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ローマ人への手紙

兄弟たちと姉妹たちを裁く?

教会における大きな問題の一つは、兄弟姉妹が互いに裁き合うことです。

ただし、誤解しないでください。私は明確に善悪が分かれる問題について話しているのではありません。

クリスチャンが意図的に罪を犯すとき、パウロはためらわずにその行為を裁きました。コリント人への手紙 第一 5章では、その具体的な例が示されています。

けれども、ある問題については、聖書の著者たちが何も言及していない場合があります。また、彼らが判断を個々のクリスチャンに委ねることもあります。

今日の箇所では、パウロはそうした個々のクリスチャンに委ねられる問題の一つについて語っています。

パウロの時代、クリスチャンたちは肉を食べることについて議論していました。なぜなら、ローマ帝国において、多くの肉が市場で売られる前に、偶像に捧げられていたからです。

他のクリスチャンたちは宗教的な祝日について議論しました。特に、ユダヤ人ではないクリスチャンたちがユダヤ教の祝日を祝うべきかどうかを議論しました。また、異邦人のクリスチャンたちが安息日を祝うべきかどうかについても議論がありました。

パウロにとって、その議論は白黒をつけるものではありませんでした。そのため、パウロは彼らに対し、そのようなことについて裁いてはならないと語りました。(1)

パウロによれば、彼らはそのことについて自分の良心に従うべきでした。

したがって、ユダヤ人たちがユダヤ教の祝日や安息日を祝うべきだと考えるならば、そうすべきです。なぜなら、彼らにとって急にその祝日や安息日を祝うのをやめることは、神様を侮る行為に等しいからです。

一方で、異邦人たちはユダヤ教の祝日は自分たちとは関係がないと考えました。

この議論について、パウロはユダヤ人のクリスチャンたちも異邦人のクリスチャンたちも責めることはありませんでした。むしろ、パウロはこう語りました。

ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。

食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(ローマ人への手紙14:5-6)

つまり、あなたの信仰によってユダヤ教の祝日が大切だと思うなら、それを祝うべきです。神様はあなたの心を見て、喜ばれるでしょう。けれども、もしあなたがすべての日を同じように考えるなら、それでも問題ありません。

偶像に捧げられた肉について心配する人々に、パウロはこう語りました。

私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。(14)

つまり、「私の考えでは、偶像に捧げられた肉を食べても問題ありません。けれども、もしあなたがそのことを本当に気にするなら、食べないほうがよいでしょう。」

さらに、パウロは次のようにも語っています。

食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。

他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。(3-4)

また、

自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。次のように書かれています。

「わたしは生きている──主のことば──。

すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」

ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。

こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。

いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。(10-13)

私は、パウロの言葉に何かを付け加える必要はないと思います。彼の言葉だけで十分に明確だからです。

パウロの要点は、神様こそが私たちの主であるということです。そして、私たちすべてが神様の裁きの座の前に立つことになります。

だから、白黒はっきりしない問題について、私たちは互いに裁き合うべきではありません。その裁きを神様に委ねることが求められています。

私は十代の頃、ほかのクリスチャンの高校生たちとともに働き、バイブル・クラブで子供たちに教えました。その前には合宿があり、どのようにクラブを運営するかについて学びました。

休憩時間、ある人はトランプをしていました。当然ながら、彼らはギャンブルをしていたわけではありません。

けれども、一人の人はそのことをとても気にしました。なぜなら、彼女のご両親は「トランプをすることは良くない」と教えていたからです。

ほかのクリスチャンたちはそれを聞くと、「そんなの馬鹿げている。律法主義的な考え方だ」と言いました。

しかし、もう一人のクリスチャンはこう答えました。 「いや、私たちは彼女の良心を重んじるべきです。」

そのため、私たちは合宿の間、トランプをやめることにしました。

私たちは彼女を裁くことなく、彼女もまた自分の意見を述べましたが、私たちを裁くことはありませんでした。こうして、私たちは平和を保ち、神様のために素晴らしい伝道の働きをすることができました。

これこそが、パウロのポイントです。私たちは常に完全に同意できるわけではありません。だから、白黒はっきりしない問題については、互いに受け入れ合うべきです。

そうすれば、キリストのために、この世に大きな影響を与えることができるのです。

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イエス様の再臨を待ち望む

イエス様が天へ帰られたとき、使徒たちは空を見上げていました。そのとき、天使が現れ、こう告げました。

ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。

あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒の働き1:11)

彼らはそれを聞いて、喜びとともにエルサレムへ戻り、いつも宮にいて神様を礼拝しました。(ルカ24:52-53)

そして、彼らは聖霊様が来られるのを待ちました。(使徒の働き 2章)

聖霊様が降られると、彼らはこの世界を根本から変え始めました。

それから何年か後、パウロはその出来事を思い起こし、こう語りました。

さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。

夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。(ローマ人への手紙13:11-12)

要するに、イエス様はすぐにこの世に戻られるので、私たちは目を覚まし、備えているべきです。

夜は深まり、昼は近づいて来ました。(12a)

言い換えれば、サタンの支配は終わりに近づいており、イエス様が戻られる日も間もなく訪れます。

そして、パウロはさらに夜と昼の比喩を用いて、その真理を伝えます。

ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。(12b)

つまり、私たちはサタンの国に属する行為を捨て、イエス様の国にふさわしい行いをするべきだということです。

では、「闇のわざ」とは何でしょうか。13節でパウロはそれについて説明しています。

遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。(13)

多くの人々は悪しき行いをするとき、夜を待ちます。しかし、パウロが語ったのは、私たちは光の中を歩むべきだということです。

私たちは、世の民が私たちを見ているかのように振る舞うべきです。それ以上に、神様が私たちを見ておられることを意識して行動すべきです。なぜなら、神様はあなたのすべての行動を見ておられるからです。

また、もう一つ心に留めるべきことがあります。サタンの時は過ぎ去り、十字架によってすでに敗北しました。それにもかかわらず、彼はなお戦い続けています。

だから、私たちはその戦いに備え、光の武具を身に着けるべきです。

私たちの足には平和の福音の備えを履きましょう。そして、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣を持つことが必要です。(エペソ人への手紙6:14-17)

パウロはこの教えを次のようにまとめています。

主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。(ローマ人への手紙13:14)

私たちはイエス様を着るべきです。毎日、イエス様の力と品性を身に着けることで、罪に陥ることを防ぐことができます。

イエス様が間もなく戻られることを知っている私たちは、イエス様の十二弟子のように、日々喜びを持ち、聖霊様に満たされて、イエス様のためにこの世に影響を与えましょう。そして、そのようにして、イエス様の再臨の日を待ち望みましょう。

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律法の要求を 満たすため

他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。(ローマ人への手紙13:8)

私はいつもその言葉を少し不思議に思っていました。

なぜなら、律法の要求を満たすのであれば、他の人だけでなく、神様も愛すべきではないでしょうか。イエス様が最も重要な戒めについて語られたとき、こう言われました。

「「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

これが、重要な第一の戒めです。

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の戒めも、それと同じように重要です。」(マタイ22:37-39)

パウロは必ずイエス様の言葉を知っていたはずなのに、なぜ「他の人を愛する」という戒めだけについて語ったのでしょうか。

私には確かな答えはありませんが、おそらく神様を愛することと他の人を愛することは切り離せないものだからでしょう。

私たちが本当に神様を愛しているなら、他の人も愛さなくてはなりません。もし他の人を愛さないなら、私たちが本当に神様を愛しているとは言えないのです。

ヨハネも自身の書簡の中でそのように語っています。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。(第一ヨハネ3:17)

また、

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。(第一ヨハネ4:20-21)

ヨハネの議論に反論するのは非常に難しいと思います。もし私たちが目に見える人を憎むなら、どうして目に見えない神様を愛していると主張できるでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは神様を愛していると主張するでしょうか。

あなたは周りの人々をどのように扱っていますか。彼らを見下していますか。彼らを軽蔑していますか。

もしそうしているなら、あなたは本当に神様を愛しているかどうかを考えるべきです。

だから、ヨハネの言葉を心に留めましょう。

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(第一ヨハネ3:18)

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返済することができない負債

私はパウロのこの言葉が大好きです。

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。(ローマ人への手紙13:8)

「借り」とは何でしょうか。それは、私たちが返済しなければならないものです。私たちは、その金額を返済する義務を負っています。

この箇所で、パウロは「愛」を「借り」と比較しています。つまり、パウロの言葉を言い換えれば、私たちは人を愛する義務を負っているのです。

パウロの言葉について少し考えてみましょう。もし誰かが、「私を愛しなさい。あなたにはその義務がある」と言ったら、あなたはどう反応するでしょうか。

私なら、「いやだ。あなたを愛する義務なんてないよ」と答えるかもしれません。

しかし、パウロは、私たちがその義務を持っていると言います。なぜでしょうか。

第一の理由は、私たちが皆、神様の似姿として造られたことです。だからこそ、私たちは彼らを愛すべきなのです。

第二の理由は、神様が彼らを愛しておられることです。もし神様が彼らを愛しておられるなら、私たちも彼らを愛するに値すると見なすべきです。

それでも、多くの場合、私たちは相手を愛するに値する存在だと見なしていません。なぜでしょうか。

時には、彼らが私たちとは異なる存在だからです。つまり、彼らの身分や性格が私たちと違うのです。

また、時には、彼らの行動にあきれることもあります。

しかし、私たちが決して忘れてはならないのは、神様が彼らを造り、愛しておられることです。だからこそ、彼らは私たちの愛に値する存在なのです。

もし私たちがその愛を与えることを拒むなら、基本的にこう言っているのと同じです。 「神様、あなたは価値のないものを造られました。どうしてあの人を愛しておられるのですか?」

そして、第三の理由があります。神様が私たちを愛しておられるゆえに、イエス様をこの世に送られたのです。

私たちを救うために、イエス様は十字架の上で計り知れない代価を支払われました。私たちには、その負債を返済することは決してできません。

それにもかかわらず、私たちは値しない愛と恵みを受けました。そのため、神様に対して負債を負っているのです。それは、私たちが受けた恵みと愛を、周りの人々に惜しみなく与えることです。

たとえ相手がその愛と恵みに値しないと感じたとしても、私たちはなお、その愛と恵みを与えるべきなのです。

イエス様はこう語られました。

あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。(マタイ10:8)

あなたはどうですか。あなたは、無償で受けた愛を周りの人々に無償で与えているでしょうか。

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たとえ支配者が悪くても

この箇所で、パウロはクリスチャンと政治の関係について語ります。基本的に、彼は私たちが政府の権威に従うべきだと教えています。

なぜでしょうか。それは、最終的に神様がその人々に権威を与えられたからです。したがって、彼らに反抗することは、実は神様に逆らうことになるのです。

さらに、もう一つの理由があります。神様は社会の益のために権威を確立されました。もし権威がなければ、私たちは無政府状態になり、それは本当に恐ろしい社会となるでしょう。

そして、パウロはこう語ります。

彼(つまり、権を持つ人)はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。(ローマ人への手紙13:4)

多くの場合、権威を持つ人のおかげで、社会は安定し、平和が保たれています。したがって、私たちが正しいことを行うなら、問題が生じるはずはありません。

私は列王記第18章に登場するオバデヤについて考えます。(彼は預言者オバデヤではありません)。彼はアハブ王に仕えていました。

アハブは、イスラエル史上最も悪しき王の一人でした。それにしても、オバデヤが忠実なしもべであったため、アハブは彼に王宮の管理を任せました。

それでも、オバデヤは神様を畏れ、正しいことを行いました。

彼の模範から、私たちは重要な教訓を学びます。時に、正しいことが権威を持つ者の命令と矛盾する場合があります。 そのような場合、私たちは真に正しいことを選択すべきです。

そのため、アハブの妻イゼベルが神様の預言者たちを殺害するよう命じたとき、オバデヤは彼らを救い出しました。

預言者ダニエルとその友人たちも、正しいことを行いました。神様の律法に反する命令を受けたとき、彼らは神様の戒めに従いました。(ダニエル書 1-3章)

また、ユダヤ人の指導者たちがペテロと他の使徒たちにイエス様のことを語るのをやめるよう命じたとき、ペテロたちはそれを拒みました。(使徒の働き 4-5章)

こうして、神様はオバデヤ、ダニエルたち、ペテロたちを守り、祝福してくださいました。そして、ダニエルたちの場合、最終的に支配者たちは彼らに栄誉を与えました。

そして、パウロはこう語ります。

支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。

権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。(ローマ人への手紙13:3)

特に、私たちが正しいことを行うなら、神様を恐れる必要はありません。むしろ、神様は私たちを称賛してくださいます。

したがって、この世の支配者の命令が神様の言葉に反する場合、私たちは神様に従うべきです。なぜなら、私たちの最も高い権威は神様だからです。

しかし、たとえ支配者の命令を拒んだとしても、私たちは彼らを尊敬すべきです。

パウロはこう語りました。

すべての人に対して義務を果たしなさい。。。恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。(7)

オバデヤ、ダニエルたち、ペテロたちは、そのように行動しました。だから、私たちは彼らの模範に従うべきです。

そして、ペテロはパウロの言葉を次のようにまとめます。

もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。

たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。

人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。

そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。(第一ペテロ3:13-16)

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人々が私たちを憎むとき

最初のクリスチャンたちは、この世の憎しみや迫害に直面しました。2000年後の今も、クリスチャンは同じ問題に向き合っています。

だから、パウロの言葉は今もなおクリスチャンにとって重要なのです。パウロはこう語りました。

あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。(ローマ人への手紙12:14)

イエス様は、山上の垂訓で同じような教えを語られました。

自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

イエス様はご自身の言葉を実践されました。十字架の上で、イエス様はご自身の敵のために祈られました。

父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)

私たちはイエス様の模範に従うべきです。もし私たちが苦々しい思いを持ち続けるなら、その思いは私たちの心を蝕み、やがて私たち自身を滅ぼしてしまいます。

だから、パウロは私たちに語ります。「その苦々しい思いや恨みを手放しなさい。むしろ、相手のために祈りなさい。」

そして、パウロはさらにこう語ります。

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。(ローマ人への手紙12:17)

もちろん、パウロは私たちに対して、神様の律法に反する世の道徳に従うべきだとは言いません。

むしろ、パウロが語ったのは、たとえ迫害されても、世の考え方が神様の律法に反しない限り、すべての人が良いと認めることを行いなさいということです。

だから、私たちは苦々しい思いや怒り、報復の心を捨て去るべきです。

そして、パウロはさらにこう語ります。

自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。(18)

時には、私たちは相手の意見に同意できないことがあります。しかし、そのようなときこそ、謙遜な態度を持つべきです。

時には、私たちは相手があまりにも傷つきやすいと感じることがあります。それでも、もし私たちの言葉や行為によって相手を傷つけてしまったなら、その人に誠実に謝るべきです。

また、神様の言葉を守りながらも、私たちは妥協点を見つける知恵を持つべきです。

例えば、私のクリスチャンの友人たちは家族の仏教の葬儀には参加しませんが、その前後でできる限り家族に仕えます。

そして、最後にパウロはこう語ります。

愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。

「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。

次のようにも書かれています。

「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」(19-20)

簡単に言えば、最終的な正義は私たちの責任ではなく、神様の責任です。神様はすべての人々とその行いを正しく裁かれます。

だから、悪に悪で報いることなく、苦々しい思いを抱え続けないでください。そのような思いは、やがてあなた自身を蝕んでしまいます。

むしろ、イエス様の模範に倣い、イエス様の愛を彼らに示しましょう。

もしかすると、あなたの反応によって、彼らはクリスチャンになるかもしれません。ステパノの祈りはどのようにパウロに影響を与えたでしょうか。(使徒の働き 7:60)

そして、パウロはこの教えを次のようにまとめます。

悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(21)

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他のクリスチャンと共に歩んでいる?

この箇所を読むとき、自分自身のクリスチャン生活について考えるのは容易なことです。

しかし、私たちが注目すべきなのは、パウロが個々のクリスチャンに向かって語っているのではなく、キリストのからだ全体に語りかけているという点です。

パウロはまずこう語ります。

愛には偽りがあってはなりません。(ローマ人への手紙12:9)

私は、ある英語の翻訳が気に入っています。

相手を愛するふりをせず、心から愛しなさい。

例えば、私たちはどれほど相手の話を聞いているふりをしながら、実は全く別のことを考えているでしょうか。

そうではなく、私たちは本当に相手の話に関心を持つべきです。

そして、パウロは教会にこう語ります。

悪を憎み、善から離れないようにしなさい。(9b)

教会として、私たちはこの世の悪を憎み、戦うべきです。同時に、善にしっかりとしがみつくべきです。しかし、まずは教会の中でそれを実践することが大切です。

もし苦々しい思いや、相手を許さない心を目にしたとき、私たちはその態度と向き合い、それと戦うでしょうか。それとも、許し合う姿勢を求めるでしょうか。

教会の中で争いや分裂があるなら、和解をもたらすために努力するでしょうか。私たちは教会の一致を心から求めるでしょうか。

プライドや差別を見たとき、それを教会から取り除き、互いに受け入れ合うでしょうか。(ローマ人への手紙12:10,16)

人が故意に罪を犯し、悔い改めない場合、その問題に正しく向き合い、適切に対処するでしょうか。(第一コリント5章)

誰かが罪に陥ったとき、私たちは柔和な心を持って、その人を正しく導くでしょうか。(ガラテヤ6:1)

そして、パウロは続けてこう言います。

望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。(ローマ人への手紙12:12)

試練に苦しんでいる人がいるとき、私たちはその人を支え、励ますでしょうか。その人のために心から祈るでしょうか。

また、私たちは「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣く」でしょうか。(ローマ人への手紙12:15)

私たちは教会の仲間たちに仕えるでしょうか。パウロはこう語りました。

聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。(13)

それこそが、本来あるべきクリスチャンの歩みです。果たして、私たちはそのように生きているでしょうか。

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この世の人々も祝福すべきではないでしょうか

もしかしたら、前回の記事を読んで異議を持った人がいたかもしれません。なぜなら、私はこのように述べたからです。

「私たちがクリスチャンの交わりを必要とする理由の一つは、互いに必要な存在だからです。キリストのからだの中で、私たちはそれぞれに役目を持っています。だからこそ、神様から与えられた賜物を用いて、互いに仕え合う必要があります。」

とはいえ、ある人はこう言うかもしれません。 「教会の人々を祝福するだけでなく、この世の人々も祝福すべきではないでしょうか。」

もちろん、その通りです。それでも、忘れないでください。私たちが受けた賜物の多くは、まず教会のために与えられています。

例えば、エペソ人への手紙で、パウロはこう語りました。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。(エペソ4:11)

イエス様はなぜそのようにされたのでしょうか。

それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(エペソ4:12-13)

伝道者の役割について少し考えてみましょう。彼らの使命は、特に教会の外にいる人々に向けられているはずです。

しかし、パウロの言葉に注目してください。伝道者の働きの目的は、聖徒たち(つまりクリスチャン)を整え、奉仕の働きへと導くことにあります。

伝道者はもちろん福音を宣べ伝えますが、それだけでなく、他のクリスチャンが福音を伝えられるよう励ます役割も担っています。

他のクリスチャンは、伝道者がこの世に与える影響を見て勇気づけられ、自らの友人に福音を述べ伝えようと決意するでしょう。そのうえ、伝道者は彼らに福音を伝える方法を教えることもあるかもしれません。

そして、パウロが挙げた人々がそれぞれの使命を果たすと、キリストのからだは建て上げられていきます。

もしかすると、あなたはこう思うかもしれません。 「でも、私は使徒や預言者、伝道者、牧師、教師ではありません。」

それは関係ありません。なぜなら、パウロはこう語りました。

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(エペソ4:15-16)

私はもう一度、パウロの強調するポイントに目を向けます。

キリストのからだが完全に成長するまで、私たちはそれぞれの役割を果たし、互いに築き上げていくべきです。

だから、別の箇所でパウロはこう語りました。

ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(ガラテヤ人への手紙6:10)

だから、私たちは賜物を用いて、この世の人々に仕えるべきです。とはいえ、同時に教会の兄弟姉妹にも仕えることが求められています。

イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネの福音書13:34-35)

イエス様の言葉に目を向けてみましょう。

この世の人々は、どのようにして私たちがイエス様の弟子であることを知るのでしょうか。それは、私たちが互いに愛し合うことによってです。私たちが互いに愛し、仕え合うなら、人々はその姿を見て、キリストに惹かれるでしょう。

ところが、もし私たちが争ったり、自分勝手に振る舞ったり、プライドを持ったりするなら、彼らは問いかけます。 「クリスチャンは私たちとどう違うのか。結局、彼らは私たちと同じではないか。」

あなたはどうでしょうか。神様の民を愛しているでしょうか。それとも、避けているでしょうか。神様の民に仕えているでしょうか。もしかすると、あなたが受けた賜物を無駄にしているのではないでしょうか。

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クリスチャンの交わりを壊すもの

クリスチャン生活を単なる個人的なものと考えてしまうのは容易なことです。もしかすると、特に欧米諸国では、そのように捉える人が多いのかもしれません。

けれども、クリスチャン生活は一人で送るものではなく、私たちが他のクリスチャンと共に歩むことこそが、神様の御心です。

それにもかかわらず、多くのクリスチャンが教会に行かなくなっています。なぜでしょうか。理由はさまざまありますが、この箇所でパウロは一つの理由を挙げています。

パウロはこう書きました。

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。

むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。(ローマ人への手紙12:3)

また、

互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。(16)

クリスチャンの交わりを壊す要因の一つはプライドです。

「私には、ほかのクリスチャンは必要ない。一人でクリスチャン生活を送ることができる」と考えるプライド。

「私は彼らよりも優れたクリスチャンだから、彼らとの交わりは不要だ」と思うプライド。

「私は彼らと異なる立場にあり、共通点がない」と決めつけるプライド。

「この人も、あの人も私を傷つけた。彼らが謝るまで、私はもう教会に行かない」と意固地になるプライド。

しかし、パウロは私たちに大切なことを思い出させます。

一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。(4-5)

この箇所では、私たちは非常に重要な真理を目の当たりにします。すべてのクリスチャンはキリストのからだの器官です。

したがって、私たちはもはや自分自身だけに属しているのではありません。まずキリストに属し、さらに私たちクリスチャンは互いに属し合っています。

なぜでしょうか。それは、私たち一人ひとりがキリストのからだの中で異なる機能を持っており、からだ全体が私たちの役割の働きに依存しているからです。

だから、パウロはこう語りました。

私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。(6-8)

あなたは、ほかのクリスチャンを必要としないと思うかもしれません。けれども、たとえあなたが彼らを必要としなくても、彼らはあなたを必要としています。

神様は、あなたを通して彼らを祝福するために、霊的な賜物を与えてくださいました。そして、私たちがほかのクリスチャンに仕えるとき、それは神様に仕えることでもあるのです。

だから、パウロは私たちに重要な教訓を示しています。

勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。(11)

もし私たちがプライドによって賜物を用いず、教会に仕えることをしないなら、いつか神様は私たちにその責任を問われるでしょう。

ですから、忘れないでください。私たちは他のクリスチャンに属し、また彼らも私たちに属しています。私たちは互いに必要な存在なのです。

だから、兄弟たちとの交わりを断つプライドを捨てましょう。そして、むしろパウロの言葉に従いましょう。

兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。(10)

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神様の思いを知ること

新改訳では、ローマ人への手紙12:2は次のように訳されています。

この世と調子を合わせてはいけません。(ローマ人への手紙12:2)

けれども、私はある英語訳も気に入っています。

この時代と調子を合わせてはいけません。

私たちはよく、「この時代」や「時代の変化」について話します。

もちろん、世界は日々変化しています。

私は1995年に日本に引っ越しましたが、当時はインターネットやメールがまだ新しいものでした。そのため、アメリカにいる家族と連絡を取る際は、航空便を送ったり、固定電話で電話をかけたりしていました。

時には、公衆電話とテレフォンカードを使うこともありました。(おそらく若い人には何のことかわからないかもしれません。)

けれども、テクノロジーの進歩だけでなく、人々の考え方も変化しました。特に道徳観念は大きく変わりつつあります。何が恥ずべき行為であり、何が悪い行為なのかという価値観は、今なお変化しています。

さらに、日本については確信がありませんが、欧米諸国では、人々が「寛容の時代」を生きていることが顕著に見受けられます。

私の言葉を誤解しないでください。もちろん、寛容そのものは良いことです。

「寛容」を正しく定義すると、その意味は 「私はあなたの意見に同意できないが、それでもあなたを尊重する」 ということです。そして、人々はその寛容を持って共に働き、互いに丁寧に接し、友好的な関係を築くことができます。

とはいえ、現代では「寛容」の意味が変化しています。それは 「すべての意見が正しい」 という考え方です。

つまり、もし二人が意見の対立をしても、「一方の意見が正しく、もう一方が間違っている」とは言えないことになっています。たとえ両者の意見が相反していても、どちらも「正しい」とされるのです。

そのため、「あなたの意見は間違っている」と発言すると、その人は「偏狭で悪い人」と見なされてしまいます。

ところが最近、特に欧米諸国では、クリスチャンの価値観に対して、多くの人々がこの「寛容な態度」を放棄しているのが現状です。

その結果、皮肉なことに、彼らはクリスチャンに対し 「あなたは間違っている。考え方を改めなければならない」 と迫るようになっています。

けれども、私たちが神様の思いを本当に知りたいと願うなら、この時代の人々の考え方に流されてはいけません。なぜなら、人々の価値観は変わり続けていますが、神様の考え方は決して変わらないからです。

とはいえ、この世の流れに同調するよう求められる圧力は、至るところからやってきます。社会からも、家族からも、友人からも影響を受けます。どこへ行っても、そのプレッシャーを感じるものです。

特に日本では、「和」という価値観が非常に重要視されています。そのため、私たちは調和を保つことへの圧力を感じます。

もちろん、可能な限り平和を守ることは大切です。パウロはこう語りました。

自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ書12:18)

しかし、私たちが神様の御言葉に逆らうよう求められる圧力を感じることもあります。

そのようなときこそ、私たちはこの世の流れに迎合してはいけません。なぜなら、それは滅びへと導く道だからです。そして、私たちは神様を悲しませるだけでなく、人々を傷つけ、自分自身をも傷つけてしまいます。

だからこそ、この世の流れに流されることなく、パウロの言葉に従いましょう。

むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。(2b)

どのようにして私たちは心を新たにすることができるでしょうか。それは、神様の言葉によって可能になります。私たちは聖書を読み、深く味わい、聖霊の力によってその言葉に従います。

そうすることで、私たちは真の命を知ることができます。なぜなら、心の変化だけでなく、人生そのものが変えられるからです。

私たちは神様の計画のもとに生き始めます。私たちの結婚は祝福され、困難の中でも平安を知ることができます。死の影の谷を歩む時でさえ、私たちは喜びを見出すことができます。

簡単に言えば、私たちは神様の御心を知り、何が善であり、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができるのです。

あなたはどうですか。あなたの思いはこの世の価値観に流されているでしょうか。それとも、神様の御言葉によって新たにされつつあるでしょうか。

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生きたささげ物

これは、聖書の中で最も有名な箇所の一つです。パウロはこう語りました。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。

あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ人への手紙12:1)

「ですから」などの接続詞を見たときは、それ以前の言葉を読むのがよいでしょう。パウロはこう語りました。

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ人への手紙11:36)

「すべてのもの」という言葉について少し考えてみてください。この表現には、私たち自身も含まれています。

私たちは神様の計画によって造られました。神様の力によって形作られ、神様の栄光のために造られたのです。そして、最終的には神様の御前に立ち、裁きを受けます。

多くの人々はこう言います。

「これは私の人生だ。自分の思うままに生きる権利がある。」

けれども、それは真実の半分に過ぎません。もちろん、神様は私たちに自由意志を与えてくださいました。だから、その意味では、私たちは自分の選択によって生きる権利を持っています。

とはいえ、私たちの人生は本当に私たち自身のものなのでしょうか。

私たちは神様の力によって造られ、神様の目的のために存在しています。

だから、パウロはこう語ります。

「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」

それこそが、私たちにふさわしい礼拝なのです。

要するに、私たちは神様の力によって造られ、神様の目的のために造られたのだから、神様に自分のからだを生きた捧げものとしてささげるのは当然のことです。

では、「生きた捧げもの」とはどういう意味でしょうか。私たちは神様のために死ぬべきなのでしょうか。

確かに神様のために命を捧げる人もいますが、それはパウロの言うところではありません。パウロは、私たちが「生きた捧げもの」になるべきだと語っています。

「生きた捧げもの」について話すとき、私はよく結婚の比喩を使います。

結婚では、夫と妻が互いに自分自身を相手に捧げ合います。もちろん、私の妻は私が彼女のために喜んで命を捧げると聞けば嬉しいでしょう。

けれども、それ以上に、彼女は私が生き続けることを望むはずです。つまり、私が自分自身をほかの女性に捧げず、彼女だけに捧げることを望むのです。

さらに、妻は私が彼女を喜ばせたいと思うほどに、私が彼女を愛することを望みます。当然、私も妻から同じことを望みます。

そして、夫と妻が互いに生きたささげものとして自分自身を捧げ合うと、その結婚はうまくいきます。

同じように、もし私たちが喜んで神様のために命を捧げたいと思うなら、神様は喜ばれるでしょう。それでも、それ以上に、神様は生きたささげものを望まれます。

神様は、私たちが毎日すべてを捧げることを望んでおられます。また、私たちが神様を喜ばせたいと思うほどに、神様を愛することを望んでおられます。

では、なぜ私たちは自分自身を神様に生きた捧げものとしてささげたいと思うのでしょうか。それは、神様が私たちを憐れんでくださったからです。

神様は人間となられ、十字架で私たちのために死んでくださいました。私たちがまだ罪人であり、神様に反抗していたにもかかわらず、イエス様は私たちの罪のために命を捧げるほどに愛してくださいました。

そして、イエス様の死によって、私たちは神様との和解ができるのです。

私たちは神様の愛を知り、神様を愛しているのだから、自分自身を生きた捧げものとしてささげるのは当然のことでしょう。だから、私たちは毎日、神様を喜ばせたいと願います。

これこそが、生きた捧げものです。

あなたはどうですか。あなたは生きた捧げものとして歩んでいるでしょうか。

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私たちよりも優れた神

神様と議論する機会があれば、神様を言い負かすことができると思う人がいます。けれども、それは非常に愚かな考えです。

それでも、多くの無神論者はこう言います。

「もし神様が実在するなら、私は神様に対して、自分が神様の存在を信じなかった理由を説明できる。だから、神様を言い負かすことができるはずだ。」

けれども、この箇所でパウロは、そのような考えの虚しさを示しています。

ローマ書10~11章では、パウロは、神様がどのようにユダヤ人の不従順を用いて異邦人を救われたかを説明します。そして、異邦人の救いがどのようにユダヤ人の救いへとつながるのかを解説します。

パウロは、神様の計画を次のようにまとめます。

あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。

それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。

神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。(ローマ人への手紙11:30-32)

この話を通して、私たちは神様の予知と予定説の関係を見ることができます。

神様は、ユダヤ人がイエス様をどのように扱うかをあらかじめ知っておられ、異邦人を救う計画を立てられました。とはいえ、神様は異邦人の救いによってユダヤ人が神様との関係を切望することも知っておられました。

そのため、神様は異邦人を救う計画を通して、あるユダヤ人がイエス様を受け入れ、救われることをも確かに知っておられました。

簡単に言うと、この宇宙のチェスボードにおいて、神様はどのようにご自身の目的を達成されるかを完全に理解されています。

神様はすでに私たちの選択を知っておられ、その選択にどのように応じるかもご存知です。

だから、私たちが何をしようとも、神様の御心は必ず成就します。そのように、人々は自由意志を持ちますが、神様もご自身の自由意志を持っておられます。

このことを考えたとき、パウロは圧倒されました。

ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。(ローマ人への手紙11:33-34)

要するに、神様の知識と知恵に匹敵する者は誰もいません。なぜなら、神様はすべての知識と知恵を持っておられるからです。その一方で、私たちはただの人間であり、私たちの知恵と知識には限界があります。

だからこそ、もし神様がご自身の計画を明かされなければ、私たちはその計画を理解することができません。そして、たとえ神様がご自身の計画を示されたとしても、その計画の深さを完全に把握することはできないのです。

例えば、多くの人はこう言います。

「もし神様が本当に良い方なら、どうしてこの世には悪が存在するのですか。」

けれども、彼らの議論は自身の無知から来ています。彼らは神様が知っておられることを知らないのです。そのため、彼らの議論は無意味となってしまいます。

それにしても、彼らはまるですべてを知っているかのように議論します。まるで神様が彼らの議論を論破できないかのように、自信満々に語るのです。

しかし、彼らが神様の御前に立つとき、神様は彼らの動機を明らかにされます。神様は彼らが知っていたことも、知っていたはずのこともすべて示されます。そして、神様は彼らの誤った考え方や仮定を暴き、真実を明らかにされます。

そのとき、すべての口は閉ざされ、全世界が神のさばきに服するのです。(ローマ書3:19)

神様を驚かせて、「私は知らなかった」と言わせるような言葉は、私たちには何一つありません。

また、私たちは神様にこう言うことはできません。

「私の行いを見てください。私は天国に入る資格があります。」

パウロの言葉は、まさに正しいのです。

だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。(35-36a)

私たちの持ち物のすべては神様から来ました。すべてのものは神様から発し、すべてのものは神様に帰されます。やがて、私たちも神様の御前に立ち、裁かれるのです。

だから、私たちには二つの選択があります。パウロのように、私たちはこう言うことができます。

この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(36b)

それとも、私たちは裁きの日まで神様に反抗し続けることができます。

ところが、その日が来ると、私たちの口は閉ざされ、神様の前で裁きを受けることになります。

あなたはどうしますか。あなたはどの道を選びますか。

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プライドの余裕がない

ほとんどのクリスチャンは、今では反ユダヤ主義的な態度を持っていません。けれども、過去にはそのようなクリスチャンもいました。

私には、そのような態度が決して理解できませんでした。なぜなら、今日の聖書の箇所で、パウロはそのような考え方を完全に否定したからです。

おそらく、反ユダヤ主義的な態度の根本にはプライドがあるのでしょう。この箇所で、パウロは私たちのプライドの根拠さえも打ち砕きます。

実は、イスラエルに対して不満を述べたとき、預言者エリヤもそのようなプライドを持っていました。エリヤはこう言いました。

私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエル子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。

ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。(列王記第一19:10)

要するに、「神様、私を見てください。私はあなたのために熱心を持っています。私の行為を見てください。けれども、ほかのイスラエル人はもう救いようのないのです。」ということです。

ところが、神様はエリヤにこう言われました。

わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。(列王記第一19:18)

だから、パウロはこう言いました。

「エリヤの時代と同じように、この時代にも、ユダヤ人の中には、神様に忠実であり、メシアであるイエス様に仕える残された信じる者たちがいます。

そして、私たちと同じように、そのユダヤ人たちも恵みによって選ばれました。」(ローマ人への手紙11:5)

そして、パウロは私たちに思い出させます。

恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。(6)

エリヤのように、多くのクリスチャンは、自分の行為によって救われると思っています。つまり、頭では恵みによって救われたことを理解しているかもしれませんが、心の奥では、他の人よりも優れているから救われたのだと思ってしまうのです。

けれども、パウロによれば、そのような考え方は間違っています。救いは恵みに値しない者に与えられるものです。

エリヤもまた、神様の恵みに値しませんでした。それでも、その恵みを受けました。

イゼベルに脅かされたとき、エリヤは神様に怒り、苦々しい思いを抱き、最終的に落ち込んでしまいました。それにもかかわらず、神様は手を伸ばしてエリヤを励まし、強めてくださいました。

私たちも、神様の恵みに値しません。けれども、神様は私たちに手を伸ばし、救ってくださいました。

だから、私たちはユダヤ人を見下すことはできません。私たち全員が、恵みによって救われたのです。

それで、パウロはユダヤ人を折られたオリーブの木の枝に例え、私たちを接ぎ木された枝に例えました。

けれども、パウロはこう言います。

あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。

そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。

思い上がることなく、むしろ恐れなさい。もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。

ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。

倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。

ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。(18-22)

もう一度、パウロのポイントは、私たち全員が恵みによって救われたことを述べています。私たちの行いによって救われたのではなく、イエス様の十字架の御業によって救われたのです。私たちにできたことは、その御業を信じることだけです。

だからこそ、私たちにはプライドの余裕などありません。

だから、イエス様を信じないユダヤ人を批判する人は、自分自身を振り返るべきです。彼らは自らにこう問うべきです。

「私は信仰と恵みによって立っているのか。それとも、自分の行いに頼っているのか。もし自分の行いによって立っているなら、私は破滅へと向かっている。しかし、恵みによって立つなら、そこにプライドの余裕はまったくない。」

あなたはユダヤ人を見下さないかもしれません。けれども、ほかの人々を見下してはいないでしょうか。自分は彼らよりも優れていると思ってはいないでしょうか。

そのような考え方は誤っています。もしあなたが他の人よりも優れているなら、恵みはもはや恵みではなく、あなたの救いは当然の報酬になってしまうでしょう。

だから、謙遜な態度を持ち、神様に感謝してください。神様の国では、私たちにはプライドの余裕などないのです。

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信じることを拒否すると

以前の記事で、私は救いの逆説について述べました。つまり、救いの道は簡単でありながら、同時に難しいのです。

私たちがただ神様を信じ、イエス様の十字架の働きを信じるなら、救われます。それでも、多くの人々はそうしません。ユダヤ人はその代表的な例です。

そこで、パウロはこう語りました。

しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。(ローマ人への手紙10:16)

それはユダヤ人だけの問題ではありません。この世の多くの人々も同じ問題を抱えています。今なお、パウロの言葉は世の人々に当てはめることができます。

「主よ、私たちが聞いたことを、誰が信じたでしょうか。」

そして、パウロは重要な真理を語ります。

ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(ローマ人への手紙10:17)

要するに、人々が救われるためには、二つのことが必要です。人々は福音を聞かなければならず、また、そのメッセージを信じなければなりません。

では、なぜユダヤ人や他の人々は信じないのでしょうか。イエス様は彼らに語られなかったのでしょうか。それとも、彼らは聞かなかったのでしょうか。そうではありません。

パウロはこう書きました。

では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、

むしろ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」のです。(18)

パウロは詩篇19:4を引用しました。その詩篇では、詩人が「天は神の栄光を語り告げる」と歌っています。

パウロはこの詩篇を福音に当てはめ、福音が世界の果てまで届いたことを示します。

そして、パウロは問いかけます。

では、私は尋ねます。イスラエルは知らなかったのでしょうか。(19)

彼らは知っているはずでしたが、結局、神様の言葉を理解できなかったようです。

そして、パウロは救いの皮肉について語ります。神様はまずユダヤ人にご自身を現されましたが、彼らは神様に背を向けました。そこで、神様は異邦人のもとへ行かれ、異邦人は信じたのです。

だから、パウロはイザヤの言葉を引用します。

わたしを探さなかった者たちにわたしは見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。(20)

この箇所では、神様は異邦人について語られました。異邦人はそれぞれ自分の道を歩み、神様を全く求めていませんでした。

それにもかかわらず、神様はご自身を彼らに現されました。その結果、異邦人は神様を信じるようになったのです。

とはいえ、ある意味では、この箇所をユダヤ人にも当てはめることができます。彼らも神様を求めてはいませんでした。彼らはエジプトで奴隷であった時、偶像を礼拝していました(ヨシュア24:14)。

それでもなお、神様はご自身を彼らに現されました。では、彼らの反応はどうだったでしょうか。

神様は彼らについて、こう言われました。

わたしは終日、手を差し伸べ た。不従順で反抗する民に対して。(21)

では、なぜ彼らは信じなかったのでしょうか。

彼らはいくつもの奇跡を目の当たりにしました。神様はエジプトに数々の災害を送り、紅海を分け、砂漠でマナを与えられました。ユダヤ人には信じる理由が十分にあったのです。

そして、イエス様が来られました。イエス様も多くの奇跡を行い、悪霊を追い出し、卓越した知恵を教えられました。けれども、彼らはイエス様を拒絶しました。

なぜでしょうか。

ほかの者たち(つまり、神様を信じないユダヤ人たち)は頑なにされたのです。

「神は今日に至るまで、彼らに鈍い心と見ない目と聞かない耳を与えられた」と書いてあるとおりです。(11:7-8)

パウロはイザヤ書29章を引用しました。私はこの箇所についてさらに説明しますが、その要点は、ユダヤ人が先に自分の目を閉じたことにあります。そこで、神様は彼らにこう言われました。

「あなたは見たくないのですか。では、あなたは霊的な盲人になれ。」

ユダヤ人は何百年もの間、神様の御業を目の当たりにし、み言葉を聞いてきました。ところが、どうしても信じることができませんでした。そのため、神様は彼らを自らの不信へと引き渡されました。

福音を聞く者は、この危険に直面します。もし私たちがずっと心を頑なにし続けるなら、神様は私たちにこう言われるかもしれません。

「信じたくないなら、信じるな。」

そして、私たちは不信の結果を受けることになります。それは、死です。

だから、救いのメッセージに対して心を閉ざさないでください。そうしなければ、霊的な目が見えなくなり、やがて永遠の死へと向かうことになるでしょう。

むしろ、心を開きましょう。イエス様とその福音だけが、あなたを救うのです。

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神様の取り消されることのない召命

救いの神秘の一つは、救いが神様の召命を通して与えられるものであり、その召命は決して取り消されることのないものだということです。

パウロはイスラエルの例を用いて、この真理を描写しています。神様がさまざまな奇跡を行い、恵みを与えられたにもかかわらず、イスラエル人は心を頑なにし、神様に背を向けました。

そして、パウロはこう言いました。

それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。(ローマ人への手紙10:1a)

パウロの答えは何でしょうか。

決してそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。(2b)

要するに、「私はユダヤ人ですが、救われました。だから、神様がすべてのユダヤ人を退けたとは言えません。」

そして、パウロは非常に興味深いことを語ります。

神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。(2)

では、パウロのポイントは何でしょうか。

神様はあらかじめユダヤ人がご自身に対して心を頑なにすることを知っていたにもかかわらず、彼らを選ばれました。ユダヤ人が神様を拒絶し、イエス様を十字架につけたとき、神様は決して驚かれませんでした。

したがって、ユダヤ人の行為によって、神様が突然彼らを退けることを決めたわけではありません。

むしろ、神様はあるユダヤ人がイエス様を拒絶することを知っておられましたが、他のユダヤ人がイエス様を信じることも知っておられました。

どうしてそう知っていたのでしょうか。それは、神様が世界を創造される前から、彼らを救いのために選ばれていたからです。

だから、預言者エリヤが神様に「私だけがあなたに従っている」と訴えたとき、神様はこう答えられました。

「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」(4)

だから、パウロは自分の時代のユダヤ人について、こう語りました。

ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。(5)

そして、パウロは神様の救いの計画を明らかにします。神様はこの世が造られる前から、その計画を立てられました。その計画とは何でしょうか。

ユダヤ人が自分のメシアを拒絶したことによって、福音は全世界に広がり、多くの異邦人(ユダヤ人ではない人々)が救われ、神様の子供となりました。

そして、ユダヤ人はその神様との関係に憧れ、神様が彼らをその関係へと召されたことを思い出します。だから、彼らは自らの愚かさを認識し、悔い改めて救われます。

最終的に、すべてのユダヤ人がイエス様を認め、救われるようです(26ー27)。

そして、パウロはこう語りました。

彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。(28)

要するに、ユダヤ人はクリスチャンを迫害していました。それでも、神様はなおもユダヤ人を愛し、彼らを救おうとされました。

なぜでしょうか。彼らが善良な人々だったからでしょうか。違います。神様はアブラハム、イサク、ヤコブのゆえに彼らを愛されているのです。

さらに、神様はこの三人に約束をされ、その約束を決して取り消されません。

だから、パウロはこう語りました。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。(29)

その言葉は私たちにも当てはめられます。神様の賜物と召命は決して取り消されることがありません。

私たちが生まれる前から、神様はすでに私たちを知っておられました。神様は私たちの疑いをも、失敗をも知っておられました。それでもなお、神様は私たちを選ばれたのです。

だからこそ、私たちが疑うときや失敗するときに、神様が私たちを見捨てるのではないかと恐れる必要はありません。なぜなら、神様の賜物と召命は決して取り消されないからです。

そして、パウロが言ったように、神様が始められたことを必ず完成されます。(ピリピ人への手紙1:6)

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私たちが福音を宣べ伝える必要

私が前に述べたのは、この世が造られる前に、神様がご自分の子供として私たちを選ばれたということです。

あるクリスチャンたちはこの考えを信じますが、こう言うことがあります。「もし神様が誰を救うかをすでに選んでいるのなら、私たちには福音を伝える必要がないのではないか。」

それは極端な考えです。そのように言う人々は重要なことを見逃しています。神様は私たちに福音を伝えるよう命じておられるのです。

もちろん、神様には私たちの助けは必要ありません。それでも、神様は福音を伝えるために、私たちを用いることを選ばれます。

神様は私たちに御国の鍵を与えてくださいました。けれども、私たちがその鍵を用いなければ、救われる人は誰もいないでしょう。

だから、パウロはこう言います。

しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。

聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。

宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。(ローマ人への手紙10:14)

そのすべての答えは同じであり、明確です。つまり、その答えは「それは不可能だ」ということです。

信じたことのない人は主を呼び求めません。聞いたことのない方は、信じることができません。福音を宣べ伝える人がいなければ、それを聞く人は誰もいないのです。

だからこそ、パウロはこう言います。

遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。(15)

答えはもう一度、「それは不可能だ」です。

しかし、ここで重要な点があります。神様は私たち信者全員を、行って福音を伝えるように召されました。

イエス様は弟子たちに語られましたが、それは私たちにも向けられた言葉です。

父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネの福音書20:21)

また、

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け(ます)。(マタイの福音書28:19)

私たちはイエス様からの召しを待つ必要はありません。イエス様はすでに私たちを呼ばれました。

だから、パウロは福音を宣べ伝える人についてこう言います。

「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。(ローマ人への手紙10:15)

あなたはどうでしょうか。神様から御国の鍵を授けられています。あなたはそれをどのように用いるでしょうか。

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私たちがしなければならないこと

ある意味では、救いの道は矛盾しているものです。つまり、その道はとても簡単だけど、それと同時に難しいのです。

パウロはこう書きました。

しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、「だれが天に上るのか』と言ってはならない。」

それはキリストを」とは、引き降ろすことです。

また、「「だれが深みに下るのか」と言ってはならない。」

それはキリストを死者の中から引き上げることです。(ローマ人への手紙10:6-7)

つまり、救いを得るために、私たちがイエス様を天から引き下ろす必要はありません。また、イエス様を墓から掘り出す必要もありません。

イエス様はすでに天から来られ、私たちの罪のために死に、そして復活してくださったのです。

では、私たちに残されているものは何でしょうか。

では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」

これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ人への手紙10:9-10)

簡単に言うと、私たちは心の中にイエス様を主として認め、イエス様が十字架で行った働きを認めることです。

「イエスは主」と言うと、私たちは実は何と言っているのでしょうか。パウロはこう説明します。

聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」

ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。(11-13)

その最後の部分で、パウロはヨエル書2:32を引用しました。そして、「主」という言葉は、ヘブル語では、「ヤハウェ」です。

「ヤハウェ」とは、神様の名前です。だから、私たちはこの箇所をこのように翻訳することができます。「ヤハウェの御名を呼び求める者はみな救われる。」

パウロはこの箇所をイエス様に当てはめます。だからパウロが言ったのは、イエス様はヤハウェだということです。要するに、イエス様ご自身が神です。

パウロはピリピ人への手紙2章で、似たことを説明します。その箇所では、パウロはイザヤ書45:23を引用します。イザヤ書45:23で、ヤハウェはこう言います。

すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い。。。

そして、パウロはその言葉をイエス様に当てはめます。

それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。)「ピリピ2:10-11)

だから、私たちが救われたいと思うなら、私たちはイエス様を主と神として認めなくてはなりません。

さらに、私たちはイエス様の十字架の働きを認めなくてはなりません。つまり、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んで、復活したことを信じなくてはならないことです。

でもそのことを信じるだけでは足りません。私たちは主を呼び求めなくてはなりません。

悪霊たちはイエス様が主であることを知っています。悪霊たちは、イエス様が罪のために死んで、復活したことを知っています。でも、彼らは救われていません。

ただの知識では足りないのです。私たちはイエス様に「私を救ってください」と願わなくてはなりません。そうすれば、イエス様は必ず私たちを救ってくださいます。

だから救いはとても簡単なことです。でもそれと同時に、救いは難しいです。なぜ救いは難しいのでしょうか。なぜなら、多くの人々はそう信じたくないからです。

多くの人々は「私は信じることができません。」と主張します。

でも、神様は私たちに十分な証拠を与えてくださいました。私たちには言い訳がありません。すべての人々は信じることができるけど、あえて信じないことを選びます。

自分のプライドのために信じない人もいます。

「その救いの方法は簡単すぎる。自分自身を救うために、私はもっと難しいことをするべきはずです。」

または、

「神様を必要としない。私はもう大丈夫です。霊的な松葉杖が要らない。」

または、

「私は知的な人だから、もう神様を信じない。」

他の人は、自分の罪に執着しすぎます。だから、その罪が彼らを滅ぼしているのに、彼らはその罪を手放し、神様に従いたくないのです。

あなたはどうですか。あなたはどうするのですか。

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どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか(2)

前回の記事で、私は「なぜ神様への道はイエス様だけなのか」という疑問について話しました。今日の記事では、この疑問をさらに深く掘り下げたいと思います。

前回の記事でも述べたように、パウロは特にユダヤ人について語っています。とはいえ、彼の言葉はすべての宗教的な人々にも当てはまると思います。

パウロはこう言いました。

兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。

私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。(ローマ人への手紙10:1-2)

パウロは非常に重要なポイントを教えています。

多くのユダヤ人や宗教的な人々は神様に対して熱意を持っています。もちろん、それは良いことです。しかし、知識に基づかない熱意は必ずしも良いものではありません。

特に、彼らは神様が最も望んでいるのは信仰であるということを理解していません。

さらに、パウロはこう言います。

彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。(3)

これは宗教的な人々が抱えるもう一つの問題です。彼らは本当の義を知らないため、「義」を勝手に定義してしまいました。

つまり、何が良いことであり、何が罪であるのかを、自分たちの基準で決めてしまったのです。彼らは、神様が何を望んでおられるかを想像し、その想像に基づいて独自のルールを作り上げました。

そのため、彼らが本当の義、つまりイエスを信じる信仰による神の義を知ったとしても、その義を拒絶してしまいます。むしろ、彼らは自分で作り上げた道を歩み続けます。

しかし、もしあなたがどれほど熱意を持っていたとしても、神様の基準に反する基準を築いてしまっているなら、神様はそれを喜ばれません。

実際、たとえ神様が人間的な基準を許されたとしても、人々は自ら定めた基準を完全に満たすことができません。

だから、パウロはこう言いました。

モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。(5)

もちろん、パウロはユダヤ人とモーセの律法について語っていました。

しかし、少し考えてみてください。日本では、誰が日本のルールや法律を完全に守ることができるでしょうか。

完全にルールや法律を守る人は誰もいません。それでも、多くの人は、ルールを守ることによって神様を喜ばせようとします。

だからこそ、自分の宗教的なルールを築くとき、二つの意味で彼らは失敗してしまいます。

第一に、彼らの基準が神様の基準ではないことです。

第二に、彼らは自ら定めた基準を完全に満たすことができないということです。

では、なぜ彼らは、神様が自分たちを受け入れてくださると考えるのでしょうか。特に、神様が最も望んでおられるのは、彼らが神様に信頼することですが、彼らはそうしないのです。

それではいけません。

だからこそ、パウロはこう言います。

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。(4)

簡単に言えば、私たちは自分の基準や宗教を手放す必要があります。なぜなら、それらによって神様を喜ばせることはできないからです。だからこそ、イエス様に心を向けましょう。

キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。(第一コリント1:30)

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どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか

多くの人々のキリスト教に関する一つの疑問は、「どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか。どうしてほかの道で救われることができないだろうか。」ということです。

この箇所では、パウロは一つの答えを教えます。パウロは特にユダヤ人たちについて話しているけど、その言葉がこの世界のすべての宗教的な人に当てはめられると思います。

パウロはこう言いました。

それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。

しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。(ローマ人への手紙9:30-31)

パウロの言葉をちょっと言い換えて、この世の人々に当てはめましょう。

それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかったクリスチャンたちが義を、すなわち、信仰による義を得ました。

しかし、ほかの宗教を信じる人は、自分の宗教の義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。

どうして私たちはそのようなことを言えるでしょうか。その人々が頑張って自分の宗教の律法に従っても、どうして私たちは彼らの努力が足りないと主張するでしょうか。

パウロはこう言いました。

なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。(32)

要するに、彼らが神様に義と認められる方法かわからないことです。彼らの考え方は全く違います。

私たちは自分の良い行為によって、義と認められません。むしろ信仰だけによって、私たちは義と認められます。

この例をちょっと考えてみてください。

愛を伝える5つの方法」という有名な本がありますす。

その著者が言ったのは、一人一人は、違う方法で愛を感じるということです。

例えば、相手がプレゼントをくれるときに愛されると感じる人もいれば、何かをしてもらうときに愛されると感じる人もいます。また、褒められることで愛されると感じる人もいます。

とにかく、夫がどのように妻に愛を伝えるべきか知らないなら、または、妻がどのように夫に愛を伝えるべきか知らないなら、結婚の中で問題が出てきます。

例えば、夫は妻のためにたくさんのプレゼントを買うけど、彼の予想通りに妻が反応してくれないので、夫はフラストレーションを感じます。

もしかしたら、彼の場合、妻がプレゼントをくれるとき、彼はとても愛される感じがするかもしれません。でも、彼が知らないのは、妻がプレゼントよりも夫との時間を望むことです。

だから、彼はたくさんのプレゼントを買っても、彼女は彼の愛を特に感じません。

そのように、人々は、神様に受け入れられるのに、彼らは頑張ってたくさんの良い行為をしなくてはならないと思います。

でも、彼らがわからないのは、もちろん神様が良い行為を見て喜ばれるけれど、それよりも、神様は私たちの信仰を望まれているということです。つまり、私たちが神様に信頼する態度を望むのです。

アダムとエバの話を通して、神様の望みを知ることができます。神様は彼らにこう語られました。

「私に信頼しなさい。その木の実を食べてはならない。その実を食べると、あなたは必ず死ぬ。」

しかし、彼らは神様を信じずにその実を食べたため、神様との関係は壊れてしまいました。

聖書を読むと、このパターンが繰り返されるのを何度も目にします。神様は人々に「私に信頼しなさい」と語られましたが、彼らは神様を信じることなく、神様に背を向けてしまいました。

今もなお、このパターンは続いています。神様は人々にこう語られます。「私に信頼しなさい。イエスを信じなさい。イエスはあなたのために救いの働きをすべて成し遂げたのだから。」

けれども、人々は神様を信じず、自分の努力によって義と救いを得ようとします。

だから、パウロはこう言います。

彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです。(32-33)

あなたはどうでしょうか。自分の努力と良い行いで神様を喜ばせようと思っているでしょうか。

それは無駄なことです。神様はあなたの努力を求めておられるのではありません。むしろ、神様はあなたの信仰を望まれています。

あなたは神様に信頼しているでしょうか。イエス様に信頼しているでしょうか。そうしなければ、あなたはつまずいてしまいます。

しかし、神様に信頼すると、神様があなたを受け入れてくださるので、決して失望させられることはありません。

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神様の選びの神秘(5)

予定説に関するもう一つの疑問についてお話ししたいと思います。

以前にも述べたように、もし神様が人の心の中で働かれなければ、誰も救われることはありません。それなら、なぜ神様はすべての人々の心の中で働かれ、すべての人々を救われないのでしょうか。

正直に言うと、私にはわかりません。おそらく、私が理解できない要素があるのでしょう。さらに、聖書には神様がその理由を説明されていません。

しかし、私たちは二つのことを心に留めるべきです。

第一に、神様は人の信仰を非常に大切にされます。そして、信仰とは、目には見えなくても神様に信頼することです。

けれども、ある人々にとって、神様を信じる前に自分の目で神様を見たいと願うことがあります。彼らは基本的にこう言います。

「神様の存在を証明する証拠があることは認める。それでも、自分の目で見ない限り、私は神様を信じない。」

でも、それは信仰の姿勢ではありません。さらに、多くの場合、その言葉は反抗的な心から生じています。そのため、神様はその願いを叶えられないことが多いのです。

では、もう一つのことを考えてみましょう。

神様が人々の人生の中で働かれるとき、多くの場合、クリスチャンを通して働かれます。

そして、神様は私たちにこの世の人々に福音を述べ伝える責任を与えられました。神様は天の御国の鍵を私たちに与えてくださいました。それを使わずに福音を伝えないなら、私たちは神様に問われることになります。(エゼキエル書33:7~9)

それでも、神様は私たちにその鍵を使うことを強制されません。

だから、神様が人々の人生の中で働かれるとき、二つの方法を用いることができます。

第一に、神様は直接働かれることができます。つまり、神様はご自身を直接現されることができるのです。とはいえ、神様は信仰を望まれるため、その方法をほとんど用いられません。

もう一つの方法は、神様が人々を通して他の人々に触れられることです。ただし、神様はクリスチャンたちに福音を伝えることを強制されません。

そのため、多くの人々が救われないままとなります。

では、神様の考え方は正しいのでしょうか。神様は私たちの創造主であり、すべてのことを知っておられます。

一方、私たちはただの人間であり、限られたことしか理解できません。そのため、神様の判断を批判することはできないでしょう。

だから、予定説について考えるとき、最終的にアブラハムのように私たちはこう言うべきなのです。

全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。(創世記18:25)

結局、私はそう思います。そして、神様が公正を行われることを信じます。

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神様の選びの神秘(4)

予定説について話す際によく出る質問は次のようなものです。

「あなたは、神様が誰を天国へ導くかをあらかじめ定めると主張します。ということは、神様は誰が地獄に行くかも、あらかじめ定めているのではないでしょうか。」

前回の記事で、この疑問についてある程度触れました。

ある意味では、神様は誰が地獄に行くかをあらかじめ定めておられます。しかし、誤解しないでください。神様は決して、こう言われることはありません。

「あなたは地獄に行け。たとえ悔い改めようとも、イエス様を信じようとしてもかまわない。私はすでにあなたの運命を決めているのだから。」

むしろ、神様はこう語られます。「私の計画は、あなたの罪のためにあなたを罰することです。私は正義を執行しなくてはなりません。」

それでも、神様はその宣告を猶予され、その人が純粋に自分の意志で悔い改めるかどうかを待っておられます。その人が自らの意志のみで神様を求め始めるかどうかを待っておられます。

悲しいことに、自分の意志だけで神様を求める者は誰もいません。

だからこそ、私はこう信じます。人々は自らの自由意志によって地獄に行きます。しかし、神様の選びによって、人々は天国に行きます。

神様は人々に自由意志を与えてくださいました。私たちは皆、神様に従うかどうかを選ぶことができます。

ところが、もし神様が私たちの心の中で働かれず、私たちをそのままにされていたなら、私たちは皆、神様に反抗し、自分の道を進んでいくでしょう。例外は一切ありません。それが人類の歴史なのです。

そのため、神様は決断をしなくてはなりませんでした。神様が人間をそのままにされ、すべての人が滅びることを許されることもできました。あるいは、神様が働かれ、ある人々を救われることもできました。

そして、神様は最終的に、ある人々を救うことを選ばれました。

それゆえ、パウロはこう語りました。

また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。

「もしも、万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」(ローマ人への手紙9:29)

ソドムとゴモラの人々は、自らの自由意志で神様に反抗することを選びました。神様は彼らを憐れむことを選ばれず、彼らが値する裁きを与えられました。つまり、彼らは裁かれて死にました。

同様に、イスラエル人たちも自らの自由意志で神様に反抗することを選びました。しかし、神様は彼らを憐れまれ、彼らが値しないものを与えてくださいました。それは、命に至る恵みです。

では、ソドムとゴモラの人々とイスラエル人たちは何が違ったのでしょうか。イスラエル人たちはソドムとゴモラの人々よりも優れた者だったのでしょうか。

いいえ、そうではありません。違いはただ一つ、神様の選びです。

神様はイスラエル人を選ばれました。一方で、神様はソドムとゴモラの人々を選ばれませんでした。

もう一度言います。それこそが、恵みの不思議さです。私たちは、他の人々より優れた者ではありません。それでも、神様は私たちを救うことを選ばれました。

それゆえ、私たちは神様の選びによって救われたのです。その一方、人々が地獄に行くのだとすれば、それは自らの選択によるものです。