時々、神様に従うことは辛いことがあります。そのような時、人々はよく文句を言います。
「どうして、こんなことが起こるのでしょうか。私にはわかりません。あなたに従ったら、私の人生は上手くいくと思っていましたのに。どうして、あなたはこの試練を許してくださっているのでしょうか。」
エレミヤもそう感じました。もう一度、彼は自分の民から迫害と拒絶の痛みを受けました。ですから、彼の疑いはもう一度浮かび上がりました。
彼はこのように祈りました。
なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は直らず、いえようともしないのでしょう。
あなたは、私にとって、欺く者、当てにならない小川のようになられるのですか。(エレミヤ書15:18)
つまり、「私は苦しんでいます。ご存じないのですか。助けてくださらないのですか。他の人々のように、あなたは私を裏切られるのですか。」
しかし、もう一度、神様はエレミヤの自己憐憫を許されませんでした。むしろ、神様はこう言われました。
もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。
もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。
彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。
わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても、勝てない。
わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。――主の御告げ――
また、わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す。(19ー21)
つまり、「「かわいそうパーティ」を止めなさい。そうすれば、私はあなたを用いることができます。あなたの文句を止めて、私の言葉を伝えなさい。
この民はあなたに影響を与えて、あなたが彼らのようになることを望んでいますが、そうはさせてはいけません。むしろ、あなたが彼らに影響を与えるべきです。
彼らはあなたと戦い、迫害するかもしれませんが、あなたに勝つことはありません。私はあなたを救い出します。だから、自分自身を見ずに、私を見なさい。」
あなたはどうでしょうか。あなたが神様に従い、あなたの状況が辛くなる時、自己憐憫に陥っているのではありませんか。
サタンはそれを見て喜びます。なぜなら、神様にとって、私たちは役に立たなくなるからです。
自分自身に焦点を当てると、神様に焦点を当てられなくなります。また、周りの人々のニーズを見ることもできなくなります。
ですから、自分の問題に焦点を当てないようにしましょう。自分自身に焦点を当てないようにしましょう。
むしろ、
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(へブル12:2ー3)
