そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。(ローマ人への手紙4:16)
「保証されている。」
このことばは私の心に響きました。
神様の約束が私の行いによるものではないことは、本当に嬉しいことです。
なぜなら、私の行いはしばしば揺らいでしまうからです。私は神様の基準によく達していないのです。
もし、神様の約束が私の行いによって決まるのなら、その約束は全く保証されていないでしょう。
幸いにも、神様の約束は私の行いによるのではありません。
その約束は、私への神様のすばらしい恵みによるのです。
また、その約束は、神様の変わることのないご性質によるのです。
「保証されている」ということばを読んだとき、もう一つの似たような箇所が思い起こされました。
そこで神は、約束の相続者たちに、ご自分の計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されました。
それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。
私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなもので(す)。(ヘブル人への手紙6:17~19)
「希望を捕まえる。」
アブラハムはまさにそうしました。
そして、その希望は彼にとって、安全で確かな、たましいの錨のようなものでした。
なぜなら、私たちが真実でなくても、神様は真実なお方だからです。
だからこそ、アブラハムのように、私は希望を捕まえることを選びます。
イエス様こそが私の希望です。イエス様こそが私の錨です。イエス様は確かで真実な方で、私が不忠実で不真実なときには、天の父のみもとで私のためにとりなしてくださいます。(ヘブル人への手紙6:19~20)
イエス様のおかげで、私への神様の約束のすべては保証されています。
そして、イエス様にあって、私は安心することができます。







