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マタイの福音書 マタイ11章 ルカの福音書 ルカ17章

疑いと戦う

マタイ11:1-6;ルカ17:18-24

聖書に登場する英雄たちも、疑いや恐れと戦っていたことを知ると、私はなんだか安心します。なぜなら、私が独りぼっちではないことが分かるからです。

バプテスマのヨハネも、自分の疑いや恐れと戦いました。彼は神様のために、とても重要な使命を果たしました。彼は人々に悔い改めを呼びかけ、イエス様の道を準備しました。ところが、突然その働きは終わってしまいました。

ヘロデ王は、自分の弟の妻と結婚しました。そのことをヨハネが責めると、ヘロデ王は怒り、ヨハネを捕えて牢に入れました。

おそらく、ヨハネは最初、確信をもって喜びながらこう宣言したでしょう。 「メシアは来た!イエス様は、この世の王や私たちの敵から救い出してくださる!」

けれども、時間が経っても、イエス様はさまざまな驚くべきことをされたものの、政治的なことにはまったく関心がないようでした。ヘロデ王は依然としてガリラヤを統治し、ローマ帝国も存続していました。そして、ヨハネはなお牢の中にいました。

時が経つにつれ、ヨハネの確信は次第に揺らいでいったかもしれません。ある日、彼の信念は完全に消え去ったのではないでしょうか。

「イエス様は本当にメシアなのだろうか?私は間違っていたのだろうか?私は本当に神様の声を聞いたのだろうか?」

ある日、ヨハネの弟子たちが彼のもとへやってきて、おそらくイエス様のことを語ったでしょう。その話をすべて聞き終えたヨハネは、静かに座りました。そして弟子たちにこう頼みました。

「イエス様に伝えてください。『おいでになるはずの方はあなたですか?それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか?』」

弟子たちはイエス様に近づいたとき、どのように感じたでしょうか。ヨハネの失望を目の当たりにし、彼らも疑い始めたのでしょうか。それとも、自分たちの師の問いをしっかりと受け止めたでしょうか。

いずれにせよ、彼らはヨハネの言葉をイエス様に伝えました。

イエス様はどのように反応されたでしょうか。彼は怒ることはありませんでした。ヨハネの弱い信仰を責めることもありませんでした。むしろ、イエス様は弟子たちを優しく見つめられました。そして、周りにいる病に苦しむ人々を見渡されました。

イエス様は癒し始めました。目の見えない人、耳の聞こえない人、足の不自由な人、病に苦しむ人、イエス様は彼らすべてを癒されたのです。

そしてイエス様は、もう一度ヨハネの弟子たちに向かって、こう言われました。

あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。

だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。(マタイ11:4-6)

時々、ヨハネのように、私たちは疑いと戦います。「イエス様は本当におられるのだろうか」と問いかけることがあります。

私たちは自分の状況を見渡し、この世界を見つめます。そして、こう思うことがあります。

「私の信仰は本物なのだろうか。イエス様は私の信仰に値する方なのだろうか。もしかすると、私の信仰は無意味なのではないか。イエス様に従うことは本当に価値のないことなのだろうか。」

ありがたいことに、イエス様は私たちの疑いを責めることはありません。むしろ、こう語りかけてくださいます。

「私のしてきたことを覚えていなさい。私はあなたを助けてきただろう。私はあなたを癒してきただろう。私は今もここにいる。私は今もあなたの人生の中で働いている。」

しかし、それだけではなく、十字架を心に留めておきましょう。その十字架こそがイエス様の愛の証だからです。そして、イエス様の復活によって、私たちはイエス様が私たちを救う力を持っていることを確信できるのです。

あなたが決してイエス様につまずくことのないように。むしろ、イエス様こそが私たちの立つべき土台となるように。その土台は、私たちの足元で決して崩れることはありません。

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