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エレミヤ書

後戻り

エレミヤ書43-44章

年代順を守るために、私たちはエレミヤ書の中であっちこっち飛んでいましたが、今日はエレミヤ書の終わりです。

私は少し驚きました。なぜなら、すでに45章から52章までを読んでいたことを忘れていたからです。

実は、エレミヤ書にはもう一つ、エホヤキン王に関する短い記録があります。これがエレミヤについての最後の記述です。

さらに、エレミヤはおそらくエジプトで亡くなったとされているので、私は改めて驚きを覚えました。

43章によれば、エジプトに逃げたユダの人々は、エレミヤを無理やり自分たちと共に行かせました。

そして、ユダヤ人の伝承によると、エレミヤは石打ちにされて亡くなったとされています。

なぜ彼が殺されたのかは分かりませんが、その理由を44章に見ることができるかもしれません。

エレミヤがエジプトに着いたとき、彼はおそらく大きな衝撃を受けたことでしょう。

なぜなら、エルサレムの没落の際、ユダの人々が深く苦しんでいたにもかかわらず、彼らは悔い改めることなく偶像礼拝を続けていたからです。

つまり、彼らは「天の女王」(おそらくアシュトレトという神)を礼拝していたのです。

そこで神様はエレミヤを通してメッセージを伝えられました。

「あなたたちはエルサレムで私に背を向け、さまざまな神々を礼拝したので、エルサレムの没落を目の当たりにしました。

あなたたちは、私が憎むことを数々行いました。私があなたたちに警告したのに、あなたたちは聞き入れませんでした。だから、私は怒りをあなたたちに注ぎました。

あなたたちはそれを見たのに、なぜ自分の家族や友人を滅ぼす罪を犯し続けるのでしょうか。その罪によって、ここでもあなたたちは裁かれるのです。」(エレミヤ書44:1-14)

彼らはどう反応したでしょうか。

「一体何を言っているのですか。私たちが天の女王にいけにえを捧げていた間は、私たちの生活は順調でした。

けれども、そのいけにえをやめたために、私たちの生活はうまくいかなくなりました。だから、再びそのいけにえを捧げ始めたのです。」(エレミヤ書44:15-19)

このユダ人たちの記憶力はかなり悪かったようです。

私は正確には分かりませんが、おそらくヨシヤ王の治世にユダの人々はそのいけにえをやめました。その時、神様はユダ王国を大いに祝福されました。

しかし、ヨシヤが亡くなったあと、ユダの王たちとその民は再び偶像礼拝を始めました。神様は預言者たちを通して何度も警告されましたが、彼らはその警告を聞き入れなかったので、最終的に裁きが下りました。

とはいえ、どうして彼らが偶像を礼拝していたときにユダは時々繁栄を楽しめたのでしょうか。

それはその神々の恵みではなく、神様のあわれみでした。神様はユダ人が悔い改めるのをずっと待っておられましたが、その忍耐が尽きたとき、エルサレムは倒れたのです。(エレミヤ書44:」20-23)

そして神様は、彼らがその罪を犯し続けているので、エジプトでも彼らが裁かれると語られました。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

時々、私たちはクリスチャンになる前の古い人生を思い返し、「良い時間」を思い出します。

私たちはその罪深い人生を振り返って、「そのときは良かった。本当に楽しい日々だった。その頃の人生に戻った方が良い」と考えるかもしれません。

けれども、私たちは二つのことを忘れています。

一つ目は、その「良い日々」は実際にはそれほど良くなかったということです。

なぜなら、私たちは自分の態度や行動によって家族や周囲の人々を傷つけ、その結果、人間関係は崩れてしまったからです。

さらに、自分の悪い選択によって自分自身をも傷つけていました。

二つ目は、そのとき私たちはすでに裁きの下にあったということです。

パウロは私たちについて、こう記しています。

「私たちは」生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ3:2)

そして、もし私たちがその道を歩み続けていたなら、永遠に裁きの下に置かれていたでしょう。

その人生が楽しく思えたとしても、結局、私たちはその罪のゆえに裁かれました。

ユダの人々はそれを忘れ、罪に戻ったので、彼らは裁かれました。

もし私たちが罪に戻るなら、私たちも滅びることになるでしょう。

だからこそ、私たちは古い罪深い人生に戻らないようにすべきです。むしろ、神様が与えてくださった新しい人生を受け入れましょう。

そうすることで、私たちは真に満ち足りた人生を知ることができるのです。

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