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サムエル記第一のデボーション

愛するものからの傷

サムエル記第一19〜20章を読んだとき、私はサウルがどのように感じたかを思い巡らしていました。

おそらく、サウルは自分の子供たちに裏切られたと感じたでしょう。なぜなら、彼らはサウルの見方ではなく、ダビデの見方だったからです。そのことによって、サウルは深く傷ついたのです。

しかし、悪かったのは彼らではなく、サウル自身でした。

ヨナタンの言葉はサウルの心を刺しましたが、もしその言葉に耳を傾けていたなら、サウルは癒しを知ることができたでしょう。でも、残念ながら、彼は破滅に至る道を歩み続けました。

私はサウルほどではないと思っていますが、頑なになることがあります。それでも、そのような態度を避けたいのです。

むしろ、忠実な友人の言葉に心を開いたままでいたいと願います。たとえその言葉が痛くても、受け入れたいのです。(箴言27:5〜6)

特に、イエス様の言葉に心を開き続けたいです。なぜなら、イエス様は私のもっとも忠実な友だからです。

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マタイの福音書 マタイ12章 マルコの福音書 マルコ3章 ルカの福音書 ルカ6章

イエス様を悲しませる?

私たちがこの三つの箇所をまとめると、この話全体を理解することができると思います。

イエス様は会堂におられ、片手のなえた人をご覧になりました。同時に、イエス様はパリサイ人たちと律法学者たちの存在にも気づかれました。そして彼らは、イエス様がその人を安息日に癒やすかどうかをじっと見守っていました。(マルコ3:1-2)

イエス様は、彼らの思いをよく知っておられました。そのため、イエス様は片手のなえた人を呼ばれました。その時、そのリーダーたちはイエス様にこう尋ねました。

安息日にいやすのは正しいことでしょうか。(マタイ12:10)

イエス様は、いつものように、質問で答えられました。

あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。(ルカ6:9)

もちろん、そのリーダーたちはその質問に答えることができませんでした。

もし彼らが「安息日に善を行うのはだめです」または「命を救うのはだめです」と答えたなら、彼らは愚か者と見なされたでしょう。

しかし、もし彼らが「善を行ってもよいです。命を救ってもよいです。」と答えたなら、イエス様は「よし、この人を癒やします」と言われたことでしょう。

さらに、彼らはもちろん「悪を行うのは良いです」または「命を失うのは良いです」と全く言えませんでした。

そのため、彼らはずっと沈黙を守り続けました。英語のことわざには真理があると思います。「Better to remain silent and be thought a fool than to speak and to remove all doubt.」

つまり、「黙っていることで周りの人々に愚か者だと思われる方が、言葉によってそれがはっきり知られるよりも良いです。」ということです。

ルカはイエス様が彼らの答えを待っていたと記していますが、マルコはさらに詳しい情報を教えてくれます。

イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆き[ました。] (マルコ3:5)

だから、イエス様は、彼らにもう一つの質問を投げかけられました。

あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。(マタイ12:11-12)

つまり、「あなたは自分の羊を助けるでしょう。どちらの方が大切でしょうか。羊でしょうか、人間でしょうか。もし、人間の方が大切であるなら、どうして私が安息日に人を癒やすと、あなたたちは私を責めるのでしょうか。」

こうして、イエス様はご自身の疑問に答えられました。

それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。(マタイ12:12b)

そして、イエス様はその人を癒やされました。

この話には皮肉な点があります。イエス様は彼らに「安息日にしてよいのは、いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」と尋ねられました。

そのリーダーたちは、この出来事の後、イエスをどのようにして殺すかを相談し始めました。彼らは安息日にそのことを考え始めたのです。(マルコ3:6)

けれども、もう一つのことが私の心に深く響きます。

イエス様は彼らの頑なな心をご覧になり、嘆かれました。彼らの伝統と律法主義的な考え方によって心が固くなりすぎていたため、神様の言葉と真理がその心を貫くことはできませんでした。

彼らは心の中で、自分たちが間違っていることに気づいて、沈黙しました。それでも、自分たちの間違いを認めることはありませんでした。

あなたはどうでしょうか。神様に対して頑なな心を持っていませんか。

もしかすると、あなたの行動や思いが間違っているために、神様が語りかけておられるのかもしれません。そして、その言葉を通して、自分の誤りに気づき、変わらなければならないと示されることもあります。

それでもなお、自分の間違った考えや罪にしがみついてしまうでしょうか。もしそうなら、あなたは神様を悲しませてしまうことになります。

なぜなら、神様はあなたの最善を望んでおられるからです。けれども、罪によってあなたは神様だけでなく、周りの人々、そして自分自身をも傷つけてしまいます。

だから、あなたの心を開いてください。神様のみ言葉を受け入れてください。そして、私たちのために死なれたイエス様を悲しませることのないようにしましょう。むしろ、イエス様を喜ばせましょう。

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イザヤ書

頑固

私が子供たちに聖書を教えるトレーニングを受けた時に、私の先生はこう言いました。「もし子供たちにあなたの話すポイントを覚えさせたいなら、三回繰り返さなくてはなりません。」

なぜなら、一回だけだと、彼らが聞いていないかもしれないし、二回繰り返せば彼らが思い出すかもしれませんが、三回繰り返すと彼らの記憶に残るだろうからです。

(とはいえ、ある子供にとっては三回でも覚えてくれないかもしれません。)😊

とにかく、ユダ人にとっては三回でも不十分でした。アハズ王の息子ヒゼキヤはアッシリヤを恐れたため、何回も「エジプトと同盟を結ぼう」と思いました。

実は、ヒゼキヤはその在位の間、ほぼ良い王でした。しかし、時々彼の信仰が弱くなり、失敗したこともあります。つまり、神様に信頼せずに、軍事同盟に頼りました。

何回もイザヤはヒゼキヤにそのような同盟について警告しました。

20章では、イザヤは裸でユダを歩き回りました。(本当にすっ裸かどうか分かりません。下着を履いていたかもしれませんが。)

なぜでしょうか。それは神様からのしるしだったのです。つまり、いつかヒゼキヤが信頼していたエジプト人とクシュ人が、アッシリヤの捕虜として裸で歩かされることになるからです。

そして、エジプトとクシュに信頼していた人々も、恥を受けることになるのです。

さらに、イザヤは三十章で、もう一度ヒゼキヤとユダの民に警告を与えました。

ああ。反逆の子ら。――主の御告げ――彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。

彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。(イザヤ書30:1-2)

そして、31章でイザヤは彼らに警告しました。

「エジプトはきっと倒れます。もしあなたたちがこの同盟を求め続けるなら、ユダも倒れてしまうでしょう。」

ヒゼキヤはその警告も無視しました。しかし、結局エジプトが「いたんだ葦の杖」のようになった時、ヒゼキヤは必死になって、やっと神様に向かって信頼しました。

そして、神様はユダを救われました。

どうして、ヒゼキヤはそんなに頑固だったのでしょうか。

どうして、私たちはそんなに頑固になるのでしょうか。

私はよくわかりません。プライドかもしれません。神様が要らなくて、自分の問題を解決できると思うかもしれません。もしくは神様に信頼したら、がっかりしてしまうと思うかもしれません。

もし、最初から神様に信頼したら、私たちの人生はどれほど楽になるでしょうか。

最初に神様の声を聞いて従ったら、どれほど私たちの人生は楽になるでしょうか。

頑固にならないようにしましょう。ヒゼキヤとユダ人は頑固で、ずっと自分の計画を握りしめて、罪を犯しました。そのような態度を避けましょう。

むしろ、最初から、神様の警告と戒めに従いましょう。