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創世記のデボーション

私たちのはしご、門、神殿、神

すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。

そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。」。。。

 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」

 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」(創世記28:12ー13、16ー17)

このシーンを想像してみてください。

ヤコブは自分の罪のために、兄エサウから逃げていました。それでも、恵みによって、神様はヤコブに現れてくださいました。それだけではなく、神様はヤコブを祝福してくださいました。

約二千年後、ナタナエルという人がイエス様の前に立ちました。

ヤコブのように、ナタナエルは少し怖がりました。なぜなら、イエス様はナタナエルについて、神様だけが知っておられることを語られたからです。だから、ナタナエルはイエス様をメシアとして認めました。

しかし、ナタナエルはイエス様がただのメシアではないことをまだ理解していませんでした。

イエス様は彼にこう言われました。

それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。。。

まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。(ヨハネ1:50ー51)

ヤコブの話では、神の使いたちは、はしごを上り下りしていました。

でも、ヨハネの福音書では、イエス様は「私ははしごだ」と言われました。

けれども、「頑張ってはしごを登りなさい」と言われたのではなく、イエス様は私たちのところに来てくださいました。

さらに、イエス様は新しい神の家です。つまり、イエス様は新しい神殿です。

イエス様によって、神様の栄光が現れ、イエス様の十字架の働きによって、私たちは神様に近づくことができます。(ヨハネ2:20;12:32)

それだけではなく、イエス様は天国の門です。イエス様によって、私たちは救われます。(ヨハネ10:9)

それがクリスマスの意味です。イエス様は、私たちのはしごや神殿や門です。でも、最も大切なのは、イエス様が私たちの主と神であることです。

そして、私たちが気づいていなくても、イエス様はここにおられます。イエス様はインマヌエルです。「神は私たちと共におられます。」

だから、ヤコブとナタナエルと一緒に、神様のみ前に立ち、畏敬の念を抱きましょう。

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ルカの福音書 ルカ13章

手遅れになる前

地獄について考えることを好む人はほとんどいないでしょう。また、私たちは誰かが地獄に行くとは思いたくないものです。むしろ、私たちは麻原彰晃やヒトラーのような例外を除けば、すべての人々が天国に行くものと思いたいのです。

おそらく、イエス様の時代にも、多くの人々がそのように考えていたでしょう。だから、ある人がイエス様のもとに来て、こう尋ねました。

主よ。救われる者は少ないのですか。(ルカの福音書13:23)

もしかすると、その人の真意は、「天国へ行く方法をもっと簡単にできないでしょうか。もっと多くの人々が天国に入れるようになればいいのに。」ということだったのかもしれません。

その人の言葉について少し考えてみましょう。その人はユダヤ人でした。おそらく、彼は異邦人の救いについて深く考えたことはなかったでしょう。

彼はユダヤ人として、天国に入ることがどれほど難しいかを思い巡らしていたかもしれません。なぜなら、彼は自分自身を周囲の人々と比べていたからです。

パリサイ人たちや律法学者たちは律法を熱心に学び、神様の定めた規則だけでなく、人間が作り出した宗教的な戒律にも従おうとしていました。

だからこそ、その人がパリサイ人や律法学者たちを見たとき、こう思ったのかもしれません。

「これは到底無理だ。パリサイ人のように生きることはできない。それに加え、イエス様は、私たちの義がパリサイ人の義に勝らなければならないと教えられた。」(マタイ5:20)

イエス様の次の言葉は、その人にとって慰めにはならなかったでしょう。

努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。(24)

要するに、「はい。救われる人は少ないのです。」ということです。

そして、イエス様は私たちに警告されます。

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、「ご主人さま。あけてください」と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、「あなたがたがどこの者か、私は知らない」と答えるでしょう。

つまり、その狭い門に入るには、期限が限られています。もし私たちがその門を通る前に死んでしまえば、もう手遅れなのです。

では、その門とは何でしょうか。

イエス様はこう言われました。

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。(ヨハネ10:9)

天国に入るためには、イエス様との関係が必要です。イエス様と、その十字架における御業を信じなければなりません。そうすれば、私たちは救われるのです。

そして、イエス様はユダヤ人たちに警告されました。

神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。

人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。(28-30)

多くのユダヤ人たちは、「私はユダヤ人だ。神様が私たちを御自分の民として選ばれたのだから、私は問題ない」と考えていました。

また、あるユダヤ人たちは、律法を守れば救われると思っていました。

けれども、イエス様が教えられたのは、イエス様を救い主として受け入れた者は救われるが、イエス様を拒絶する者は救われないということです。

そのため、多くのユダヤ人は天国で先頭に立つと考えていましたが、結局彼らは天国に入ることができませんでした。

そして、今でも多くの人々がユダヤ人たちと同じように考えています。

彼らはクリスチャンホームに生まれたから、自分がクリスチャンだと思い込んでいます。または、彼らは教会に通い、さまざまな良い行いをしているので、救われると考えているかもしれません。

しかし、そのような人々が天国に行くとは限りません。イエス様こそが門なのです。イエス様以外に、天国への門はありません。

手遅れになる前に、その門に入りますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ10章

多くの人々はクリスチャンたちにこう尋ねます。「どうしてあなたは、神様への道が一つしかないと信じるのですか。」

簡単に言えば、それはイエス様がそう主張されたからです。

イエス様はこう教えられました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。(ヨハネの福音書10:1)

多くの人々は、どうすれば天国に行けるか教えようとします。

パリサイ人たちは、神様の律法を正確に守らなくてはならないこと、そしてユダヤ人の先祖のルールと伝統を堅く守らなくてはならないと教えました。

現代でも、多くの人々は自分の努力によって天国に入ろうとします。

しかし、イエス様によれば、天国の門を通らずに、ほかの方法で入ろうとする者は強盗です。

自分の努力によって、彼ら自身が天国に入ることはなく、彼らの教えに従うなら、あなたの魂を盗むことになります。つまり、あなたは裁かれ、地獄に行くのです。

イエス様はこう言われました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。(10a)

この箇所では、イエス様はサタンについて語られています。けれども、多くの場合、サタンは人々を用いて私たちを永遠の破壊に導きます。

その人たちは、必ずしも意図的にあなたの魂を滅ぼそうとしているわけではないかもしれません。実際、多くの場合、彼らの意図は善良であるように見えることさえあります。

けれども、彼らはサタンに騙されているので、もし私たちが彼らに従うなら、私たちも同じ落とし穴に落ちてしまいます。

では、天国に至る門とは何なのでしょうか。イエス様はこう言われました。

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。(9)

この描写は本当に興味深いです。

羊飼いが羊を少し遠い場所へ連れて行くとき、羊たちが休むために、一時的な羊小屋に入れました。その羊小屋には一つの入り口しかなかったため、羊飼いは寝るときにその入り口で横になりました。彼自身が門となったのです。

イエス様が言われたのは、もしあなたが天国に入りたいなら、また祝福された人生を望むなら、イエス様に従わなければならないということです。イエス様以外のことを教える者たちは、あなたを破壊へと導きます。

イエス様はこう言われました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(10:10)

あなたは豊かな人生を望んでいますか。一つの道しかありません。一つの門しかありません。あなたはその門を通る決心をしますか。