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士師記

子育てを失敗すること

数年前、私は新聞の記事を読んでいました。その記事によると、日本の若い両親たちは、その子どもたちにどのように道徳を教えるか迷っていました。なぜなら、両親たちも道徳について確信がなかったからです。

もちろん、もし両親たちが自分自身道徳について確信がなければ、子どもたちに教えることはできません。

その結果、学校で多くの問題が起こります。15年くらい前、「学級崩壊」という言葉を聞き始めました。その状態は今でもあまり改善されていません。

イスラエル人は学級崩壊を経験しませんでした。彼らは社会崩壊を経験しました。

彼らは初めに、神様を礼拝し、神様の道に従っていましたが、やがて違う神々を礼拝し始めました。すぐに、彼らの道徳は崩れました。どうして、それは起こったのでしょうか。

イスラエル人は子育てに失敗したからです。どのように失敗したのでしょうか。

その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。(士師記2:10)

神様はイスラエル人に命じられました。「あなたの子どもたちに私について教えなさい。私はあなた方のために何をしたか教えなさい。」

それなのに、イスラエル人はその義務を無視しました。その結果どうなったでしょうか。その子どもたちは神様を知らなかったし、主がイスラエル人のために何をしたか全然知りませんでした。だから、その社会はすぐに崩れました。

私たちはどうでしょうか。私たちの子どもたちに神様について教えているでしょうか。神様が私たちのために何をされたかを、教えているでしょうか。

それとも、ただ子どもたちを日曜学校に連れて行って、その義務を先生たちに任せているでしょうか。

それは絶対にダメです。その先生たちは一週間に一回だけ私たちの子どもたちを教えています。でも、私たちは毎日子どもたちと一緒にいます。

先生たちが私たちの子どもたちに教えるとき、神様は喜ばれると思いますが、神様はその責任を両親たちに与えられました。神様は私たちに命じられます。

あなたがたは、私のことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。

それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。(申命記11:18-19)

もし、あなたの子どもたちが神様を知らないなら、それは日曜学校の先生のせいではありません。それは、あなたの責任です。

神様について教えるべきなのは、あなたです。神様との関係をどう築くかを教えるべきなのも、あなたです。

そして、あなたの子どもにとって、あなたはクリスチャンの模範です。

日曜学校の先生たちは私たちの教えを補いますが、私たちの責任を取ることはできません。

もちろん、私たちの子どもたちは自分で決断しなくてはなりません。私たちが義務を果たし、神様について教えても、彼らが神様から立ち去るかもしれません。それをコントロールすることはできません。

でも、私たちが自分の子どもを教えないなら、神様はその責任を私たちに問われます。

時々、クリスチャンは言います。「でも、私は聖書をあまり知らない。神様のこともあまり知らない。私は聖書を教える資格がない。日曜学校の先生はもっと良い資格があるでしょう?」

そうかもしれませんが、それは良い言い訳ではありません。あなたはあまり知らないかもしれませんが、知っていることを教えなくてはならないのです。

そして、毎日毎日、あなたの信仰が成長し、神様についてもっと学ぶべきです。そうすれば、子どもたちにもっと教えることができるようになります。

あなたはどうでしょうか。神様の命令に従って、子どもたちに教えていますか。それとも、ただ日曜学校に連れて行っているのでしょうか。

イスラエル人は子どもたちに教える義務を果たせませんでした。そうしないでください。あなたの子どもに教えてください。そうすれば、あなたのように、彼らも神様を知るようになります。

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士師記

でも、私はできない

時々、神様は私たちに何かを命じられますが、私たちはそれは無理だと思います。私たちにとって、その仕事が大きすぎると思うかもしれません。または、私たちは罪と闘っていますが、いつも誘惑に負けてしまいます。

だから、私たちは言います。「神様、ごめんなさい。私はできません。この闘いは大きすぎるから。」

また、「この仕事ができません。私にとっては無理です。」

イスラエル人も同じでした。神様はイスラエル人に「カナン人をすべて土地から追い出しなさい」と命じられました。

けれども、その仕事が難しくなると、イスラエル人は諦めました。

どの程度まで頑張ったのでしょうか。追い出そうとしたのに、圧倒的に敗北したのでしょうか。

または、少し頑張ったけど、すぐに諦めたのでしょうか。

私は分かりませんが、多分、イスラエル人はあまり努力しなかったのでしょう。だから、攻撃を始めたけど、うまく行かなかったから、すぐに諦めてしまいました。カナン人を追い出すのは難しすぎたからです。

だから、神様は彼らに言われました。

「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。

あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を壊さなければならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。(士師記2:1-2)

神様は彼らの言い訳を受け入れませんでした。なぜでしょうか。なぜなら、神様は彼らと共におられると約束し、また、彼らを助けることを約束してくださったからです。

神様はイスラエル人の目の前に、エリコの壁を壊してくださいました。神様はイスラエル人の敵の上に雹を送り、イスラエル人の刀よりも、雹の方がその敵を殺しました。神様はアイを征服するためにイスラエル人に作戦を与えてくださいました。

それでも、イスラエル人は言いました。「私たちの敵は鉄の戦車を持っているから無理です。」

また、

「カナン人はこの土地から出たくない。彼らは激しく戦っています。彼らを追い出せない。」

神様の大きさに焦点を当てず、彼らは自分の弱さに焦点を当てていました。神様の助けを祈らず、彼らはただ「私たちはできない」と言っていました。だから、神様の命令に従いませんでした。

私たちはどうでしょうか。問題に直面するとき、どのように反応するでしょうか。私たちより大きい仕事を与えられたら、神様の力に頼り、従いますか。それとも、ただ「無理だ」と言って、やってみる前に諦めますか。

あるいは、少しだけやってみるけど、すぐに「もうだめです。残念です」と言いますか。

神様はその言い訳を受け入れません。なぜなら、神様は私たちと共におられるからです。そして、神様が私たちに仕事を与えるときは、いつも助けを備えてくださいます。

だから、私たちが何ができないかに焦点を当てず、神様が何ができるかに焦点を当てましょう。そして、従いましょう。

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ヨシュア記

誰に仕えるでしょうか

昔、有名な歌手ボブ・ディランが、こう歌いました。

確かに、誰かに仕えなくてはならない。
必ず誰かに仕えなくてはならない。

悪魔に仕えるかもしれない。
主に仕えるかもしれない。
けれども、誰かに仕えなくてはならない。

ディランがこの歌を作ったのは、1979年のことです。 そのとき、それは確かに真実でした。 ヨシュアの時代にも、それは変わらず真実でした。 そして、今もなお、それは変わらぬ真実です。

この箇所で、ヨシュアはイスラエルの民に対して、神様が彼らのためにどれほど多くのことをしてくださったかを思い起こさせました。 けれども同時に、もし彼らが神様に背を向けるなら、神様は彼らを罰せられると警告しました。

さらにヨシュアは、彼らにアブラハムの父テラのことを思い出させます。 テラは、他の神々に仕えていました。 そしてイスラエルの民自身もまた、エジプトで他の神々に仕えていたのです。

そのような背景を語ったあとで、ヨシュアはこう言いました。

今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。

もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア記24:14-15)

私たちもまた、同じ決断を迫られています。 私たちは、いったい誰に仕えるのでしょうか。 神様に仕えるのでしょうか。 それとも、自分自身に仕えるのでしょうか。

お金に仕えるのでしょうか。 性の「神」に仕えるのでしょうか。 力の「神」に仕えるのでしょうか。

誰に仕えるのでしょうか。

ヨシュアは、こう語りました。 「たとえ、あなたがたがどのような選びをするにせよ、私と私の家は主に仕える。」

おそらく、このブログを読んでいる多くの人は、同じように言うことでしょう。 けれども、「神様に仕える」とは、いったいどういう意味でしょうか。

まず第一に、それは他の偶像を捨てることです。 この世界には、目に見える偶像だけでなく、目に見えない偶像も数多く存在します。

仏教やヒンドゥーの像だけではなく、金銭の「偶像」や性の「偶像」、力の「偶像」もあります。 何かを礼拝するなら、それはすでに偶像になっているのです。

もし私たちが神様に仕えたいと願うなら、 神様を人生の第一にしなければなりません。 そして、あらゆるものを神様の御支配のもとに置くべきなのです。

ヨシュアはこう言いました。

今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。(24:23)

もちろん、それは、お金をすべて捨てることでも、結婚生活の中で性を断つことでも、リーダーシップの立場を降りることでもありません。 けれども、どんなことをするにも、私たちの心が神様に向かっていなければならないのです。

つまり、 「神様、あなたこそが私の人生の主権者です。 私の性においても、お金においても、立場においても―― 私の人生のすべてをあなたの御支配のもとに置きます。」 という姿勢が必要なのです。

そして、これまでに他の神々を礼拝してきたなら、 たとえば仏陀やアラーに向かって礼拝していたなら、 それをやめなければなりません。 なぜなら、二人の主に仕えることはできないからです。

ヨシュアは、こう言いました。

主は聖なる神であり、ねたむ神である。(24:19)

神様に仕えるということには、もう一つの大切な意味があります。 それは、心から神様を愛し、その愛ゆえに従っていくということです。

ヨシュアは、こう語りました。

あなたがたは、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行い、そこから右にも左にもそれてはならない。。。

あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。(23:6,11)

イエス様もこう語れました。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。(ヨハネ14:21)

しかし、もう一つ大切なことを心に留めておかなければなりません。 私たちは、自分の力だけでは神様に仕えることができないのです。

ヨシュアは、イスラエルの民にこう語りました。

あなたがたは主に仕えることはできないであろう。(24:19)

おそらく、ヨシュアがそう語ったとき、 彼は単にイスラエルの民にチャレンジを与えたかったのだと思います。

「あなたがたは本当に神様に仕える覚悟があるのか。 その約束は、心からのものなのか。」

けれども、その言葉は比喩ではなく、文字通りに正しかったのです。

聖霊が私たちの心の中で働かれなければ、 私たちは神様に仕えることができません。 聖霊が私たちを内側から造り変えてくださらなければ、 私たちは神様に従い続けることができないのです。

だから、私たちは日々、こう祈る必要があります。

「聖霊様、今日も、私の心を一新してください。 私の内側を清めて、あなたのかたちに似た者として造り変えてください。 私は、あなたに仕えたいのです。」

これこそが、神様に仕えるということの本当の意味です。

あなたは、誰に仕えているでしょうか。

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ヨシュア記

誤解と和解に導くコミュニケーション

多くの場合、誤解の原因は、悪いコミュニケーションにあります。 私たちが自分の考えを十分に伝えないために、お互いの意図を取り違え、相手を不当に裁いてしまうのです。

この箇所でも、まさにそのような状況が見られます。

ルベン族、ガド族、マナセ族の半部族は、ヨシュアの祝福を受けて、ヨルダン川の東側にある自分たちの所有地へと帰っていきました。 なぜなら、他のイスラエルの部族たちは、それぞれ自分の相続地を受け取ったからです。

ところが、帰る前に、その三つの部族は一つの祭壇を築きました。 これを見た他の部族は、非常に怒りを覚えました。 というのも、神様はイスラエルの民がカナンに入った時、命じられた所以外には祭壇を築いてはならないと命じておられたからです。

さらに、もしその三つの部族が神様に背くことがあれば、 アカンの時のように、全体にまでその悪影響が及ぶと考えられました。

そこで、他の部族たちは、彼らに面と向かって問いただし、場合によっては戦わなければならないと真剣に考えるに至ったのです。

けれども、その三つの部族は、自分たちが築いた祭壇の目的を他のイスラエルの部族に説明しました。 つまり、彼らはその祭壇でいけにえをささげるつもりはない、と語ったのです。 むしろ、その祭壇は、自分たちが他のイスラエルの部族と同じ神様を礼拝していることの証しだと言いました。

その説明を聞いて、ヨシュアと他の部族たちは納得し、それぞれの地へと帰っていきました。

この出来事から、私たちは二つのことを学べると思います。

第一に、誤解を避けるためには、良いコミュニケーションが必要だということです。

もし最初から、その三つの部族がイスラエルの族長たちと共に行動し、彼らの目の前で祭壇を築き、その目的を説明していたなら、このような誤解は起きなかったかもしれません。

ところが、何も告げずに祭壇を築いたため、他の部族たちはその意図を誤って受け取ってしまいました。

なぜ彼らがそうしなかったのかは、はっきりとは分かりません。

衝動的な決断だったのかもしれません。ヨルダン川に着いたとき、突然この考えが浮かんだのかもしれません。あるいは、他の部族も当然自分たちの意図を理解してくれていると思い込んでいたのかもしれません。

いずれにせよ、自分たちの意図をきちんと伝えなかったことによって、重大な誤解が生まれたのです。

私は妻に、いつもこう伝えています。 「あなたの心は読めないよ。もし僕があなたのことやあなたの必要を理解することを望むなら、それをちゃんと伝えてほしいんだ。」

そして、伝えてくれたなら、私はしっかりと聞いて、それを覚えなければなりません。(それは簡単ではありませんが、努力しています。)

そうすれば、私はもっと妻のことを理解でき、妻が何も言わなくても、そのニーズに気づけるようになります。

それでも私たちは、相手が自分の思いや意図を理解してくれるだろうと、勝手に思い込むべきではありません。 もし理解してほしいと願うなら、自分の思いをきちんと伝えなければならないのです。 あの三つの部族も、そのことを痛みの中で学びました。

第二に、私たちはすぐに相手と向き合って話すべきです。

彼らが祭壇を築いたとき、他の部族たちはその意図を誤解し、深く怒りました。 しかし良かったのは、彼らがその部族のもとに赴き、きちんと話し合いをしたということです。 そのため、誤解はすぐに解けました。

けれども、多くの場合、私たちはそうしません。 むしろ、自分の怒りにとどまり続けてしまうのです。 そのような態度では、問題は決して解決しません。 もし私たちが誰かに傷つけられたと感じたなら、その人ときちんと向き合って話すべきなのです。

そうすれば、正しい裁きを行い、その人と和解することができます。 しかし、問題を見て見ぬふりをしていると、その関係は少しずつ壊れていきます。 それは、決して神様が望んでおられることではありません。

あなたの人間関係は、今どうでしょうか。 あなたは、正しく物事を見極めて裁いているでしょうか。 それとも、不完全な情報に基づいて、誰かをさばいてしまってはいないでしょうか。

良いコミュニケーションをとれているでしょうか。 それとも、自分の怒りの中にとどまったままでしょうか。

神様は、あなたにどのような一歩を願っておられるのでしょうか。

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ヨシュア記

約束を守ってくださる神

私は、この箇所の最後の部分が特に大好きです。

こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。

主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。

主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。(ヨシュア記21:43-45)

およそ700年から800年前、神様はアブラハム、イサク、ヤコブに、カナンの地を与えると約束されました。

それからの時を経て、アブラハムの子孫は大いなる国民となり、神様は多くの奇跡をもって、イスラエルの民をエジプトから解放してくださいました。

そして、彼らを40年の間、荒野で守り導き、数々の敵との戦いでも勝利を与えてくださいました。

そしてついに、イスラエルの民は、神様が約束された地に住み始めることになったのです。

彼らがすべきことは、ただ一つ――それは、神様の約束を信じて行動することでした。 それが、神様の祝福に与るための条件だったのです。

私たちも、神様の約束が実現するのを見たいと願うなら、その約束を信じて、行動に移さなければなりません。

ヨシュアとカレブを除いて、エジプトから救い出された世代は、この信仰の行動をとりませんでした。 そのため、彼らは皆、荒野で命を終えることになりました。

そしてヨシュア記19章では、ダン族もまた、神様が備えておられた土地を占領しようとしませんでした。

では、あなたはどうでしょうか。

神様は、私たちに永遠のいのちの約束を与えてくださいました。 あなたは、その約束を信じ、そして行動しているでしょうか。

ヨハネの福音書3章16節には、このように書かれています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

永遠のいのちを受け取ることは、決して難しいことではありません。 ただ神様の約束を信じ、その賜物を願い求めるなら、それを受け取ることができるのです。

イエス様は、こう語られました。

そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6:37)

それだけではありません。神様は、永遠のいのちだけでなく、他にも数えきれないほど多くのことを約束しておられます。 神様は、私たちの必要を満たすと約束されました。 私たちを祝福すると約束されました。

あなたは、それを信じていますか? その約束に信頼し、それに応じた行動をとっていますか?

それとも、かつてのイスラエルの民のように、信じずに立ち止まってはいませんか?

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ヨシュア記 士師記

容易な道を行くこと

神様の道はいつも容易な道ではありません。神様は容易な人生を約束されませんでした。しかし、問題に直面するとき、神様の民はより容易な道を探すことがあります。ダン族もその通りでした。

ヨシュア19章47節にはこう書かれています。

ダン族の地域は、さらに広げられた。ダン族は上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ。

イスラエル人がカナン人と戦うとき、神様は助けることを約束されました。けれども、ダン族にとって、神様が征服するように命令した土地を占領するのは難しかったのです。

そのような難しい状況の中で神様に信頼したカレブとは対照的に、ダン族は諦めました。むしろ、彼らは、より征服しやすい場所に行き、その土地を占領しました。

士師記18章にはこの話がもっと詳しく書かれています。(ただし、士師記ではレシェムという場所がライシュと呼ばれています。)

ダン族の問題は何だったのでしょうか。彼らは神様に信頼せずに、自分自身に信頼し始めたのです。その結果、士師記18章の最後で、ダン族は神様から離れて偶像礼拝を始めました。

もし私たちが神様の道から離れて、容易な道を選ぶと、同じことが起こるでしょう。神様に信頼しないために、罪と妥協し始めてしまいます。もしすぐに悔い改めなければ、いつの間にか神様から遠く離れてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。容易な道を歩んでいるでしょうか。経済的な問題について心配して、疑わしい方法で儲けようとしているでしょうか。

クリスチャンの伴侶が見つからないから、イエス様を信じていない人を考えているでしょうか。ノン・クリスチャンの家族や友人からのプレッシャーを感じているために、もう神様の道を諦めようとしているでしょうか。

そうしないでください。神様はあなたと共におられること、あなたのニーズを満たすことを約束されています。困難な状況にあっても、容易な道を選ばないでください。むしろ、ダビデの言葉を心に留めましょう。

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩篇37:4)

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ヨシュア記

神様の備えを受け取るために

「神様は本当に私を祝福したいと思っておられるのだろうか。私のために本当に良い計画を持っておられるのだろうか。神様は約束を本当に守ってくださるのだろうか。」

時々、私たちはそのような疑問と闘い、神様が与えようとしておられるものを受け取ることをためらってしまいます。

イスラエル人も、そのような疑いと闘っていました。多くの勝利を得ていたにもかかわらず、彼らは神様が約束された土地をまだ占領していませんでした。なぜそうだったのか、私にはわかりません。

すでに占領した土地に満足していたのかもしれません。あるいは、未知のことを恐れていたのかもしれません。あるいは、自分たちよりも強い民と戦うことを恐れていたのかもしれません。

本当の理由はわかりませんが、彼らはためらっていました。だから、ヨシュアは彼らを叱責しました。

あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。(ヨシュア記18:3)

そして、ヨシュアは彼らに命令しました。

部族ごとに三人の者を選び出しなさい。彼らが立ってその地を行き巡るように、私は彼らを送り出そう。彼らはその地についてその相続地のことを書きしるし、私のところに来なければならない。

どれぐらい、私たちはイスラエル人のように、先を進むのを怖がって、神様が与えたいものを捕まえないでしょうか。だから、私たちは何もせずに、ただ座ってしまいます。でも、そうすれば、何も起こらない。

信仰によって歩かなくてはならない。神様が私たちのために良い計画が持っておられることを信じて、神様の導きを信頼しなくてはなりません。

私はずっと、日本で妻を捜していて、フラストレーションを感じていました。だから、結局、私は計画を作りました。どんな妻が欲しいか考えて、リストを書きました。その後で、リストを見て、「何が必要か」のポイントと「何が欲しいか」のポイントを区別しました。

その後で、私の周りの女性たちを見て、誰がそのリストに合ったか考え始めました。そして、デートするためにある女性に電話しようと思いました。

でも、その時、本当に不思議なことが起こりました。神様はそのプロセスに介入してくださいました。

本当に良い女性がいると思いましたが、ちょっと遠くに住んでいました。だから、その人を諦めて、違う人に電話しようと思いました。

でも、その人に電話する前に、神様はその最初の人を私の目の前に置いてくださいました。私たちはメールを書き始めて、そして、電話し始めました。

その後で、彼女は神戸に引っ越しました。一年後に、私たちは結婚しました。今年で、もう8年になりました。

(聡子、愛しているよ。( ゚∀゚)ノ)

とにかく、私は神様の良い計画を捕まえるために踏み出したから、そのプロセスは始まりました。もし、何もしなかったら、何も起こらなかったかもしれません。でも、私が動き始めたら、神様は働き始めてくださいました。

あなたは、自分の人生でフラストレーションを感じていますか。何も起こらなくて、フラストレーションを感じていますか。計画し始めてください。動き始めてください。そうすれば、神様の働きを見るでしょう。