この箇所では、エレミヤはユダの民を批判し続けます。最初に、エレミヤはソドムとゴモラをほのめかしています(創世記18章)。
その時、アブラハムはその都市のために祈りました。つまり、もし10人の正しい者がいたら、神様がその都市の罪を赦すように祈ったのです。
神様はその祈りを聞き入れましたが、結局10人さえもいなかったため、神様はその都市を滅ぼしました。
この箇所で、神様はこう言われました。「もし真実を求める者が一人でもいたら、エルサレムを赦します。」
ところが、そのような人は誰一人いませんでした。
その言葉が大げさかどうか分かりません。もちろん、エレミヤは神様を求めました。また、ナホムやゼパニヤなど他の預言者たちも神様を求めました。けれども、彼らはエルサレムに住んでいなかったのかもしれません。
ヨシヤ王も神様を求めましたが、エレミヤがこの箇所を書いた時、ヨシヤはまだ主を求め始めていなかったのかもしれません。
とにかく、この言葉の意味は、神様を求める人々がほとんどいなかったということです。
どうしてでしょうか。なぜなら、誰も神様を恐れなかったからです。神様についてあまり考えず、自分の好きなようにしました。
エレミヤは彼らについてこう言いました。
彼らは主を否んでこう言った。
「主が何だ。わざわいは私たちを襲わない。剣もききんも、私たちは、見はしない。預言者たちは風になり、みことばは彼らのうちにない。彼らはこのようになる。」(エレミヤ書5:12ー13)
今でも、多くの人々はそのように考えます。彼らはまったく裁きを恐れないので、好きなように生きています。
「神様は愛でしょう?神様は決して私たちを裁かないでしょう?神様の裁きについて話す人々は私たちを怖がらせますが、その言葉を気にしない方が良い。」
そのため、彼らはその言葉を無視して、自分を励ます人々の声だけを聞きます。
だからこそ、エレミヤはこう言いました。
預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。(31)
皆は神様の愛と憐れみについて聞くのが好きです。だれも裁きについて聞きたくはありません。
しかし、その警告を無視するなら、あなた自身を欺いていることになります。なぜなら、裁きは必ず来るからです。
神様はバビロン人を通してユダの民を裁きました。そして、ある日、イエス様はこの世に戻り、生きている人と死んだ人とを裁かれます。皆はイエス様の前で申し開きをすることになります。
あなたはどうでしょうか。自分の道を行き、自分自身を欺き、「裁きは来ない」と思うのでしょうか。
神様は忍耐強い方ですが、最終的には裁きが来ます。もし裁きの警告を無視して悔い改めないなら、その日が来た時、あなたはどうするのでしょうか。
裁きの日のために準備したいなら、悔い改めて、イエス様をあなたの主として受け入れてください。パウロはこう書きました。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ書10:9ー10)
自分自身を欺いてはいけません。裁きは必ず訪れます。手遅れになる前に悔い改めましょう。
