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エゼキエル書

真の宮、神様の真の民

私が子供の頃、日曜学校で何度もこの言葉を聞きました。「教会は建物ではありません。教会は人々そのものです。」

確かにそれは真実ですが、完全な定義ではありません。教会とは、神に属する人々のことです。つまり、彼らの心は神様のものです。

残念なことに、イスラエル人の心は神様のものではありませんでした。

彼らは「神様の民」と呼ばれていましたが、神様に背を向け、偶像を礼拝しました。さらに、彼らはその偶像を神様の宮に置きました。

そのため、ついに神様はその宮を立ち去られました。ソロモン王がその宮を建ててからエゼキエルの時代まで、神様の臨在はそこにありました。(歴代誌第二5:14)

とはいえ、ソロモンの時代ですら、その宮は実際の神様の家ではありませんでした。その時、ソロモンはこう言いました。

それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。

実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。(歴代誌第二6:18)

それでもソロモンは、神様がいつもその宮を見守り、その宮で捧げられる祈りを聞いてくださるように祈りました。(歴代誌第二6:20-42)

ソロモンが建てた宮は本当に素晴らしいものでした。その宮は栄光に満ちた場所でした。

しかし、イスラエルの罪と神様に対する不忠実によって、神様の臨在とその栄光はその宮から離れてしまいました。

11章では、私たちはイスラエル人の頑固さを目の当たりにします。

イスラエルのリーダーたちは頑なにこう言いました。「何も悪いことは起こらない。私たちは偉い人だから。」

そのため、神様は彼らを責められました。そして、しるしとして、神様はそのうちの一人を殺されました。

そのとき、エゼキエルは叫びました。

ああ、神、主よ。あなたはイスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。(11:13)

けれども、神様はこう答えられました。「いいえ、そうではない。私はバビロンに追放されたイスラエル人と共にいます。」

エルサレムに残った人々は、追放された人々についてこのように言っていました。

主から遠く離れよ。この地は私たちの所有として与えられているのだ。(11:15)

追放された人々は、もしかするとエレミヤの助言に従ったのかもしれません。つまり、彼らはバビロン人に降伏しました。(エレミヤ書27:17)

そのため、エルサレムに残った人々は彼らを売国奴だと考えた可能性があります。

エルサレムに残った人々は、神様が追放された人々を拒絶されたと思ったかもしれません。なぜなら、神様はイスラエル人にその土地を与えたのに、その「売国奴」はその土地を去ったからです。

ところが、エルサレムに残った人々は神様の民ではありませんでした。エレミヤは彼らに神様の言葉を伝えましたが、彼らはその言葉を拒絶しました。

むしろ、バビロンに行った人々こそが神様の民でした。神様は彼らについてこう言われました。

「神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。」

それゆえ言え。

「神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える。」(11:16ー17)

また、

わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。

わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。

それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。

こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(19ー20)

真の宮とは何でしょうか。それは建物ではありません。

では、神様の民とは誰でしょうか。ただ教会に通う人ではありません。また、ただクリスチャン・ホームで育った人でもありません。

神様の宮とは、神様が住んでおられるところです。神様の民とは、神様に属する人々のことです。

つまり、神様は彼らの心に住んでおられるのです。そして神様は彼らに新しく、柔らかい心を与えてくださいます。そのため、彼らは毎日神様に従います。

私たち一人ひとりに、そのような心を持つことができますように。

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イザヤ書

救い

この箇所では、神様がイスラエルの民を追放の地から呼び戻される姿が描かれています。同時に、この箇所には救いの象徴的な絵を見ることもできます。

イザヤはイスラエルの民にこう語りました。

さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。。。

あなたの子らは網にかかった大かもしかのように気を失って、すべての町かどに倒れ伏す。彼らには、主の憤りと、あなたの神のとがめとが満ちている。(イザヤ書51:17、20)

この箇所では、イザヤが神様の裁きによって打ちひしがれたユダヤの民を呼び戻しています。彼らは罪を犯したために、持っていたすべてのものを失いました。

それにもかかわらず、神様は彼らにこう語られました。

見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。(イザヤ書51:22)

つまり、彼らの裁きがすぐに終わり、彼らはもう神様の怒りを飲む必要がなくなるのです。

同じように、私たちも罪深く壊れた状態でイエス様の前に来るならば、イエス様は私たちを救ってくださいます。なぜなら、イエス様は十字架の上で私たちの罪のために代価を支払われたからです。

そのため、私たちはもはや神様の怒りを飲む必要はありません。

そして、イザヤは次のように語っています。

さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。。。

ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。(イザヤ書52:1-2)

神様がイスラエルの民の汚れた服を取り去り、新しい服を与えられたように、神様は私たちの罪を取り去り、私たちに義の服を着せてくださいます。

さらに、神様が彼らの鎖を打ち砕かれたように、神様は私たちの罪の鎖をも打ち砕いてくださいます。私たちはもはや囚人ではありません。私たちは神様の愛する子供たちです。

神様はユダヤの民について、こう語られました。

あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される。(イザヤ書52:3)

そのように、サタンは私たちのために何も代価を払うことはしませんでした。むしろ、私たちは自分の罪によって、自分自身をサタンの奴隷として売り渡してしまったのです。

しかし、神様が私たちをあがなう時には、お金ではなく、イエス様の尊い血によって私たちをあがなってくださいました。

そして今、神様はその救いを全世界に向けて宣言されています。

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。

平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。(イザヤ書52:7)

また、

主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。(イザヤ書52:10)

それでは、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。。。

主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。(イザヤ書52:11-12)

神様はユダヤの民にこう語られました。

「あなたの囚人としての生活を捨てなさい。罪の生活を捨てなさい。そして、私はあなたと共にいる。」

神様は同じ言葉を私たちにも語っておられます。

「サタンの国から離れ、神様の国へ来なさい。その道はすでに整えられた。私はあなたの罪のために代価を支払った。救いの服はあなたのためにすでに用意されている。

だから、あなたの古い生活を捨てなさい。罪の生活を捨てなさい。私はあなたと共にいる。」