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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:超霊的な人のためではなく

今日は少しマタイの福音書に移り、山上の垂訓と平地の説教を組み合わせます。なぜなら、以前にも述べたように、この二つの説教は共通のテーマを持っているからです。

この箇所におけるイエス様の言葉と、ルカの箇所におけるイエス様の言葉には少し違いがあります。

ルカの福音書では、イエス様は「貧しい者は幸いです」と言われました。けれども、マタイの福音書では「心の貧しい者は幸いです」と言われています。

ルカの福音書では、おそらくイエス様は金銭的に貧しい人々に語っておられたでしょう。しかし、マタイの福音書では、イエス様は別の視点から話されていました。

その群衆の中には、パリサイ人、律法学者、そして他の霊的に熱心な人々がいたことでしょう。そして、彼らを見たとき、周囲の人々はこう思ったかもしれません。

「きっとこの人たちは神様に恵まれているのだろう。なぜなら、彼らは非常に宗教的な人々であり、聖書を深く理解し、正しい生活を送っているからだ。」

けれども、その「普通」の人々は、自分自身を見たとき、霊的に劣っていると感じていたかもしれません。

特に、イエス様の12人の弟子たちは、そのように感じた可能性があります。彼らは特別な宗教的な訓練を受けていませんでした。ただの漁師でした。そして、一人は嫌われた収税人でした。

さらに、彼らは気性の荒いグループでした。彼らは度々口論してしまいました。

また、彼らの信仰の弱さゆえに、イエス様は何度も彼らを叱責されました。けれども、イエス様はこう言われました。 「確かに、あなたは霊的に貧しい者です。しかし、神の国は特にあなたのような人々のためのものです。」

対照的に、弟子たちが憧れていた霊的に見える人々の多くは、最終的に神の国の門に入ることができませんでした。なぜでしょうか。

それは、実際には、私たち全員が霊的に貧しい者だからです。誰も神様の前で「ほら、私はすごいでしょう。だから、私を入れなければなりません」と言うことはできません。

私たちは皆、霊的に破産した存在です。

パウロはこう言いました。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず。。。(ローマ3:23)

また、イザヤはこう言いました。

私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。(イザヤ64:6)

だからこそ、私たち全員にイエス様が必要です。パリサイ人であっても、収税人であっても、牧師であっても、売春婦であっても、すべての人がイエス様からの赦しと恵みを必要としています。

その赦しと恵みを受けなければ、誰も神の国に入ることはできません。

あなたは、自分が霊的に貧しい者だと思うでしょうか。あなたには希望があります。神学校に行ったことがなくても、特別な資格がなくても、人生がめちゃくちゃになっていたとしても、神の国はあなたのような人々のためにあります。

なぜでしょうか。

それは、あなたが牧師であっても、会社員であっても、売春婦であっても、私たち全員が同じだからです。つまり、私たちは皆、罪人です。私たちは皆、恵みを必要としている者です。

神の国は、霊的に優れた人々のためではありません。神の国は、赦され、恵みを受けた罪人のためにあります。

あなたは、自分が神の国に値しないと感じていますか。どうか安心してください。誰も神の国に値するわけではありません。

しかし、もしあなたが神の前にへりくだり、赦しを求め、イエス様を主として受け入れるならば、神様はあなたに永遠の命を与えると約束されています。

そして、神の国には「二流の市民」という者は存在しません。