あなたは誰のために生きているでしょうか。
多くの人々は「私自身のために生きる」と答えます。
宮廷をつかさどる執事シェブナもそのような人でした。
彼は高ぶって、自分のために岩に墓を掘りました。
どうしてそれはそんなに悪いことだったのでしょうか。その時代では、そのような派手な墓は王の家族のためでした。でもシェブナは王の家族のメンバーではありませんでした。
そして、その時、アッシリヤはエルサレムを囲む準備をしていました。だから、エルサレムの中で苦しんでいる人々はたくさんいました。それなのに、シェブナはその派手な墓を掘りました。
だから主はシェブナを責められました。
あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。
ああ、ますらおよ。主はあなたを遠くに投げやる。
主はあなたをわしづかみにし、あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。
主人の家の恥さらしよ。わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。(イザヤ書22:16-19)
そして、神様はエルヤキムという人にシェブナの立場を与えられました。神様はエルヤキムについてこう言われました。
彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。。。
わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。(22-24)
ある日、私はハワイの牧師の話を聞きました。彼は罪に落ちて、その教会を失いました。でも神様の恵みによって、彼のミニストリーと家族はだんだん回復しています。
どうして彼は罪に落ちたのでしょうか。彼はこう言いました。「私のミニストリーの中心は私になりました。私の人生の中心は私になりました。」
そして、彼はそのミニストリー、また彼の人生が神様からの賜物であることを忘れていました。
牧師が失敗すると非難されやすいです。もちろん、神様は彼らをもっと厳しくさばかれます。なぜなら、「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」からです。(ルカ12:48)
でも、誰でも倒れてしまう可能性があります。そして、あなたの人生の中心が自分自身になったら、全てを無くす危険があります。私たちの結婚や家族やミニストリーを失うかもしれません。
だから、倒れた人々を責めるよりも、私たちは自分自身を見つめて問いかけるべきです。
「私の人生の中心は誰でしょうか。私でしょうか。神様でしょうか。私は自分のために生きているのでしょうか。それとも神様と私に与えられた人々に仕えているのでしょうか。」
皮肉なことですが、もし謙って主と他の人々に仕えると、エルヤキムのように私たちは栄光をいただきます。
あなたは誰のために生きているのでしょうか。
