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創世記

神様の力と知恵

創世記1章

創世記1章を読むとき、私にとって印象的なのは、神様の力と知恵です。御言葉だけで、神様は全てのものを造られました。神様が「光よ、あれ」と言われると、光は突然現れました。

そして、神様が「動物と木と花よ、あれ」と言われると、それらはすべてたちまち現れました。

神様はどのようにしてモーセにこの場面を説明されたのでしょうか。言葉だけで伝えられたのでしょうか。それとも低速度撮影の動画を見せられたのでしょうか。私もそれを見たいと思います。

ところで、もし神様が現代の科学者と話されるとしたら、創造についてどのように説明されるでしょうか。もし神様がすべてを説明されるとしたら、科学者はその説明を完全に理解できるでしょうか。

私たちは賢くて、たくさんのことを既に知っていると考えがちです。

もちろん、現代の科学者は、モーセよりも多くのことを知っています。それでも、神様が説明されたら、彼らはそのすべてを理解できるでしょうか。おそらく、それは不可能でしょう。

科学者が天国に行って、神様とこのような事について話す時、興味深い話になるでしょう。「ああ、そうでしたか。私たちは大体正しかったけれど、少し間違っていました」と言うかもしれません。

または、「へえ、私たちは全く間違っていましたね」と言うかもしれません。

それでは、私は何を言いたいのでしょうか。神様の力と知恵について考えるとき、私たちは神様を恐れるべきです。

恐れると言っても、「神様が怖い」という意味ではありません。むしろ、「神様は素晴らしい」という意味です。

時々、私たちはこの世界を見て、多くの地震や竜巻、戦争、病気などを目の当たりにします。そして、私たちは「どうして」と問いかけます。

「神様、どうしてそのようなことをお許しになるのですか。」

自分の健康問題について考えるとき、「どうして私は糖尿病を発病したのだろうか」、または、「どうして胃潰瘍を発病したのだろうか」と問いかけます。

時々答えは簡単です。

「あなたがコーラを飲みすぎたから糖尿病を発病したのです。」

けれども、ある場合には、そのような疑問には答えが見つからないことがあります。そして私たちは苦しみます。

しかし、私たちが科学的な疑問を理解できないのに、どうして哲学的な疑問を理解できるでしょうか。

神様の知恵は私たちの知恵よりもはるかに優れています。

この世に生きている限り、私たちには理解できないことがあるのは当然です。私たちはただの人間ですから。

神様が説明しようとしても、私たちはまだ理解できないかもしれません。

それでも、神様が望んでおられるのは、私たちが神様に信頼することです。つまり、神様は私たちが次の3つのことを信じることを望んでおられます。

一つ目は、神様は御自分が何をなさっているのかをよく知っておられるということです。

二つ目は、神様は良い方であるということです。

三つ目は、神様はあなたを愛しておられるということです。あなたがどのような状態になっても、神様はあなたを愛しておられるのです。

ヨブはその真理を学びました。彼の人生は突然困難なものになりました。

「なぜ」と尋ねたとき、神様は全く答えてくださいませんでした。

しかし、最終的にヨブは神様の素晴らしさを目にしました。そしてヨブはこう言いました。

あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、 私は知りました。

あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。

確かに私は、 自分の理解できないことを告げてしまいました。 自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。

あなたは言われます。「さあ、聞け。わたしが語る。 わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ」と。

私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。それで、私は自分を蔑み、悔いています。 ちりと灰の中で。(ヨブ42:2-6)

ヨブが謙虚な態度をとった後、神様はヨブの人生を回復されました。それだけではなく、神様はヨブを以前にも増して祝福されました。

ですから、どんな状況に直面しても、どんな疑問があっても、どんな困難があっても、私たち以上に知恵を持っておられる神様に信頼しましょう。神様が私たちの状況の中で働いておられることを信じましょう。

そうすれば、私たちは神様の栄光を目にすることができます。

パウロが言ったように、

ああ、神の知恵と知識との富は、なんと底知れず深いことでしょう。そのさばきは、なんと知り尽くしがたく、その道は、なんと測り知りがたいことでしょう。

なぜなら、誰が主の御心を知ったのですか。また誰が主のご計画にあずかったのですか。また、誰が、まず主に与えて報いを受けるのですか。

と言うのは、全てのことが、神から発し、神によってなり、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ書11:33-36)

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