私が子供の頃、「Undercover Christian」(隠れクリスチャン)というスキットを聞いたことがあります。そのスキットでは、あるクリスチャンがレポーターにインタビューされたとき、こう言いました。
「私の信仰は個人的なものですので、周りの人々には話しません。」
しかし、イエス様は「隠れクリスチャン」に対して、別の呼び方をされます。それは「偽善者」または「役者」です。
(実は、「偽善者」という言葉の元の意味は「役者」ということでした。)
その人はクリスチャンの世界で歩むとき、クリスチャンのように話し、ふるまいます。けれども、教会を出ると、まるでイエス様を知らないかのようにふるまいます。
そして、この箇所で、イエス様は「最終的にあなたの秘密は明らかになる」と警告されました。
私は、実際にそのようなクリスチャンの話を聞いたことがあります。彼はイエス様を自分の主として受け入れましたが、両親の反応を恐れていました。そのため、仏壇で祈り続け、線香をあげ続けました。そして彼はこう言いました。
「私は両親に愛を示したいから。」
ところが、結局その秘密は明らかになりました。その時、彼の父親は激怒しました。
「お前はクリスチャンなのに、仏教の儀式をし続けていたのか?お前は一体どんなクリスチャンなのか?」
彼は「両親に対する愛を示したい」と言っていましたが、最終的には自分の証を損なってしまいました。
イエス様はこう言われました。
だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。
しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。(ルカの福音書12:8-9)
では、私たちは、人の前で「イエス様を知らない」と言ったことがあるなら、救いを失ってしまったのでしょうか。
必ずしもそうとは限りません。ペテロも弱さの中で、「イエス様を知らない」と三度言いました。
私自身も、中学生のとき、そして高校生のときに、自分の信仰を友達から隠していました。友達に「あなたはクリスチャンですか」と聞かれても、私はその質問に対して曖昧に答えていました。
しかし、もし私たちが一貫して人の前で「イエス様を知らない」と言い続けるなら、自分がクリスチャンであることを公にすることはできません。
もしあなたがクリスチャンであるなら、そのことを明確に伝えなければなりません。
洗礼式には一つの重要な目的があります。それは、「私はクリスチャンである」ということを宣言することです。あなたは世界に向かって、自分の主を公に表します。
もしあなたが洗礼を受けることを拒むなら、あなたは本当にクリスチャンであると言えるでしょうか。
私たちは隠れクリスチャンにならないようにしましょう。私たちのために死んでくださり、よみがえられたイエス様を大胆に宣言しましょう。
私たちの信仰を拒む人もいるでしょう。けれども、私たちが見つけた喜びを見出す人もいるでしょう。
あなたはどうしますか。
