様は新しいクリスチャンたちともともにおられるのです。

さらに、アンティオキアのクリスチャンたちが、パウロとバルナバを神様の恵みに委ねて送り出したように、パウロとバルナバも新しいクリスチャンたちを主に委ねました(23,26)。

パウロとバルナバが確信していたのは、新しいクリスチャンたちが試練に直面しても、神様の恵みが彼らを支えるということです。

同じように、あなたがどんな試練や苦難に直面しても、神様はいつもあなたとともにおられ、その恵みによって、あなたはその試練を乗り越えることができます。

パウロとバルナバとともにおられた神は、今もあなたとともにおられます。だから、どんな苦難があっても、あきらめないようにしましょう。絶望しないようにしましょう。

Through many dangers, toils and snares
I have already come;
さまざまな危険や苦難、罠を乗り越え、私はすでにここまでたどり着きました。

‘Tis Grace that brought me safe thus far
恵みは私を安全に導き、ここまで守ってくださいました。

and Grace will lead me home.
さらに、恵みは私を主の家へと導いてくださいます。

ーージョン・ニュートン

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ヨハネ15章 ヨハネ16章

職業上の危険

私が初めて日本に来たとき、教会で英会話の授業を教えていました。

その頃、牧師のお嬢さんはキリスト教の幼稚園で働いていました。

ある日、一人の子供が彼女の手をハサミで刺しました。幸いにも、そのハサミの刃の先端が丸かったため、彼女は無事でした。

後日、彼女は私にこう言いました。「私の幼稚園では英語の先生が必要です。そこで働きませんか。」

私はそのハサミの話を覚えていたので、断りました。そんな職業上の危険には全く興味がなかったからです。😄

しかし、クリスチャンとして、私たちは避けられない「職業上の危険」があります。もし私たちがイエス様のことを伝えるなら、怒る人がいるでしょう。私たちを憎む人もいるでしょう。

イエス様はこう言われました。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。

しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。

しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。

人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。

しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。(ヨハネの福音書15:18-21)

イエス様は完全な愛そのものでした。そして、完全な人生を歩まれました。それでも、人々は彼を憎みました。

私たちはイエス様の運命を避けられると思うでしょうか。

もちろん、すべての人々が私たちを憎むわけではありません。私たちがイエス様の真理を伝えると、私たちを愛する人もいます。けれども、イエス様のメッセージを曲げることを拒むなら、ときに相手の反応は敵対的になってしまいます。

残念なことですが、そのために多くのクリスチャンがメッセージを曲げてしまいます。なぜでしょうか。憎まれたくないから。争いを避けたいから。

私の言葉を誤解しないでください。私たちは、あえて争いを求めるべきではありません。

しかし、私たちがイエス様のメッセージを正しく伝えるなら、私たちを憎む人が現れるのは当然のことです。自然に対立が生じるでしょう。でも、それが私たちの目的ではありません。

それでも、イエス様のメッセージを伝えるとき、私たちは争いを恐れてはいけません。むしろ、「神様の計画のすべてを、余すところなく」知らせなくてはなりません。(使徒の働き20:27)

イエス様は決して争いを恐れませんでした。まして、私たちはなおさらです。

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マタイの福音書 マタイ24章 マルコの福音書 マルコ13章 ルカの福音書 ルカ21章

主が戻られるまで

この箇所では、イエス様はご自身が戻られるまでにどのような出来事が起こるかを説明されています。そしてイエス様のお言葉によれば、この世界は次第に悪化の一途をたどります。最終的には非常に厳しい状況になるでしょう。

戦争が起こり、地震や様々な災害が発生します。その混乱の中で、偽預言者たちが現れ、希望を語るメッセージを伝えるものの、多くの人々を欺きます。

さらに、反キリストも登場します。

その結果として、迫害が生じます。特にユダヤ人やイエス様に従う人々が迫害されるため、多くの人々が信仰を捨ててしまうのです。

現在、多くの人々は自分をクリスチャンだと主張しますが、イエス様に従わず自分の道を歩んでいます。しかし、迫害の時代が訪れると、このような「クリスチャン」はいなくなるでしょう。迫害を受ける前に、自らの「信仰」を捨てると考えられます。

また、周囲の邪悪さのため、多くの人の愛が冷えていきます。信頼は薄れ、人々は互いに、特にクリスチャンたちを裏切るようになります。そしてさらに災害が続くことで、人々の恐怖は増していきます。

ところが、この災厄が頂点に達するとき、イエス様が現れて、邪悪なものを終わらせ、ついに神の国が来るのです。

これらの言葉の後、イエス様は私たちを励ますと同時に警告もされています。

イエス様の最初の警告は、偽のキリストが現れるということです。

イエス様がこの世に戻られるとき、雲の中から偉大な力と栄光を伴って現れ、全世界が一斉にイエス様を目にするでしょう。だから、噂を信じてはなりません。

しるしや不思議を行う偽のキリストも現れますが、そのような人物を信じてはなりません。なぜなら、反キリストもまたしるしや不思議を行い、多くの人々を欺くからです。(第二テサロニケ2:3-9)

さらに、イエス様は私たちが厳しい試練に直面しても希望を失わず、イエス様を待ち望み、神様の御心に従い続けるよう励まされています。イエス様は次のように言われました。

これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。(ルカ21:28)

要するに、迫害や災害などが起こっても、思い悩まないでください。絶望しないでください。なぜなら、その出来事はイエス様の戻りのしるしだから。

でもイエス様は私たちに警告します。

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。(ルカ21:34)

その試練が訪れるとき、周囲の不正を目にして絶望に陥ることは容易です。だからこそ、イエス様は私たちが絶望に陥らないよう注意を促されています。

また、邪悪なものを見る際には皮肉的な心を持たないよう気をつけなければなりません。「イエス様はもう戻ってこられないのではないか」と思い始めてはいけません。

むしろ、イエス様を待ち望み続け、イエス様に仕え続けましょう。そうすれば、あなたは報いを受けることができます。しかし、そうしない場合、あなたは懲らしめを受けることになります。(マタイ24:46-51)

もしかすると、「この話は私には関係ない」と思うかもしれません。なぜなら、その試練が訪れる前、反キリストが現れる前に、あなたがすでにイエス様とともにいると思っているからです。

以前にも述べたように、私もそれを信じたいと願っています。けれども、もし反キリストを目にして、自分が誤っていたことに気づいたなら、そのときは、私が述べたことを思い出してください。

そして、どのような試練に直面しても、どれほどの苦しみを経験しても、主が戻られるまで、イエス様を待ち望み、忠実に仕え続けましょう。

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マタイの福音書 マタイ19章 マルコの福音書 マルコ10章 ルカの福音書 ルカ18章

イエス様に従い甲斐がある?

イエス様に従うことは本当に甲斐があるのでしょうか。裕福な役人はその疑問に直面しなければなりませんでした。残念ながら、彼はイエス様に従うことに甲斐がないと感じてしまいました。

ペテロもまた、自分自身に同じ問いを投げかけました。「イエス様のために、私はすべてを捨ててきましたが、それは本当に価値あることなのでしょうか。」

そこで彼はイエス様に尋ねました。

ご覧ください。私たちはすべとを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。(マタイ19:27)

イエス様はこのように答えられました。

まことに、あなたがたに言います。

私のために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。

しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。(マルコ10:29-31)

ここには、二つの重要な注意事項があります。

1.イエス様は、私たちがイエス様に従うなら報いを得ると教えてくださいました。報いは天国で得るだけではなく、この世でも得られます。それだけではなく、イエス様は私たちが豊かに祝福されると語られました。

もちろん、私たち全員が金持ちになるわけではありません。それでも、私たちの人生の終わりに振り返るとき、「私は祝福された。イエス様に従った甲斐があった」と心から言えるでしょう。

2.マルコの福音書にのみ記されているこの言葉は特に目立つものです。イエス様は報いについて語るだけではなく、警告もしてくださいました。「あなたは迫害を受けるでしょう。私に従えば必ず迫害されるでしょう。」

つまり、クリスチャンとしての生活はいつも楽しいものではありません。もちろん、喜びの瞬間はありますし、神様が私たちに祝福を注いでくださることもあります。

しかし、イエス様に従うならば、あなたを憎む人々がいるでしょう。イエス様は完全な神の子であったにもかかわらず、人々は彼を憎んだのです。

そして、イエス様はこう語られました。

しもべは主人にまさるものではない。。。人々が、私を迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。(ヨハネ15:20)

だから、イエス様に従っている間に迫害を受けることがあっても驚かないでください。むしろ、永遠の報いに目を向けましょう。なぜなら、どんな苦しみがあっても、最終的にはイエス様に従う価値があるからです。

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マタイの福音書 マタイ10章

迫害が来ると

迫害。

それは、とても嫌な響きを持つ言葉かもしれませんね。迫害について話したいと思う人はあまりいないでしょう。けれども、聖書では「迫害が来る」という警告が繰り返し記されています。

パウロは次のように言いました。

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(第二テモテ3:12)

「もしかしたら、迫害を受けるかもしれません」とは書いてありません。「確かに迫害を受けます」と書かれています。

前回の記事でもお話ししましたが、もしあなたがイエス様のようになりたいと思うなら、必ずあなたを憎む人が出てくるでしょう。迫害は憎しみの次の段階です。

だからこそ、イエス様は弟子たちにも、私たちにも警告されました。イエス様は私たちのことを「狼の中の羊」と呼ばれました。

迫害について、イエス様はどのような指示を与えてくださるでしょうか?

まず最初に、「気をつけなさい」ということです。あなたの信仰のために、あなたを攻撃する人がいるかもしれません。

イエス様は肉体に対する攻撃について話されましたが、心に対する攻撃もあります。あなたの信仰のために、言葉を用いて攻撃する人もいるのです。

そのような人々をよく理解してください。そして、感情的な危険がある場合や、物理的な危険がある場合には、すぐにその場から離れてください。

福音を伝えたなら、それであなたの役割は果たされています。もし彼らがあなたの言葉を拒絶するなら、イエス様は次のように言われました。

あなたがたの足のちりを払い落としなさい。(マタイの福音書10:14)

それは少し奇妙に見える表現かもしれませんが、その当時の文化では珍しいことではありませんでした。

ユダヤ人たちは外国を出たとき、その地のちりを払い落としました。なぜなら、そのちりをイスラエルに持ち帰ると、イスラエルが汚れると考えていたからです。

つまり、イエス様が意味されたのは、「もし相手が福音を拒絶するなら、彼らが汚れた状態であることを示しなさい。彼らは裁きを受けますが、それは彼ら自身の責任であることを伝えなさい。」ということです。

そして、その場を立ち去りなさい。あなたの役割は果たされています。彼らからの暴力や辛辣な言葉に耐え続ける必要はありません。

とはいえ、一度迫害を受けると、将来の迫害を恐れるようになるのは簡単なことです。そのため、他の人々に福音を伝えることをためらうかもしれません。

それでも、イエス様は私たちを励ましてくださいます。

だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。

わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。(26-27)

つまり、「私があなたに教えたことは最終的にみんなの前に現れます。迫害を受けたとしても、その言葉を止めることはできません。だから、恐れずに、大胆にその言葉を伝えなさい。」

そして、イエス様は次のように言われました。

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(28)

あなたの魂を滅ぼす方はサタンではありません。それは神様です。サタンは地獄の囚人になる存在です。(サタンはまだ地獄にはいません。)サタンは地獄の支配者ではないのです。

しかし、心に留めてください。多くの人々が神様を拒絶しているため、毎日彼らは死に、地獄に行っています。不潔なものは天国に入ることができないため、神様は彼らを地獄に送らざるを得ません。

だからこそ、もし私たちが彼らを愛しているなら、迫害への恐れを捨て、大胆に福音を述べ伝えるべきです。

そして、イエス様は私たちを慰めてくださいます。

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(29-31)

つまり、迫害が来ても、神様はあなたのことを決して忘れることはありません。神様はあなたを助けてくださいます。

そして、もしイエス様のために命を捧げることになったとしても、神様はあなたと共におられ、すぐにイエス様のお顔を拝することができます。

だから、迫害を恐れないでください。むしろ、私たちに与えられた命の言葉を大胆に伝えましょう。

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マタイの福音書 マタイ10章

すべての人々に好かれようとする?

今日、イエス様の弟子たちへの指示についてさらに深く考えていこうと思います。

7-8節は、私の心に響きました。イエス様は弟子たちに、「病人を癒し、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。」と言われた後、次のように言われました。

あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイの福音書10:8)

つまり、あなたは無償で神様の恵みを受けたのですから、その恵みを周りの人々に無償で与えるべきです。神の国はお金を儲けるためにあるものではありません。

牧師や宣教師が、自分の働きのために報酬を受け取るべきではない、という意味ではありません。実際、イエス様は「働く者が食物を与えられるのは当然のことです」と言われました。

とはいえ、福音を伝える目的は報酬を受け取ることではありません。むしろ、私たちが受けた貴重なものを周りの人々に与えることなのです。

もう一つ、私の心に響いたことがあります。イエス様は弟子たちに何度も警告されました。

「すべての人々があなたを受け入れるわけではありません。あなたが神様の働きをし、彼らに神様の言葉を伝えたとしても、彼らがあなたを必ずしも愛するわけではありません。」

むしろ、弟子たちを憎み、拒絶する者がいる、とイエス様は警告されました。そのため、弟子たちは奉仕をする際に、友人や家族に対しても注意を払うべきでした。

これは言い過ぎのように聞こえるかもしれませんが、当時の時代背景においてはそうではありませんでした。特にサウロの時代、クリスチャンたちは激しい迫害を受けました。

もし彼らがすべての人々を信頼していたなら、殺されていたことでしょう。サウロのように、彼らの家族や友人はクリスチャンを迫害することを神様の御心だと考えていたからです。

そのため、イエス様は彼らに「蛇のようにさとくなりなさい」と言われました。要するに、行動を起こす前に慎重に考えなさいということです。相手がどのような人かをよく考慮し、相手が信頼できるかどうかを見極めるべきだということです。

それでもイエス様は続けられました。「鳩のように純真でありなさい。」(10-16)

あなたが裏切られた時にも、愛が冷めないように注意してください。相手を憎むことなく、復讐の心を捨てなさい、ということです。

私たちもイエス様の言葉を覚えているべきです。もしあなたがイエス様に従うなら、あなたを憎む人もいるでしょう。おそらく、家族や友人があなたを殺すことはないかもしれませんが、彼らがあなたを拒絶することはあるかもしれません。

イエス様は弟子たちに次のように言われました。

弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。

弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。

彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。(24-25)

私は前にも言いましたが、イエス様は完全な愛を持った方でした。彼の人生は完璧でした。

しかし、それにもかかわらずイエス様を憎む人もいました。イエス様を「悪魔」と呼ぶ人もいたのです。

そして、彼らはイエス様を殺してしまいました。私たちがイエス様に従うなら、私たちはすべての人々からの愛を期待できるでしょうか。

だからこそ、他人に愛されるためだけに努力するのはむなしいことです。むしろ、イエス様のようになることに努力すべきです。なぜなら、イエス様はあなたのためにご自身の人生を十字架でささげられたからです。

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マタイの福音書 マタイ5章 ルカの福音書 ルカ6章

山上の説教:迫害

迫害を好む人はいません。誰もが嫌われることを望んではいません。理想的なのは、すべての人々があなたを愛してくれる世界です。

しかし、ここは理想的な世界ではありません。この世界は罪によって堕落しました。そのため、多くの人々の心はゆがみ、善と悪を見分けることができなくなっています。たとえ善悪が分かっていても、多くの場合、彼らは悪を選びます。

ヨハネはこう言いました。

(イエス様を通して)光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネ3:19)

だから、イエス様は弟子たちに警告されました。

もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。(ヨハネ15:20)

少し考えてみてください。イエス様は完全な方でした。彼は一切罪を犯されませんでした。イエス様は愛そのものでした。それにもかかわらず、人々は彼を憎み、十字架で殺しました。

もしイエス様が完全であるにもかかわらず迫害されたのであれば、私たちは何を期待すればよいでしょうか。

しかし、イエス様はこう言われます。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5:10)

つまり、私たちがイエス様に従うがゆえに迫害されるなら、私たちは祝福されるのです。

それは少し奇妙に聞こえる言葉かもしれません。迫害が祝福なのでしょうか。正直なところ、私自身も迫害されたいとは思いません。

迫害そのものが祝福であるというわけではありません。ただ、私たちが迫害されるとき、それは主の足跡に従っている証拠となるのです。

要するに、私たちが愛しているイエス様が迫害されたように、私たちも迫害されるのです。それは私たちに与えられた特権であり、またその迫害は決して無意味なものではありません。裁きの日に、神様は私たちの忠実さに報いてくださいます。

ですから、イエス様のために迫害されても、決して絶望しないでください。友人や家族から拒絶されるときも、あきらめないでください。

あなたはいつも周りの人々を喜ばせることはできません。イエス様ですらそれができませんでした。だからこそ、神様を喜ばせることに焦点を当ててください。

そうすることで、本当の祝福を体験することができます。

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箴言

この世を治めておられる方

この世の現実を目にするとき、私たちはこう考えてしまうことがあります。「神様は本当にすべてを治めておられるのだろうか」。

けれども、ソロモンはこう書きました。

王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。(箴言21:21)

多くのアメリカのクリスチャンは、だんだん変わっている国の道徳観念に悩んでいます。

例えば、数年前、アメリカの政府はゲイの結婚を認め始めました。そして、クリスチャンが「ゲイの結婚に同意できない」と言ったら、彼らは迫害されてしまいます。

あるケーキ屋さんは、ゲイの人のためにも、誰のためにもケーキを作りました。ところが、ある日、その店のゲイの常連は「私が結婚するので、ケーキを焼いてください」と頼むと、その店主はクリスチャンなので断りました。

誕生日のケーキであれば、大丈夫でしたが、ゲイの結婚を祝うために焼けませんでした。そのケーキ屋さんは訴えられて、結局その店を畳まなくてはなりませんでした。

アメリカでは、多くの人が聖書の道徳の教えを拒絶するので、たくさんのクリスチャンは心配して、自分の子供たちを公立学校に送りたがりません。なぜなら、学校で、その子供たちは聖書に反対する教えも受けるからです。

最近、日本人には別の心配があります。つまり、今、北朝鮮のリーダーたちは本当に怖いです。彼らはミサイルも持っており、私たちは彼らが何をするか予想できません。

だから、多くのアメリカ人でも、日本人でも、この世を見ると、「神様は、本当にこの世を治めておられるだろうか」と考えます。

けれども、ソロモンはこう書きました。

主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。(30)

しかし、ソロモンが正しかったら、どうして私たちは、こんなトラブルを目にするのでしょうか。

それは、神様が人間に選択する権利を与えてくださるからです。私たちは神様を愛して、神様の道を行くことを選ぶことができます。その反面、神様とその道を拒絶する選択もできます。

私たちはロボットではありません。神様はロボットを望んでおられません。神様は、私たちが愛によって、神様に従うことを望んでおられます。

しかし、もう一つの理由があると思います。

それは、私たちが神様からの使命を実行していないということです。私たちは世界中に行って、弟子を作るべきです。そうすれば、人々は変わります。国々は変わります。

何世紀も前、あるクリスチャンは戦争を通して、クリスチャンの国を造ろうと思いました。もし、クリスチャンの国を造ったら、皆が救われると思いました。けれども、最終的に、彼らは失敗しました。

20-30年前、あるアメリカのクリスチャンたちは、政治を通してアメリカを変えようと思いました。だから、彼らは良い法律のために戦いました。それでも、アメリカはだんだん悪くなっています。

どうしてでしょうか。

私たちは人々の心を政治を通して変えることはできません。戦争や人間の力を通しても、人間の心を変えることはできません。

しかし、私たちがこの世の一人一人に福音を述べ伝えると、神様は彼らの心を変え始めてくださいます。私たちがこの世に変わって欲しいなら、神様だけが私たちの希望です。

では、私たちは自分の権利のために戦ってはいけないのでしょうか。私たちの国を攻撃から守るために準備してはいけないのでしょうか。もちろん、そのために準備するべきです。

とはいえ、それらは私たちの主な戦いではありません。むしろ、人々を奴隷にしているサタンと戦わなくてはなりません。人々を滅ぼしている悪魔と戦わなくてはなりません。それが私たちの主な戦いです。

神様は私たちが決して、迫害や苦しみに直面しないと約束してくださったことはありません。むしろ、神様は私たちが迫害や苦しみに直面することを約束されました。

それでも、心に留めてください。私たちがどんな迫害や苦しみに直面しても、神様はまだこの世を治めておられます。そして、イエス様がこの世に戻られたとき、皆がそれを認めます。

しかし、その日が来るまで、神様に従い、その使命を行いましょう。

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詩篇

私たちが迫害される時

詩篇129篇では、私たちは二つのことを見ることができます。

一つ目は、ユダヤ人の迫害される歴史です。彼らはエジプトで迫害されたし、士師の時代にも、王国の時代にも迫害され、そして最終的に追放されました。

その追放から戻った後にも、迫害は続きました。ギリシャ王国とローマの帝国の時代に彼らは本当に苦しみました。

現代でも、その迫害が続いています。ヒトラーはたくさんのユダヤ人を殺し、イスラエルは何回も周りの国々に攻撃されました。今でも、イスラエルが滅びたら、アラブ世界は喜ぶでしょう。

それでも、ユダヤ人はこう言えます。

彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。彼らは私に勝てなかった。(詩篇129:2)

つまり(これは二つ目のことなんですが)、試練の中で、神様の手はずっとイスラエル人の上にありました。

私たちもそう言えます。私たちはアブラハムの霊的な相続人です。私たちも迫害されるかもしれません。家族や友達や私たちの政府が私たちを襲うかもしれません。

しかし、神様は私たちが立つように助けてくださいます。また、神様は教会が立つように助けてくださいます。だから、私たちの敵は私たちに最終的に勝てません。

だから、イエス様の言葉を覚えていましょう。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。

あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。(マタイ5:10-12)