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士師記

私たちが正しいと思うことによって生きるときに

私は士師記を振り返ったら、士師記が暗いと知っていたけど、もう一度読んだら、どの程度まで暗いか分かるようになりました。

その時代、イスラエル人を救った士師でも、道徳的に疑わしいことをしました。私が以前言ったように、士師記をまとめたいなら、最後の言葉を見たほうがいいです。それは、

そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。(士師記21:25)

神様の目に正しいことをしませんでした。むしろ、自分の目に正しいことをしました。私たちがそうすると、結果は何でしょうか。士師記の最後の三章を読んだら、分かると思います。

1.道徳観はまったく崩れるようになります。ギブアというイスラエルの都市の行動を見たら、本当にショッキングです。ソドムに住んでいたロトの話と本当に似ています(創世記19章)。

ロトの話のように、ある人と、そのそばめは町に来て、他の人の家に泊まりました。でも、その間に、その都市の人々は家の戸をたたき続けて、叫びました。

あなたの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。(19:22)

ヘブル語で「知りたい」という表現は、彼と性的関係を持ちたいという意味になりますが、この場合は強姦の意図を含んでいます。

ロトの話のように、その家の所有者は拒絶しましたが、自分の娘と、そのお客さんのそばめを彼らに渡そうと思いました。

ロトの話と異なり、そのお客さんは天使ではなかったので、結局、彼がそのそばめを町の者に渡して、彼らが、そのそばめをレイプして、殺してしまいました。

その町の道徳観がそんなに悪くなって、ソドムのようになってしまいました。ソドムの悪によって、神様はその都市を滅ぼされました。

2.私たちは悪のことを守り始めます。他のイスラエル人は、その話を聞くと、ベニヤミンの部族に言いました。

あなたがたのうちに起こったあの悪い事は、何ということか。

今、ギブアにいるあのよこしまな者たちを渡せ、彼らを子として、イスラエルから悪を除き去ろう。(20:12-13)

でも、そのベニヤミン人は拒絶しました。むしろ、彼らは女性をレイプして殺した人々を守るために、他のイスラエル人と戦いました。使徒パウロは、このような人について、こう言いました。

彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。(ローマ1:32)

3.正しいことをしたいと思っても、悪いことをしてしまいます。ベニヤミン人を打ち負かした後で、他のイスラエル人は誓約しました。

私たちはだれも、娘をベニヤミンにとつがせない。(21:1)

私は彼らの怒りがよく分かります。でも、彼らは決して、その誓約をしてはいけませんでした。その誓約をした後で、彼らは、ベニヤミンの部族が、すぐなくなることを分かるようになりました。

だから、最初に、彼らは、あるイスラエルの都市を攻撃しました。(その都市の人々はベニヤミン人との戦いに参加しなかったらしいです)。

その都市の男の人々と、その妻たちをすべて殺してしまって、結婚していなかった女性たちを妻としてベニヤミン人にあげました。

それにしても、女性たちは足りなかったので、どうやって、その誓約を破るか考えました。結局、彼らは、ベニヤミン人が他のイスラエル人の娘たちを誘拐して結婚することを許しました。

つまり、彼らの道徳観は本当にめちゃくちゃでした。でも、私たちは自分の目に正しいことをしたら、そのようなことになります。

あなたはどうでしょうか。あなたの道徳観はどこから来ますか。神様の言葉から来るでしょうか。もしくは、ただ自分の意見でしょうか。

道徳の標準は一つしかありません。それは、私たちからではないです。だから、道徳的な決断をしなくてはならないときに、自分の知恵に頼らずに、神様の知恵に頼りましょう。

そうしないと、道徳崩壊と私たちの社会の破壊に導きます。