ある意味では、救いの道は矛盾しているものです。つまり、その道はとても簡単だけど、それと同時に難しいのです。
パウロはこう書きました。
しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、「だれが天に上るのか』と言ってはならない。」
それはキリストを」とは、引き降ろすことです。
また、「「だれが深みに下るのか」と言ってはならない。」
それはキリストを死者の中から引き上げることです。(ローマ人への手紙10:6-7)
つまり、救いを得るために、私たちがイエス様を天から引き下ろす必要はありません。また、イエス様を墓から掘り出す必要もありません。
イエス様はすでに天から来られ、私たちの罪のために死に、そして復活してくださったのです。
では、私たちに残されているものは何でしょうか。
では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」
これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ人への手紙10:9-10)
簡単に言うと、私たちは心の中にイエス様を主として認め、イエス様が十字架で行った働きを認めることです。
「イエスは主」と言うと、私たちは実は何と言っているのでしょうか。パウロはこう説明します。
聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。(11-13)
その最後の部分で、パウロはヨエル書2:32を引用しました。そして、「主」という言葉は、ヘブル語では、「ヤハウェ」です。
「ヤハウェ」とは、神様の名前です。だから、私たちはこの箇所をこのように翻訳することができます。「ヤハウェの御名を呼び求める者はみな救われる。」
パウロはこの箇所をイエス様に当てはめます。だからパウロが言ったのは、イエス様はヤハウェだということです。要するに、イエス様ご自身が神です。
パウロはピリピ人への手紙2章で、似たことを説明します。その箇所では、パウロはイザヤ書45:23を引用します。イザヤ書45:23で、ヤハウェはこう言います。
すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い。。。
そして、パウロはその言葉をイエス様に当てはめます。
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。)「ピリピ2:10-11)
だから、私たちが救われたいと思うなら、私たちはイエス様を主と神として認めなくてはなりません。
さらに、私たちはイエス様の十字架の働きを認めなくてはなりません。つまり、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んで、復活したことを信じなくてはならないことです。
でもそのことを信じるだけでは足りません。私たちは主を呼び求めなくてはなりません。
悪霊たちはイエス様が主であることを知っています。悪霊たちは、イエス様が罪のために死んで、復活したことを知っています。でも、彼らは救われていません。
ただの知識では足りないのです。私たちはイエス様に「私を救ってください」と願わなくてはなりません。そうすれば、イエス様は必ず私たちを救ってくださいます。
だから救いはとても簡単なことです。でもそれと同時に、救いは難しいです。なぜ救いは難しいのでしょうか。なぜなら、多くの人々はそう信じたくないからです。
多くの人々は「私は信じることができません。」と主張します。
でも、神様は私たちに十分な証拠を与えてくださいました。私たちには言い訳がありません。すべての人々は信じることができるけど、あえて信じないことを選びます。
自分のプライドのために信じない人もいます。
「その救いの方法は簡単すぎる。自分自身を救うために、私はもっと難しいことをするべきはずです。」
または、
「神様を必要としない。私はもう大丈夫です。霊的な松葉杖が要らない。」
または、
「私は知的な人だから、もう神様を信じない。」
他の人は、自分の罪に執着しすぎます。だから、その罪が彼らを滅ぼしているのに、彼らはその罪を手放し、神様に従いたくないのです。
あなたはどうですか。あなたはどうするのですか。
