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ゼカリヤ書

偽の敬虔

多くの人々は、クリスチャンをその偽善のために批判します。確かに、クリスチャンがその批判に値する時もありますが、そうではない時もあります。しかし、神様は偽善を非常に深刻に考えられるお方です。

この箇所では、バビロンから追放され、イスラエルに戻ってきたユダヤ人たちが、ゼカリヤに質問をしました。

私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。(ゼカリヤ書7:3)

でも、神様はゼカリヤにこう答えられました。

この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。

あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。(5-6)

つまり、「あなたたちはその宗教的な儀式を行いましたが、心からではありませんでした。そのため、それは全く意味のないものとなり、ただのショーに過ぎませんでした。」

英語の「hypocrite」、つまり「偽善者」という言葉はギリシャ語に由来します。ギリシャ語では、「偽善者」という言葉は「舞台俳優」を意味します。

そのユダヤ人たちは俳優のような存在でした。彼らは敬虔な人々のように振る舞いましたが、実際には心からの敬虔さを持っていませんでした。

その結果、神様は彼らに対し、追放前に彼らの先祖に与えられた命令を思い起こさせました。

万軍の主はこう仰せられる。「正しいさばきを行ない、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。」

それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。(9-11)

神様はそのユダヤ人たちに警告されました。「あなたたちの先祖は自分の心を堅くし、その結果として追放されました。」

「呼ばれたときも、彼らは聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない」と万軍の主は仰せられる。(13)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様は私たちの敬虔な儀式に感動されるわけではありません。神様にとって重要なのは、私たちが日々どのように生きるかということです。

私たちはどのように周りの人々を扱うでしょうか。彼らに憐れみを与えているでしょうか。正義を求めているでしょうか。

3年ほど前、私は「アメイジング・グレイス」という映画を観ました。この映画は、ウィリアム・ウィルバーフォースについての物語です。彼はイギリスで奴隷貿易を廃止するために戦いました。

ウィルバーフォースが奴隷に情けを示したように、私たちも周りの人々に憐れみを示すべきです。それが神様の望みです。

私たちはウィルバーフォースのように全国的な影響を与えることはできないかもしれません。しかし、私たちは周りの人々に影響を与えることができます。家庭でも、職場でも、近所でも、私たちは人々に影響を与えられます。

周りの人々は私たちの中にキリストの憐れみを見ているでしょうか。それが神様の望みです。もしキリストの体である私たちが、周りの人々に愛と憐れみを示すなら、この世界全体が変わるでしょう。

だから、偽善者にならないようにしましょう。ただ教会に行き、聖書を読み、祈るだけではなく、神様の愛と憐れみで私たちの心を満たしましょう。そして、私たちはキリストのために、この世の人々に触れましょう。

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ゼカリヤ書

再びこの世に来られる方

私が好きな歌の一つは、ダラス・ホルムの「Rise Again(よみがえる)」という歌です。この歌は、十字架のイエス様の言葉を想像しています。そして、イエス様が死からよみがえられた後、この歌の中で、イエス様はこう言われます。

どうぞ、私がもう死んだと言ってみてください。
しかし、あなたが間違っていることが分かるでしょう。

どうぞ、私を隠そうとしてみてください。
しかし、結局、この世のすべての人々が、私が救い主であることを知ることになります。

なぜなら、私はこの世に戻るからです。
私が戻ってくるのを止めることができる者は、誰もいません。

私はこの世に戻ります。 私の民を取り戻すために、私は戻ります。

この聖書の箇所は、キリストの再臨について記されています。1〜8節には、神様がこの世の国々とその民を裁かれることが書かれています。

この箇所を黙示録6章と比較すると、おそらく白い馬は戦争を表し、赤い馬は暴力と流血を象徴し、黒い馬は飢饉と死を表しています。また、まだら毛の馬は、黙示録に登場する青ざめた馬と同様に死病を象徴している可能性があります。

これは非常に恐ろしい光景ですが、それでも神様は全てをコントロールされています。あなたは、私たちがその災いをすでに経験していると思うかもしれません。けれども、実際、神様はまだ完全な裁きを注いでいないのです。

しかし、ある日、神様はご自身の怒りのすべてをこの世に注がれます。その時、これまで誰も知らなかったような苦しみがこの世に訪れるのです。

その後、イエス様がこの世に戻られます。この箇所では、大祭司ヨシュアがイエス様を象徴しています。(以前述べたように、「ヨシュア」という名前はギリシャ語で「イエス」を意味します。)

ゼカリヤはヨシュアのために冠を作り、その頭にかぶらせました。その時、ゼカリヤはヨシュアが象徴する救い主について預言しました。

ヨシュアは大祭司でした。一方で、ゼルバベルはダビデの子孫でしたが、王ではなく総督でした。しかし、将来現れる救い主は、王であり、同時に大祭司でもあるのです。

ゼカリヤはこう言いました。

彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。(11)

多分、この宮はヨシュアとゼルバベルが建てた宮ではなく、むしろエゼキエル書40~43章に記されている宮でしょう。その時、イエス様は完全な王であり、大祭司となられます。

先に進む前に、少し説明しなくてはならないことがあります。聖書の翻訳は非常に難しく、この箇所ではヘブル語の意味が微妙です。

例えば、ヘブル語の11節では「二」と記されています。この「二」が、「二人」を指すのか、「二つの任務」、つまり「王と大祭司の任務」を指すのか解釈が分かれるのです。

ある英語訳では、「the counsel of peace will be between the two offices」(二つの任務の間に平和の一致がある)と訳されています。

一方、日本語訳では、「このふたりの間には平和の一致がある。」とされています。(実際、日本語訳に近い英語訳もあります。)

これらの解釈の違いは、さらに他の箇所の翻訳にも影響を与えています。日本語訳では、「その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいる」と訳されていますが、英語訳では、「he will be a priest on his throne」(彼は祭司であって、王座にいる)とされています。

したがって、日本語訳を読むと、大祭司と王は別々の人物であるかのように感じられますが、英語訳では、大祭司と王が同一人物であることが示唆されています。

明確にしておきたいのは、英語訳も日本語訳もヘブル語に忠実であることです。とはいえ、神様が与えられたビジョンを考慮すると、多分英語訳がより適切かもしれません。

例えば、祭司ヨシュアが王の冠を受け取ったことは、この箇所の重要な象徴です。また、聖書の他の箇所からも、イエス様が王であるだけでなく、大祭司でもあることが明らかにされています。

さて、この箇所から私たちは何を学べるのでしょうか。それは、どんな状況にあっても私たちには希望があるということです。

私たちの世界には多くの問題があります。政治家に目を向けても、彼らを完全に信頼することは難しいです。アメリカでは「正直な政治家」という言葉が矛盾しているかのように感じられています。(日本人はどう思うでしょうか。)

さらに、スキャンダルの影響でクリスチャンのリーダーたちも評判を失うことがあります。

けれども、イエス様が再び戻られる時、この世を正義によって支配し、イエス様の清さはすべての人々に明らかにされます。そして、イエス様を通して、私たちは天の父なる神様の御性質を知ることができるのです。

ですから、戦争や病気、飢饉、天災を見るとき、失望しないでください。神様がすべてを支配しておられるからです。

また、腐敗した政治家や霊的に堕落したリーダーを見るときも、がっかりしないでください。イエス様は必ずこの世に戻って来られるのです。

だからこそ、イエス様に焦点を当ててください。他のものに焦点を当てると、私たちはすぐに失望してしまいます。しかし、イエス様に焦点を当て続ければ、希望は決して奪われることはありません。

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ゼカリヤ書

全ての悪を清める

この箇所では、ゼカリヤは再び幻を見ました。その幻は、イスラエルの罪が清められることを示しています。

最初の幻の中で、ゼカリヤは空を飛んでいる巻き物を見ました。その巻き物の両面には呪いが書かれていました。

一つ目の呪いは盗む者に対するものでした。

二つ目の呪いは偽って誓う者に対するものでした。

この巻き物は、十戒のうちの二つの命令を象徴していますが、おそらくその二つの命令は十戒全体を表しているのです。ヤコブはこう言いました。

律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。(ヤコブ2:10)

おそらく、イスラエル人はその二つの罪において、特に罪深い人々だったのかもしれません。もしくは、その二つの罪にはもっと広い意味があったのでしょう。

つまり、彼らは隣人を傷つける(盗むこと)、そして神様の聖さを侮る(神様の名前によって偽って誓うこと)という行為をしたのです。

この幻については、二つのことに注目する必要があります。

一つ目は、その巻物の大きさです。その巻物は非常に大きく(長さは約9メートル、幅は約4.5メートル)、誰も「裁きが来ていることを知らなかった」と言い逃れることはできませんでした。

誰でもその巻物を読むことができたのです。

二つ目は、その裁きが確実なものであるということです。神様はこう言われました。

わたしが、それ(つまり、呪い)を出て行かせる。――万軍の主の御告げ――それは、盗人の家に入り、また、わたしの名を使って偽りの誓いを立てる者の家に入り、その家の真ん中にとどまり、その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす。(ゼカリヤ書5:4)

そして、ゼカリヤは別の幻を見ました。それは、穀物のための枡でした。

しかし、その枡の中には穀物ではなく、イスラエル人の罪がありました。そして、その枡の中には女の人が座っており、その女の人は罪の原因を象徴していました。

なぜ女の人なのでしょうか。一つの考えとして、イスラエル人が周囲の国々の女神を礼拝していたことが挙げられます。または、イスラエルの男性たちが偶像礼拝する女性と結婚していた可能性もあります。(マラキ2:11-12、エズラ9章)

いずれにしても、天使はその女の人を枡の中に閉じ込めました。そして、二人の女性がその枡をシヌアル(バビロン)に運びました。これは、バビロン人がその女の人を喜んで受け入れるからです。

私たちはこの幻から何を学べるでしょうか。一つ目は、神様が悪に対処する日が必ず来るということです。サタンは可能な限り神様と戦おうとしますが、最終的には打ち負かされます。

二つ目は、私たちは自分の中にある罪を清める必要があるということです。

神様は、罪に対するご自身の感情をはっきりと示されました。そして、神様は裁きが来ることを明確に警告されました。私たちは「知らなかった」と言い訳することはできません。

だから、パウロはこう言いました。

いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(第二コリント7:1)

もちろんバランスが必要です。つまり、自分自身の努力だけで自分を清めることは不可能です。しかし、神様は私たちが聖なる人生を生きるために必要な力を与えてくださいます。(第二ペテロ1:3-4)

そして、神様がイスラエルから悪を取り除かれたように、私たちが神様に従うなら、神様は私たちの人生から罪を取り除いてくださいます。

だからパウロはこう書きました。

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。

主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(第一テサロニケ5:23-24)

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ゼカリヤ書

神様の働きを成し遂げるために満たされた

私がゼカリヤ書を読めば読むほど、ますます好きになります。この箇所も、私たちにとって深い意味があります。

その時、ユダヤ人たちは主の宮を再建していた最中でしたが、まだ反対に直面していました。彼らは、ダリヨス王がその再建に許可を出せるかどうかまだ分かりませんでした。だから、総督ゼルバベルは失望していたかもしれません。

しかし、神様はゼカリヤに金の燭台を示されました。その燭台は宮の燭台のようでしたが、一つ違いがありました。大祭司はいつもその燭台に油を注ぎ続けなければなりませんでした。

けれども、ゼカリヤの幻では、二本のオリーブの木がその燭台を満たしていました。

そして、天使はゼカリヤにこのメッセージを伝えました。

「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。

大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」

ついで私に次のような主のことばがあった。「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。(ゼカリヤ書4:6-9)

つまり、「心配しないでください。あなた自身の力や周りの人々の力によってこの宮を完成させるのではありません。むしろ、あなたを通して働いている聖霊によって、この宮の再建は完了するのです。

どんな大きな障害に遭遇しても、その山はあなたの前で平らになります。そして、その宮のかしら石を運び出すとき、あなたは私の恵みによってこの宮が完成したことを知るでしょう。」

その宮の再建が遅れ、またソロモンの宮と比べると、新しい宮が美しくなかったために、失望する人もいました。けれども、神様は彼らにこう言われました。

だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主の目である。(10)

つまり、「あなたの目には、あなたが成したことが小さく見えるかもしれません。

しかし、小さな一歩を軽んじてはいけません。また、私があなたに小さい仕事を与えても、その仕事を軽んじてはいけません。

なぜなら、私の民がその仕事をするとき、私はそれを喜び、あなたに報いを与えるからです。」

そして、天使は金の燭台とオリーブの木について説明しました。ゼカリヤがその意味、特にオリーブの二本の枝の意味について尋ねたとき、その天使は答えました。

これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。(14)

つまり、大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルのことです。神様はその宮を完成させるために、彼らを自分のしもべとして選ばれました。

けれども、一番重要なのは、油が御霊のシンボルであるということです。そして、御霊は私たちを通して神様の働きを成し遂げるために注がれます。御霊は私たちを通じて周りの人々に触れ、その人々に影響を与えるのです。

そのため、神様の御心は私たち自身の力によって成就するのではなく、私たちを通して働かれる御霊によって成就します。

ですから、小さなことを軽んじずに神様の働きをしましょう。神様は御霊によって私たちを満たし、私たちを通して流れることで、この世に影響を与えることができます。

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ゼカリヤ書

非難されるところのない者

旧約聖書のこの箇所は、本当に心に残る箇所です。なぜなら、クリスチャンにとっても深い意味を持つからです。

ここでは、大祭司ヨシュア(ヨシュア記のヨシュアとは別人)が主の前に立っていました。

けれども、サタンは彼を激しく責め立てていました。おそらく、サタンの批判は正当なものであったかもしれません。なぜなら、ヨシュアの服は罪によって汚れていたからです。

しかし、主はこう言われました。

サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。(ゼカリヤ書3:2)

2節は本当に興味深いです。「主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。」」

もしかすると、ヨシュアの前に立っている御使いはイエス様その方かもしれません。

いずれにしても、主はサタンをとがめられました。「私はこの人を救いました。どうして、あなたはこの人を責めるのか。」

その後、御使いは自分の前に立っている者たちにこう命じました。

彼のよごれた服を脱がせよ。(ゼカリヤ書3:4)

そのあと、彼はヨシュアにこう言いました。

見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。(ゼカリヤ書3:4)

そして、その御使いはヨシュアをさとして言いました。

万軍の主はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。

わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。(ゼカリヤ書3:7)

神様はヨシュアに「先に自分自身をきれいにしなさい。それができれば、私に仕えなさい」とは言われませんでした。

むしろ、神様はこう言われました。

「私はもうあなたをきれいにしました。だから、私に仕えなさい。そうすれば、私の祭司として仕え続けることができ、あなたは私の宮に自由に入って、私のもとに近づくことができます。」

最後に、少し興味深い皮肉があります。神様はヨシュアに将来の「ヨシュア」について話されました。

つまり、イエス様について語られたのです。(「ヨシュア」という名前は、ギリシャ語で「イエス」と訳されます。)

次のヨシュアは神様の知恵を備えています(「一つの石の上に七つの目」という表現がそれを指します)。そして、イスラエルの罪を一日のうちに取り除かれるのです。

イエス様が再びこの世に戻るとき、彼はすべてを治め、ついに私たちは平和を知るのです。(ゼカリヤ書3:8-10)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちは、かつてヨシュアのように罪によって汚れた者として神様の前に立ちました。しかし、私たちがイエス様を信じたとき、イエス様は私たちの弁護士となり、私たちを擁護してサタンをとがめられるのです。

さらに、イエス様は私たちの汚れた服を取り除き、彼の義の衣を私たちに着せてくださいました。

なぜでしょうか。それは私たちが良い行動をしたからでしょうか。いいえ、違います。それはイエス様の十字架での働きによってのみ可能になったのです。

今や、きれいにされた者として、私たちは神様に従い、神様の祭司として仕えるべきです。そして、私たちは他の聖徒たちと共に、自由に神様のもとに近づけるという素晴らしい恵みを知るのです。

パウロはこう書きました。

あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。

それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。

この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。(コロサイ1:21-23)

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ゼカリヤ書

私たちを取り巻く火の城壁、私たちの内にある栄光

神様はこのメッセージ、そしてその後のすべてのメッセージを、主の宮の再建が進む間にゼカリヤに伝えられました。

ゼカリヤは不思議な幻を見ました。一人の人が赤い馬に乗っていました。その後ろには赤い馬、栗毛の馬、そして白い馬がいました。彼らは地を行き巡り、世の状態を観察しました。彼らは何を見たのでしょうか。

私たちは地を行き巡りましたが、まさに、全地は安らかで、穏やかでした。(ゼカリヤ書1:11)

イスラエル人がその言葉を聞いたら、驚いたことでしょう。なぜなら、神様が国々を揺り動かすと明言されたからです。

そのため、天使はこう問いかけました。

万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、七十年になります。(1:12)

神様はその天使、そしてイスラエルの民に慰めの言葉を言われました。具体的には、神様がイスラエルの民を祝福し、主の宮が再建され、イスラエルの町々が再び繁栄するという約束です。(1:13-17)

また、神様はイスラエルを征服した国々を裁くことを約束されました。神様は次のように言われました。

わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。

しかし、安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行なった。(1:14-15)

18-20節では、神様はイスラエルを攻撃し、イスラエル人を散らした「角」(つまり、国々)を打倒されると約束されています。

おそらく、その「角」とはアッシリア、エジプト、バビロン、そしてペルシアを指しているのでしょう。

けれども、2章の内容は本当に心に響きます。神様がイスラエルの復活について語られる箇所だからです。イスラエルはもう一度繁栄するので、

エルサレムは、その中の多くの人と家畜のため、城壁のない町とされよう。(2:4)

それだけではなく、神様はこう言われました。

しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。――主の御告げ――わたしがその中の栄光となる。。。あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。(2:5,8)

また、

シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。――主の御告げ――(2:10)

この言葉は本当に素晴らしいです。神様は私たちを取り巻く火の城壁であり、私たちの盾であり防衛です。神様は私たちを攻撃する者と戦ってくださいます。

そして、神様は私たちの内にある栄光です。聖霊様は私たちの心に住み、私たちを通して輝いてくださいます。

ダビデはこう歌いました。

しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。(詩編3:3)

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ハガイ書

全てが揺り動かされるのに

この箇所では、ハガイはユダの総督ゼルバベルを励まします。

おそらく、ゼルバベルはエルサレムとその宮の再建に反対する人々を目にして、深く失望していたかもしれません。けれども、神様は彼にこう言われました。

ユダの総督ゼルバベルに次のように言え。

わたしは天と地とを揺り動かし、もろもろの王国の王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる。(ハガイ書2:21-22)

つまり、「ゼルバベル、今あなたは自分の状況が辛いと感じているかもしれません。しかし、私は天と地を揺り動かします。そして、私は王国とその力を滅ぼします。」

そして、神様はこう言われました。

その日、――万軍の主の御告げ――シェアルティエルの子、わたしのしもべゼルバベルよ、わたしはあなたを選び取る。――主の御告げ――

わたしはあなたを印形のようにする。わたしがあなたを選んだからだ。――万軍の主の御告げ――」(23)

その時代、王たちは認印付きの指輪を持っていました。その指輪は王の権威を象徴するシンボルでした。そのため、大切な書類に署名するとき、その指輪を使用していました。

神様がゼルバベルに言われたのは、「王国の王座を覆し、王の力を滅ぼす。しかし、私は私の民のために、私の権威のシンボルとしてあなたを選んだ」ということです。

短期的には、ゼルバベルを通して神様はご自身の民を導き、主の宮を再建し、彼らの人生も復活させました。

長期的には、ゼルバベルの家系を通してメシヤであるイエス様がこの世に来られました。

イエス様の復活の後、弟子たちにこう言われました。

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(マタイ28:18)

どうしてそれが大切なのでしょうか。それは、神様がゼルバベルをご自身のしもべとして呼ばれたように、私たちも選ばれ、呼ばれたからです。では、私たちは何のために選ばれ、呼ばれたのでしょうか。

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。(マタイ28:19-20)

この世は戦争や混乱、闘争によって揺り動かされています。そして、私たちの状況はさらに悪化する可能性があります。けれども、すべてが揺り動かされたとしても、将来を恐れないようにしましょう。

すべての権威がイエス様に与えられていることを覚え、イエス様が私たちに命じられたように従いましょう。イエス様の再臨まで、福音を伝え、弟子を作り続けましょう。

イエス様はこう約束されました。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20b)

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エズラ記

私たちが神様に専念すると

イスラエル人は長い間主の宮の再建に専念しませんでした。しかし、ゼカリヤとハガイの励ましによって、彼らはもう一度再建を始めました。

ところが、再建を始めると、再び反対が来ました。総督タテナイとシェタル・ボズナイ(おそらく彼は調査官のような役割の人物でした)は、ユダヤ人に尋ねました。

だれがあなたがたに命令を下して、この宮を建て、この城壁を修復させようとしたのか。。。この建物を建てている者たちの名は何というのか。(エズラ記5:3-4)

彼らがユダヤ人の答えを聞いた後、ダリヨス王に手紙を送りました。

その結果はどうだったでしょうか?ダリヨス王はクロス王の命令を見つけました。つまり、クロス王はユダヤ人が主の宮を再建することを許しました。だから、ダリヨスはタテナイとシェタル・ボズナイにこう命じました。

この神の宮の工事をそのままやらせておけ。ユダヤ人の総督とユダヤ人の長老たちにこの神の宮をもとの所に建てさせよ。(6:7)

それだけでなく、ダリヨス王の命令によって、タテナイとシェタル・ボズナイはその再建のために費用を負担しなければならなかったし、宮の捧げ物のためにさまざまなものをユダヤ人に与えなければなりませんでした。

神様がそのように働かれたことは、素晴らしいと思います。ユダヤ人に反対した人々は、結局ユダヤ人を手伝わなければなりませんでした。

さらに、この話からもう一つのことを学ぶことができます。

もし神様がご自身の仕事をするために私たちを呼び、私たちがその仕事に専念するなら、その仕事を完成するために神様は私たちのすべての必要を与えてくださいます。

そして、もし反対する人々が来るなら、神様はその状況の中で働かれ、その仕事は必ず完成されます。

だから、私たちは自分自身に一つの質問をするべきです。

「私は神様の仕事にどれほど専念しているのだろうか。」

私たちの状況が大変になったら、私たちはすぐに諦めるでしょうか。それとも、お金や持ち物や私たちの欲望を求めるために、神様の仕事を忘れるでしょうか。

神様は素晴らしいプランを持っておられ、私たちがそのプランに参加するように呼んでおられます。あなたはどれぐらいそのプランに対して応え、専念しているでしょうか。

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ハガイ書

不潔と聖さの違い

ゼカリヤのメッセージの後、ハガイは次のメッセージを伝えました。そして彼は、不潔と聖さの違いを説明しました。

まず、この背景について説明します。モーセの律法によれば、祭壇が油で注がれると、それは聖なるものとされました。また、その祭壇に触れた物も聖なるものとされます。(出エジプト記29:37)

この箇所で、ハガイはこう問いかけました。「聖さは間接的に移すことができるでしょうか。」(ハガイ書1:10-12)

例えば、牛肉が祭壇に触れると、その肉は聖なるものとなります。しかし、その聖なる肉を持ち帰り、その肉が別の食べ物に触れたとしても、その触れられた食べ物が聖なるものになるでしょうか。それは違います。

つまり、聖さは間接的に移すことはできません。単に教会に入るだけで聖くなるわけではありません。敬虔な人と交わるだけでも、聖さが移ることはありません。

イスラエルの歴史においても、預言者たちの聖さがイスラエルの民に移ることはありませんでした。また、彼らが幕屋や宮に行っていけにえを捧げても、帰ると酷い罪を犯すことがありました。

一方、不潔は容易に移ります。例えば、死体に触れた者は汚れるとされました。そして、その汚れた者が触れた物も汚れてしまいます。(民数記19:11-22)

そして、神様はこう言われました。

わたしにとっては、この民はそのようなものだ。この国もそのようである。――主の御告げ――

彼らの手で作ったすべての物もそのようだ。彼らがそこにささげる物、それは汚れている。(ハガイ書2:14)

どうして彼らは汚れたのでしょうか。それは、彼らの態度が悪かったからです。彼らは自分の心の王座から神様を追い出し、自分自身がその座につきました。

その態度が彼らの間に広がった結果、宮の再建を止めてしまいました。代わりに、自分の家と生活に集中してしまったのです。

こうして、主の宮は長い間、廃墟のままとなっていました。

その不潔な態度は、彼らのすべての行動に悪影響を及ぼしました。彼らの行動は神様の目には不潔なものと映りました。たとえ宗教的な行為をしても、それは神様の目には不潔なものでした。

だから、神様は彼らにこう警告されました。「あなたの人生をよく考えなさい。あなたの態度が悪く、私の宮を無視したため、あなたの人生はうまくいっていない。しかし今、あなたは悔い改め、態度を改めたので、

きょうから後、わたしは祝福しよう。(19)

私たちが学ぶべきことは、罪の種や不潔な種が私たちの心に根付かないようにすることです。もしそのような種が心に根付いてしまうと、イスラエルの民のように、その罪は私たちの人生全体に広がり、行動を汚してしまいます。

パウロはこう書きました。

あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。

新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。(第一コリント5:6-7)

主よ、どうか私の人生から罪というパン種を取り除いてください。私の心に罪が広がらないよう守ってください。その罪が、私があなたに仕えるミニストリーに影響を及ぼさないように。むしろ、私をあなたの聖さで満たしてください。

私たちのすべての行動が、あなたの目にかなうものとなりますように。アーメン。

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ゼカリヤ書

私たちの過去から学ぶ

ゼカリヤとハガイのミニストリーは同じ時期に始まりました。そして、彼らは力を合わせて、イスラエル人が主の宮を再建するよう励ましました。ゼカリヤは預言者であるだけでなく、祭司でもありました。

ところで、「ダリヨスの第二年の第八の月に」と記されていますが、このダリヨスはダニエル書に登場するダリヨスではありません。このダリヨスはダレイオス1世、すなわちエズラ書に出てくるダリヨスです。

(聖書では、名前の書き方が時々異なることがあります。それはおそらく、元々ヘブル語で書かれていたためでしょう。)

さて、ゼカリヤが自らのミニストリーを始めたとき、彼はイスラエルの人々に自分たちの歴史を振り返らせました。そして彼はこう語りました。

主はあなたがたの先祖たちを激しく怒られた。あなたは、彼らに言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしに帰れ。――万軍の主の御告げ――

そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主は仰せられる。

あなたがたの先祖たちのようであってはならない。

先の預言者たちが彼らに叫んで、「万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの悪の道から立ち返り、あなたがたの悪いわざを悔い改めよ」と言ったのに、彼らはわたしに聞き従わず、わたしに耳を傾けもしなかった。――主の御告げ――

あなたがたの先祖たちは今、どこにいるのか。預言者たちは永遠に生きているだろうか。しかし、わたしのしもべ、預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばとおきてとは、あなたがたの先祖たちに追い迫ったではないか。

そこで彼らは立ち返って言った。「万軍の主は、私たちの行ないとわざに応じて、私たちにしようと考えられたとおりを、私たちにされた」と。(ゼカリヤ書1:1-6)

神様は何度もイスラエルの先祖に、「悔い改めなさい。私のもとに戻りなさい」と語られました。

けれども、彼らは神様を無視しました。彼らは預言者たちの言葉を無駄な言葉だと思い込んでいましたが、ついに裁きが訪れました。その後、彼らはようやく悔い改めたのです。

そこで、神様はこう言われました。

「あなたの過去から学びなさい。私があなたの先祖に警告した時、私の言葉は決して無駄ではなかった。今でも、私の言葉は無駄ではない。悔い改めなさい。さもなければ、再び裁きが訪れるでしょう。」

神様は私たちにも同じことを語られます。私たちすべてが罪を犯します。しかし、あなたは自分の過ちから学んでいるでしょうか。それとも、自分を滅ぼす罪を繰り返しているでしょうか。

私たちの過ちを繰り返さないようにしましょう。むしろ、賢明な道を歩み、悔い改めて、神様の恵みの中で生きましょう。

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ハガイ書

私たちの栄光がどこから来るか

以前のブログでも触れましたが、ソロモンの宮を目にした世代は、新しい宮の礎が据えられるのを見た時、涙を流しました。なぜなら、ソロモンの宮の栄光は、新しい宮の栄光よりもはるかに素晴らしかったからです。

さらに、ユダの民がその働きを再び始めた時、同じ世代は再び泣き始めました。そこで、預言者ハガイは彼らを励ましたのです

あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。

しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ――

エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ――

仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ――

あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。(ハガイ書2:3ー5)

つまり、「失望しないでください。この宮について落胆しないでください。また、反対に直面する時も、気落ちしないでください。私があなたと共にいるからです。働き続け、私の宮を建てなさい。

あなたをエジプトから救い出した時、私は多くの約束をしました。その約束は決して変わりません。私はあなたをここまで導いた神です。私は変わらず、私の霊もあなたと共にいます。」

そして、神様はこう言われました。

まことに、万軍の主はこう仰せられる。

しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。

万軍の主は仰せられる。銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ――

この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。――万軍の主の御告げ――」(6ー9)

これはメシヤ、つまりイエス様についての預言です。イエス様が来られる前、神様はすべての国々を揺り動かされました。すなわち、さまざまな帝国が繁栄したり衰退したりしました。

そして、すべての国々の宝であるイエス様が来られました。イエス様はその宮に入り、ご自身の栄光でその宮を満たされました。神様が人間として来られ、福音を述べ伝え、多くの奇跡を行われたのです。

そのイスラエルの年配の人々の考え方には誤りがありました。彼らは、宮の外見にばかり注目し、宮の栄光がその建材や装飾から来ていると考えたのです。

けれども、ソロモンの宮がいくら美しかったとしても、その栄光は銀や金、あるいは他の素材から来たものではありませんでした。その栄光は神様の臨在から来たのです。神様がその宮に来られたからこそ、その宮に栄光がありました。

確かに、ソロモンの宮は新しい宮よりも美しかったかもしれません。しかし、神様は人間としてその宮に入られることはありませんでした。一方、新しい宮にはイエス様が入られた時、その宮はさらに素晴らしい栄光を受けたのです。

同じように、私たちも自分の「宮」、つまり人生を見て、他の「宮」と比べると、がっかりすることがあるかもしれません。ほかの人が自分よりもハンサムだったり美人だったり、あるいは才能が豊かだったりするように見えることがあります。

けれども、あなたの栄光は外見や才能から来るものではありません。あなたの栄光は、あなたの心に住まわれるイエス様から来るのです。

ですから、他の人々と自分自身を比べないでください。そして、周りの人々があなたの神様への従順に反対するときにも、失望しないでください。強く、雄々しくありなさい。恐れることなく、神様があなたに与えられた働きを成し遂げなさい。

あなたをサタンの国から救い出し、奴隷の人生から解放された神様は、あなたと共におられ、決してあなたを見捨てられません。そして、神様は毎日ご自身のご計画の中で、あなたをますます素晴らしい宮へと変えてくださいます。

パウロはこう書きました。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

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エズラ記 ハガイ書

優先順位を正しくする

以前言ったように、エズラ記の年代順は少し複雑です。もし私がその年代順を正確に理解できているならば、おそらくエズラ記4:1-5の後に記されている4:6-23の出来事は、すぐに起こったわけではないでしょう。

さらに、エズラ記7章から最後までの出来事は、4:6-23の前に起こったと考えられます。

そして、ネヘミヤ記の出来事は、エズラ記4章の後に起こりました。

少し混乱するかもしれませんが、心配しないでください。このブログを読み進めることで、徐々に理解が深まるでしょう。🙂

では、もし6-23節の出来事が1-5節の後にすぐ起こったわけではないのなら、なぜそのように記されているのでしょうか。

その理由は、記述が共通のテーマに基づいているからかもしれません。すなわち、ユダの民が城壁、その礎、そして宮を再建する際に直面した反対に焦点を当てているのです。

いずれにせよ、その反対のために彼らは宮の再建を中断しました。(エズラ記4:1-5)

しかし、ハガイ書によれば、宮の再建が中断された理由はもう一つありました。それは、ユダの民にとって、主の宮を再建することが必ずしも最優先事項ではなかったということです。

そこで、預言者ハガイは彼らにこう言いました。

「万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。」

ついで預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。」(ハガイ1:2-4)

つまり、彼らは自分自身の生活を優先するあまり、主の宮を顧みませんでした。

私たちも同じようなことをしているのではないでしょうか。私たちの霊的な生活や神様との関係が重要ですが、時には家計や仕事、家族のことをさらに重要視してしまうことがあります。

もちろん、これらは非常に大切なものです。しかし、もしそれらを神様よりも優先してしまうなら、私たちは罪を犯しているのです。

神様はユダの民にこう言われました。

今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。

あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。

かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。(ハガイ1:5-6)

なぜ彼らの状態がそのようになってしまったのでしょうか。それは、彼らの優先順位が完全に狂っていたからです。彼らが神様を顧みず無視したため、神様はもはや彼らを祝福されませんでした。そこで、神様は彼らにこうこう言われました。

万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。

そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。(ハガイ1:7-8)

神様は私たちに同じことを語られています。

「あなたの現状をよく考えなさい。あなたの神様との関係を最優先にしなさい。神様とその御国を何よりも大切にしなさい。そうすれば、あなたは神様の祝福を知ることができるでしょう。」

イエス様はこう言われました。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

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ダニエル書3

思慮深い人

多くの人々にとって、特に聖書を信じない人々にとって、この箇所は最も信じがたい部分かもしれません。それは、この預言が非常に具体的であり、すべてが成就されたからです。つまり、ダニエルはペルシャ帝国とギリシャ帝国の将来について語っています。

まず、クロス王の後に続く3人のペルシャの王について言及します。それはカンビュセス2世、ガウマタ、そしてダリヨスです(ここでのダリヨスはダニエル書のダリヨスではなく、エズラ記6章に出てくるダリヨスです)。

ダリヨスの息子はアハシュエロス(クセルクセス1世)であり、エズラ記とエステル記に登場するアハシュエロスです。

アハシュエロスは他のペルシャの王よりも裕福でした。その理由は、莫大な税金を徴収し、多くの国を征服したからです。彼はギリシャを攻撃し、最初は成功を収めましたが、最終的にはその海軍が敗北を喫しました。

その後、彼の軍隊もプラタイアの戦いで敗北を喫しました。(ダニエル書11:2)

その後、ギリシャでアレクサンダー大王(つまり、アレクサンドロス3世)が王となりました。けれども、彼の死後、その帝国は4つに分割されました。ただし、アレクサンダーの子孫が支配していたわけではありません。むしろ、アレクサンダーの4人の将軍がそれらを治めました。(ダニエル書11:3-4)

さらにダニエルは具体的に、ギリシャで何が起こるかを預言します。彼はプトレマイオス1世とアンティオコス2世の時代から、プトレマイオス12世とアンティオコス4世の時代まで預言しています。(ダニエル書11:5-34)

歴史的な本を読めば、その預言がどのように成就されたかがよく分かるでしょう。あるいは、ウィキペディアにも関連した情報があるかもしれません。

いずれにせよ、ダニエル書11:36から最後までは、ダニエルが終わりの日と反キリストについて預言している箇所です。反キリストは他の神々を礼拝せず、「すべてにまさって自分を大きいものとする」とあります。(ダニエル書11:37)

おそらく、彼は「私は神である」と主張するのかもしれません。

また、彼は「砦の神」を崇めると記されています。つまり、力の神、あるいは戦争の神を崇めることを意味しています。この反キリストは力を好み、戦争を始める者であることを示唆しています。そして、イエス様が再臨されるまで反キリストは支配を続けます。

その時代には多くの困難が起こりますが、神様はご自身の民を救い出し、終わりの日の復活の時に、神様を愛する者は復活して永遠に生きます。

しかし、神様を憎み逆らう者はそしりと永遠の忌みを受けることになります。(ダニエル書12:1-3)

私たちは何を学ぶべきでしょうか。

ダニエル書11:33-35では、アンティオコス4世とマカバイ戦争について言及されています。その時、ユダヤ人は迫害されましたが、ダニエルはそのユダヤ人について次のように記しています。

民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。

彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧言を使って思慮深い人につく。

思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである。(ダニエル書11:33-35)

神様はご自身の民が決して苦しまないとは約束されませんでした。むしろ、思慮深い人たちが周囲の人々に神様の方法を教えるために、「彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる」と記されています。

しかし、その苦しみの中には、神様のご計画があります。つまり、その試練を通して、「彼らを練り、清め、白くする」とされています。

そして、12章によれば、彼らは苦難の時代から救い出され、復活します。その時、

思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。(12:3)

そして、ダニエルはこう書きました。

多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。(12:10)

そして、天使はダニエルにこう言いました。

あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。(13)

この箇所を読むと、希望に満たされます。たしかに、戦争は起こり、将来には様々な困難や試練が訪れます。

けれども、それらを通して、神様は私たちを清め、白くし、練り上げてくださいます。そして、終わりの日の復活において、私たちを救い出してくださった神様の御前で、私たちは星のように輝くのです。

だからこそ、私たちは思慮深い人になるよう努めましょう。毎日神様を求め、周囲の人々を神様のもとへ導きましょう。

そうすれば、ダニエルのように、私たちは休みを得た後に復活し、自分の割り当てられた地に立つことができるでしょう。

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ダニエル書3

戦い

私が高校生だった頃、天使と悪魔について描かれたフィクションの本を読んだことがあります。その時、私は目に見えない霊的な戦いについて深く考え、祈りの重要性を実感するようになりました。

おそらく、その著者がその作品を書いた時、この箇所を思い浮かべていたのかもしれません。なぜなら、聖書のこの箇所で初めて、霊的な戦いについて明確に描かれているからです。

この箇所の冒頭には、ダニエルが3週間の喪に服していたと記されています。彼が何に悩んでいたのかははっきりしません。

もしかすると、彼はエルサレム再建にまつわる問題を聞いて心を痛めていたのかもしれません。

または、ユダヤ人が神様を敬うことを忘れ、自分のことだけを考えているという話を聞いていたのかもしれません。(預言者ハガイが彼らのその態度を批判しています。)

いずれにせよ、ダニエルは断食し、神様の御心を求めていました。けれども、約3週間もの間、ダニエルは何の答えも受け取ることがありませんでした。

私たちも同じように感じることがあるのではないでしょうか。困難に直面し、神様の御心を求めても、神様が私たちを無視しているように思えることがあります。

しかし、本当に神様はダニエルを無視していたのでしょうか。違います。ある日、天使が現れました。そして、彼はダニエルにこう言いました。

恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。

ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき[た]。(ダニエル書10:12-13)

その天使は、ダニエルを強め、そのメッセージを聞く準備を整えさせてから、こう言いました。

私が、なぜあなたのところに来たかを知っているか。今は、ペルシヤの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る。

しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない。(20-21)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。この世の問題に直面するとき、私たちは時折、神様が沈黙しているように感じることがあります。けれども、私たちの目には見えない多くのことが存在しています。それは、霊的な戦いです。

パウロは次のように書きました。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

時折、私たちクリスチャンは周りの人々と戦っていると感じることがありますが、実際には霊的な力と戦っているのです。その力と戦うためには、霊的な武具が必要です。(エペソ書6:13ー17)

ここでは、この武具について詳しく説明しませんが、一つ重要なポイントを覚えておいてください。その武具はあなたの体の前を守るためのものです。後ろを守る武具は存在しません。

どうしてでしょうか。それは、私たちが逃げることなく、前進し続けることを求められているからです。

しかし、その武具だけでは十分ではありません。私たちは祈らなくてはなりません。

パウロはこう書きました。

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。

そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18)

私たちは一人では戦えませんし、自分だけの力では太刀打ちできません。私たちには、聖霊様が私たちのために戦ってくださることが必要です。

ですから、自分自身のためだけでなく、キリストにある兄弟姉妹たちのためにも祈ってください。牧師のために祈りましょう。苦しんでいる兄弟姉妹たちのために祈りましょう。

ひとりよがりになることを避けましょう。サタンはほえたける獅子のように私たちを狙っているので、目を覚ましていましょう。そして、神様の命令に従い、祈りを欠かさずに行いましょう。また、信仰の戦いを勇敢に戦いましょう。

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ダニエル書2

正直さ

少し話をバビロンとダニエルに戻しましょう。

ダリヨスという人物が王として治めました。このダリヨスは、エズラ記6章に登場するダリヨスとは異なります。

実は、ダニエル書におけるダリヨスが誰であるかについては議論が続いています。

ダリヨスはクロス王の別名である可能性があります。また、ダリヨスはグバルという人物かもしれません。グバルはクロス王の治世において、バビロンの知事を務めていました。

いずれにしても、ダニエルが他の大臣や太守よりも際立って優れていたため、ダリヨスは彼を任命して全国を治めさせようと考えました。(3節)

けれども、他の大臣や太守たちは全く喜ばなかったことでしょう。おそらく、彼らはユダヤ人がそのような地位に就くことを受け入れられなかったのです。

そのため、彼らはダニエルを非難する理由を探しましたが、何も見つけることができませんでした。

4節にはこのように書かれています。

何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである。(ダニエル書6:4)

だから、彼らは言いました。

私たちは、彼の神の律法について口実を見つけるのでなければ、このダニエルを訴えるどんな口実も見つけられない。(5)

そして、彼らはダリヨスにこう提案しました。

今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。(7)

なぜダリヨスが賛成したのか、私にはわかりません。

もしかすると、自分のプライドから賛成したのかもしれませんし、その律法によってバビロン人の忠誠をペルシャ側に移そうと考えたのかもしれません。

いずれにしても、彼はその提案を気に入り、その禁令の文書に署名しました。

では、ダニエルはその律法について聞いたとき、どう反応したでしょうか。いつものように、彼は一日に三回祈り続けました。

他の大臣や太守たちはそれを見つけると、すぐにダリヨスに報告しました。

ダリヨスはその知らせを聞いて、深くショックを受けました。彼はなんとかしてダニエルを救おうとしましたが、その律法を変えることができなかったため、最終的にダニエルを獅子の穴に投げ入れることとなりました。

この話をよくご存じかもしれません。神様は天使を送り、その獅子たちの口を塞がれたため、ダニエルは無事でいられました。それを見たダリヨスは、ダニエルをその穴から救い出し、ダニエルを非難した者たちとその家族を獅子の穴に投げ込みました。

この物語で私が最も感動したのは、ダニエルの正直さと忠実さです。大臣や太守たちはダニエルの生活を注意深く調べましたが、何一つ非難できる点を見つけることができませんでした。

彼は忠実で、怠慢も欠点もありませんでした。そして、神様に従うか、信仰を妥協するかを選ばなければならない場面でも、彼はためらうことなく神様を選びました。

あなたはいかがでしょうか。周囲の人々はあなたについて、そのように語ることができるでしょうか。また、プレッシャーがかかったとき、信仰を妥協するでしょうか。

それとも、ダニエルのように神様に忠実に仕え続けるでしょうか。

私たちもダニエルのように、正直さと忠実さを持って神様に従いましょう。

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エズラ記

反対

これから、エズラの年代順は少し複雑になります。ここでは私の考えを述べますが、聖書学者たちは年代順だけでなく、エズラ記の中に登場する人物に関しても議論しています。

おそらく、エズラ記4章のアハシュエロス王とアルタシャスタ王は、紀元前486年から423年に治めたペルシャの王たちでした。

その仮定に基づき、私はエズラ記の順番を少し変更します。

エズラ記の年代順は複雑ですが、主の宮を再建するユダヤ人たちにとって、その状況も複雑でした。

再建中、サマリヤ人は手伝いを申し出ました。そのサマリヤ人は北イスラエル王国の残った人々(つまり、追放されなかった人々)の子孫と、メソポタミアとシリアからの移民でした。

彼らは本当の神を礼拝していましたが、他の神々も礼拝していました。だから、エズラと他のユダヤ人たちは彼らの助けを断りました。

そういうわけで、そのサマリヤ人たちはユダヤ人たちが主の宮とエルサレムの城壁を再建することに反対し始めました。エズラ記とネヘミヤ記では、サマリヤ人が反対している様子がよく描かれています。

この話から大切なことを学ぶことができます。私たちが神様に従って、私たちの宮(つまり、私たちの体)を神様に捧げ、また私たちの霊的な力を強める時、それに対して反対するものが現れます。

時々、周りの人々が私たちの変化を見ると、彼らは喜んで私たちを応援します。しかし、私たちの信仰が彼らの信仰とは異なる場合、彼らは私たちがそれほど真剣に神様に従わないよう説得しようとします。

例えば、仏教の葬式で焼香するよう説得されるかもしれません。また、彼らは私たちが道徳的な基準を妥協するように説得しようとするかもしれません。そして、私たちが妥協しないと、彼らは怒るでしょう。

イエス様は、私たちが彼に従うと、すべての人々が私たちを好きになると約束されませんでした。イエス様は完全な方であったのに、彼を憎む人々もいました。だからイエス様はこう言われました。

もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。(ヨハネ15:18)

だから、私たちは自分自身にこの質問をするべきです。「私は誰を喜ばせようとしているのだろうか。神様でしょうか。それとも周りの人々でしょうか。」

神様の賞賛をほかの人々の賞賛よりも求めましょう。反対が来ても、神様の賞賛を求めましょう。また、私たちの人生がつらくなっても、神様の賞賛を求めましょう。

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エズラ記

喜びと後悔

この箇所では、私たちはいくつかのことを見ます。

一つ目は、ユダヤ人たちがもう一度いけにえと捧げ物を捧げ始めたということです。また、何年かぶりに彼らは仮庵の祭りを祝いました。

二つ目は、彼らが主の宮を再建し始めたということです。そして、神殿の礎を据えたとき、彼らは大いに喜びました。

11節には、こう書かれています。

そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。(エズラ記3:11)

けれども、同時に、泣いている人もおり、その涙は喜びのためではありませんでした。

しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。

一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。(12-13)

どうして彼らは泣いていたのでしょうか。おそらく、彼らにはほろ苦い思いがあったのだと思います。彼らは愛する宮の再建を見て、喜びました。それでも、ソロモンの宮と比べると、その新しい宮には栄光がありませんでした。

時々、私たちの悪い決断によって、私たちの人生はめちゃくちゃになります。つまり、私たちの罪によって、私たちの結婚や、健康や、家計を壊してしまいます。

そして、私たちが悔い改めると、神様は私たちを赦してくださいます。また少しずつ、神様は私たちの人生を癒し始めます。その癒しによって、私たちは喜びます。

しかし同時に、私たちは振り返って後悔します。私たちが人生の被害を見て、だんだん私たちの関係や、私たちの人生は癒されているけれど、そのプロセスは苦しいです。そして、私たちが再建するものは以前のものほど、あまり良くないと思います。

それでも、あなたの後悔によって圧倒されないようにしましょう。私たちが悔い改めると、神様は私たちが自分の失敗とその結果に焦点を当てることを望んでおられません。

むしろ、私たちが神様の赦しと恵みに休んで、未来に焦点を当てることを望んでおられます。そうすれば、神様は私たちのすべての涙をすっかりぬぐい取ってくださり、神様の栄光は私たちを通してもう一度輝き始めます。

パウロの言葉を覚えておきましょう。

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。。。(第二コリント7:10)

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エズラ記 歴代誌第二

呼ばれた

私が歴代誌について書き始めたのは、約2年前でした。今日はやっとその話を終えることができます。列王記と歴代誌の話はずっと続いてきました。

この箇所では、また、エズラ記の初めに、ユダヤ人がイスラエルに戻ることについて読みます。なぜ彼らは帰国できたのでしょうか。

ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。

「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。

あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。』」(エズラ記1:1-3)

2節は私の心を打ちました。「天の神、主(つまり、ヤハウェ)は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。」

ペルシャ人が自分の神々を礼拝していたのに、どうしてクロスはイスラエルの神ヤハウェをほめたたえたのでしょうか。

おそらく、彼は預言者イザヤの言葉を知っていたからです。クロスが生まれるずっと前に、イザヤはこの言葉を書きました。

わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。」(イザヤ44:28)

また、

主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。。。

それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。(イザヤ45:1、3)

おそらくその言葉によって、クロスはその宣言を伝えました。また、彼はネブカデネザルが取った主の宮の用具を返し、その宮の修理のために、イスラエル人の隣人にこう命じました。

残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。(エズラ1:4)

そして、クロスの応援で、神様が言われたように、イスラエル人は帰国しました。

神様がクロスを神様の目的を果たすために呼ばれたように、神様は私たちを呼ばれました。私たちが自分自身のために生きるように呼ばれたのではありません。私たち自身の目的を果たすために呼ばれたのでもありません。むしろ、私たちが神様のために生きるために、神様は私たちの名前を呼ばれました。

パウロはこう書きました。

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(第二コリント5:15)

あなたは誰のために生きているでしょうか。神様はご自身の目的のためにあなたの名前を呼ばれました。その召しに応えるでしょうか。

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ダニエル書3

メシヤが来られること、反キリストが来ること

この箇所は、本当に素晴らしい預言です。

以前、私は他のダニエル書の預言について話しました。つまり、バビロン帝国、ペルシャ帝国、ギリシャ帝国、そしてローマ帝国についての預言です。

多くの人々はその預言を見ても信じません。彼らは、「その預言はきっと本物ではない。その出来事が起こった後に、誰かがダニエルの名前を使ってこの預言を書いたのだろう」と言います。

彼らは超自然的なことを全く信じず、そのようなことを言うのです。

けれども、この9章の箇所はその考えを覆すのではないかと思います。なぜなら、この箇所はイエス様の生涯と働き、さらにはエルサレムの没落を預言しているからです。

旧約聖書全体が紀元前3年から1年の間にギリシャ語に翻訳されたことを考えると、エルサレムの没落の後にダニエル書を編集することは不可能でした。

神様はダニエルにこう言われました。

あなたの民とあなたの聖なる都(つまり、エルサレム)については、七十週が定められている。(ダニエル書9:24)

その「70週」というのは70の7年期間を指します。その間に、

  • 神様はそむきをやめさせます。
  • 神様は罪を終わらせます。
  • 神様は咎を贖います。
  • 神様は永遠の義をもたらします。
  • 神様は幻と預言を確証します。
  • 神様は至聖所(つまり、主の宮)に油を注ぎます。

その最初の7年間がいつ始まるのかについて、聖書学者たちは議論を続けています。おそらく、その始まりはエズラ記7章に記されている出来事だと思われます。

その時、ペルシャの王アルタシャスタが祭司エズラに主の宮を立て直し、飾るよう命じました。その箇所の焦点は宮を立て直すことにありますが、エズラ記9:9によれば、イスラエル人はエルサレムの城壁を立て直す許可も与えられたようです。

その後、ネヘミヤがエルサレムの城壁がまだ崩れていることを聞き、非常に落胆した場面があります。

いずれにしても、この預言によれば、最初の7年期間で苦しみの時代にエルサレムは立て直されると書かれています。(25節)

エズラとネヘミヤの時代、それは確かにその通りでした。彼らは主の宮とエルサレムの城壁を立て直そうとしましたが、数々の反対に直面しました。

それだけでなく、エステルの時代には、誰かが全てのユダヤ人を殺そうと計画したことがありました。(エステル記をぜひお読みください。)

その時から、62の7年期間(つまり、434年間)を数えると、それは紀元27年頃になります。その時、「油そそがれた者」が現れました。

私たちはいつもイエス・キリストと言いますが、「キリスト」は名前ではありません。「キリスト」という言葉は、「油そそがれた者」という意味です。

したがって、この箇所はイエス様について語っています。そして、紀元27年頃にイエス様はご自身のミニストリーを始められました。

その62の7年期間の後、「油そそがれた者」(つまり、イエス・キリスト)は断たれました。直訳すると、キリストは殺されました。また、「彼には何も残らない」と書かれています。

おそらく、その意味は、弟子たちがキリストを捨てたということでしょう。

その時、イエス様は十字架で私たちの罪をあがなわれました。その後、紀元70年にエルサレムと主の宮は滅びました。(26節)

最後の7年期間は将来の出来事です。その時、反キリストが現れるでしょう。彼は多くの者(つまり、ユダヤ人)と契約を結びますが、半週(3年半)の間にその契約を破り、ユダヤ人のいけにえとささげ物をやめさせます。

けれども、最終的に反キリストは倒され、その時、神様は罪を終わらせ、永遠の義をもたらされます。そして、新しい宮に油を注がれます(おそらく、エゼキエル書40-44章に記されている宮でしょう)。この預言はすべて成就されます。

この箇所には数多くの預言が含まれています。しかし、大切なのは、神様が未来を完全に支配しておられるということです。

もし、神様が帝国の興亡、イエス様の来臨、エルサレムの没落を正確に預言されたのであれば、私たちは反キリストや将来の神の国についての預言も信じることができるでしょう。

だから、将来が困難になったとしても、心配しすぎないでください。神様はすべてを支配しており、神様が約束されたすべてのことは必ず成就されるからです。

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ダニエル書3

自分の罪によってあなたの人生が壊れた時

ペルシアがバビロンを打ち破った後、ダニエルはエレミヤの預言を思い出しました。それは、イスラエルの追放が70年間続くというものでした。その70年が過ぎたとき、ダニエルは神様の前に跪き、祈りを捧げました。

実際、他のイスラエル人と比べると、ダニエルは正しい人でした。彼は一貫して神様に忠実であり、それほど悔い改める必要がありませんでした。

それでもなお、イスラエル人のために祈るとき、ダニエルは「私は正しい人だからイスラエル人のために祈ります」とは言いませんでした。むしろ、自分の罪を認め、神様の恵みの必要性を訴えました。

ダニエルはこの祈りを通して、私たちの人生が罪によって壊れたとき、どのように祈るべきかを教えてくれます。

第一に、ダニエルは言い訳をせず、正直に自分の罪を告白することです。彼はこのように祈りました。

私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。

私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。(ダニエル書9:5-6)

第二に、ダニエルはユダヤ人が抱えるトラブルの原因を神様のせいにせず、彼ら自身の責任を認めることです。

イスラエル人はみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そこで、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが、私たちの上にふりかかりました。私たちが神に罪を犯したからです。

神は、大きなわざわいを私たちにもたらすと、かつて私たちと、私たちをさばいたさばきつかさたちに対して告げられたみことばを、成就されたのです。(ダニエル書9:11-12)

第三に、ダニエルはイスラエル人ではなく、神様こそが正義の方であることを認めることです。

私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。私たちが、御声に聞き従わなかったからです。(ダニエル書9:14)

最後に、ダニエルはユダヤ人の良い行いに基づくのではなく、神様の恵みに基づいて赦しを願うことです。

私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。

主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。(ダニエル書9:18-19)

私たちの人生が罪によって壊れるとき、私たちはしばしば自分自身を責めるのではなく、周りの人々を責めます。

時には神様さえも責めることがあります。「あなたは不公平です。どうして私の人生はこんなにもめちゃくちゃになったのですか?」と文句を言うこともあります。

たとえ自分が悪かったと認めたとしても、私たちはよく自分の行動を弁解しようとします。

しかし、そのような態度を持ち続けるなら、私たちの人生は壊れたままで、神様の赦しを知ることは決してありません。むしろ、苦々しい心だけを抱くことになるでしょう。

もし赦しと癒しを知りたいなら、ダニエルのように祈るべきです。言い訳をせず、正直に神様に「私は悪かった。私は罪を犯しました」と告白することが必要です。

また、「神様、あなたは不公平です。だから私の人生はめちゃくちゃになったのです」と言うのではなく、自分の責任を認めることが大切です。

さらに、神様の判断が正しいと認めるべきです。

そして、神様の憐れみによってのみ、神様の赦しを願うべきです。私たちは神様の赦しに値する存在ではありません。神様の憐れみを得るために何かをすることはできません。ただへりくだって神様に頼ることしかできません。

そうすれば、神様がイスラエルの人々を触れて癒されたように、私たちの人生にも触れて癒してくださいます。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪によって、あなたの人生は壊れているのですか。神様を責めていますか。他の人々を責めていますか。

今こそ、自分の責任を認め、罪を告白する時です。そうすれば、神様の赦しと癒しを知ることができるでしょう。