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詩篇 歴代誌第一

不従順の歴史、憐れみの歴史

詩篇106篇では、ダビデはイスラエルの歴史を伝えます。けれども、その歴史はいつもポジティブではありません。

何回も、ダビデは、どうやってイスラエル人が神様に背を向けたかを話します。その話は私たちの人生も反映します。

1. イスラエル人は神様に逆らいました。(詩篇106:6-7)

これはこの詩篇の主要なテーマの一つです。彼らは逆らうことを選びました。

一つの理由は、彼らが神様の御業をすぐに忘れたからです。何回も彼らの目の前で神様は素晴らしい奇跡を行われました。けれども、トラブルが来るとき、彼らはその御業を覚えていませんでした。

だから、何回も、彼らは罪を犯したのです。

どれくらい私たちもそうするでしょうか。神様が私たちのために何をしてくださったか忘れるので、困る時に、私たちは文句を言い、神様を責め、自分の道を行きます。

2. 彼らは自分の欲望に負けました。(14)

イスラエル人は肉を貪りました。神様が肉を与えてくださいましたが、そのあと、疫病が発生したので、たくさんの人々が亡くなりました。

そのように、私たちの欲望に従えば、結局私たちは滅びます。例えば、性病や、心臓麻痺や、ガンにかかります。

あなたは貪ったものを得るかもしれませんが、結局その代価を払うことになります。

3.彼らは本当の神の代わりに、他の神々を礼拝し始めました。(19-20,28)

そのように、私たちもよく神様に背を向け、違うものを追い求めます。私たちはセックスやお金や、この世の物を追い求めます。それらのものが私たちの「神」になります。

だから、私たちは心のすべてを神様に捧げなくなります。また、それらの物は私たちを神様から奪います。

4. 神様の約束を信じず、神様の良い計画を侮りました。(24-27)

だから、彼らは文句を言って、神様が約束したものを受け取れませんでした。

どれくらい、私たちもそうするでしょうか。私たちは聖書を読んで、神様の良い計画を見ますが、神様がその約束を守ることを信じません。

だから、神様の言葉に従わないので、神様が約束したものを受け取れません。

5. 彼らは周りの国民のようになりました。彼らはその国民の価値観と道徳を受け入れました。(34-39)

多くのクリスチャンもそうします。神様のために、この世に影響を与えずに、かえってこの世の民のようになるので、神様が憎むことをし始めます。

この詩篇では、イスラエル人の失敗がよく見えます。しかし、神様の憐みも見えます。

何回も、自分の罪によって苦しんだ時に、イスラエル人が神様に叫んだので、神様は彼らを救い出してくださいました。

そのように、私たちが罪に落ちるとき、本当に悔い改めると、神様は赦してくださいます。

だから、ダビデは歌います。

私たちの神、主よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください。あなたの聖なる御名に感謝し、あなたの誉れを勝ち誇るために。

ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。すべての民が、「アーメン」と言え。ハレルヤ。(47ー48)

主よ。私は何度も罪を犯しました。何度も私はあなたが私のために何をしてくださったか忘れるので、感謝することも忘れてしまいます。

何度も私はあなたの約束を信じることをせず、自分の道を行き、あなたに背きます。

私はよくこの世の神を追い求めます。また、何度も私はこの世の民のようになります。

赦してください。私を変えてください。

あなたの私に対する憐れみを感謝します。

毎日、私がもっとあなたのようになりますように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇 歴代誌第一

ご自身の約束を覚えておられる神

詩篇105篇のテーマは、神様がご自身の約束を覚えておられる方であるということです。

特に、詩人はアブラハム、イサク、ヤコブに対する神様の約束について語ります。

神様は彼らにカナンの地を与え、その子孫から大きな国が起こると約束されました。そして、彼らとその子孫がどのような試練に直面しても、神様はその上に御手を置いて守ってくださいました。

だから、アブラハムとイサクとヤコブが寄留の他国人としてカナンにいたとき、神様は彼らを守ってくださいました。(詩篇105:12-15)

ヨセフが奴隷としてエジプトに住んでいたとき、神様は彼に対する約束を守って、彼を支配者にされました。(17-22)

そして、エジプト人がイスラエル人を迫害したとき、神様はパロとその民を裁かれました。(23-38)

イスラエル人が水と食べ物を必要としたとき、神様は彼らのニーズに備えられました。(40-41)

そして、最終的に神様がアブラハムとイサクとヤコブに対する約束を守られたので、ダビデはこの歌を書いて神様をほめたたえました。

だから、覚えておきましょう。神様はいつもご自身の約束を守られます。何が起こっても、どんな試練に直面しても、神様が忠実な方なので、私たちは神様に信頼できます。

だから、パウロはこう書きました。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。。。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

私たちは、この望みによって救われているのです。

目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:18,23-25)

ある日、神様がイスラエル人に安息を与えてくださったように、私たちにも安息を与えてくださいます。その日まで、ダビデは私たちに言います。

1.主が何をしてくださったか思い出して、感謝せよ。(1、5)

時々、私たちは自分の問題に巻き込まれて、主からの祝福を感謝することを忘れます。

そのとき、私たちの問題に圧倒されます。しかし、神様からの祝福を思い出し、感謝するとき、希望と喜びは戻ります。

2.主に歌え。私たちの問題に圧倒されるとき、主の聖なる名を誇りとせよ。喜ばせよ。(2-3)

そうすれば、私たちはどれくらい神様が大きいか、またどれくらい私たちの問題が小さいか分かるようになります。そして、私たちの問題に焦点を当てずに、私たちの助け主に照準を合わせます。

3.主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。(4)

あなたの人生が辛すぎるとき、また希望がないとき、主を慕い求めてください。その力を尋ね求めてください。そうすれば、神様はあなたを助けてくださいます。

パウロはこう書きました。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ書8:26-28)

神様は私たちへの約束を覚えてくださり、守ってくださいます。だから、主を思い出し、慕い求め、賛美しましょう。

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詩篇

創造者とその被造物

ダビデがこの詩篇を書いたかどうか分かりませんが、詩篇103篇のように、詩人はこう歌い始めます。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。(詩篇104:1)

けれども、103篇と違って、主の愛と憐れみのためではなく、神様の被造物のために詩人は神様に感謝します。彼は被造物を見る時、神様の素晴らしさを驚き、歌います。

わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。

あなたは光を衣のように着[る](詩篇104:1-2)

それを読むとき、私はヨハネの言葉を思い浮かべます。

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。(第一ヨハネ1:5)

要するに、神様は聖なる方です。だから、光を見ると、私たちは神様の栄光と聖さを垣間見ることができます。

そして、詩人は星空に感心します。神様は、天を幕のように広げておられます。そして、雲は神様の車です。

詩人がこの詩篇を書いたとき、彼は風と稲妻を神様の使いと召使いと呼びました。それらは神様の栄光を宣言し、神様の目的を果たします。

しかし、ヘブル人への手紙の著者はこの箇所を天使に当てはめました。彼が言ったのは、イエス様が神様のひとり子ですが、稲妻と風のように天使はただの召使いということです。

そして、詩人は創世記1章について話します。つまり、神様は土地を造り、植物や動物を造られました。また、神様は日や月や季節を造られました。また、神様は動物にエサを与えられます。そして、神様はすべての物に命を与えてくださいます。

だから、詩人はその被造物のために神様をほめたたえました。

主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。

そこには大きく、広く広がる海があり、その中で、はうものは数知れず、大小の生き物もいます。(詩篇104:24-25)

主の栄光が、とこしえにありますように。主がそのみわざを喜ばれますように。

主が地に目を注がれると、地は震え、山々に触れられると、山々は煙を上げます。(31-32)

そして、詩人はこの歌をまとめて歌います。

私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。

私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。(33-34)

それは最も大切な教訓です。神様が私たちの創造者なので、神様は私たちの賛美に値する方です。だから、私たちは毎日、私たちの言葉や思い、行動で神様を礼拝しましょう。

なぜなら、神様を私たちの創造主として認めない人は裁かれて滅びるからです。(35a)

だから詩人は歌います。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。(35b)

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詩篇

神様の愛とあわれみ

詩篇103篇では、ダビデは神様の愛と憐れみについて歌います。

いつダビデがこの詩篇を書いたかは分かりませんが、多分バテ・シェバとの罪の後かもしれません。

もしかしたら、ダビデはイスラエル人の人数を数えた罪の後に、この詩篇を書いたかもしれません。

とにかく、彼の罪が赦された後に、彼は歌います。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。(詩篇103:1)

私はこの箇所を読むと、イエス様の言葉が思い浮かびます。つまり、多くの罪が赦された人は神様をより多く愛します。(ルカ7:47)

ダビデは、多く赦されたので、彼の神様に対する愛はより大きかったのです。

彼は酷い罪を犯しても赦され、彼の健康が回復され、死から救われました。それに、彼が何回失敗しても、神様は彼に恵みとあわれみとの冠をかぶせてくださいました。(2-4)

そして、ダビデは神様がモーセに何を言われたかを思い出しました。神様はご自身についてこう言われました。

主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。(8)

ダビデはその言葉に加えました。

主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(9-12)

その言葉が大好きです。

「絶えず争ってはおられない。」

あなたのお父さんやお母さんが、何度もあなたを責めたことがあるかもしれません。彼らがあなたを決してほめず、いつも批判していたかもしれません。だから、あなたは神様もそのような方だと思ってしまうかもしれません。

しかし、神様は絶えず争う方ではありません。

そして、私たちが悔い改めると、神様はご自身の怒りを心の中に持ち続けることはありません。

時々、人々は「あなたを許してあげる」と言いますが、私たちがもう一度失敗したら、彼らは私たちの以前の失敗も思い出させます。

神様はそうなさいません。神様は私たちを赦す時、私たちの罪をもう思い出されません。

それに、神様は私たちの弱さを知っておられるので、私たちをあわれんでくださいます。

神様は人間になられたので、私たちの弱さをよく知っておられます。私たちのようにイエス様は誘惑されましたが、決して罪を犯されませんでした。しかし、その経験によって、私たちの誘惑が分かるようになりました。

だから、私たちは悔い改め、神様を敬うと、神様の恵みは永遠から永遠まで私たちの上にあります。(13-17)

だから、ダビデは天の者と全地の者が神様をほめたたえるように招きます。ダビデも賛美してこう歌いました。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。(22)

主よ、あなたの愛とあわれみを感謝します。私が弱くて、罪を犯しても、あなたが私をまだ愛してくださることを感謝します。あなたは私を争わずに、恵み深い目で見てくださいます。

どうか、その恵みとあわれみを周りの人々にシェアするように助けてください。アーメン。

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詩篇

決して変わらない神

私は詩篇102篇の最後の部分が大好きです。

あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。

これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。

しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。(詩篇102:25-27)

要するに、いつかこの世が滅びるので、神様はこの世を新しくしなくてはなりません。けれども、神様は決して変わりません。

どうしてその真理は大切なのでしょうか。それは、私たちがどんなに失敗しても、私たちに対する神様のあわれみが決して絶えないからです。

おそらく、ユダヤ人がバビロンに追放された時期に、詩人はこの詩篇を記したのでしょう。だからこそ、彼はイスラエルの民の苦しみを目にした時、涙を流しました。

神様がご自身の怒りを彼らに注がれたため、敵はあざ笑い、イスラエルの民は絶望の中にありました。

けれども、詩人は叫びます。

しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。

あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。(詩篇102:12-13)

エレミヤの預言によれば、イスラエル人の追放は70年続きます。だから、おそらくその追放の終わりが迫るとき、詩人は祈りました。

「私たちがエルサレムに帰る時間がもうすぐ来ます。だから、立ち上がって、私たちをあわれんでください。」

そして、彼は将来について考えました。そのとき、神様がエルサレムを建て直されるので、周りの国々は驚きます。

詩人はこう歌いました。

こうして、国々は主の御名を恐れ、地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。

なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ「ます。」(詩篇102:15-16)

その日を楽しみにして、詩人は主のあわれみを喜び、歌います。

窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。(詩篇102:17)

また、

主はその聖なるいと高き所から見おろし、天から地の上に目を注がれました。

捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放つために。(詩篇102:19-20)

この箇所が大好きです。私たちが罪で縛れて、死に値したのに、神様は私たちの叫びを聞いて下さって、私たちを解放してくださいました。

いつかの日に、私たちは私たちを贖った神の前に集まり、礼拝します。それに、私たち永遠まで神様の御前に住みます。(詩篇102:22,28) 私はそれを楽しみにしています。

主よ、あなたは永遠からの神です。人々は変わるかもしれませんが、あなたは決して変わりません。私たちが罪を犯しても、あなたのあわれみは決して変わりません。だから、あなたを賛美します。

あなたがもう一度来るまで、私に対するあなたのあわれみが毎日新しくなるように。あなたの忠実さを感謝します。アーメン。

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詩篇

神様のようになる事

詩篇101篇では、私たちはなぜ神様がダビデを神様の心にかなう人だと呼んだのか分かります。

ダビデは歌います。

私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。(詩篇101:1)

神様のダビデに対する愛のため、また、ダビデの神様に対する愛のため、ダビデはもっと神様のようになりたいと願っていました。つまり、ダビデは正義を愛し、清い人になりたかったのです。だから、彼は言いました。

私は、全き道に心を留めます。(2)

そして、彼はどのように神様のようになりたがったかをリストアップします。

彼は自分の家庭生活によって神様を喜ばせたかった。だから、家でも、卑しいことを見ませんでした。(2-3)

私たちが教会や仕事に行く時、敬虔な人生を生きるふりをするのは簡単です。けれども、正直な人は、家でも、外でも同じように振る舞います。

そして、ダビデは人の罪を憎み、その罪に参加しないと言いました。だから、誰かが隣人を謗った時、ダビデはその人を黙らせました。また、彼らが高ぶって、人を見下したり、神様を侮ったりしたら、ダビデは彼らのことを我慢できませんでした。

しかし、どれぐらい私たちは悪を耐えるでしょうか。私たちの友達が噂話をする時、どれぐらい私たちも参加するでしょうか。どれぐらい、私たちは高ぶって、相手を見下すでしょうか。

ダビデは神様を愛していたので、そんな態度を憎み、その罪に参加しませんでした。

それに、ダビデは友達を選ぶ時、気を付けました。また、誰のアドバイスに従ったかを気を付けました。だから、彼はこう言いました。

私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。(6)

最後に、自分の家族のリーダーとして、また、国のリーダーとして、真理と正義によって治めることを決心しました。(7-8)

私たちは本当に神様を愛するなら、そんな態度は私たちの心を治めるべきです。なぜなら、神様の心にかなう人はそのような人だから。

私たちがダビデのように、私たちを愛する神、また私たちが愛する神のようになるように。

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詩篇

本当の礼拝

詩篇100篇は礼拝のための歌です。

だから、この詩篇の始めに、詩人は私たちを神様を礼拝するように招きます。

全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。

喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。(詩篇100:1-2)

そして、詩人は私たちの礼拝の理由を教えます。つまり、詩人は神様がだれであるか、私たちがだれであるか、また私たちの神様との関係は何であるかを反省します。

神様は誰でしょうか。神様は「主」です。

この話を進める前に、少し説明した方が良いと思います。

新改訳では、時々「主」は太字で書かれます。時々、「主」は普通のフォントで書かれます。どうしてでしょうか。

「主」が太字で書かれたとき、それは「ヤハウェ」という言葉です。「ヤハウェ」は神様の名前です。

実は、私たちはその名前の子音しか知りません。なぜなら、ユダヤ人は神様の名前を尊重したので、聖書を読むとき、決して「ヤハウェ」と言わなかったからです。その代わりに「主」と言いました。

そして、ヤハウェの名前を書くとき、子音しか書きませんでした。だから、今では誰もヤハウェの本当の発音をよく知りません。誰もヤハウェの母音を知らないからです。

そういうわけで、日本語の聖書と英語の聖書のほとんどは神様の名前のために「主」を使います。

とにかく、太字の「主」を見るなら、その代わりに「ヤハウェ」と入れ替えてみてください。

多分「ヤハウェ」という名前は、出エジプト記3章14節から来ます。そのとき、モーセは神様に尋ねました。「あなたの名前は何ですか。」

神様は「わたしは、『わたしはある』という者です。」と答えられました。

ヘブライ語では、「ヤハウェ」という名前は「ある」という動詞から来ています。

その名前によって、神様が私たちに言われるのは、「私は永遠の方です。私は永遠から存在し、永遠まで存在します。私は決して変わりません。」ということです。

そして、神様は私たちの創造主です。

それでは、私たちは誰でしょうか。そして、私たちの神様との関係は何でしょうか。私たちは神様のものです。私たちは神様に属するものです。なぜでしょうか。

それは神様が私たちを造られたからです。私たちは自分自身を造りませんでした。神様は私たちの創造主ですから、私たちは正当に神様に属します。だから詩人は言います。

私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。(3)

神様の羊として私たちはどうすればいいでしょうか。

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。(4)

以前のブログでは、私はジム・エリオットという人について話しました。「Shadow of the Almighty」という本の一節は本当に私の心を打ちました。エリオットは詩篇100篇4節についてこう書きました。

どうして、羊はその門に入っているのでしょうか。どうして、主の大庭に入っているのでしょうか。歌を歌って、羊の交わりを楽しむためでしょうか。それだけでしょうか。違います。

彼らは祭壇に行っていました。彼らが牧場で食べた目的は、彼らを試し、いけにえの準備をさせられるためです。

だから、神様に感謝しましょう。なぜなら、あなたはその祭壇に値するものとして認められたからです。

賛美しながら、神様の仕事をしなさい。。。

天のお父様、あなたの御心でしたら、私の命、私の血を取って、あなたの火で焼き尽くしてください。

私の人生を救おうとは思いません。なぜなら、この人生は私の物ではないからです。

私の人生のすべてを取って、用いてください。

この世のために私の血を供え物として注いでください。なぜなら、私の血は、あなたの祭壇の前に流れる時だけに価値があるからです。

あなたはその言葉が極端だと思うかもしれませんが、多分エリオットはパウロの言葉をよく理解していました。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

実は、エリオットはアウカ族の救いのために自分の血を注ぎました。

だから、覚えておきましょう。礼拝はただ賛美の歌を歌うことではありません。

礼拝は生きた供え物になることです。

礼拝は、自分の目的のためでなく、神様の目的のために生きることです。

礼拝は主を喜ばせることです。

それらが本当の礼拝です。

時々、礼拝の代価は高いです。しかし、主にすべてを捧げると、あなたは喜びを知ります。どうして私はそう思うでしょうか。

主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(5)

その言葉を信じないなら、主に人生を捧げるのは難しくなります。

けれども、神様が良い方であることを信じたら、また、神様が忠実で、私たちを愛して、私たちの最善を望んでおられることを信じたら、神様にすべてを捧げることは当然なことになります。

あなたはどうですか。そのことを信じるでしょうか。神様を本当に礼拝しているでしょうか。

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聖なる神

私たちが神様の性格について考えるとき、たいてい「愛」という言葉がすぐに浮かぶでしょう。

もちろん、神様は愛です。 しかし、この箇所では、もう一つの面を見ることができます。 つまり、神様は聖なる方であるということです。

だから、詩篇97篇と99篇の最初の言葉は少し異なります。

詩篇97篇では、詩人は歌います。

主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(97:1)

けれども、99篇では、詩人はこう歌います。

主は王である。国々の民は恐れおののけ。

主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。(99:1)

どうして神様の前に私たちは恐れおののくのでしょうか。どうして、地は震えるのでしょうか。なぜなら、神様は聖なる方だけど、私たちはそうではないからです。

この詩篇では、詩人は何度も神様の聖さについて歌います。

国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。(3)

また、

われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖である。(5)

また、

われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。(9)

神様の聖さを見ると、何度も人々は神様を恐れ、平伏しました。モーセ(出エジプト記3:5-6)、イザヤ(イザヤ書6:5)、ヨハネ(黙示録1:17)はそうしました。

彼らは神様を見る資格がないことをよく知っていました。むしろ、彼らは自分の罪のために死に値することをよく知っていたのです。

けれども、何度も神様は彼らとイスラエル人にあわれみを与えてくださいました。

だから、詩人はそのあわれみについて歌います。

あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。(8)

イスラエル人は神様に信頼しそびれたのに、神様は彼らを決して捨てませんでした。彼らが罪を犯した時、神様は彼らを懲らしめられましたが、彼らを捨てずに、あわれんでくださいました。

それに、モーセや、アロンや、サムエルが不完全な人間なのに、彼らが神様に祈った時、神様は応えてくださいました。

ここでの良い知らせは、神様が私たちにもそのように扱ってくださることです。

神様は聖なる方で、私たちがそうではないのに、私たちを決して捨てません。私たちが何度も失敗しても、神様は私たちを赦し、私たちの祈りに答えてくださいます。

だから、神様の聖さとあわれみを覚えていて、毎日神様をほめたたえましょう。

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私たちの救いを喜ぶ

私たちはこの詩篇の著者を知らないため、いつ書かれたのかは分かりません。

もしかすると、イスラエル人がエジプトから救い出された後に書かれたのかもしれません。あるいは、ダビデが王になった時に書かれたのかもしれません。または、イスラエルが国として確立された後に書かれた可能性もあります。

そんなわけで、私にはいつ書かれたのか分かりませんが、詩篇98篇を読むと、その詩人の喜びがはっきり見えます。

詩人は歌います。

新しい歌を主に歌え。(詩篇98:1)

時々私はギターを弾いて、昔の賛美の歌を歌います。その歌は今も好きですが、教会で新しい歌を歌うのも好きです。

昔の歌は素敵ですが、歌いすぎるとすぐに飽きてしまいます。なぜなら、その歌の意味を考えずに歌い始めてしまうからです。祈りを歌うというより、カラオケになってしまいます。

その一方、新しい歌を歌うとき、何を歌っているのか考えなくてはなりません。だから、もう一度私たちは神様が私たちのために何をしてくださったかを思い出します。

だから、詩人はこの新しい歌を書きました。彼は歌いました。

奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。

主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた。

主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。(1-3)

その箇所を読むと、イザヤ書59章を思い出します。イザヤはこう書きました。

主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。

そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。(イザヤ59:15-16)

神様は世の悪を見る時、その悪に取り組む人を見ませんでした。だから、神様自身が何かをされました。

私たちが自分の罪のせいで神様が見えなかった時、また私たちが救いを求めなかった時、神様は救いのわざを行われました。パウロはこう書きました。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

だから今、神様を信じる人はその救いを受けることができます。

詩人はその真理が分かったので、こう書きました。

地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。(3)

そして、彼は叫びます。

全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。

立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。立琴と歌の調べに合わせて。

ラッパと角笛の音に合わせて、主である王の御前で喜び叫べ。(4-6)

そして、詩人は全創造物を呼んで、「神様をこの救いのためにほめたたえよう」と言います。(7-8)

私たちの救いを喜ぶことは良いことです。それに、そうするべきです。しかし、詩人の最後の言葉を思い出しましょう。

確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。(9)

イエス様を救い主として受け入れた人は、もはや罪に定められることがないため、将来の裁きを喜びをもって迎えることができます。

けれども、私たちが愛している人々も、その裁きに備えることができているでしょうか。

もちろん私たちの救いを喜びましょう。しかし、私たちの喜びと希望を周りの人々とシェアしましょう。

そうすれば、彼らもその希望と喜びを知るのです。

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私たちの王を喜ぶ

詩篇97篇も、私たちの王の偉大さを喜びます。

詩人は叫びます。

主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(詩篇97:1)

「地は、小躍りせよ。」

完全な世では、すべての国民は神様を私たちの王として喜ぶでしょう。

完全な世では、彼らは義と裁きが神様の王座の基であることを喜ぶでしょう。(2)

また、彼らは神様の力を喜ぶでしょう。(3-5)

また、神様の栄光を喜ぶでしょう。(6)

しかし今は、この世の人々はそうしません。むしろ、彼らの偶像にしがみついて、お金や、セックスや力を追い求めます。だから、ある日、彼らは恥を見ます。(7)

それでは、私たちは何を喜ぶでしょうか。私たちの王の偉大さを喜ぶでしょうか。それとも恥を与えるものを喜ぶでしょうか。

もし、神様を喜ぶなら、詩人は私たちに言います。

主を愛する者たちよ。悪を憎め。(10)

あなたは神様を愛しながら、悪を抱くことができません。だから、神様を愛するなら、あなたは神様が憎むものを知って、その物を捨てなくてはなりません。

そのような人に関して、詩人は言います。

主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。

光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。(10-11)

そして、詩人はこの詩篇をまとめます。

正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。(12)

あなたは何を喜ぶでしょうか。

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詩篇 歴代誌第一

神様の名前を国々に宣言する

ダビデは神様の契約の箱をエルサレムに持ってきたとき、感謝の詩篇を書きました。

もしかしたら、その詩篇は詩篇96篇、105篇、106篇からのメドレーかもしれません。

もしくは、元々ダビデは一つの詩篇を書いたけど、後でその詩篇を三つの詩篇に分けて、歌詞を少し加えたかもしれません。

とにかく、私はそれぞれの詩篇について書こうと思いました。歴代誌に出た詩篇はその三つの詩篇と少し違うけど、96篇、105篇、106篇だけについて解説します。

今日は96篇について話します。

この詩篇では、私たちが学ぶのは、神様には私たちのための目的があるということです。その目的は何でしょうか。

ダビデはこう歌いました。

新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。

主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。

まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。

まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。

尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。(詩篇96:1-6)

私たちの目的は何でしょう。それは、国々に神様の名前を宣言することです。私たちは持っている喜びを周りの人々とシェアするべきです。

ダビデは、「主に歌え」と言います。どうしてでしょうか。神様をほめたたえるためでしょうか。もちろんそうですが、それだけではありません。

ダビデは歌い続けます。

日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。(2-3)

どうしてそうしなくてはならないのでしょうか。それは、多くの人々がそのことを知らないからです。

まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。(5)

多くの人々は神様を知っていると思っていますが、実は、その神々はただの虚しい偶像です。

だから、私たちは神様の偉大さを宣言するべきだし、裁きの日が来ることも宣言するべきです。だから、ダビデはこう書きました。

国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。

御名の栄光を主にささげよ。(7-8)

ある日、神様は自分の王座に座り、この世の民は神様を王として認めます。その日について、ダビデはこう言いました。

確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。(13)

多くの人々は不正義について文句を言います。けれども、彼らが知らないのは、正義が来ると、彼らも裁かれるということです。

もし彼らの罪がイエス様の血によってまだ赦されていないなら、彼らは自分の罪のために裁かれます。

だから、神様はその人々に警告するように私たちを招いておられます。

あなたはどうですか。あなたは周りの人々に神様について話しますか。

彼らは神様の偉大さを知っていますか。また彼らは神様の愛について知っていますか。また、将来の裁きについて知っていますか。

彼らにそのことを宣言するのが私たちの目的です。だから、ただあなたのもらった救いに安心しきってはいけません。むしろ、周りの人々に神様の名前を宣言しましょう。

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詩篇

私たちの賛美と信頼に値する神

私にとって、この詩篇は興味深いものです。なぜなら、この詩篇は賛美と大喜びで始まりますが、深刻な警告で終わるからです。

詩人の言葉を読むと、その詩人の喜びが聞こえます。彼は歌います。

さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。

感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。(詩篇95:1-2)

どうして、私たちは神様を賛美するでしょうか。

1.神様は大いなる方ですから。(3)

2.神様は王の王だし、すべての神々にまさるから。(3)

3.神様は私たちの創造者ですから。(4-5)

4.それなのに、神様は私たちを本当に愛しておられます。(実は、多分「神様はそのような方だから私たちを本当に愛する」と言った方が良いです。)(7)

だから、詩人は私たちを招待します。

来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。(6)

けれども、最後に、彼は私たちに警告します。

主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、

メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。

わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。

それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。(7-11)

イスラエル人が砂漠を渡った時、水が見つけられなかった時が二回ありました。その時、彼らは神様を信頼せずに、文句を言いました。神様がそこまで彼らのニーズに備えられたのに、彼らは神様を信じませんでした。

その時だけではなく、何回も彼らは文句を言って、神様を信頼しませんでした。彼らは神様が彼らに与えると約束した土地に入ることを拒絶し、エジプトに帰りたがりました。(申命記13-14章)

だから、神様は彼らに言われました。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない。」

だから、詩人は私たちに警告します。「彼らのようにならないでください。あなたの心を堅くしないでください。神様の前にへりくだってください。なぜなら、神様は私たちの賛美と信頼に値する方ですから。」

あなたはどうですか。神様に信頼しますか。神様の道を行っているでしょうか。もしかしたら、自分の道を行っているでしょうか。

もし神様に信頼すると、あなたは神様からの喜びと安息と平和を知ります。しかし、自分自身に信頼すると、それらを失います。

あなたは誰に信頼しているでしょうか。

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詩篇

人々を裁く神、私たちを懲らしめてくださる神

裁きか懲らしめか。私たちの人生に悪いことが起きる時、神様がそのどちらかをしているのではないかと、私たちは混乱することがあります。

だから、私たちが「神様が私を裁いて、罰している」と考えるのは簡単なことです。

けれども、神様はそのように考えておられるでしょうか。

詩篇94篇では、裁きと懲らしめの違いを見ることができます。裁きは神様を拒絶する人のためですが、懲らしめは神様の民のためです。

この詩篇の最初の部分では、詩人は神様が悪者を裁くように祈ります。

地をさばく方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。

主よ。悪者どもはいつまで、いつまで、悪者どもは、勝ち誇るのでしょう。(詩篇94:2-3)

そして、詩人は悪者の行動について話します。その人は「神様は私の罪を見ない」と思っています。

だから、詩人は彼らを責めます。

気づけ。民のうちのまぬけ者ども。愚か者ども。おまえらは、いつになったら、わかるのか。

耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。

国々を戒める方が、お責めにならないだろうか。人に知識を教えるその方が。

主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。(8-11)

そして、彼らについて詩人はこう言います。

主は彼らの不義をその身に返し、彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされます。われらの神、主が、彼らを滅ぼされます。(23)

けれども、神様の子供が罪を犯したら、神様はどうされるでしょうか。神様はどのようにその罪を扱われるでしょうか。

主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。

わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。

まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。(12-14)

この詩篇によって、私たちは神様の懲らしめについて二つのことを学びます。

一つ目は、神様は私たちの益のために懲らしめてくださるということです。神様は私たちを苦しませるために懲らしめるのではなく、私たちを苦しみから守るために懲らしめてくださいます。

二つ目は、私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てないことです。

それに、神様は私たちを擁護してくださいます。詩人はこう歌いました。

だれが、私のために、悪を行なう者に向かって立ち上がるのでしょうか。だれが、私のために、不法を行なう者に向かって堅く立つのでしょうか。

もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいはただちに沈黙のうちに住んだことでしょう。

もしも私が、「私の足はよろけています」と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。

私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。(16-19)

つまり、悪者が私たちを攻める時、神様は私たちを擁護してくださいます。サタンが私たちを責める時、神様は私たちを擁護してくださいます。

だから、詩人はこう書きます。

彼らは、正しい者のいのちを求めて共に集まり、罪に定めて、罪を犯さない人の血を流します。

しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。(21-22)

だから、神様の子供として、神様の裁きと神様の懲らしめを取り違えないようにしましょう。

私たちが罪を犯すと、神様は私たちを懲らしめてくださいます。しかし、それは私たちに損害を与えるためではなく、私たちの益のためです。

神様は私たちを滅ぼそうとは思っておられません。私たちを救いたいと望んでおられます。だから、覚えておきましょう。あなたがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てません。

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詩篇

全てを治めておられる神

これはとても短い詩篇です。この詩篇を読む時、ジャック・ヘイフォードの歌「Majesty」(「威光」)という歌を思い出します。

詩篇93篇は私たちに神様の威光を思い出させます。また、神様がこの世のすべてを治めておられることを思い出させます。詩人は宣言します。

主は、王であられ、みいつをまとっておられます。主はまとっておられます。力を身に帯びておられます。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはありません。

あなたの御座は、いにしえから堅く立ち、あなたは、とこしえからおられます。(詩篇93:1-2)

時々、私たちはこの世を見て、戦争があったり、暴力があったり、いろんな悪があったりするので、本当に神様がこの世を治めておられるのだろうか、と疑います。

けれども、詩人は私たちに思い出させます。

「神様はまだ治めておられます。神様はまだこの世を治めておられます。神様はこの世界を造られ、そのずっと前に、ご自分の王座を確立されました。

だからパニックに陥らないで。思い悩まないでください。むしろ、永遠の方に信頼してください。」

そして、詩人は私たちに尋ねます。「海の力が見えますか。波の音が聞こえますか。どのようにその波が海岸に激しく打ち寄せるか見えますか。神様は海よりも力強い方です。」

そして、詩人は歌います。

あなたのあかしは、まことに確かです。聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。主よ、いつまでも。(5)

神様は威光である方だけではなく、聖なる方です。私はそれを聞いて慰められます。なぜなら、神様が力強くてすべてを治めておられるけれど、神様が悪を愛する方なら、私たちは本当に困るからです。

しかし、神様は聖なる方であり、良い方であり、正義の方です。

だから、神様の民として、私たちは聖なる民にならなければなりません。へブル人への手紙の著者はこう書いています。

聖くなければ、だれも主を見ることができません。(へブル12:14)

だから、神様の威光と聖なるさを覚えて、聖さを求めましょう。

そしてある日、私たちは自分の目で、すべてを治めておられる神様を見ることになります。

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詩篇

神様の御名にほめ歌を歌う

詩篇92篇は安息日のために書かれました。神様はイスラエル人が神様を礼拝するために安息日を聖別されました。だから、この詩篇では、詩人は神様を賛美します。

私は1-2節が好きです。

主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。

朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。(詩篇92:1-2)

朝にあなたの恵みを言い表す。

どうして、私たちがそうするのは大切なのでしょうか。それは、今日も私たちが希望があることを思い出すからです。

私たちはどんな試練に直面しても、神様が私たちと共におられ、神様の手が私たちの上にあることを思い出します。

夜ごとにあなたの真実を言い表す。

日の終わりに、振り返って、神様が何をしてくださったか思い出すのは良いことです。

振り返れば、私たちが問題に直面しても、神様が私たちを捨てなかったことを悟ります。むしろ、神様が愛によって私たちを救い出してくださったことを悟ります。

だから、詩人は歌います。

主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。

主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。(4-5)

そして、詩篇1篇のように、詩人は悪者を正しい者と比べます。最初に、彼は歌います。

悪者どもが青草のようにもえいでようと、不法を行なう者どもがみな栄えようと、それは彼らが永遠に滅ぼされるためです。

しかし主よ。あなたはとこしえに、いと高き所におられます。

おお、主よ。今、あなたの敵が、今、あなたの敵が滅びます。不法を行なう者どもがみな、散らされるのです。(7-9)

けれども、正しい者に関して、詩人はこう歌います。

正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。

彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。

彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。

こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。主は、わが岩。主には不正がありません。(12-15)

私はその最後の部分が大好きです。私たちは年を取っても、実を結び、みずみずしく、茂ります。

年を取るとき、私は枯れたものになりたくない。私はみずみずしく、茂っているものになって、周りの人々に神様の愛で触れたいです。

しかし、私たちがいつも神様にほめ歌を歌わないなら、枯れるものになるかもしれません。神様の愛や忠実さや慈しみを忘れ、苦々しく貪欲のある心を持ったら、私たちは枯れた木のようになります。

だから、毎日時間を取って、神様をほめたたえましょう。

朝でもほめたたえましょう。夜でもほめたたえましょう。一日中、機会があれば、主をほめたたえましょう。

そして私たちの一日だけではなく、私たちの心も神様のために聖別しましょう。

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詩篇

全能の神の陰に宿ること

私が好きな本の一冊は「Shadow of the Almighty」(つまり、全能の神の陰)という本です。この本はジム・エリオットという宣教師について書かれています。彼は南米のアウカ族に対する宣教師でした。

この本の中には、彼の手紙や日記の書き入れがあります。残念ながら、日本語の翻訳はないのですが、もしあなたが英語ができるなら、私はその本を本当に勧めます。

皮肉なことに、その本のタイトルはこの詩篇から取られていますが、エリオットの人生のうわべを見ると、彼が本当に神様の陰に宿っていたかどうか疑うかもしれません。

詩篇91篇は神様の陰に宿る人の祝福について話します。詩人はその人についてこう言います。

あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。

また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。

千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。(詩篇91:5-7)

そして、彼はこの詩篇をこの素晴らしい言葉で終えます。

それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。

わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。

まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。

彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。

あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。(9-16)

それでは、エリオットはどのように死んだのでしょうか。実は、彼が福音を述べ伝えた人々が彼を殺してしまったのです。

それは神様の人々に対して、異常なことではありません。多くの人々は神様に従ったのに、暴力的な死を経験しました。

イザヤやエレミヤやペテロやヤコブやパウロは神様に従ったけれど、神様の敵に殺されました。

では、私のポイントは何でしょうか。神様の言葉が間違っているということでしょうか。とんでもない。

しかし、もしこの詩篇によって、私たちがこの壊れた世界で決して苦しまないと思うなら、その詩人の意味を誤解しているのです。

なぜなら、その詩人が(モーセかもしれませんが、私は分かりません)きっと神様の陰に宿る人々が苦しむのも見たことがあったと思うからです。

それでは、この詩人は何を言っているのでしょうか。

もし、私たちが神様の陰に宿るなら、私たちがどんな試練に直面しても、神様が私たちを決して見捨てないことを確信できます。神様は私たちを守るために天使を送ってくださり、神様ご自身が私たちと共におられます。

そして、死の陰の谷を歩いても、その谷の反対側にきっと辿り着くことができます。

そのとき、私たちが振り返るなら、神様が最後まで私たちとともにおられたことを見るでしょう。

私たちは神様が私たちの絶望の叫びを聞いてくださったことを悟り、私たちをいろんな災いから守ってくださったことも理解します。また、私たちは神様からの救いを見ます。

ジム・エリオットが天国に着いた時、そのように見えたと思います。彼の救い主は微笑んで、こう言われたでしょう。

「よくやったよ。あなたの死による実を見てごらん。あなたの妻と友達がもう一度アウカ族のところに行って、福音を述べ伝えたので、アウカ族はクリスチャンになった。

それに、あなたを殺した人々もクリスチャンになったよ。あなたはよくやったよ。」

だから、どんな試練に直面しても、神様の陰に宿りましょう。

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詩篇

正しい視点を保つ

モーセの人生について書いた時、私は詩篇90篇について書きましたが、そのブログを読んだ後で、もう少し書きたいと思いました。

この詩篇では、モーセは人間の短い寿命を神様の永遠さと比べます。

主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。(詩篇90:1)

1節では、神様の永遠さを見ることができます。世代が行ったり来たりするけれど、神様は決して変わりません。神様は最初からおられたし、いつまでもおられます。

それに、昔は神様がイスラエル人の住まいだったように、今でも神様は私たちの住まいです。

アブラハムとイサクとヤコブを見守った神様は、私たちも見守ってくださいます。ペテロとヤコブとヨハネと一緒に歩んだ神様は、私たちとともに歩んでくださいます。

神様はその人たちが生まれる前からおられ、時間が始まる前にもおられました。だから、モーセはこう言いました。

山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。(2)

しかし、私たちの寿命は息のようです。モーセはこう書きました。

あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」

まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。

あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。

朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。(3-6)

私はそのことが想像できません。もし80歳まで生きるなら、私の人生はもう半分以上終わりました。

今まで、私はいろんなことを経験しました。たくさんの喜びを経験したし、いろんな苦しみを経験したし、たくさんの勝利を経験したし、多くの失敗を経験しました。

けれども、私の人生は海の水玉のようです。実は、私の人生はそこまでさえも大きくないのです。

しかし、いつか私たちは神様の前で、どうやってこの人生を生きたかの申し開きをしなければならない。私たちの人生は短いけど、神様からのたまものです。だから私たちはどうやって生きているのでしょうか。

多くの人々はこの世の快楽のために生きるので、罪深い人生を生きます。けれども、モーセはこう記しました。

なたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。(8)

つまり、神様は私たちの罪を見るので、その罪のために私たちを裁きます。私たちは誰も知らないと思うかもしれませんが、結局その罪は暴露され、裁かれます。

だから、モーセはこう記しました。

だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。(11)

私たちはいつも神様の愛について話しますが、神様を恐れることも覚えていなければなりません。神様は罪を憎むので、罪人を罰します。

神様はいきなり私たちをその罪のために殺さないかもしれませんが、神様が私たちの罪を気にしないと思わないでください。

神様は愛ですけど、神様は聖なる方です。だから、神様は私たちが聖なる人になることを望んでおられます。

だから、モーセはこう祈りました。

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(12)

また、本当の喜びがどこから来るか思い出して、モーセのように歌いましょう。

どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。(14)

そして、毎日、さらに毎秒を神様に捧げて、こう祈りましょう。

私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。

どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。(17)

アーメン。

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詩篇

私たちの信頼できる神

詩篇88篇は本当に暗い歌だったけど、詩篇89篇はもっと明るく始まります。それでも、この詩篇は、苦しんだ時に書かれました。 詩人は歌います。

私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。

私はこう言います。「御恵みは、とこしえに建てられ、あなたは、その真実を天に堅く立てられる」と。(詩篇89:1-2)

そして詩人は神様の偉大さを思い出します。

主よ。天は、あなたの奇しいわざをほめたたえます。また、聖徒たちの集まりで、あなたの真実をも。

まことに、雲の上ではだれが主と並びえましょう。力ある者の子らの中でだれが主に似ているでしょう。

主は、聖徒たちのつどいで大いに恐れられている神。主の回りのすべての者にまさって恐れられている方です。

万軍の神、主。だれが、あなたのように力がありましょう。主よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。(5-8)

そして、彼は神様に従う人の喜びについて歌い(15-17)、神様のダビデに対する約束を思い出します。つまり、ダビデの子孫はいつまでもイスラエルを王として治めます。(3-4,19-37)

けれども、急にこの詩篇の感情は変わります。なぜなら、その約束はもうだめになったようだからです。

ダビデの子孫の罪のせいで、神様は彼らを拒絶され、彼らに背を向けられました。だから詩人は叫びます。

いつまでですか。主よ。あなたがどこまでも身を隠し、あなたの憤りが火のように燃えるのは。。。

主よ。あなたのさきの恵みはどこにあるのでしょうか。それはあなたが真実をもってダビデに誓われたものです。(46,49)

けれども、イスラエルの状態は暗かったのに、神様は変わりませんでした。神様はイスラエル人を自分の土地に一回だけではなく、二回戻されました。

そして、いつかダビデの子孫イエス様はこの世に戻って、神様が約束通りにこの世を永遠に治めてくださいます。

私たちは時々見えないけれど、神様の愛と忠実さは決して変わらないものです。神様が約束されると、いつもその約束を守ってくださいます。

神様はイスラエル人への約束を守ってくださったし、私たちへの約束も守ってくださいます。だから、詩人のように神様に信頼し続けて、歌いましょう。

ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。(52)

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詩篇

神様の沈黙

ヨブが詩篇88篇を書いたわけではありませんが、この詩篇を読むとき、私はヨブの話を思い浮かべます。なぜなら、この詩人は自分の苦しみの中にある神様の沈黙について話すからです。

けれども、実生活と同じように、この詩篇にはハッピーエンドがありません。

詩人は叫びます。「神様。私の声を聞いてください。あなたはここにおられるでしょうか。私はトラブルで圧倒されています。私は病気で、死にかけています。もう私の力はなくなってしまいました。」(詩篇88:1-5)

そして、詩人は、どうして神様がそのトラブルを送ったのか尋ねて、文句を言います。詩人は何度もこう言います。

「あなたは私を最も深い穴に置いておられます。」(6)

「あなたの激しい憤りが私の上にとどまります。」(7)

「あなたは私の親友を私から遠ざけ、私を彼らの忌み嫌う者とされました。」(8)

そして、彼は叫びます。「私はあなたを呼んでいる。どうして、あなたは隠れておられるでしょうか。どうしてあなたは私を拒絶しておられるのでしょうか?私の生涯、ずっと苦しんでいます。私は独りぼっちです。」(13-18)

それは、この詩篇の終わりです。

希望の言葉も、慰めの言葉もありません。

時々私たちもそう感じることがあるでしょう。もし、あなたがそう感じたら、覚えておきましょう。たくさんの人々もそう感じたことがあります。あなただけではありません。

もちろん、この詩人はそう感じました。多分、すべてのクリスチャンはそう感じたことがあると思います。

ある人は諦めて、その穴を決して出ませんでした。そのような人にならないでください。

覚えておきましょう。あなたの信仰はあなたの感情に基づいてはいけません。むしろ、神様の性格とみ言葉に基づいていなければなりません。

あなたの感情は時々揺るぐかもしれません。それは不安定なものです。だから、感情は信頼できる土台ではありません。

サタンはそのことをよく知っています。だから神様が沈黙されるとき、サタンはあなたを絶望させようとします。あなたの信仰を奪おうとします。

私たちの感情はいつも変わります。しかし、神様とその言葉は決して変わりません。あなたは神様の約束を信頼できます。

だから、落ち込んでいる時や失望している時、自分の感情に頼らずに、神様とその約束に頼りましょう。

そうすれば、どんなに暗いトンネルを通っても、あなたは最終的には抜け出すことができるのです。

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詩篇

神様の民

詩篇87篇はエルサレムについてですが、この詩篇を読むとき、私は神様のご自身の民に対する愛がわかりますし、どのように神様が私たちのことを喜んでくださるかを見ることができます。

詩人はエルサレムについて歌います。

主は聖なる山に基を置かれる。

主は、ヤコブのすべての住まいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。

神の都よ。あなたについては、すばらしいことが語られている。セラ (詩篇87:1-3)

どうして神様はエルサレムを愛されたのでしょうか。神様はエルサレムの城壁や建物を愛されたのではなく、エルサレムに住んでいた人々を愛されました。神様は彼らをご自身の民として選んで呼ばれました。

その愛によって神様がエルサレムを確立されたので、周りの国民はそれを見て、感心しました。

そして、エルサレムの敵、ラハブ(つまり、エジプト)や、バビロンや、ペリシテも、いつかエルサレムの栄光を見て、神様を認めます。

その時、彼らは「その人はシオンで生まれた。その人もシオンで生まれた」と誇ります。(4)

それに、神様は彼らの名前を登録して、「この民はここで生まれた」と認められます。

この詩篇を読むとき、私が考えるのは、これが教会のための神様の意図であるということです。

教会は建物ではなく、神様の民です。そして、神様がエルサレムの人々に愛を注いだように、私たちにも愛を注いでくださいます。

神様の希望は、私たちが周りの人々に影響を与えることです。また、私たちを憎む人々でも、私たちを通して神様を知ることです。

そして、私たち皆が新しいエルサレムに着いたら、神様は命の書を指して、「私が確立した教会で、その人は生まれました。その人も。その人も」と言われるでしょう。

多分、誇りを持って、神様はそう言われるでしょう。

そして、神様が命の書の名前のすべてを呼ばれた後で、私たち皆は歌います。

私の泉はことごとく、あなたにある。(7)

言い換えれば、「主よ。あなたは私の命と愛と喜びの源です。」

私たちは神様の民です。神様は私たちを愛して、喜んでくださいます。しかし、できるだけ、多くの人々を天国に連れて行きましょう。私たちは隠れることができない山の上にある町になりましょう。

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詩篇

苦難の中にいる時、心を守る

ソロモン王はこう書きました。

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4:23)

もちろん私たちはいつもそうするべきですが、私たちが苦難の中にいる時は、特にそうするべきです。ソロモンの父ダビデは、それをよく知っていました。なぜなら、彼はいろんな試練を経験したからです。

詩篇86篇の最初で、彼は神様の助けを願います。

ダビデの人生を見る時、私たちが分かっているのは、苦難の中にいる時に彼が自分の力と知恵に頼らずに、神様を信頼したということです。だから、4節で、彼は言います。

主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。(詩篇86:4)

そして、彼は神様の性格について考え始めます。彼は祈りました。

主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。

主よ。私の祈りを耳に入れ、私の願いの声を心に留めてください。

私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるからです。(5-7)

つまり、「私はいろんな問題があるけれど、あなたが私を愛してくださることを信じます。あなたが良い方であることを信じます。また、私が呼ぶとき、あなたがきっと答えてくださることを信じます。」

クリスチャンはそのことを信じるはずですが、試練に直面するとき、疑いが私たちの心に入るのは簡単なことです。しかし、ダビデは全然疑いませんでした。

むしろ、彼は神様の偉大さに焦点を当てました。つまり、ダビデは神様にとってダビデの問題が大きすぎることはないと思い出しました。だから、彼は歌いました。

主よ。神々のうちで、あなたに並ぶ者はなく、あなたのみわざに比ぶべきものはありません。

主よ。あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御名をあがめましょう。

まことに、あなたは大いなる方、奇しいわざを行なわれる方です。あなただけが神です。(8-10)

そして、ダビデは自分の心について考えて、主に祈りました。

主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。(11)

ある英語の翻訳には、こう書いてあります。

あなたの道を私に教えてください。そうすれば、私はあなたの忠実さを信じます。

試練に直面するとき、この箇所は本当に大切だと思います。なぜなら、大変な問題に直面するとき、時々私たちの信仰は揺るぎ始めるからです。

けれども、試練の中で、ダビデは祈ります。「主よ、あなたの道を教えてください。私の心を一つにしてください。私があなたの真理の道を歩むように、私があなたを信頼できるように。」

私たちもそんな態度が必要です。私たちはいつも神様を見つめ、私たちの信仰を持ち続けるべきです。

だから、苦難の中にいる時、ダビデのように歌いましょう。

わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。

それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。(12-13)

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悔い改めとあわれみ

詩篇85篇がいつ書かれたか誰も知りませんが、多分イスラエル人がバビロンへの追放の後に書かれたものだと思われます。

詩人はこう書きました。

主よ。あなたは御国に恵みを施し、ヤコブの繁栄を元どおりにされました。

あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪を、おおわれました。セラ

あなたは、激しい怒りをことごとく取り去り、燃える御怒りを、押しとどめられました。(詩篇85:1-3)

イスラエル人がバビロンに70年いた後で、神様は彼らをエルサレムに帰らせました。多分、詩人はこの箇所でそのことについて歌ったのでしょう。

それでも、イスラエル人はまだトラブルを抱えていました。だから、詩人は願います。

われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。

あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。

あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。

主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。(詩篇85:4-7)

なぜ、詩人はそう祈ったのでしょうか。ネヘミヤ記によれば、ユダヤ人がエルサレムに帰ったけれど、城壁はまだ崩れていたので、彼らの敵はいつも攻撃しました。だからユダヤ人の人生は本当に大変でした。

だから、詩人は神様のあわれみを願います。そして、詩人は本当に大切なことを言います。

私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。

まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。(詩篇85:8-9)

私たちはよく神様のあわれみのために祈りますが、平和は悔い改める人のためであることを覚えておきましょう。

もし、私たちが神様に背を向け、私たちを滅ぼした罪に戻るなら、神様のあわれみを期待できません。

もちろん、神様が私たちが完全な人になるまであわれんでくださらないわけではありません。とはいえ、神様は私たちの心を望まれます。神様は、私たちが古い道を行かずに、神様の道を歩み始めることを見たいと望まれます。

たまに私が転ぶかもしれませんが、神様の道を行き続けるなら、神様は私たちを拾って、私たちを導き続けてくださいます。そして、私たちは神様の祝福を知ることができます。

だから、詩人はこう書きました。

まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。

義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。(詩篇85:12-13)

あなたはどうですか。悔い改めの道を歩んでいますか。

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永遠の物に照準を合わせる

詩篇84篇は本当に美しい歌だと思います。私が大好きな詩篇の一つです。この詩篇で、私たちはこの世の物に照準を合わせずに、永遠の物に照準を合わせるように励まされます。

この詩篇はエルサレムに巡礼する喜びを言い表していますが、私たちの新しいエルサレムへの巡礼とも関連があります。

詩人は歌います。

万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。

私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。(詩篇84:1-2)

私たちはそのような態度を持って、神様と歩みたいです。神様を恋い慕う心が欲しいです。けれども時々、私の魂は乾きます。

だから、その時、今でも、私は祈ります。「主よ。あなたを慕います。あなたの臨在をもっと知りたいです。あなたのみ前にいたいです。」

この詩人はそのように祈りました。

私は3節も好きです。

雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。(3)

この箇所を読むとき、イエス様の言葉を思い出します。

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(マタイ10:29-31)

もし、神様が雀を主の家に歓迎したら、神様は私たちも歓迎してくださるのではないでしょうか。

そして、詩人は礼拝の喜びを言い表します。

なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。(4)

そして、詩人は神様の家への巡礼について考え始めます。彼は歌います。

なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。

二つのことが私の心を打ちます。

一つ目は、彼らは現在どこにいるかに焦点を当てずに、どこに行くかに照準を合わせたということです。

クリスチャンとして、私たちもそうするべきです。この世は私たちの住まいではありません。だから、私たちは永遠の住まいに照準を合わせるべきです。

二つ目は、新しいエルサレムに巡礼するとき、自分の力ではなく、神様の力によって行くべきだということです。私たちは自分の力ではできません。神様の力が必要です。

6節で、詩人は歌います。

彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。(6)

この世では、私たちは時々涙の谷を過ぎます。私たちは痛みや愛する人の死を経験します。けれども、神様はその場所を泉の湧く所とされます。恵みの雨がその痛みと苦しみを覆って癒します。

だから、

彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。(7)

イザヤはこう書きました。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)

だから、詩人は神様に叫びます。

万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。セラ

神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。(8-9)

この箇所では、詩人は王のために祈りました。その王はイスラエルの盾でした。

しかし、私たちクリスチャンにとって、その王はイエス様です。この世で、イエス様は私たちの盾です。

最後に、詩人は礼拝者の祝福と喜びについて歌います。

まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。

まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。

万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。(10-12)

私たちはただ旅人です。この世の物は将来の栄光の影だけです。

だから、一時的なものに照準を合わせずに、神様に照準を合わせましょう。

あなたはどこに照準を合わせていますか。