お金の話は、いつも少し気まずいものです。特に教会では、十一献金について語ることが難しく感じられます。
多くのクリスチャンは、十一献金が新約聖書の教えではないと考えています。私も、ある程度その意見に同意できます。
とはいえ、聖書が明確に教えていることは、私たちを霊的に祝福してくれる人を経済的に支えるべきだということです。この箇所に、その原則を見ることができます。
もちろん、この箇所でパウロは十一献金について語っているわけではありません。彼が話しているのは、貧しいクリスチャンを助けるために、マケドニヤとアカヤからの経済的支援をエルサレムに届ける計画についてです。
それでも、パウロは非常に興味深いことを語っています。
彼らは喜んでそうすることにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。
異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。(ローマ人への手紙15:27)
二つの点に注目してください。
一つ目は、マケドニヤ人とアカヤ人が自ら進んでユダヤ人のクリスチャンたちに与えたことです。
二つ目は、パウロによれば、彼らにはユダヤ人のクリスチャンたちを助ける義務があったということです。なぜなら、イエス様が言われたように、「救いはユダヤ人から出る」からです。(ヨハネ 4:22)
つまり、神様はユダヤ人を通してイエス様をこの世に送られました。そして、ペテロ、パウロ、バルナバ、そして他のユダヤ人たちが異邦人に福音を伝えたことで、多くの異邦人が救われたのです。
だから、パウロはこう語っています。「異邦人はユダヤ人から多くの霊的な祝福を受けたのだから、彼らはユダヤ人に物質的な祝福を返すべきです。」
同じように、私たちも自分の牧師を支えるべきだと思います。
牧師たちは私たちに多くの霊的な祝福を与えてくれました。私たちが神様を知ることができるように、彼らは自分のいのちを神様にささげました。
だから、彼らが自分の家族を支えることができるように、私たちは彼らを経済的に支えるべきです。
とはいえ、ただ義務感から与えるのではなく、心から喜んで捧げるべきです。別の書簡で、パウロはこう記しています。
一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。
神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(第二コリント9:7)
だから、いやいやながら与えることはしないようにしましょう。もしそのような態度を持っているなら、むしろ与えない方がよいでしょう。
しかし、もしお金に執着し、あなたを霊的に支えてくれる人を経済的に支えたくないと感じるなら、その点で成長する必要があります。
なぜなら、イエス様こそ与える方だからです。イエス様は私たちのために天を離れ、さらに私たちのためにご自身のいのちをささげられました。
私たちが本当にイエス様を愛しているなら、そのような心を持つべきではないでしょうか。
あなたはどうでしょうか。あなたは人々に惜しみなく与える者でしょうか。
