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ガラテヤ人への手紙

律法とは何か、その役割とは(2)

ガラテヤ人への手紙3:15-25

前回の記事では、律法が何をしないのかについてお話ししました。つまり、律法は神様の約束に取って代わるものではないということです。

神様とアブラハムの契約は、神様の約束による一方的なものでした。その契約は、アブラハムやその子孫の行いに基づくものではありませんでした。したがって、律法がその契約に取って代わることはありません。

パウロはこの真理をさらに説明します。

(律法は)御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束を与えになった神は唯一の方です。(ガラテヤ人への手紙3:19-20)

モーセが十戒を受けるためにシナイ山を登ったとき、イスラエルの民は神様の偉大さに圧倒され、恐れおののきました。そして、彼らはモーセにこう言いました。

あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。(出エジプト記20:19)

だから、モーセは神様に近づきましたが、イスラエルの民は神様から遠く離れて立っていました。(出エジプト記20:21)

イスラエルの民への神様の言葉は、モーセを通して語られました。神様はモーセに言われました。「イスラエルの民は、これとこれとこれをしなければならない。そうすれば彼らは生きる。けれども、そうしなければ、彼らは死ぬ。」

そして、モーセはその指示をイスラエルの民に伝えました。

でも、少し考えてみてください。なぜ神様は仲介者(つまりモーセ)を必要とされたのでしょうか。

それは、律法が双方向の契約だったからです。

神様には果たさなければならない義務があり、イスラエルの民にも果たさなければならない義務がありました。そして、イスラエルの民が自分の義務を果たさなければ、神様が約束された祝福は無効になってしまいました。

最終的に、それが起こりました。イスラエルの民が何度もその契約を破ったため、神様はその契約を無効にされました。その契約は非常に壊れやすいものでした。

ところが、パウロはこう言いました。「約束を与えになった神は唯一の方です。」

要するに、神様がアブラハムとその子孫と契約を結ばれたとき、義務を果たさなければならないのは神様だけでした。祝福を得るために、アブラハムは何もする必要がありませんでした。

だからこそ、アブラハムとの契約はイスラエルの民との契約とは全く異なっていました。アブラハムとの契約は無効にすることのできないものでした。なぜなら、その契約は私たちの行動ではなく、神様の行動によるものだったからです。

簡単に言えば、壊れやすい契約が、無効にすることのできない契約に取って代わることはできないのです。

それでは、律法とは何でしょうか。(19)

それは論理的な質問ですね。

パウロは答えます。

それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すために付け加えられたもので(す)。。。(19b)

要するに、キリストが来られるまで、律法は一時的に罪を対処する方法でした。モーセの時代からイエス様が来られるまで、何百年もの歳月が流れました。その間、神様は罪を正しく扱わなければなりませんでした。そこで、神様は律法を用いられました。

とはいえ、パウロは重要な質問を投げかけます。

それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。(21)

言い換えると、律法はもう一つの救いの道でしょうか。

答えは?

決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることが出来る律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。(21b)

要するに、もし律法がもう一つの救いの道だとしたら、イエス様が来られる必要はなかったでしょう。なぜなら、私たちが律法に従えば、救われるからです。

しかし、律法を完全に守ることができる人はいないので、律法にはいのちを与える力がありません。むしろ、律法は私たちを罪から救うことができる方へ導くのです。

次の記事で、そのことをさらに説明します。

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