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エレミヤ書

私たちがこの世にいる間

このブログで、この箇所について英語で書いた時(3年前)、私は命と死について深く考えていました。なぜなら、私の教会で本当に愛された方が亡くなったからです。

彼女は牧師ではありませんでしたが、生きている間に多くの人々に影響を与えました。

この箇所を読んだとき、私は自分の人生について考えました。

神様はバビロンに追放された人々に語られました。彼らは自分の家と国を離れざるを得ず、偶像で満ちた国に連れて行かれました。その国は本当に不敬虔な場所でした。

それでも、神様は彼らにこう言われました。

家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。

妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。

わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」(エレミヤ書29:5-7)

神様は、私たちに同じことを言われています。ユダヤ人と同じように、私たちも不敬虔で偶像に満ちた世界に住んでいます。そのため、「もう天国に行きたい。この世界の悪や問題に向き合いたくない」と言うのは簡単なことです。

けれども、神様は私たちにこう言われます。

「この世にいる間、私があなたに与えた人生を楽しみなさい。結婚しなさい。子供を産みなさい。働きなさい。そして、あなたが住んでいる場所の繁栄を求めなさい。その場所のために祈りなさい。なぜなら、その場所の繁栄はあなたの繁栄になるからです。」

時には、クリスチャンがこの世界から自分自身を隔離してしまうことがあります。彼らは恐れて、教会を自分たちの砦とし、神様にこう祈ります。「神様、私たちを守ってください。」

しかし、それは神様の望みではありません。神様は、私たちが自分のコミュニティの中で積極的な役割を果たすことを望んでおられます。

神様は、私たちが周囲の人々に触れて、影響を与えることを望んでおられます。神様は、私たちが政治に参加することを望んでおられます。(あなたは投票するでしょうか。)

さらに、神様は私たちが自分のコミュニティと国のために祈ることを望んでおられます。

そして神様は、私たちが未来を恐れずに、この世にも良い将来と希望があることを知るように望んでおられます。

神様はこう言われました。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――

それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。

もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。。。(11-14)

神様はユダヤ人たちにそう言われましたが、私たちにもそう言われます。

ですから、私たちがこの世にいる間、主を求めましょう。また祈りましょう。

将来を恐れないでください。この世の悪を恐れないでください。

むしろ、神様が与えてくださった人生を楽しみましょう。私たちは、与えられた賜物を用いて、神様とその御国のために働きましょう。そして、周囲の人々に触れて、影響を与えましょう。

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燃えさかる火のような言葉

「もう黙った方が良いんじゃない?あなたが神様の言葉を述べ伝えると、いつもトラブルが起こるから。」

エレミヤの家族は、エレミヤにそのようなことを言ったかもしれません。また、エレミヤ自身もそのように考えたかもしれません。

ある日、神様はエレミヤに、民の長老と年長の祭司のうちの数人の前で土の焼き物の壺を壊すように命じられました。その際、エレミヤは彼らに裁きについて警告しました。つまり、ユダがその壊れた壺のようになることを伝えたのです。

エレミヤは彼らに警告した後、宮の庭に行き、皆の前で同じメッセージを伝えました。

しかし、祭司パシュフルはエレミヤの言葉を聞くと、彼を打ち、足かせにつないだのです。

そのため、エレミヤは神様に文句を言いました。

主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。

私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。

私は、語るごとに、わめき、「暴虐だ。暴行だ」と叫ばなければなりません。

私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。(エレミヤ書20:7-8)

でも、エレミヤはこう言いました。

私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。(エレミヤ書20:9)

この箇所では、エレミヤの感情は非常に混乱しています。

11-13節では、エレミヤは主への信仰をもって、こう語りました。

主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。。。

主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行なう者どもの手から救い出されたからだ。(エレミヤ書20:11,13)

でも、14節では、彼はこう言いました。

私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。

しかし、エレミヤは黙ることができませんでした。なぜなら、神様の言葉がエレミヤの心の中で燃えさかっていたからです。

あなたはどうでしょうか。神様の言葉はどれほどあなたの心の中で燃えさかっていますか。その言葉は消えやすい火花でしょうか。それとも、消されることのない燃えさかる火でしょうか。

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悔い改めなさい

私がハワイにいた時、エホバの証人やモルモン教の人たちが私の家によく訪ねてきました。私が日本に引っ越して、神戸に住んでいた時でも、エホバの証人たちが時々訪ねてきました。

けれども、現在住んでいるマンションにはルールがあるため、ほとんどのセールスや宗教の人々は戸別訪問ができません。

ある意味、それは残念なことです。時々興味深い会話があったからです。

いずれにせよ、このエホバの証人やモルモン教の人々は「私たちはクリスチャンです」と言います。しかし、彼らにはいくつかの問題があります。

例えば、彼らはクリスチャンの言葉を用いますが、その意味は全く異なります。

エホバの証人にとって、イエス様は御使いのかしらであるミカエルです。

モルモン教にとって、イエス様はサタンの兄弟とされています。

もう一つの問題は、彼らの預言者たちが偽の預言を語ったことです。(申命記28:21ー22では、神様は偽物の預言者について警告しておられます。どうぞお読みください。)

エホバの証人やモルモン教の人々の言い訳はこうです。

「聖書に記された本当の預言者たちでもミスをしました。ヨナの話を覚えているでしょうか。ヨナがニネベは滅びると預言しましたが、結局ニネベは滅びませんでした。」

しかし、ヨナの言葉は預言ではなく、警告でした。神様はニネベの人々が悔い改めることを望んでおられたので、ヨナをニネベに遣わされました。

この箇所では、その真実を見ることができます。神様はエレミヤにこのように言われました。

わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。

わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。(エレミヤ書18:7ー10)

この箇所を読むと、ヨナ書をより深く理解できると思います。ニネベの人々は悔い改めたので、神様は彼らに憐れみを注いでくださいました。

一方で、神様はイスラエルの人々に多くの祝福を約束されました。それは、彼らが神様の命令に従うならば、彼らが神様の民となり、神様が彼らの神となられるということです。

ところが、彼らは神様に背を向けたので、神様はその祝福を取り消され、彼らに災いを下されました。

この箇所の終わりでは、彼らの心が硬く、全く神様のメッセージを聞きたくなかったため、彼らはエレミヤを無視し、責めました。その結果は追放です。

私の言葉を誤解しないでください。神様はイスラエルの人々のためにまだ計画を持っておられます。神様は常にご自身の約束を守られます。

とはいえ、イスラエルの人々が悔い改めなければ、神様の祝福を得ることができません。(ローマ11章をお読みください。)

とにかく、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちの罪を悔い改めるべきです。私たちの自己中心的な態度を捨てるべきです。そして、神様に向かうべきです。

そうすれば、本当の命を見つけることができるでしょう。

あなたはどのような罪を悔い改めるべきでしょうか。また、神様はあなたに何を望んでおられるのでしょうか。

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損なわれた

私たちは壊れた世界に生きています。ニュースを見るだけで、その現実はすぐに理解できるでしょう。

けれども、この箇所では、神様が損なわれたものを美しいものへと変えることがおできになるということを学ぶことができます。

神様はエレミヤに「陶器師の家に下りなさい」と言われました。エレミヤがその場所に着くと、陶器師がろくろを使って仕事をしていました。

陶器師が作っていた器は一度失敗しましたが、彼はそれを捨てませんでした。むしろ、彼は、

再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。(エレミヤ書18:4)

そして、神様はエレミヤにこう言わました。

イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。――主の御告げ――

見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。(6)

イスラエルは自分の罪によって損なわれました。しかし、神様はこう言われました。「たとえあなたが損なわれても、私はあなたを美しいものに変えることができます。」

神様は私たちにも同じことを語っておられます。

あなたは、自分の人生を見て、価値がないと感じることがあるかもしれません。また、自分があまりにも罪深いので、神様が自分を愛することなどできないと思うかもしれません。

けれども、たとえどんなに損なわれていても、神様はあなたの傷を癒すことがおできになります。神様は、あなたの壊れた人生を新しいものに変えることができる方です。

あなたを癒すために、イエス様は損なわれました。イザヤは次のように語っています。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ書53:5)

あなたは、自分自身を損なわれたものだと感じていますか。神様はあなたを赦し、そして新しいものに変えてくださいます。どうか神様に向かって、仰ぎませんか。

Something beautiful, something good
美しいもの、良いもの。

All my confusion, he understood
神様は私の混乱を理解しておられました。

All I had to offer him was brokenness and strife
私は壊れた人生と、闘争の多い心しかささげることができませんでした。

But he made something beautiful of my life
しかし、神様は私の人生を美しいものへと変えてくださいました。

ーービル・ゲイザー

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敬い、信頼、服従

この箇所をスキップしてしまうのは簡単なことかもしれません。なぜなら、この箇所は安息日についての内容ですし、パウロがコロサイの教会に宛てて書いた時に、次のように言っているからです。

安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。(コロサイ2:16)

私はその理由をここですでに書きました。

しかし、この箇所から、クリスチャン生活の重要な原則を学ぶことができると思います。

どうしてイスラエル人たちは安息日を守らなければならなかったのでしょうか。それは、安息日を通して、彼らが三つのことを示したからです。

第一に、彼らは神様を創造主として敬うことを示しました。彼らは神様の創造の働きを思い起こし、神様が7日目に休まれたことを覚えました。

第二に、彼らは神様への信頼を示しました。安息日に彼らは休むことで、神様が必要を満たしてくださることを信じました。

第三に、彼らは神様への服従を示しました。信頼と服従は深い関係があります。神様を信頼しないと、神様に従うことは難しいのです。

残念なことですが、イスラエル人たちはその三つのことに失敗しました。神様は彼らにこう言われました。

「もし、安息日を守るなら、私はあなたを祝福します。しかし、そうしないならば、裁きが起こります。」

なぜでしょうか。

安息日を守るのは簡単なことでした。それにもかかわらず、彼らは安息日を守らず、神様を敬わず、神様に信頼せず、神様の命令に従いませんでした。

彼らが安息日を守らなかったことは、彼らの心にある大きな問題の兆候だったのです。

あなたはどうでしょうか。神様を敬っていますか。神様があなたのためにしてくださったことを思い起こし、神様を賛美していますか。

神様に信頼していますか。神様はあなたのために最善の道を知っておられ、あなたの最善を望んでおられることを信じていますか。

また、小さなことでも神様に従っていますか。

神様はイスラエル人たちにこれらのことを望まれました。そして、それは私たちにも同じように望まれています。

私たちが神様を敬い、神様に信頼し、従う者となるように。

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癒しの必要

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレミヤ書17:9)

この箇所は人間の本質を端的に表していると思います。

この世の問題について考える時、その根本的な原因は人間の心にあります。私たちの心は陰険です。私たちは周りの人々を欺くだけでなく、自分自身さえも欺きます。

この箇所では、エレミヤはこう言います。

「ある人々は富を得るために周りの人々を欺きます。なぜなら、彼らは自分自身を欺き、お金さえあれば幸せになれると思い込んでいるからです。」

しかし、エレミヤは彼らについて次のように語りました。

彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。(11)

他の人々は、神様が人生の喜びを取り去ろうとされると思うため、神様に背を向けます。彼らは、自分の人生がもっと楽しくなると考えています。

しかし、エレミヤは次のように語りました。

あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。

「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」(13)

つまり、命の源は神様です。だから、神様に背を向けると、彼らは自分の命を失ってしまいます。

他の人々は神様の言葉を聞いて、あざけりました。彼らはこう言います。

主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。(15)

しかし、神様の言葉は必ず成就します。そして、もし彼らが悔い改めないならば、裁きの日に彼らのあざけりは後悔と涙に変わるでしょう。

私たちは周りの人々を欺くことがあるかもしれません。自分自身を欺くこともあるかもしれません。けれども、神様を欺くことは決してできません。

だからこそ、神様は私たちにこう警告されます。

わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。(10)

私たちの心は病にかかり、罪によって汚れてしまいました。私たちは自分自身の心を癒すことはできません。人間にはそれを治すための治療法がありません。

どんなに頑張っても、私たちは神様の目に正しい者となることはできません。むしろ、私たちは繰り返し罪のパターンに陥ります。

では、私たちの希望はどこにあるのでしょうか。それは、神様だけにあります。

だからこそ、エレミヤのように祈りましょう。

私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。(14)

十字架でイエス様が流された血によって、私たちの罪の代価が支払われました。そして、聖霊の働きによって、私たちの心が洗われ、清められます。

あなたはどうでしょうか。自分の罪を認識し、その癒しが必要だと感じていますか。

イエス様に向かうなら、イエス様はあなたを癒し、解放してくださいます。

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大変な時に実を結ぶ

正直に言えば、私たちの人生は難しいものです。

時々、それは私たちの責任ではない場合もあります。

しかし、私たちの悪い選択によって困難な状況に陥ることもよくあります。

エレミヤの時代、ユダ人たちは悪い選択をしたために困難に直面するようになりました。彼らが神様に背を向け、自分自身の道を選んで進んだ結果、さまざまな問題が起こりました。

そのため、神様は彼らにこう言われました。

あなたは、わたしが与えたあなたの相続地を、手放さなければならない。また、わたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。

あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃えよう。(エレミヤ書17:4)

けれども、エレミヤは悪いことをしていなかったのに、苦しんでいました。彼が神様に従い、反抗的な人々に神様の言葉を伝えたにもかかわらず、苦しんでいました。

そのため、神様はこう言われました。

主はこう仰せられる。

「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。

そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。

その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」(エレミヤ書17:4-8)

この言葉によって、神様はユダ人たちを責められましたが、同時にエレミヤを励まそうとされたのだと思います。

神様はユダ人たちが自分自身に信頼したことを責められましたが、エレミヤにはこう言って励まされました。

「エレミヤ、今あなたが苦しんでいることを知っています。しかし、あなたが私に信頼するなら、私はあなたを祝福します。あなたの状況が辛くても、あなたは私のために実を結びます。あなたの周りの人々が倒れても、あなたは栄えます。」

神様はその約束を守られました。エルサレムが倒れましたが、神様はエレミヤを救い出されました。バビロンの王ネブカドネザルは、エレミヤについてこう命じました。

[エレミヤ]を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ、彼があなたに語るとおりに、彼にせよ。(エレミヤ書39:12)

それでも、エレミヤの人生は決して楽なものではありませんでした。けれども、困難な状況の中にあっても、彼は実を結びました。

あなたはどのようなトラブルに直面しているでしょうか。もしかすると、あなたが神様に背を向けた結果、そのトラブルが訪れたのかもしれません。

その場合は、もう一度神様に向かってください。あなたの頑固さと罪を捨てて、もう一度神様に従ってください。

神様に従っているのにもかかわらず、あなたが困難に直面しているでしょうか。そのような時でも、神様に信頼し続けてください。絶望しないでください。

そして、エレミヤのように、あなたも実を結び、この世に良い影響を与えることができます。

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全ての国民が王として認める方

このブログを英語で書いた時、クリスマス・イブでした。

クリスマスの時、多くの人々はイエス様について考えます。けれども、イエス様について考えた時、どのようなイメージを見るのでしょうか。

クリスマスの時、多くの人々はイエス様を飼い葉おけに寝ておられる可愛い赤ちゃんとして考えます。彼らは、そのイエス様が好きです。

なぜでしょうか。そのイエス様は彼らから何も要求されないからです。イエス様はただ寝ておられるだけです。

しかし、いつかの日、

イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10ー11)

その日に、

[主]のもとに、諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。

「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。

人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない」と。(エレミヤ16:19ー20)

ある人々は喜んでそのことを告白します。けれども、ある人々は苦しんで泣きます。彼らはその神々を見て、その神々がただの木製か石の偶像であると分かるようになります。

また、ある人々は何を求めていたかを思い出します。つまり、お金や、セックスや、力や、この世の物を求めていましたが、そのものがすべて無駄なものであると分かるようになります。

その日、彼らはイエス様がもう飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんではないと分かるようになります。むしろ、彼らはイエス様が主であり、王であることを認めます。

その時について、神様はこう言われます。

だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。

彼らは、わたしの名が主であることを知る。(21)

あなたはどうでしょうか。イエス様について考えた時、どのようなイメージが思い浮かぶでしょうか。ベツレヘムの飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんを見るでしょうか。

それとも、あなたの主であり王であるお方を見るでしょうか。

イエス様がこの世に戻られる時、あなたはひれ伏して、愛を持って、「イエスは主です」と言うでしょうか。

それとも、苦々しい心を抱きながら、その言葉を言うでしょうか。

どうか、イエス様を飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんとしてではなく、あなたの主であり、王である方として知ることができますように。

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救い主、贖い主

クリスマスの時、私はいつもの時よりも、イエス様について考えます。特に、どうしてイエス様がこの世に来られたかを思い出します。

イエス様は私たちを裁くために来られたのではありません。イエス様は私たちを罪から救い出してくださり、贖うために来られました。そして、その働きによって、私たちは神様と和解しました。

この箇所では、いつも通り、私たちは裁きの話を見ます。

神様はエレミヤに言われました。

「人が亡くなると、その家族と友達と一緒に泣いてはなりません。なぜなら、慰める言葉がないからです。つまり、私はいつくしみと、あわれみを彼らから取り去ったからです。

そして、すぐに、多くの人々が亡くなり、皆が苦しむため、誰も慰める言葉を与えられません。」(エレミヤ書16:5-7)

また、神様はエレミヤに言われました。「ユダ人の宴会にも参加してはなりません。なぜなら、すぐに、私は彼らの喜びを取り去るからです。」(8)

そして、神様はエレミヤに言われました。

「この裁きの理由を彼らにはっきりと伝えなさい。つまり、彼らは自分の心を堅くし、私に背を向けて、自分の神々を礼拝し始めたからです。」(10-13)

けれども、14-15節から、神様のトーンは変わります。神様はエレミヤに言われました。

「今、皆は、どうやって私がイスラエル人たちをエジプトから救い出したかを思い出しています。しかし、ある日、私はもっと素晴らしいことをします。

イスラエル人たちとユダ人たちは追放されますが、いつか、私はもう一度彼らを自分の土地に導きます。なぜなら、私は彼らの先祖にその土地を与えると約束したからです。

そして、人々はエジプトからの救いについて話すよりも、追放からの救いについて話し始めます。」(14-15)

神様はその約束を守られました。神様はイスラエル人たちをペルシアから自分の土地に導かれました。

そして、イエス様の使徒の時代に、ローマがエルサレムを滅ぼし、ユダヤ人たちは各地に散らされました。自分の国は無くなりました。

けれども、1948年に、神様はもう一度彼らをイスラエルに導かれました。

なぜでしょうか。神様がイスラエルの救い主と贖い主であることを証明するためです。

ある日、全イスラエルはそのことを認めます。神様は彼らについてこう言われました。

だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。彼らは、わたしの名が主であることを知る。(21)

現代、多くの人々は罪に迷っています。彼らはイスラエル人のように堅い心を持ち、神様に背を向けました。

しかし、イエス様は彼らを救い、贖うために来られました。また、イエス様は彼らに神様を表し、彼らが神様を知り、神様と和解するために来られました。

そのことを覚えておきしょう。そして、私たちの周りの人々にその良いニュースを伝えましょう。

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自己憐憫の罠

時々、神様に従うことは辛いことがあります。そのような時、人々はよく文句を言います。

「どうして、こんなことが起こるのでしょうか。私にはわかりません。あなたに従ったら、私の人生は上手くいくと思っていましたのに。どうして、あなたはこの試練を許してくださっているのでしょうか。」

エレミヤもそう感じました。もう一度、彼は自分の民から迫害と拒絶の痛みを受けました。ですから、彼の疑いはもう一度浮かび上がりました。

彼はこのように祈りました。

なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は直らず、いえようともしないのでしょう。

あなたは、私にとって、欺く者、当てにならない小川のようになられるのですか。(エレミヤ書15:18)

つまり、「私は苦しんでいます。ご存じないのですか。助けてくださらないのですか。他の人々のように、あなたは私を裏切られるのですか。」

しかし、もう一度、神様はエレミヤの自己憐憫を許されませんでした。むしろ、神様はこう言われました。

もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。

もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。

彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。

わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても、勝てない。

わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。――主の御告げ――

また、わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す。(19ー21)

つまり、「「かわいそうパーティ」を止めなさい。そうすれば、私はあなたを用いることができます。あなたの文句を止めて、私の言葉を伝えなさい。

この民はあなたに影響を与えて、あなたが彼らのようになることを望んでいますが、そうはさせてはいけません。むしろ、あなたが彼らに影響を与えるべきです。

彼らはあなたと戦い、迫害するかもしれませんが、あなたに勝つことはありません。私はあなたを救い出します。だから、自分自身を見ずに、私を見なさい。」

あなたはどうでしょうか。あなたが神様に従い、あなたの状況が辛くなる時、自己憐憫に陥っているのではありませんか。

サタンはそれを見て喜びます。なぜなら、神様にとって、私たちは役に立たなくなるからです。

自分自身に焦点を当てると、神様に焦点を当てられなくなります。また、周りの人々のニーズを見ることもできなくなります。

ですから、自分の問題に焦点を当てないようにしましょう。自分自身に焦点を当てないようにしましょう。

むしろ、

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(へブル12:2ー3)

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神様の言葉を食べること

ユダの状態は本当に悪化しました。そこで、神様はエレミヤに言われました。

「モーセやサムエルがこの民のために祈っても、私は聞かない。」

ヒゼキヤ王が亡くなった後、ユダ王国は徐々に霊的に堕落していきました。

ヒゼキヤの息子マナセはユダを偶像礼拝に導きました。マナセが悔い改めたにもかかわらず、ユダは自分の罪を犯し続けました。

ヨシヤ王はヒゼキヤのように神様を求めたにもかかわらず、多くのユダ人たちは罪を犯し続けました。

なぜでしょうか。彼らは神様の言葉を真に受け入れませんでした。彼らは、エレミヤや他の預言者たちを通してその言葉を聞きましたが、従うことを拒みました。

しかし、エレミヤは違いました。彼はこう言いました。

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。

あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。(エレミヤ書15:16)

ユダ人たちは神様の言葉を味わった時、すぐに吐き出してしまいました。しかし、エレミヤがその言葉を味わった時、彼は喜び、それを受け入れて変わりました。

あなたはどうでしょうか。神様の言葉を聞いた時、どのように反応しますか。

ある人々は御言葉の栄養を十分に受け取っていないため、霊的に飢えています。彼らは日曜日のメッセージだけで十分だと思っています。

けれども、私たちは毎日食事をとりますよね。日曜日だけに食べる人がいるでしょうか。

また、他の人々は御言葉を聞きますが、すぐにその言葉を忘れてしまうため、彼らにとって御言葉は何の役にも立ちません。

もし、神様が私たちの人生に働くことを望んでおられるなら、私たちは神様の言葉を食べ、受け入れ、喜ばなければなりません。そして、その言葉に従うべきです。

そうするならば、私たちの思いは新しくされ、私たちの考え方と行動は変わります。

また、困難な時代に生きていても、私たちは裁きを受けることはありません。むしろ、エレミヤのように神様の憐れみを受けるのです。

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私たちの希望はどこから来るか

この箇所では、さらに裁きの警告を読むことができます。エレミヤはユダ人たちに対して、彼らの罪が原因で追放されると警告しました。また、彼らが希望の光を求める一方で、神様が彼らを絶望の暗闇で覆うことになると告げました。

けれども、その裁きが訪れる前に、神様はもう一つの警告をお与えになりました。それが、日照りという形で示されました。

その日照りの中で、エレミヤは祈りました。「私たちは罪を犯しましたが、どうかお赦しください。」(エレミヤ書14:7-9)

しかし、神様は答えられました。

この民のために幸いを祈ってはならない。彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげても、わたしはそれを受け入れない。

かえって、剣とききんと疫病で、彼らをことごとく絶ち滅ぼす。(エレミヤ書14:11-12)

それでも、エレミヤはユダ人たちのために祈り続けました。彼はこのように祈りました。

異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。

私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。(エレミヤ書14:22)

エレミヤが理解したのは、私たちにはただ一つの希望しかないということです。それは神様です。しかし、ユダ人たちは自分自身の力と知恵に頼り、また他の国々との同盟に依存しました。

その結果、彼らのプライドによって滅びました。そして、彼らがしがみついていた神々は彼らを救うことができませんでした。

あなたの希望はどこから来るのでしょうか。その希望は神様から来ているでしょうか。あなたは人生のすべてを神様に信頼していますか。神様の道を歩んでいますか。

それとも、ユダ人のように、自分自身に信頼し、この世の神々に従っているのでしょうか。

神様に信頼しない限り、私たちに希望はありません。だからこそ、裁きが訪れる前に、神様に向き直り、従いましょう。

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何の役にも立たない

「どうして私たちはこの世にいるのだろう。神様は私たちに目的を与えておられるのだろうか。」

私たちには二つの目的があります。一つ目は神様を知ることです。二つ目は、神様の代表として、この世に触れることです。

もし私たちがクリスチャンとなり、すぐに天国に行くなら、最初の目的を果たすことは可能です。しかし、二つ目の目的を果たすためには、私たちはこの世に留まるべきなのです。

それでも、この世では、私たちは何の役にも立たない者になる可能性もあります。つまり、神様がこの世に触れるために、私たちを全く用いることができないということです。

どのようにしてクリスチャンがそのような者になってしまうのでしょうか。神様はユダヤ人たちにこう言われました。

わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。――主の御告げ――それは、彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるためだったのに、彼らがわたしに聞き従わなかったからだ。(エレミヤ書13:11)

つまり、神様はイスラエルとユダを通して、周りの国々に光を照らしたかったのです。その目的は、周囲の人々がイスラエルとユダにおられる神様を見て、神様に近づくことを望むためでした。

しかし、イスラエル人とユダ人は神様に従いませんでした。そこで、神様はエレミヤを通して彼らにビジョンを与えられました。

エレミヤは亜麻布の帯を買って、自分の腰に締めました。その後、彼はその亜麻布の帯を岩の割れ目に隠しました。多くの日が経った後、エレミヤはその帯を取り出しましたが、

なんと、その帯は腐って、何の役にも立たなくなっていた。(7)

そして、神様はエレミヤはこう言われました。

わたしはユダとエルサレムの大きな誇りを腐らせる。

わたしのことばを聞こうともせず、自分たちのかたくなな心のままに歩み、ほかの神々に従って、それに仕え、それを拝むこの悪い民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。(9-10)

私たちが誇り高ぶり、神様に背を向け、神様の声を聴かずにかたくなな心のまま歩み、この世の神々(偶像、お金、持ち物など)を求めると、私たちはその帯のようになります。私たちは腐敗し、何の役にも立たない者となってしまいます。

私はそのような人にはなりたくありません。

私は英語の歌「私の心を清めてください」が大好きです。

私の心のただ一つの願いは 聖くなることです。
あなたのために聖別されたいと願います。
私は聖くなることを選びます。
私の主のために聖別されることを選びます。
あなたの御心に従う準備をしています。

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疲れている

神様に従うことは簡単なことではありません。特に、預言者にとって、神様に従うことは時として本当に辛いものです。

エレミヤはそのことを学びました。彼は自分の出身地であるアナトテの人々が彼を殺そうとしていることを知りました。

神様はエレミヤを励まし、その人々に対する裁きについて教えられましたが、エレミヤは文句を言っていました。

主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。

なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結びました。

あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの思いからは遠く離れておられます。

主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。」(エレミヤ書12:1ー3)

つまり、エレミヤはこう言ったのかもしれません。

「どうして、この悪人たちは栄えているのでしょうか。私を見てください。私が一生懸命にあなたに従っているのに、私の報いはどこにあるのでしょうか。皆が私を憎み、私を殺そうとしています。」

神様はその言葉を聞いて、エレミヤを慰められたでしょうか。

「大丈夫だ。心配しなくてもよい。」と言われたでしょうか。

違います。むしろ、神様はエレミヤを責められました。

あなたは徒歩の人たちと走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競走できよう。

あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせよう。(エレミヤ書12:5)

つまり、「もう疲れてしまったのですか。これはまだ始まりにすぎません。あなたの状況はこれからもっと辛くなるでしょう。もしあなたがすでに疲れ果てているのなら、本当のプレッシャーが来た時、あなたはどうするのでしょうか。」

神様は私たちに簡単な人生を約束していません。神様はエレミヤにこう言われました。

「あなたの家族さえも信頼してはいけません。彼らは優しい言葉を口にしても、あなたを裏切るからです。」(エレミヤ書12:6)

では、私はすべての人々を恐れるべきでしょうか。それは違います。

とはいえ、キリストのために迫害されても驚かないでください。なぜなら、イエス様はこう言われたからです。

しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。

もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。(ヨハネ15:20)

エレミヤはその敵によって疲れていました。そこで、神様はこう言われました。

「私の国へようこそ。もしあなたが私に従いたいのなら、あなたの人生はさらに大変になるでしょう。だから、もしあなたが私の国で栄えたいのであれば、もっと強くなるべきです。」

どうやって私たちは強くなるのでしょうか。それは、自分が何に直面するのかを知り、準備をすることです。

私たちには敵がいます。しかし、その敵は人間ではありません。パウロはこのように言いました。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

その霊的な戦いのために、どのように準備すればよいのでしょうか。パウロは私たちにその方法を教えます。

主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。(エペソ6:10ー11)

つまり、自分の力に頼ってはいけません。自分の力に頼ると、エレミヤのように疲れてしまいます。

だからこそ、神様に頼りましょう。毎日、神様と時間を過ごし、天の父から力をいただきましょう。

イエス様がこの世におられた時も、毎日そうされました。実は、私自身も、もっとそうすべきだと感じています。

そして戦いにいくとき、神様の武具を身に着けましょう。

足には平和の福音の備えをはきなさい。

これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。(エペソ6:15ー17)

多くのクリスチャンたちは、自分の力だけに頼りながら、この世を裸のままで歩き回っています。しかし、彼らは霊的な戦いをよく理解しておらず、自分の敵が誰であるかを知りません。

そのため、彼らはサタンにとって簡単な標的となり、容易に被害者になってしまうのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの神様との関係は強いでしょうか。毎日、神様の武具を身に着けていますか。

それを怠ると、あなたは攻撃を受けてしまい、すぐに疲れ果ててしまいます。

だからこそ、パウロが言ったように、

邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。(エペソ6:12)

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神様が聞かない時

「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある。

彼らは、わたしのことばを聞こうとしなかった彼らの先祖たちの咎をくり返し、彼ら自身も、ほかの神々に従って、これに仕えた。

イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの先祖たちと結んだわたしの契約を破った。」(エレミヤ書11:9ー10)

現代でも、多くの人々は同じことをします。彼らは罪を捨てたにもかかわらず、その罪に戻ります。

ユダ人たちはこう思ったかもしれません。「罪を犯しても、大丈夫。もし、いけにえを捧げれば、神様はきっと私たちを赦してくださる。」

しかし、彼らはいけにえが意図的な罪のためではないことを忘れていました。

時々、私たちは意図せず罪を犯します。例えば、私たちは突然怒りに駆られて、悪いことをしてしまいます。

いけにえは、そのような罪のためのものでした。(そのいけにえについてもっと知りたいなら、これをご覧ください。)

ユダ人たちは、自分の罪を十分に理解していたにもかかわらず、その罪を犯し続けました。

だからこそ、神様はこのように言われました。

それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれからのがれることはできない。彼らはわたしに叫ぶだろうが、わたしは彼らに聞かない。(11)

また、

あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいに会ってわたしを呼ぶときにも、わたしは聞かないからだ。(14)

もちろん、私たちは恵みの時代に生きています。もし私たちが心から悔い改めたならば、神様は私たちを赦してくださいます。

とはいえ、悔い改めたとしても、罪の結果を避けることができるわけではありません。

例えば、もしあなたが不倫をした場合、神様に祈り、妻に頼んでも、妻があなたと離婚するかもしれません。

また、ギャンブルでお金を失った場合、神様に祈っても、あなたが自己破産するかもしれません。

だから、「神様が私を赦してくださるので、罪を犯しても良い」と言って、自分自身を欺いてはいけません。

むしろ、パウロが言ったように、

それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(第二テモテ2:22)

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大いなる神

アメリカでは、私たちは金の偶像や木製の偶像をあまり目にしません。けれども、セックスや力、お金はアメリカ人の「偶像」となっています。

日本にもそのような「偶像」がありますが、仏教の偶像や神道の偶像も多く見られます。

もちろん、多くの日本人にとって、仏教や神道は文化的な伝統でしかありません。彼らはそれらを本当に信じているわけではありません。

それでも、その偶像礼拝を見ると、私は本当に悲しくなります。なぜなら、それらの「神々」は全く力を持たないからです。

それらの「神々」は、ただの木材や金にすぎません。

だからこそ、神様はこのように言われました。

国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。

それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。

それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。

そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。」(エレミヤ書10:3ー5)

また、

すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。

それは、むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。(14ー15)

しかし、神様はそれらの「神々」と全く異なります。

主よ。あなたに並ぶ者はありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。諸国の民の王よ。

だれかあなたを恐れない者がありましょうか。それは、あなたに対して当然なことです。

諸国の民のすべての知恵ある者たちの中にも、そのすべての王国の中にも、あなたと並ぶような者はいないからです。(6ー7)

また、

しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。。。

主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。(10、12)

私は、その偶像を礼拝している人々を嘲っているのではありません。けれども、彼らがその偶像を捨てて、まことの神様を礼拝するように祈ります。神様こそが、私たちの礼拝にふさわしいお方です。

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何について自慢しているのか

主はこう仰せられる。

「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。

わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。――主の御告げ――(エレミヤ書9:23ー24)

ユダ人たちは自分の知恵と力を自慢していました。あるユダ人たちは割礼を受けたので、「私たちは神様の民だ」と思っていました。

しかし、彼らが神様に背を向けて、自分の道を歩んでいたため、その自慢は無意味でした。だから、すぐに裁きが訪れました。

あなたはどうでしょうか。何について自慢しているでしょうか。あなたの教育でしょうか。あなたの仕事でしょうか。あなたの富でしょうか。あなたの立場でしょうか。あなたの持ち物でしょうか。

もしあなたが神様を知らないなら、それらのものは無意味です。

けれども、神様について知っているだけでは不十分です。たくさんの人々は神様について知っています。サタンでさえも、私たちよりも神様について多く知っています。

しかし、私たちは本当に神様を知っているでしょうか。神様と親しい関係を持っているでしょうか。

神様が喜ばれることを私たちも喜び、神様が嫌われるものを私たちも嫌っているでしょうか。また、神様が喜ばれることや、神様が嫌われるものを私たちは知っているでしょうか。

神様を知っていることは、本当に誇るべきことです。それは一生のプロセスです。なぜなら、神様は私たちの心が神様の心のように変えられることを望んでおられるからです。

あなたは神様を知るためにどれほどの時間を取っているでしょうか。あなたは神様との関係のために時間を取っているでしょうか。あなたにとって、それは一番大切なことでしょうか。

パウロはこのように書きました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。

私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:8ー11)

あなたにはそのような情熱があるでしょうか。イエス様を知ろうとする情熱があるでしょうか。

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騙す心、嘘をつく舌

できるだけ、私は正直でいるようにしています。私は「罪のない嘘」であっても好きではありません。

何かをしたくない場合は、正直に言います。優しく伝えますが、正直に言います。

もし何かが好きではない場合、普通は何も言いません。英語では、このようなことわざがあります。

「もし、優しいことが言えないなら、何も言わない方が良いです。」

できるだけ、その言葉に従っています。もし何かを言わなければならない場合は、できるだけ優しく伝えます。(とはいえ、時々失敗することもあります。)

どうして、私はあまり嘘をつかないのでしょうか。一つ目は、私は嘘をつくのが苦手だからです。しかし、もっと大切な理由は、神様が私たちに真実を語る人々であることを望んでおられるからです。

この箇所では、そのことを読むことができます。神様はエレミヤにこのように言われました。

彼らは舌を弓のように曲げ、真実でなく、偽りをもって、地にはびこる。まことに彼らは、悪から悪へ進み、わたしを知らない。――主の御告げ――

おのおの互いに警戒せよ。どの兄弟も信用するな。どの兄弟も人を押しのけ、どの友も中傷して歩き回るからだ。

彼らはおのおの、だまし合って、真実を語らない。偽りを語ることを舌に教え、悪事を働き、依然として悔い改めない。

彼らはしいたげに、しいたげを重ね、欺きに欺きを重ねて、わたしを知ろうともしなかった。――主の御告げ――

それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らを溶かしてためす。いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか。

彼らの舌はとがった矢で、欺きを語る。口先では友人に平和を語るが、腹の中では待ち伏せを計る。(エレミヤ書9:3ー8)

神様は非常に惨めな光景を描かれます。エレミヤは自分の家族や友人を信頼することができませんでした。彼らは優しい言葉を語りましたが、その舌は毒で満たされていました。

だから、神様はそのような人々についてこのように言われました。

これらのために、わたしは彼らを罰しないだろうか。――主の御告げ――このような国に対して、わたしが復讐しないだろうか。(9)

あなたはどのような人でしょうか。あなたは偽りを語ることを舌に教えているでしょうか。それとも、愛をもって真理を語ることを舌に教えているでしょうか。

あなたの口は嘘で満ちているでしょうか。それとも、あなたの口は真実で満ちているでしょうか。

妻や夫と話す時、彼らに何かを隠しているでしょうか。それとも、何も隠さないでしょうか。

仕事では、クライアントと契約を結ぶために、何かを隠しているでしょうか。それとも、本当に正直でいるでしょうか。

口で優しいことを言いながらも、心の中で相手を侮っているでしょうか。それとも、イエス様のように相手を愛し、あなたの言葉と心が一致しているでしょうか。

もしあなたが真理を愛していないなら、本当に神様を知っていると言えるでしょうか。

神様は真理です。そして、神様は私たちが真理を語る人であることを望んでおられます。

あなたはそのような人でしょうか。

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迷っている人々のために泣くこと

エレミヤは「泣いている預言者」と呼ばれます。この箇所で、私たちはその理由を見ることができます。

時々、私たちは預言者たちの裁きのメッセージを見て、彼らがそのメッセージを伝えるのを楽しんでいると思うことがあります。

しかし、多分エレミヤのように、多くの預言者たちがそのイスラエル人のために泣いたのだと思います。なぜなら、イスラエル人たちは預言者たちの警告に耳を傾けず、裁きの道を歩んでいたからです。

だから、エレミヤはこのように言いました。

私の悲しみはいやされず、私の心は弱り果てている。聞け。遠くの地からの私の民の娘の叫び声を。

「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、その中におられないのか」。。。

「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」

私の民の娘の傷のために、私も傷つき、私は憂え、恐怖が、私を捕らえた。

乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。それなのに、なぜ、私の民の娘の傷はいやされなかったのか。。。

ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。

ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を見捨てて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通者、裏切り者の集会だから。(8:18ー22;9:1ー2)

以前、私は言いましたが、旧約聖書の預言書を読み通すのは少し辛いです。なぜなら、何度も同じメッセージを伝えるからです。つまり、神様の裁きです。

なぜ預言者たちはいつもその裁きのメッセージを伝えたのでしょうか。それは、イスラエル人たちが罪を犯し続けたからです。

そして、彼らは新しい罪を犯していたわけではありません。むしろ、同じ罪を繰り返していました。彼らは自分たちの歴史から全く学びませんでした。

もし、最近あなたが私のブログを読んでいるなら、「ブルースは裁きについて書くのが大好き」だと思うかもしれません。

しかし、実際はあまり好きではありません。神様の愛と恵みについて話す方が、もっと楽しいです。

それでも、聖書の教師として、真実を語らなければなりません。そして、預言者たちのように、私の希望は人々が救われることです。

正直に言えば、私は罪に迷っている人々のためにもっとあわれみ深い心を持つ必要があります。

エレミヤのように、私は迷っている人々のためにさらに涙を流すべきです。彼らの必要を見て、彼らに手を差し伸べるべきです。

もし私たち皆がそのような心を持つなら、どれほどこの世の人々に大きな影響を与えることができるでしょうか。

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教会は避け所。。。じゃない?

英語では、私たちは教会を [sanctuary] と呼びます。

一つの意味は「聖所」です。

けれども、もう一つの意味は「避け所」です。つまり、教会に行くと、神様にお会いし、安全を見つけることができます。

しかし、教会はすべての人にとって避け所であるわけではありません。神様はユダ人たちにこのように言われました。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなたがたの行ないと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしは、あなたがたをこの所に住ませよう。

あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。

もし、ほんとうに、あなたがたが行ないとわざとを改め、あなたがたの間で公義を行ない、在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、罪のない者の血をこの所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう。

なんと、あなたがたは、役にも立たない偽りのことばにたよっている。

しかも、あなたがたは盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。

それなのに、あなたがたは、わたしの名がつけられているこの家のわたしの前にやって来て立ち、『私たちは救われている』と言う。

それは、このようなすべての忌みきらうべきことをするためか。

わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。

そうだ。わたしにも、そう見えていた。――主の御告げ―― (エレミヤ書7:3ー11)

つまり、罪深い道を行くと、あなたにとって教会は避け所とはなりません。

ダビデの将軍ヨアブはそう学びました。彼はずっと自分の道を行き、無罪の人々を殺しましたが、ダビデの息子ソロモン王の正義を避けるために主の幕屋に逃げました。

なぜでしょうか。それは神様が律法を定められたからです。もし誰かが偶然に人を殺し、殺された人の家族から逃げるために、その殺人者が幕屋に行った場合、守られました。(出エジプト記 21:13ー14)

けれども、ヨアブが故意に人々を殺したので、ソロモンはその幕屋でヨアブを殺しました。(列王記第一2:28ー34)

神様はユダ人に言われました。

「シロを見なさい。以前、わたしの幕屋はシロにありました。しかし、その人々がわたしに背を向けたので、彼らは滅びました。

あなたたちが悔い改めないなら、エルサレムの宮も倒れます。(エレミヤ書7:12ー15)

わたしはあなたたちのいけにえや儀式に興味があるわけではありません。わたしはあなたの服従を望みます。

わたしに従うなら、あなたの人生はうまくいくでしょう。しかし、あなたたちは先祖たちのように、自分の心を堅くし続けます。」(エレミヤ書7:21ー27)

そして、神様はこのように言われました。

この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。。。

わたしの目の前に悪を行なったからだ。――主の御告げ――

彼らは、わたしの名がつけられているこの家に自分たちの忌むべき物を置いて、これを汚した。。。

それゆえ、見よ、その日が来る。――主の御告げ――その日には、もはや、そこはトフェテとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。

人々はトフェテに、余地がないほどに葬る。(28ー30、32)

トフェテという所は、イスラエル人たちが自分の子供たちを偽物の神々にいけにえとしてささげた所でした。彼らが主の宮でいけにえを捧げながら、彼らはトフェテで、この酷いいけにえをささげました。

だから、神様は言われました。

「あなたを裁きます。あなたが私の宮に行っても、赦しません。なぜなら、あなたの心から史実が消え、あなたたちは私の言葉に聞かずに程いことをするからです。」

あなたはどうですか。教会に行くからといって、月曜日から土曜日まで犯した罪が赦されると思いますか。

その罪は赦されていません。もし月曜日から土曜日まで自分の道を行くなら、教会に行く意味はありません。

だから、毎日私たちは神様のために生きましょう。また、ミカの言葉を覚えておきましょう。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書6:8)

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クロスロード(四つ辻)

私はクロスロードという教会のメンバーです。いろいろな意味で、その名前は本当にふさわしいです。

教会の一番近い駅は乗換場所です。それに、私たちは国際的な教会です。いろいろな国から、人々が私たちの教会に来てくださいます。

また、教会として、私たちは周りの人々に霊的な四つ辻となっています。つまり、人々が私たちの教会に来ると、彼らはイエス・キリストに従うかどうか選択しなくてはならないからです。

もちろん、彼らが初めて来た日には、そのような決断をする必要はありません。けれども、毎週来るようになると、最終的に彼らはご自身でイエス様に従って生きるかどうかを決断するようになります。

エレミヤはユダヤ人たちにそのような決断をするよう促しました。

「神様に従われますか。従われないですか。どうぞ決断してください。」

エレミヤはこう言いました。

主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。」(エレミヤ書6:16a)

神様は何を言われているでしょうか。

「あなたは選択しなくてはなりません。こちらの方に行くのか、そちらの方に行くのかを決めなさい。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そして他の信仰のある人々が歩いた道を求めなさい。それは幸いの道です。その道を行くと、平和を見つけることができます。」

しかし、ユダヤ人たちはこう答えました。

そこを歩まない。(16b)

頑固な心。堅い心。ユダヤ人たちはそのような心を持っていました。

神様はエレミヤや他の預言者たちをユダヤ人たちに警告するために送りましたが、彼らはこう言いました。

「私たちは」注意しない。(17b)

だから、エレミヤはユダヤ人たちについてこう言いました。

私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。

見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。

見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。(10)

その結果は?裁きです。

私が昨日のブログを英語で書いた時、Facebookで、そのブログからこの部分を書きました。

「皆は神様の愛とあわれみについて聞くのが好きです。しかし、だれも裁きについて聞きたくありません。」

ある人々は「いいね」とクリックしました。けれども、それを見た時、彼らが私の意味を理解しただろうかと思いました。

私が言いたかったのは、「神様の愛とあわれみは福音の一方だけです。しかし、もう一方があります。つまり、裁きです。」

けれども、ある人々は私の意味を誤解したかもしれません。彼らはこのように思ったかもしれません。

「私たちは神様の愛とあわれみだけを伝えた方が良いです。神様の裁きについて話さない方が良いです。」

偽物の預言者たちや祭司たちはそうしました。神様は彼らについてこう言われました。

彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。(14)

宣教師であるジム・エリオットは、こう祈りました。

私が一つの道の里程標にならないように。むしろ、私が分岐点になるように。人々が私に会うと、彼らがイエス・キリストを見て、イエス様に従うか従わないかを決めるように。

あなたはどうですか。あなたは里程標であるだけでしょうか。それとも、あなたは分岐点でしょうか。

もう一度言います。人々が私たちに初めて会った時、私たちが「今、決めなさい」と言う必要はありません。

しかし、もし私たちと長く知り合っているなら、彼らはその決断のポイントに来るはずです。

彼らがそのポイントに決して来ないのであれば、多分私たちは神様から与えられた仕事を忠実に行っていないのかもしれません。あなたはその仕事をしているでしょうか。

ある人々は福音のメッセージを拒絶するかもしれません。けれども、ある人々はそれを聞いて救われます。だからこそ、神様の福音を伝え続けましょう。

私たちがただイエス様への道を指さすだけで終わらないように。むしろ、私たちが人々をその分岐点に導くように。

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自分自身を騙す

この箇所では、エレミヤはユダの民を批判し続けます。最初に、エレミヤはソドムとゴモラをほのめかしています(創世記18章)。

その時、アブラハムはその都市のために祈りました。つまり、もし10人の正しい者がいたら、神様がその都市の罪を赦すように祈ったのです。

神様はその祈りを聞き入れましたが、結局10人さえもいなかったため、神様はその都市を滅ぼしました。

この箇所で、神様はこう言われました。「もし真実を求める者が一人でもいたら、エルサレムを赦します。」

ところが、そのような人は誰一人いませんでした。

その言葉が大げさかどうか分かりません。もちろん、エレミヤは神様を求めました。また、ナホムやゼパニヤなど他の預言者たちも神様を求めました。けれども、彼らはエルサレムに住んでいなかったのかもしれません。

ヨシヤ王も神様を求めましたが、エレミヤがこの箇所を書いた時、ヨシヤはまだ主を求め始めていなかったのかもしれません。

とにかく、この言葉の意味は、神様を求める人々がほとんどいなかったということです。

どうしてでしょうか。なぜなら、誰も神様を恐れなかったからです。神様についてあまり考えず、自分の好きなようにしました。

エレミヤは彼らについてこう言いました。

彼らは主を否んでこう言った。

「主が何だ。わざわいは私たちを襲わない。剣もききんも、私たちは、見はしない。預言者たちは風になり、みことばは彼らのうちにない。彼らはこのようになる。」(エレミヤ書5:12ー13)

今でも、多くの人々はそのように考えます。彼らはまったく裁きを恐れないので、好きなように生きています。

「神様は愛でしょう?神様は決して私たちを裁かないでしょう?神様の裁きについて話す人々は私たちを怖がらせますが、その言葉を気にしない方が良い。」

そのため、彼らはその言葉を無視して、自分を励ます人々の声だけを聞きます。

だからこそ、エレミヤはこう言いました。

預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。(31)

皆は神様の愛と憐れみについて聞くのが好きです。だれも裁きについて聞きたくはありません。

しかし、その警告を無視するなら、あなた自身を欺いていることになります。なぜなら、裁きは必ず来るからです。

神様はバビロン人を通してユダの民を裁きました。そして、ある日、イエス様はこの世に戻り、生きている人と死んだ人とを裁かれます。皆はイエス様の前で申し開きをすることになります。

あなたはどうでしょうか。自分の道を行き、自分自身を欺き、「裁きは来ない」と思うのでしょうか。

神様は忍耐強い方ですが、最終的には裁きが来ます。もし裁きの警告を無視して悔い改めないなら、その日が来た時、あなたはどうするのでしょうか。

裁きの日のために準備したいなら、悔い改めて、イエス様をあなたの主として受け入れてください。パウロはこう書きました。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ書10:9ー10)

自分自身を欺いてはいけません。裁きは必ず訪れます。手遅れになる前に悔い改めましょう。

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私たちの行動によって

「どうして私は苦しんでいるのだろうか。」

悪いことが起こると、多くの人々はそのように問いかけます。

時には、その原因は、この罪によって堕落した世界にあります。しかし、時には、私たち自身の行動が悪いことを引き起こすこともあります。

ユダ人にとっては、自分たちの罪が悪い結果を招きました。

この箇所では、神様は将来の裁きについて警告されました。結局、その裁きは、バビロンの王ネブカドネザルを通して実現しました。

ネブカドネザルとその軍隊がユダを攻め、ユダの町々は滅びました。(エレミヤ書4:6ー7)

なぜでしょうか。それは、彼らが神様の御言葉を無視したからです。ユダの王、祭司たち、預言者たち、そしてユダのすべての民がそのように行動しました。

神様は彼らについてこう言われました。

彼ら(バビロン人たち)は畑の番人のように、ユダを取り囲む。それは、ユダがわたしに逆らったからだ。――主の御告げ――

あなたの行ないと、あなたのわざが、あなたの身にこれを招いたのだ。これがあなたへのわざわいで、実に苦い。もう、あなたの心臓にまで達している。(エレミヤ書4:17ー18)

また、

実に、わたしの民は愚か者で、わたしを知らない。彼らは、ばかな子らで、彼らは悟りがない。

彼らは悪事を働くのに賢くて、善を行なうことを知らない。(22)

災害が訪れても、彼らは悔い改めることはありませんでした。むしろ、彼らは偽物の神々を礼拝し続けました。

だから、エレミヤは彼らに訊いた。踏みにじられた女よ。あなたが緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたてても、それが何の役に立とう。

目を塗って大きく見せても、美しく見せても、かいがない。恋人たちは、あなたをうとみ、あなたのいのちを取ろうとしている。(30)

何世紀が経っても、人間はあまり変わりません。

彼らは神様に対して心を堅くし、その罪の結果を受けます。それでも、彼らは悔い改めることなく、罪を犯し続けます。だからこそ、結局彼らは滅びてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪によって、自分の結婚、人間関係、キャリアを滅ぼしているでしょうか。

その罪の結果を目の当たりにしても、あなたは態度や行動を変えないままでいるのでしょうか。それとも、あなたは悔い改めることを選ぶのでしょうか。

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偽の悔い改め

私の娘が3歳の時、時々悪いことをすると、私は「謝りなさい」と言いました。

彼女は謝りましたが、時々心から謝っていませんでした。むしろ、彼女は笑いながら、「ごめんなさい~」と言っていました。

ユダ人たちは私の娘のようでした。神様は彼らについてこう言われました。

あなたは遊女の額をしていて、恥じようともしない。今でも、わたしに、こう呼びかけているではないか。

『父よ。あなたは私の若いころの連れ合いです。いつまでも怒られるのですか。永久に怒り続けるのですか』と。

なんと、あなたはこう言っていても、できるだけ多くの悪を行なっている。(エレミヤ書3:3ー5)

口では、彼らは「ごめんなさい」と言いましたが、彼らの行動はその心を表していました。

そして、神様は彼らを追放されたイスラエル人たちと比べられました。神様は彼らの「不倫」によって「離婚」されたのです。

つまり、彼らが偽物の神々を求めたために、神様は彼らをアッシリヤ人の手に渡されました。

ユダはそのことを知っていたにもかかわらず、悔い改めませんでした。悔い改めの言葉を口にしたものの、心から悔い改めることはありませんでした。

神様は彼らについてこう言われました。

このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった。――主の御告げ――」

主はまた、私に仰せられた。「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。(10ー11)

つまり、「悔い改めるふりをするな。偽りの悔い改めよりも、反抗の方がまだ良い。」ということです。

しかし、もちろん、反抗よりも、神様は真実の悔い改めを望んでおられます。そのため、神様はこう言われました。

背信の女イスラエル。帰れ。――主の御告げ――

わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。――主の御告げ――

わたしは、いつまでも怒ってはいない。ただ、あなたは自分の咎を知れ。

あなたは自分の神、主にそむいて、すべての茂った木の下で、他国の男とかってなまねをし、わたしの声を聞き入れなかった。――主の御告げ――

背信の子らよ。帰れ。――主の御告げ――

わたしが、あなたがたの夫になるからだ。わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。。。

背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。(エレミヤ書3:12-14,22)

私たちはどのように反応するべきでしょうか。

今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。(エレミヤ書3:22b)

神様はこう応えられます。

耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。

ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。(エレミヤ書4:3ー4)

つまり、神様に対して、あなたの心を柔らかくしなさい。心の堅い土壌を耕しなさい。罪のとげを取り除きなさい。あなたを神様から遠ざけるものを取り除きなさい。

そうすれば、私たちの悔い改めは私たち自身に影響を与えるだけでなく、周りの人々にも影響を与えます。

神様はこう言われます。

イスラエルよ。もし帰るのなら、――主の御告げ――わたしのところに帰って来い。

もし、あなたが忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない。

あなたが真実と公義と正義とによって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、主によって誇り合う。(4:1ー2)

つまり、私たちが悔い改め、主のために生き始めるならば、神様は私たちを通して働き、私たちの周りの人々に触れて、彼らを祝福されるのです。

私たちがそのような心を持つことができますように。

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私たちの価値がどこから来るか

あなたの価値はどこから来るのでしょうか。

多くの人々は人生の目的を探します。また、彼らは「私の人生には本当に価値があるのだろうか」と問いかけます。

その答えを見つけたいのであれば、それはただ一つの場所にしか見つけられません。しかし、その答えは自分自身の中にはありません。

この箇所では、神様はイスラエル人にそのことを教えられました。

神様がイスラエル人を愛し、彼らにいろいろな祝福を注がれたのに、彼らは神様に背を向けました。そのため、神様はイスラエル人を不倫している妻にたとえられました。

神様は彼らに問いかけられました。

あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れ[たでしょうか。」(エレミヤ書2:5a)

そして、神様はその先祖についてこう言われました。

[彼らは]むなしいものに従って行って、むなしいものとなった。。。(5b)

多くの人々は「私の人生には本当に価値があるでしょうか。私の目的を見つけなければならない」と言います。

そのため、その答えを見つけるためにあちらこちらへ行きます。

けれども、彼らは神様を求めません。むしろ、お金やキャリア、彼や彼女、夫や妻、そして持ち物を追い求めます。

イスラエル人も同じことをしていました。神様は彼らについてこう言われました。

彼らは尋ねもしなかった。『主はどこにおられるのか。。。

祭司たちは、『主はどこにおられるのか』と言わず、律法を取り扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしにそむき、預言者たちはバアルによって預言して、無益なものに従って行った。(6、8)

しかし、私たちがこの世の虚しい物を求めても、自分の価値を見つけることはできません。かえって私たちの価値を失ってしまいます。

私たちの目的を見つけることもできません。かえって私たちの目的を失ってしまいます。

神様はこう言われました。

わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。(13)

この箇所では、二つの罪を見ることができます。

1.湧き水の泉である神様を捨てること。

2.自分の水をためることができない、壊れた水ためを掘ること。

どれほど多くの人々が、お金や持ち物、力、人間関係によって、自分の「水ため」を掘るでしょうか。そして、彼らは一時的な満足を感じますが、結局はまた空っぽだと感じます。

そのため、彼らはさらにこう叫びます。「私の生きる目的は何でしょうか。私の価値はどこから来るのでしょうか。」

けれども、その道を生き続けるならば、神様はこう言われます。

あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。

あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことかを。――万軍の神、主の御告げ――(19)

どうしてでしょうか。命の源を捨てるならば、どうやって命を見つけることができるでしょうか。それは不可能です。他のものは結局、私たちを失望させるからです。

イスラエルはエジプトとの同盟、またアッシリヤとの同盟、さらにその国々の神々を通して、自分の目的と価値を探しました。(18)

しかし、神様はこう言われました。

あなたはアッシリヤによってはずかしめられたと同様に、エジプトによってもはずかしめられる。そこからもあなたは、両手を頭にのせて出て来よう。

主があなたの拠り頼む者を退けるので、あなたは彼らによって栄えることは決してない。(36ー37)

あなたは自分の目的を探しているでしょうか。自分の価値がどこから来るのか知りたいでしょうか。

自分の中ではその答えを見つけることはできません。この世の物によって見つけることもできません。

神様だけが、あなたの目的と価値を示されます。

だから神様を求めましょう。むなしいものに従って行くと、むなしいものとなってしまいます。

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私たちが思うよりも貴い

今日からエレミヤ書を始めます。

エレミヤ書は、少し不思議な書です。つまり、この書は全く年代順に書かれておりません。

エレミヤはヨシヤ王について話し、それから急にゼデキヤ王(ユダの最後の王)について話し、さらにエホヤキム(ヨシヤの息子)について話し、またゼデキヤについて話します。

このブログではいつも通りに、年代順に進めます。そのため、エレミヤ書のあちこちを飛び回ることになります。

この箇所では、神様はエレミヤにこう言われました。

わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。(エレミヤ書1:5)

その時、エレミヤが何歳だったか分かりません。けれども、エレミヤには全く自信がありませんでした。そのため、彼はこう答えました。

ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。(6)

つまり、「私ですか。私はできません。私は若すぎますし、知恵がありません。それに、私はスピーチをするのが苦手です。別の人を呼んだら良いのではないでしょうか。」

しかし、神様はこう答えられました。

まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。

彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ――」

そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。

「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」(7ー10)

神様は何を言われているのでしょうか。

「あなたが思うよりも、あなたは貴い人です。なぜなら、私は、あなたを貴くしたからです。私はあなたの口に私の言葉を入れ、あなたを通してこの世界に影響を与えます。」

多くの人々はエレミヤのように思います。

「私は特別な人ではありません。あまり賢明ではありません。神様が私を呼んでおられるかもしれませんが、そんな資格はありませんし、才能もありません。」

時々、私も自分自身についてそのように思います。

けれども、神様は私たちにこう言われます。

「自分自身を見下さないでください。私はあなたと共にいます。あなたがどのような人であるかは問題ではありません。

大切なのは、私がどのような者であるかということです。そして、私はあなたを用いることができます。あなたを通してこの世に影響を与えます。」

では、私たちはどうすれば良いでしょうか。神様が言われることにただ従うだけです。神様は私たちができないことを命じられることはありません。

そのため、神様はエレミヤに簡単なことを命じられました。

次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」

そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」

すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」(11ー12)

神様は簡単な幻を見せ、簡単な質問をされました。エレミヤが正しく答えたので、神様はこう言われました。

「ほら、できるでしょう。そして、私があなたに与える言葉を、私は必ず実現します。」

エレミヤがその幻を思い出すために、神様はダジャレを使われました。ヘブル語では、「アーモンドの枝」の発音は「見る」の発音に似ています。

そのように、神様は最初に簡単な仕事を私たちに与えられます。そして、私たちが上手になると、もっと大きな仕事を与えられます。

しかし、一番大切なのは、神様がいつも私たちと共におられることです。

神様はエレミヤにこう言われました。

さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、わたしがあなたに命じることをみな語れ。

彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く。

見よ。わたしはきょう、あなたを、全国に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。

だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、――主の御告げ――あなたを救い出すからだ。(17ー19)

神様は私たちに同じようなことを言われます。

「私の仕事のために準備しなさい。立ち上がって、私があなたに命じることを行いなさい。

ある人々はあなたに反対するかもしれませんが、あなたに勝つことはできません。

サタンもあなたを攻撃するかもしれませんが、あなたに勝つことはできません。なぜなら、私はあなたと共におり、あなたを救い出すからです。」

あなたは自分のことをどう思っているでしょうか。弱い者だと感じているでしょうか。取るに足らない者だと思っているでしょうか。価値がない者だと見なしているでしょうか。

しかし、神様の目には、あなたは本当に貴い人です。

神様に従えば、そのことが分かるようになります。神様に従いませんか。