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マタイの福音書 マタイ11章

イエス様から学ぶこと

私はハワイ大学を卒業して以来、学校に戻る気にはなりませんでした。でも、振り返ってみると、修士の学位などを取っておけばよかったなあと思います。

とはいえ、学校は大変です。宿題も試験もたくさんあるからです。

それでも、クリスチャンとして、イエス様は私たちを学校に出席するように呼ばれます。あなたが神学校に出なくてはならないと言うわけではありません(神様はあなたをそうするように呼ぶかもしれませんが)。

ただ、私たちはイエス様の学校に出るように呼ばれています。

イエス様はこう言われました。

あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。(マタイの福音書11:29)

イエス様の時代、多くのラビたち(つまり、先生たち)は弟子たちをこのような言葉で招きました。

イエス様の学校では、私たちは何を学ぶのでしょうか。私たちは、天の父がどのような方であるかを学びます。イエス様はこう言われました。

それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。(27)

多くの人々は神様を知りたがりますが、どうすれば神様を知ることができるか分かりません。目に見えない神を知るには、どうすればよいのでしょうか。もし神様がご自身を現わさないなら、それは不可能です。

けれども、イエス様を通して、神様はご自身を現わされます。イエス様は、天の父がどのような方であるかを教えてくださいます。そして、イエス様の人生を見ると、天の父の性格が見えてきます。イエス様はこう言われました。

わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9)

イエス様の性格を見ると、天の父の性格が見えてきます。イエス様の言葉を聞くと、私たちは天の父の言葉を聞いていることになります。

さらに、イエス様を通して、神様が私たちにどのように生きてほしいと望んでおられるかが分かります。それは、「しなさい」と「してはならない」というリストに従う生活よりも、はるかに優れた人生です。

パリサイ人は、そのような生活を送っていました。彼らの「しなさい」と「してはならない」というリストは非常に長いものでした。

しかし、彼らの模範に従った人々は重荷を背負うことになりました。彼らは神様の愛と恵みを見つけることができず、むしろ裁きを見つけました。自由を得ることなく、守りきれない多くのルールに縛られてしまったのです。

それでも、イエス様は私たちにこう言われます。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。

そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(28-30)

イエス様はルールそのものに強い関心を持っておられるわけではありません。イエス様は、私たちが神様に近づくことを望んでおられます。また、私たちが周りの人々を愛することを望んでおられます。

そして、私たちが弱っている時には、イエス様が私たちを強めてくださいます。知恵が足りない時には、イエス様が教えてくださいます。私たちがつまずくと、イエス様が引き上げてくださいます。失望する時には、イエス様が励ましてくださいます。

だから、イエス様の教えは重荷ではありません。むしろ、その教えは私たちに自由を与えるものです。

イエス様の学校に入る資格とは何でしょうか。それは、へりくだった心です。そして、イエス様から学びたいと願う心です。

イエス様の時代、多くの宗教的な人々は、そのような心を持っていませんでした。その一方、イエス様の弟子たちは、そのような心を持っていました。だからこそ、イエス様はこう言われました。

天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。

そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(25-26)

あなたはどうでしょうか。イエス様の学校に出たいと願っていますか。イエス様から学びたいと思っていますか。

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マタイの福音書 マタイ11章

信じられない?もしくは、信じたくない?

多くの人々は「私は神様の存在を信じられません」と言います。そして、彼らはその理由をいくつも挙げます。

けれども、多くの場合、彼らが本当に信じられないわけではありません。むしろ、信じようとしないのです。

彼らは自然の中に神様の働きを見ます。周囲の人々の人生にも、時には自分自身の人生にも、神様の働きを感じることがあります。それでも、神様を信じようとはしません。なぜでしょうか。

なぜなら、神様が存在するなら、彼らは自分の人生が自分のものではないことを認めなくてはならないからです。自分勝手に生きることはできません。そして、神様の前で自分の人生について申し開きをしなくてはならないのです。

だから、彼らはさらに証拠を求めます。しかし、その証拠が与えられても、彼らはなおも証拠を求め続けるのです。

神様がご自身を明確に現わされたとしても、彼らはそれが幻覚だと自分に言い聞かせるかもしれません。「もしくは、お酒を飲みすぎたのかもしれない」と思うこともあるでしょう。

イエス様の時代、イスラエルの人々も同じように反応しました。イエス様が奇跡を行い、病の人を癒し、死者を復活させても、なお信じない人々がいました。むしろ、さらに多くの奇跡を求めました。

その結果、イエス様は彼らに「もうしない」と言われました(マルコ8:12)。

さらに、イエス様は信じない人々を裁かれました。

ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。

おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。

しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。(マタイ11:21-24)

この言葉で、イエス様は私たちに何を教えておられるのでしょうか。神様が私たちにご自身を示されれば示されるほど、また、語りかけられれば語りかけられるほど、私たちはより大きな責任を負うことになります。そして、神様を拒み続けるなら、私たちは厳しく裁かれるのです。

ですから、もしあなたが本心では信じたくないと思っているなら、「もっとしるしを示してください」と祈ることは非常に危険です。なぜなら、そのしるしが示された時点で、あなたには責任が生じるからです。

やがて、私たちは皆、神様の御前に立つことになります。その日、神様は私たちの言い訳を取り除き、心の奥にある動機を明らかにされるのです。

その日、あなたは気づくでしょう。あなたが信じられなかったのではなく、信じようとしなかったのだと。そして、あなたは裁きを受けることになります。

ですから、あなたの言い訳を捨ててください。あなたのプライドを捨ててください。もしイエス様を主として受け入れ、従うなら、あなたは祝福されます。この世においても、そして永遠の世界においても、祝福されるのです。

ペテロはこう言いました。

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(第一ペテロ5:6)

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すべての人々を喜ばせようと思う?

英語には、こんなことわざがあります。「You can please some of the people some of the time, but you can’t please all of the people all of the time.」

つまり、「あなたは、たまにある人々を喜ばせることができるかもしれません。しかし、いつもすべての人々を喜ばせることはできません。」ということです。

このことわざは、イエス様に対しても当てはまりました。イエス様は完全な方でした。イエス様のすべての行動は完全でしたし、イエス様は完全に人々を愛しておられました。

それでも、イエス様はすべての人々を喜ばせたわけではありません。そして、イエス様ご自身も、すべての人々を喜ばせようとは全く思われていませんでした。

むしろ、イエス様は批判者たちの偽善を指摘されました。そして、彼はこう言われました。

この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。

「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。」

ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言います。

でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。(マタイ11:16-19)

要するに、バプテスマのヨハネが来て禁欲生活を送ったとき、パリサイ人たちや律法学者たちはこう言いました。「その人の言うことを聞くな。彼は頭がおかしい。」

しかし、イエス様が来られたとき、イエス様は罪人と共に食べたり飲んだりされたため、彼らはこう言いました。「その人の言うことを聞くな。彼は食いしん坊で大酒飲みだ。」(もちろん、イエス様が食いしん坊で大酒飲みだったわけではありません。)

このことからわかるのは、パリサイ人たちがヨハネとイエス様を拒絶したのは、彼らの生活スタイルのためではなかったということです。実際のところ、彼らはヨハネとイエス様が伝えたメッセージそのものを受け入れなかったのです。

多くの人々も、そのパリサイ人たちのようです。私たちがイエス様の言葉を伝えるとき、彼らはそのメッセージによって心地悪さを感じることがあります。

すると、彼らはそのメッセージを汚すため、メッセンジャーの評判を傷つけようとします。そして、批判できる点を探し出そうとします。そんな人々を喜ばせることは、絶対にできません。

ここで私が言いたい要点は何でしょうか。そんな人々を喜ばせようとしないでください。

賢い人は、すべての人々を喜ばせようとはしません。賢い人は、ただ一人、神様を喜ばせようとします。そして、その結果として、彼らは神様のために実を結ぶのです。

イエス様はこう言われました。

知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。(ルカ7:35)

それはどういう意味でしょうか。相手があなたを批判しても、あなたが結んだ実を通して、あなたの知恵の正しさが証明されるのです。

だから、すべての人々を喜ばせようとする必要はありません。イエス様でさえそれをされませんでした。私たちも同じです。ですから、私たちを召された方を喜ばせることに集中しましょう。

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私たちのための神の目的を拒否する

私たち皆は偶然ではなく、神様の目的のために造られた存在です。

その目的は何でしょうか。

それは、私たちが神様との関係を持つために造られたことです。

そして、私たちは人間関係のために造られました。私たちは周りの人々に触れることができるように、そして私たち自身も周りの人々に触れられることができるように造られたのです。

さらに、私たちは神様から授かった才能や賜物を通して神様の心を実践するように造られています。

残念ながら、多くの人々はその目的を知らずに生活を続けてしまいます。なぜでしょうか。彼らは神様が与えてくださった目的を拒絶し、自分自身のためだけに生きているからです。

このように、パリサイ人たちと律法学者たちはそのような生き方をしていました。イエス様はバプテスマのヨハネの働きが神様からのものであることを認められましたが、ルカによれば、パリサイ人たちと律法学者たちについてこう書かれています。

。。。パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。(ルカ7:30)

ヨハネのメッセージは次の通りでした。

1.悔い改めなさい。その悔い改めのしるしはバプテスマです。

2.メシア(救い主、または王)はすぐに来ます。自分の心を整えなさい。

しかし、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の義を誇りに思い、自分が悔い改める必要があるとは認めませんでした。

さらに、神様がご自身を現された時、つまりイエス様が来られた時、彼らはイエス様を拒絶しました。それだけではなく、彼らはイエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。

だから、マタイはこう記しています。

バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタイ11:12)

バプテスマのヨハネの時代に、王であるイエス様が来られたにもかかわらず、パリサイ人たちと律法学者たちは、その王国に激しく敵対しました。

彼らは神の王国を守っていると思っていたのに、実際には神様の王国を攻撃してしまったのです。その結果、彼らは神様が彼らに対して持っていた御心を逃してしまいました。

しかし、ルカは他の人々についてこう記しています。

ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。(7:29)

その人々はへりくだり、神様の道が正しいことを認め、悔い改め、最終的にイエス様を王として受け入れたため、神様の王国に入ることができました。また、彼らは神様が彼らのために持っていた目的に立ち返ったのです。

あなた自身はどうでしょうか。神様があなたに与えてくださった目的に従っていますか。

最初のステップは悔い改めです。自分の最善を知らないことを認め、神様の道を受け入れる態度を取ることが必要です。特に、イエス様が真理であり、道であり、命であることを認めなくてはなりません。

言い換えると、イエス様をあなたの主として受け入れるべきなのです。

今、そうしませんか。

主よ、私は長い間、自分自身の道を歩み続け、あなたが私に示してくださった目的を逃してしまいました。私を赦してください。

私の罪のために十字架で死んでくださり、そして三日目によみがえられたイエス様を信じます。どうか私の主となってください。

これからは、あなたに従いたいです。あなたの御心に従いたいです。私をあなたに近づけてください。そして、あなたの御心を私に示してください。イエス様のみ名によってお祈りします。アーメン。

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疑いと戦う

聖書に登場する英雄たちも、疑いや恐れと戦っていたことを知ると、私はなんだか安心します。なぜなら、私が独りぼっちではないことが分かるからです。

バプテスマのヨハネも、自分の疑いや恐れと戦いました。彼は神様のために、とても重要な使命を果たしました。彼は人々に悔い改めを呼びかけ、イエス様の道を準備しました。ところが、突然その働きは終わってしまいました。

ヘロデ王は、自分の弟の妻と結婚しました。そのことをヨハネが責めると、ヘロデ王は怒り、ヨハネを捕えて牢に入れました。

おそらく、ヨハネは最初、確信をもって喜びながらこう宣言したでしょう。 「メシアは来た!イエス様は、この世の王や私たちの敵から救い出してくださる!」

けれども、時間が経っても、イエス様はさまざまな驚くべきことをされたものの、政治的なことにはまったく関心がないようでした。ヘロデ王は依然としてガリラヤを統治し、ローマ帝国も存続していました。そして、ヨハネはなお牢の中にいました。

時が経つにつれ、ヨハネの確信は次第に揺らいでいったかもしれません。ある日、彼の信念は完全に消え去ったのではないでしょうか。

「イエス様は本当にメシアなのだろうか?私は間違っていたのだろうか?私は本当に神様の声を聞いたのだろうか?」

ある日、ヨハネの弟子たちが彼のもとへやってきて、おそらくイエス様のことを語ったでしょう。その話をすべて聞き終えたヨハネは、静かに座りました。そして弟子たちにこう頼みました。

「イエス様に伝えてください。『おいでになるはずの方はあなたですか?それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか?』」

弟子たちはイエス様に近づいたとき、どのように感じたでしょうか。ヨハネの失望を目の当たりにし、彼らも疑い始めたのでしょうか。それとも、自分たちの師の問いをしっかりと受け止めたでしょうか。

いずれにせよ、彼らはヨハネの言葉をイエス様に伝えました。

イエス様はどのように反応されたでしょうか。彼は怒ることはありませんでした。ヨハネの弱い信仰を責めることもありませんでした。むしろ、イエス様は弟子たちを優しく見つめられました。そして、周りにいる病に苦しむ人々を見渡されました。

イエス様は癒し始めました。目の見えない人、耳の聞こえない人、足の不自由な人、病に苦しむ人、イエス様は彼らすべてを癒されたのです。

そしてイエス様は、もう一度ヨハネの弟子たちに向かって、こう言われました。

あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。

だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。(マタイ11:4-6)

時々、ヨハネのように、私たちは疑いと戦います。「イエス様は本当におられるのだろうか」と問いかけることがあります。

私たちは自分の状況を見渡し、この世界を見つめます。そして、こう思うことがあります。

「私の信仰は本物なのだろうか。イエス様は私の信仰に値する方なのだろうか。もしかすると、私の信仰は無意味なのではないか。イエス様に従うことは本当に価値のないことなのだろうか。」

ありがたいことに、イエス様は私たちの疑いを責めることはありません。むしろ、こう語りかけてくださいます。

「私のしてきたことを覚えていなさい。私はあなたを助けてきただろう。私はあなたを癒してきただろう。私は今もここにいる。私は今もあなたの人生の中で働いている。」

しかし、それだけではなく、十字架を心に留めておきましょう。その十字架こそがイエス様の愛の証だからです。そして、イエス様の復活によって、私たちはイエス様が私たちを救う力を持っていることを確信できるのです。

あなたが決してイエス様につまずくことのないように。むしろ、イエス様こそが私たちの立つべき土台となるように。その土台は、私たちの足元で決して崩れることはありません。