私は27節を何度も読んだことがあるため、深く考えずに読み流してしまうことは簡単です。しかし、神様はこの真理が非常に重要だと思われたため、27節で同じことを二度繰り返して言われました。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(27)
つまり、神様は人間を造られたとき、御自身の反映を造られたのです。
私たちが親切であるとき、神様のかたちを反映します。
恵みとあわれみを与えるとき、神様のかたちを反映します。
私たちの中にある愛やその他の良いものがあれば、それらは神様の性格を反映します。
ですから、他人を見るときは、私たちを造られた神様のかたちとして見るべきなのです。
とはいえ、時にはそうすることが難しいものです。私たちは神様のかたちを反映しますが、アダムとエバとは異なり、そのかたちは歪んでいるのです。罪の傷によってそのかたちは歪んでいるのです。
時々、梅田の地下道を歩いていると、とても悪い匂いに気づきます。目を上げると、ホームレスの方がいるのです。
もしかしたら、その方は何週間もお風呂に入っていないのかもしれません。その方を見るとき、神様のかたちを認識することは私にとって難しいのです。
また、学校では、時々私の生徒たちが本当に悪い態度を取るので、さまざまな問題が生じます。
そのような時も、神様のかたちを認識するのは難しいです。そのため、その人ちを見下すことは簡単になってしまいます。「その人たちはあまり価値がない」と考えてしまいます。
けれども、神様はその人たちを見るとき、私にこう言われます。
「そのかたちは歪んでしまったけれど、それはやはりわたしのかたちなのです。それでも、あなたはその人たちを見下すのですか。その人たちは非常に価値があり、イエスはその人たちの罪のために死んだのです。」
正直に言うと、私のかたちも歪んでいます。人を裁いて見下すと、私の中の神様のかたちも歪んでしまいます。
私の人生、特に私の罪を見ると、他の人たちはどう考えるでしょうか。私の中の神様のかたちはどれほど歪んでいるでしょうか。実のところ、私はそんなことを知りたくないのです。
しかし、神様は私のことを諦められません。毎日神様は私を新しくしてくださいます。神様は毎日私の内で働いてくださり、私をご自身のかたちのように変えてくださいます。
第二コリント3:18では、パウロはこう言います。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです.
もし神様が私のことを諦められなかったのなら、どうして私が他の人を簡単に諦めることができるでしょうか。どうして私が他の人たちを見下すことができるでしょうか。
私が受けたのと同じ恵みによって、神様はその人たちの中でも働いておられるかもしれません。
ですから、私が自分に問いかけなくてはならないのは、「私が受けたあわれみを彼らに与えているだろうか」ということです。
私が他の人たちに見てもらいたいのは、
私の中にいるあなたのかたちです。
私があなたの心を映す鏡になれるように。あなたのかたちをもって、歩みたいのです。
自分の父を真似する子どものようになりたいのです。
あなたの心を映す鏡になりたいのです。--クリス・クリスチャン
