カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ14章

天の父のもとへの道

多くの人々はこの個所を読むと、心が乱され、怒りを感じることがあります。なぜなら、イエス様の言葉を受け入れることが難しいからです。そのため、彼らはその言葉を拒絶してしまいます。

では、イエス様は何を語られたのでしょうか。

背景を少し説明すると、イエス様は弟子たちに「私はあなたがたのために場所を用意しに行く」と語ったばかりでした。そして、イエス様は彼らにこう言われました。

わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。(ヨハネの福音書14:4)

けれども、トマスはイエス様の言葉を理解できなかったため、ごく自然な質問をしました。

主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。(14:5)

イエス様はこう答えられました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(14:6)

イエス様は「私は父のみもとへの道を教えます」とは言われませんでした。

イエス様は「父のみもとへ行くために、あなたがたが何をすべきかを教える」とも言われませんでした。

イエス様は「私が父のみもとへの道である」と語られました。 「もし天国に行き、天の父に会いたいと思うなら、私を通して行かなければなりません。」

これは驚くべき主張です。

けれども、少し考えてみてください。

もしアメリカ大統領に会いたいと思っても、自分の意思でホワイトハウスのオーバルオフィスに入ることはできません。

招待状が必要であり、さらに、誰かが扉であなたを迎え入れ、大統領のもとへ案内してくれます。

その人がいなければ、あなたは決して大統領に会うことはできません。その人こそが、大統領のもとへ至る道なのです。

このように、イエス様は天の父のみもとへ至る道です。しかし、イエス様は単なる天国の案内人ではありません。イエス様は神の子です。

イエス様が十字架で死に、私たちの罪の代価を払われたことによって、私たちは神様との関係を持つことができます。

イエス様は私たちを天の父のみもとへ導き、大祭司として私たちのためにとりなしをしてくださいます。(ローマ8:34、へブル10:19-22)

けれども、イエス様の十字架の働きがなければ、また、イエス様が私たちとともにおられなければ、私たちは天国に入ることも、天の父に会うこともできません。

イエス様はトマスにもう一つのことを語られました。「私は真理です。」

多くの人々は真理を求めています。

けれども、最近では多くの人々が、真理は存在しないと考えています。特に霊的な真理はないと感じる人が増えています。

しかし、イエス様は「わたしは真理である」と主張されました。

「私の言葉は真理です。真理は相対的なものではありません。私の言葉は完全な真理です。私から離れてしまえば、あなたは真理を見つけることができません。」

さらに、イエス様は「私は命である」と主張されました。

多くの人々は人生の意義を求めています。彼らは意味のある人生を探し、生きがいのある人生を求めています。そして最終的に、死後の命を求めています。

だから、イエス様は言われました。

「私は命です。あなたは人生の意義を求めていますか。私のもとに来なさい。

意味のある人生を探していますか。生きがいのある人生を求めていますか。あなたは、お金や家族、持ち物、力、結婚、子供などによって充実した人生を得ようとするかもしれません。

しかし、それらはあなたに命を与えることはできません。最終的に、あなたの心は空っぽになってしまいます。私を通してのみ、あなたは生きがいのある人生を見つけることができます。

また、もし死後の命を求めているなら、仏やムハンマド、その他の宗教的な指導者を通してその命を得ることはできません。私を通してのみ、あなたの罪は赦され、永遠の命を受けることができます。」

けれども、多くの人々はこの言葉を信じたくありません。なぜなら、彼らは自分の宝物を手放さなければならないかもしれないからです。また、もはや自分の思いのままに生きることができなくなるからです。

だから、人々はイエス様を嘘つきだと言います。あるいは、イエス様が間違っていたと言います。または、イエス様の言葉が正しく引用されなかったのだと主張します。

しかし、本当の命を見つけたいのなら、イエス様を通してのみ、それを得ることができます。

真理は相対的なものではなく、確かなものです。イエス様のうちにこそ、真理を見つけることができます。

また、もし天国に行き、天の父に会いたいのなら、イエス様があなたの隣におられなければなりません。

だから、イザヤの言葉に耳を傾け、それに従いましょう。

主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。

悪しきものは自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。

主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ55:6-7)

カテゴリー
イザヤ書

平和の道

私たちはしばしば平和を探しますが、見つけることができず、「どうして」と問いかけます。

イスラエルの民も同じでした。けれども、17-18節で神様は彼らに答えられます。

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。(イザヤ書48:17-18)

日本語の翻訳では「しあわせ」と書かれていますが、別の翻訳では「平和」と訳されています。

英語の翻訳では「平和」と表現されています。つまり、神様は平和の青写真を持っておられます。

それは当然のことだと思います。神様は人間を造られました。私たちをデザインされ、私たちの人生がどのように上手くいくかを完全にご存じです。

だからこそ、私たちが神様に従うなら、平和を見出し、私たちの人生は上手くいくのです。

しかし、多くの人々は神様とその言葉に従うと言いながらも、実際にはその言葉を無視して、自分の道を進みます。イスラエルの民もそのような人々でした。

それゆえ、神様はこう言われました。

これを聞け。ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない。

確かに彼らは聖なる都の名を名のり、イスラエルの神――その名は万軍の主――に寄りかかっている。(イザヤ書48:1-2)

イスラエルの民は、神様に従うと言っていました。神様の御名によって誓い、神様を呼び求めました。「あなたは私たちの神です」と告白していました。

けれども、彼らの態度や行動は、彼らの心の本当の姿を明らかにしていました。

だから、神様はこう言われました。

あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っている。。。

あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。

わたしは、あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時からそむく者と呼ばれていることを、知っていたからだ。(4、8)

それは厳しい言葉です。けれども、神様は私たちについてこのように言われるでしょうか。私たちは神様とその御言葉に対して心を堅くしているでしょうか。神様の御言葉を拒絶しているでしょうか。

私たちはしばしば、「どうして私の人生はめちゃくちゃになっているのだろうか」と考えます。

「どうして私の結婚は上手くいかないのだろうか。どうして他の人間関係が上手くいかないのだろうか。どうして私のキャリアは上手くいかないのだろうか。」

しかし、私たちは神様の御言葉を読むと、それを無視します。そして、「従っても、私の問題は解決しない」と言い、「難しすぎる」とも言います。

そのため、私たちは自分の道を行き続けます。

その結果はどうなるでしょうか?

「悪者どもには平安がない」と主は仰せられる。(22)

私たちが神様に従うなら、私たちの人生はどれほど良くなるでしょうか。聖書の青写真に従うなら、私たちの人生はどれだけ豊かになるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。平和がないと感じていますか。

自分の知恵に頼るのをやめ、堅い心を柔らかくしてください。神様の道を求めてみてください。そうすれば、あなたの魂には平和の川が流れ始めます。

あなたは、どのように応えるでしょうか。