私が初めて日本に来たとき、教会で英会話の授業を教えていました。
その頃、牧師のお嬢さんはキリスト教の幼稚園で働いていました。
ある日、一人の子供が彼女の手をハサミで刺しました。幸いにも、そのハサミの刃の先端が丸かったため、彼女は無事でした。
後日、彼女は私にこう言いました。「私の幼稚園では英語の先生が必要です。そこで働きませんか。」
私はそのハサミの話を覚えていたので、断りました。そんな職業上の危険には全く興味がなかったからです。😄
しかし、クリスチャンとして、私たちは避けられない「職業上の危険」があります。もし私たちがイエス様のことを伝えるなら、怒る人がいるでしょう。私たちを憎む人もいるでしょう。
イエス様はこう言われました。
世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。
しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。
しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。
人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。
しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。(ヨハネの福音書15:18-21)
イエス様は完全な愛そのものでした。そして、完全な人生を歩まれました。それでも、人々は彼を憎みました。
私たちはイエス様の運命を避けられると思うでしょうか。
もちろん、すべての人々が私たちを憎むわけではありません。私たちがイエス様の真理を伝えると、私たちを愛する人もいます。けれども、イエス様のメッセージを曲げることを拒むなら、ときに相手の反応は敵対的になってしまいます。
残念なことですが、そのために多くのクリスチャンがメッセージを曲げてしまいます。なぜでしょうか。憎まれたくないから。争いを避けたいから。
私の言葉を誤解しないでください。私たちは、あえて争いを求めるべきではありません。
しかし、私たちがイエス様のメッセージを正しく伝えるなら、私たちを憎む人が現れるのは当然のことです。自然に対立が生じるでしょう。でも、それが私たちの目的ではありません。
それでも、イエス様のメッセージを伝えるとき、私たちは争いを恐れてはいけません。むしろ、「神様の計画のすべてを、余すところなく」知らせなくてはなりません。(使徒の働き20:27)
イエス様は決して争いを恐れませんでした。まして、私たちはなおさらです。
