前回の記事で私が述べたのは、もしヘブル書6章によって「自分の救いを失うことができる」と考えるならば、その救いを取り戻すこともできない、ということを信じなければならないという点です(ヘブル人への手紙6:4ー6)。
この結論は避けられないものです。
その一つの根拠が、今日の箇所にあります。この箇所において著者は、もう一つ「不可能なこと」があると語っています。すなわち、神様が嘘をつくことは不可能だというのです。
著者は同じ言葉を6章4節と18節の両方で用いています。原語では、「不可能」という強い言葉が使われており、神様が嘘をつく可能性がまったくないのと同じように、救いを失った者がその救いを取り戻す可能性も、まったくないということです。
とはいえ、6章4節において私たちが恐れを抱く可能性がある一方で、6章18節では大きな希望が語られています。むしろ、著者の意図は、私たちにその希望を与えることにあるのです。彼はこう語りました。
だが、愛する者たち。私たちはこのように言ってはいますが、あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを確信しています。
神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。
私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。(ヘブル人への手紙6:9-12)
言い換えれば、「堕落した者を再び悔い改めに立ち返らせることはできない」という記述は、確かに少し恐ろしく感じるかもしれません。
しかし、著者はそのことがあなたがたに当てはまるとは考えていないようです。なぜなら、あなたの人生には救いの実が実っているからです。
ですから、たとえ今が困難な時期であっても、どうかあきらめないでください。信仰を持ち続けるならば、最終的に、イエス様にあるあなたの希望が決して無駄ではなかったことが分かるはずです。
このあと、著者はアブラハムに対する神様の約束を引き合いに出します。すなわち、神様がアブラハムに多くの子孫を与えると約束されたということです。パウロによれば、私たちはその約束の相続人です(ガラテヤ3:7ー9)。
神様がその約束を与えられたとき、ご自分を指して誓われました。なぜなら、神様にはご自分よりも優れたものがなく、それ以外を指して誓うことはできなかったからです。
アブラハムは25年もの間待ち続けましたが、その約束を信じました。神様はその約束を守り、イサクをアブラハムに与えてくださいました。そしてイサクを通して、イスラエルという国が生まれました。
さらにイエス様を通して、イエス様を信じる私たちは、アブラハムの子となったのです。
では、なぜ神様はアブラハムに誓われたのでしょうか。神様が信頼できない方だからでしょうか。違います。著者はこう語ります。
それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。(18)
神の約束と誓いの両方が変わることのない確かなものであるゆえに、私たちの希望には二重の確かさが与えられているのです。
だから、著者はこう語ります。
私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。
イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。(19-20)
著者は、イエス様を私たちの「先駆け」と呼んでいます。それはどういう意味でしょうか。
古代の時代、天候が悪く船が港に入るのが難しいとき、「先駆け」と呼ばれる小さな船が本船の錨を携えて先に港へ向かい、港の中にその錨を下ろしました。その錨によって、船の乗組員たちは無事に港に入るという確かな希望を持つことができたのです。
同じように、イエス様は私たちに先立って、天の父の御前に入られました。
だからこそ、私たちは確かな希望を持っているのです。すなわち、私たちもイエス様に従って天の父の御前に現れるとき、神様の子として愛され、受け入れられるのです。
ですから、人生の嵐が吹き荒れ、波に打ちのめされるようなときにも、どうか希望を失わないでください。神様があなたを見放されたと思わないでください。
なぜなら、イエス様はすでに私たちに先立って進まれたのです。イエス様は私たちの魂の錨です。だからこそ、いつの日か、私たちは無事に主の家にたどり着くのです。