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詩篇

憐れみを求める叫び

詩篇123篇

詩篇123篇は興味深い比喩を使っています。詩人はこう書きました。

あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。

ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。(詩篇123:1~2)

一見したところ、この詩篇は奴隷がその主人に仕えることを描写しています。その時代、もちろん、奴隷はその主人の言葉に注意しましたが、それ以上に奴隷は主人の合図に注意して、その主人の必要を察していました。

そのように、私たちも神様に目を上げて、仕える心を持つべきです。私たちの人生は自分中心ではありません。私たちが自分だけのために生きるのは良くありません。むしろ、私たちの創造主に仕えるべきです。

けれども、2節の全体を見ると、こう書いてあります。

ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。

要するに、奴隷は仕えるために主人に目を上げたのではありません。むしろ、彼は憐れみを求めていました。彼は叫びます。

私たちをあわれんでください。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。

私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。(3-4)

詩篇の背景ははっきりしません。バビロンへの追放の時に書かれたかもしれません。もしかしたら、アンティオコス4世エピファネスの時代に書かれたかもしれません。彼は、主の宮で祭壇の上で豚を殺し、その行動によって、主の宮を汚しました。

とにかく、イスラエル人にはあまり希望がありませんでした。だから、詩人は主に目を上げました。詩人は、イスラエル人の罪のため、彼らが神様からの祝福に値しないことをよく知っていました。

とはいえ、彼は神様の性格も知っていました。つまり、神様が私たちを懲らしめるかもしれませんが、私たちをまだ愛しておられることを知っていました。また、私たちが悔い改めると、神様が赦してくださることを知っていました。

この詩篇を読むと、私はイエス様のたとえ話を思い出します。ある人は神様の前に立って、自分の胸をたたいて言いました。「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください。」

イエス様はその人についてこう言われました。

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。(ルカ18:14)

あなたの罪のために、神様に懲らしめられているかもしれません。あなたは神様に捨てられたと思うかもしれません。

しかし、イエス様に目を上げて、悔い改めましょう。憐れみを願いましょう。そうすれば、イエス様はあなたを赦してくださいます。

あなたが神様の憐れみを知るように。

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