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ヘブル人への手紙

この遺産を持っている者として

最近、私たちは、神様がイエス様を通して差し出してくださる遺産について考えてきました。また、その遺産を拒むことの危険性についても学んできました。

では、クリスチャンとしてその遺産を受けたなら、私たちはどう生きるべきなのでしょうか。この手紙の著者は、そのことについて教えています。

このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。

感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。(へブル人への手紙12:28)

実際にそれが意味するのは何でしょうか。ヘブル人への手紙第13章において、著者は本当の礼拝について語っています。しかし、本当の礼拝とは、ただ歌を歌うことではありません。

本当の礼拝とは、周りの人々を愛することです。特に、クリスチャンの兄弟姉妹を愛することです。(13:1)

本当の礼拝とは、人をもてなすことです。あまり親しくない人にも心を開くことです。(13:2)

本当の礼拝とは、苦しんでいる人々に憐れみを示すことです。(13:3)

本当の礼拝とは、夫や妻を敬い、結婚を尊び、不貞を避けることです。(13:4)

本当の礼拝とは、お金よりも神様を愛し、神様に信頼することです。(13:5−6)

本当の礼拝とは、神様が与えてくださったリーダーたちの信仰の模範に従うことです。(13:7)

本当の礼拝とは、律法主義的なルールや儀式ではなく、神様の恵みによって生きることです。(13:9−10)

本当の礼拝とは、イエス様のために喜んで苦しむことです。なぜなら、私たちは一時的なものではなく、永遠のものを求めているからです。(13:11〜14)

本当の礼拝とは、賛美のいけにえを神様にささげることです。(13:15)

本当の礼拝とは、善を行い、分かち合うことです。(13:16)

本当の礼拝とは、教会のリーダーたちに従うことです。私たちは彼らをいつも批判するのではなく、励まし合うべきです。教会を分裂させてはなりません。(13:17)

本当の礼拝とは、周りの人々のために祈ることです。特に、教会で奉仕する人々のために祈ることです。(13:18)

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の子どもとしての遺産を受けたでしょうか。

そのことへの感謝をもって、毎日神様を礼拝しているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

私たちの遺産

前回の記事で、私たちはこの警告に目を留めました。

また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。

あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。

涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。(へブル人への手紙12:16-17)

多くの人々はエサウのようです。神様は彼らに、神の子とされる権利、また神の相続人とされる権利を差し出しておられるのに、彼らは自分の罪やこの世のものに心を奪われ、その遺産を拒んでしまいます。

では、なぜ彼らの拒みはそれほど深刻なのでしょうか。それは、その遺産が尊く、私たちがそれを受けるために、イエス様が高価な代価を払われたからです。

この手紙の著者は、こう続けます。

あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。

そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。

彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。

また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。(18-21)

神様がシナイでご自身をイスラエルの民に現され、素晴らしい遺産を約束し、彼らと契約を結ばれたことは、本当に恐れを抱かせる出来事でした。

イスラエルの民は燃える火、黒雲、暗闇、嵐を目にし、言葉のとどろきを耳にしました。

そして神様は彼らにこう警告されました。「この山に近づいてはならない。動物であってもこの山に触れたなら、その動物は殺されなければならない。」

モーセ自身も、その山で神様に近づくことを恐れました。

しかし、その山は物理的なものでした。それはこの世のものであり、その契約によって彼らが受けた遺産も一時的なものでした。

けれども今、私たちは別の山に近づき、別の契約を受け、そして永遠の遺産を受けています。この手紙の著者はそのことを説明しています。

しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。(22-24)

その違いに注目してください。私たちは物理的な山ではなく、天上の山と都に赴き、神様に近づくのです。神様に近づくとき、私たちは恐れる必要はありません。むしろ、大きな喜びをもって近づくことができます。では、なぜでしょうか。

確かに神様はすべての人々を裁かれます。けれども、イエス様は私たちの仲介者です。ご自身の血によって、イエス様はその契約を有効にされました。

アベルの血は正義や復讐のために叫びますが、イエス様の血は赦しと憐れみを宣言します。

ですから、私たちが神様の御前に立つとき、震えることなく、恐れずに立つことができるのです。そして、神様の恵みに驚きと賛美をもって応えるのです。

いつかこの世は揺り動かされ、すべての古いものは取り除かれます。しかし、私たちは決して揺り動かされない永遠の御国を受けているのです。

神様はこのすべてを私たちのために備えてくださいました。だから、エサウのようになってはいけません。イエス様が高価な代価によって買い取ってくださった遺産を拒むことがあってはなりません。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたに永遠の命を差し出しておられます。その命を受け取りませんか。

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エゼキエル書

新しい遺産

今日、私はエゼキエル書の最後の箇所を読みます。

この箇所では、神様がイスラエルの新しい遺産について語られています。それは、実に新たな遺産です。

神様はイスラエルの民を先祖の土地に連れていくことを約束されましたが、その時、遺産の形が変わります。つまり、土地の分割方法が変わるのです。

ヨシュアの時代、その土地は等しく分割されていませんでした。それぞれの部族の人口に応じて分割されたのです。(申命記26:52-54)

例えば、イッサカルとゼブルンは小さな遺産をもらいましたが、ユダとマナセは大きな遺産を受け取りました。けれども、新しい遺産は等しく分割されます。(エゼキエル書47:14)

さらに、古い遺産によって、ダン、マナセ、ガドの部族は他のイスラエルの民から離れ、神様が約束された土地からも離れ、ヨルダン川の向こうに住んでいました。

しかし、新しい遺産によって、すべての部族が神様の約束された土地に住むようになります。

最後に、外国人がイスラエルの民の中に住みたいと願うなら、彼らも遺産を受け取ることが許されます。

この箇所から、いくつかの重要な教訓を学ぶことができます。

一つ目は、神様の国では私たち全員が等しい遺産を受け取ることです。私たちの行動や国籍によって遺産を受け取るのではなく、その救いの遺産は神様の恵みによって与えられます。

そして、ユダヤ人も異邦人もその遺産を受け取ることができるのです。

パウロはこう記しました。

そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。

キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(コロサイ3:11)

二つ目の教訓は、神様の国において私たちは次善のものを相続することはないということです。

ヨシュアの時代、ダン、マナセ、そしてガドの部族は次善の土地を受け取りました。しかし、神様は私たちに次善のものではなく、最善のものを与えることを望んでおられるのです。

三つ目の教訓は、私たちの本当の遺産は天国ではなく、神様そのものだということです。

イスラエルの新しい遺産では、神様の地域は他の部族の地域の真ん中に置かれています。そして、神様は新しいエルサレムが「主はここにおられる」と呼ばれると言われました。

クリスチャンの生活の最大の喜びは、神様が私たちと共におられ、そして私たちの心の中に住んでおられることです。

ダビデはこう記しました。

主は、私へのゆずりの地所、また私へ[祝福」の杯です。(詩編16:5)

主よ、あなたが私の遺産であることに感謝します。あなたの恵みによって私を救ってくださったことを感謝します。

それだけでなく、あなたは私の心に住み、決して私を捨てないお方です。

あなたが私に次善ではなく、最善を与えようとしてくださることに感謝します。

どうか毎日私と共に歩んでください。そして私の神として導き続けてください。アーメン。