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マルコの福音書のデボーション

主よ、ため息をつかれることはありますか

すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。

イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。「この時代はなぜ、しるしを求めるのか。」(マルコの福音書8:11ー12)

イエスはそれに気がついて(弟子たちに)言われた。

「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。

目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。。。

まだ悟らないのですか。」(17ー18,21節)

イエス様、私たちの頑固さ、私の不信仰に、あなたはどれほど深くため息をつかれるのでしょうか。私が頑なな心を持ち、目が見えず、耳が聞こえず、何も悟れないとき、あなたはどれほど深くため息をつかれるのでしょうか。

それでも、あなたは私を諦めることはありません。

目の見えない人が見えるようになるまで、あなたがその目に触れ続けてくださったように、私が見えるようになるまで、私の目にも触れ続けてくださいます。

そして、私が聞こえるようになるまで、私の耳に触れ続けてくださり、心が和らぎ、悟るようになるまで、私の心にも触れ続けてくださいます。

あなたの素晴らしい恵みに感謝します。

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ルカの福音書のデボーション

主よ、私の目が見えるようにしてください

弟子たちには、(イエスが言われたこと)が何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。(ルカの福音書18:34)

(目の見えない人)が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。「わたしに何をしてほしいのですか。」

するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」(40ー41節)

イエス様、どれだけあなたは私に大切なこと、私が聞かなくてはならないことを伝えたいと思っておられるでしょうか。でも、弟子たちと同じように、私にはその言葉が隠されていて、理解できないのでしょうか。

私は霊的に盲目になりたくありません。どうか、私の目が見えるようにしてください。あなたが言わんとしていることを理解できるように、私の心の目を開いてください。

あなたが私に言わんとしていることを理解し、受け入れることを妨げるものを、私の心から取り除いてください。

パリサイ人のプライドを、私の心から取り除いてください。

すべてをあなたに開け渡そうとしない指導者の態度を、私の心から取り除いてください。

主よ、あなたにすべてを開け渡すことには、喜びがあります。あなたに従うことには、喜びがあります。

目が見えない人は、その喜びを知りました。

私も、その喜びを知るように。

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ルカの福音書のデボーション

イエス様が訪れるとき

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。。。

神の訪れの時を、おまえが知らなかった。。。(ルカの福音書19:42,44)

数週間前、私の牧師が霊的な盲目について話して以来、私はそのテーマをルカの福音書の中で何度も見ています。

弟子たちもパリサイ人たちも、自分の霊的な目と耳を閉じていて、多くのことが彼らの目から隠されていました。(ルカ18:34;19:39-41)

弟子たちの場合、彼らは少なくともイエス様がメシアであることを認めていました。(メシアが何なのかはちゃんと分かっていなかったけれど。)

でもパリサイ人たちは、イエス様の奇跡を見て、イエス様の知恵に答えられなかったのに(ルカ13:17;14:6)、目と耳を閉じて、イエス様を拒絶しました。だから、彼らは神の訪れの時を知らなかったのです。

彼らとは対照的に、イエス様が訪れたとき、二人の人々はイエス様を本当に見たいし、聞きたいと願っていました。

エリコで、バルティマイという盲人は「私は見たい」と叫びました。

多くの人々が彼を黙らせようとしましたが、彼はあきらめずに叫び続けました。イエス様は彼の声を聞いて、彼を呼んでくださいました。

そして、バルティマイの信仰によって、彼は救われました。(ルカ18:35-43、マルコ10:46-52)

ザアカイは背が低かったので、イエス様を見るために、頑張って木に登って目を凝らしました。イエス様は彼も見て、呼んでくださいました。

そして、イエス様がザアカイの家に訪れて、悔い改めのメッセージを述べ伝えると、ザアカイは悔い改めて、救われました。(ルカ19:1-10)

イエス様は私たちのところに訪れ、私たちに平和と救いを与えたいと願っておられます。でも、私たちの目と耳を開かないと、その平和と救いを知ることができません。

クリスチャンでも、盲目になる可能性があります。

ラオディキアの教会は盲目でした。彼らは「良い生活」を送っていました。でも、イエス様によれば、彼らは実際にはみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸でした。(黙示録3:17)

だから、イエス様は彼らに言いました。「私はあなたに義を着せて、目が見えるようにします。」

イエス様は私たちにも同じことを言われます。

イエス様は私たちを愛して、ザアカイのように悔い改めるように呼びかけておられます。(黙示録3:19)

だから、イエス様の言葉に耳を傾けて、従いましょう。

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)

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ルカの福音書のデボーション

私たちの目と耳を開く

聞く耳のある者は聞きなさい。(ルカの福音書8:8)

今日の箇所を読んで、私の牧師のメッセージを思い出しました。そのメッセージは霊的な盲目について語っていました。(マルコ8章)

マタイの福音書では、マタイはルカよりもイザヤ書からもう少し多く引用しています。(10節)

この民の心は鈍くなり、 耳は遠くなり、目は閉じているからである。 彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、 心で悟ることも、立ち返ることもないように。

そして、わたしが癒やすこともないように。(マタイ13:15)

今、私は考えています。「私の心が鈍くなっているところがあるだろうか。以前は、ある御言葉が私の心を打ったり、私の心にしみたりしたけれど、私が何もしなかったために、今その御言葉を聞いても、何も感じなくなってしまった……そういう御言葉があるだろうか。」

また、私の耳が鈍くなるようなものはないだろうか。私のプライドによって、「私はもう知っている」という態度で、私の耳が遠くなってしまっただろうか。

もしかしたら、YouTubeやポッドキャストなどの騒音が多すぎて、神様が私に語ろうとしていることが聞こえなくなっているのだろうか。

私が見たくないために、神の御言葉に対して私の目を閉じる時があるだろうか。なぜなら、その言葉を見ると、私の考え方や行動を変えなくてはならないけれど、私は変わりたくないから。

イエス様は、私に言われているのだろうか。「聞きなさい。あなたの目を開きなさい。あなたを癒したいから。あなたを導きたい。私はあなたのために、より良いものを整えているから。」

主よ、あなたの恵みによって、私の目を開いてくださいました。私の罪や頑固さによって、私がその目をもう一度閉じることがないようにしてください。

あなたの御声が聞こえるように、私の耳を開いてくださいました。私のプライドやこの世の騒音によって、その耳が鈍くならないようにしてください。

あなたは良い方です。あなたの御言葉は良いものです。だから、私がその御言葉をしっかり守るように助けてください。

その言葉に従うのが難しいときも、私があなたと一緒に前に進むように助けてください。あなたのために実を結びたいから。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。