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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(3)

ヤコブの手紙2:17-26

前回の記事では、「私は神様を信じる」と主張するだけでは十分ではないことを学びました。また、「イエス様が私の罪のために死んだと信じる」と言うだけでも不十分です。

真の信仰は、必ず変えられた人生へと導きます。特に、真の信仰は愛によって表現されます。それは、神様への愛と、人々への愛です。

成長せず、決して愛を示さない信仰は、実際には信仰とは言えません。それはただの空しい言葉です。それは、貧しい人に「かわいそうに。神様があなたを祝福するように。」と言いながら、何も助けないことに似ています。

そして、ヤコブはこう言います。

しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。(ヤコブの手紙2:18)

ギリシャ語では引用符がないため、この箇所を解釈するのは少し難しいです。

この翻訳によれば、おそらく自称クリスチャンがヤコブにこう話しているのかもしれません。「あるクリスチャンは信仰があるが、ほかのクリスチャンは行いがある。でも、二人とも結局クリスチャンだよ。」

しかし、ヤコブはその人に答えます。「あなたは本当に信仰を持っているでしょうか。それを証明しなさい。

自分がクリスチャンだと主張するのは簡単なことです。あなたは自分が神様を愛していると主張するかもしれませんが、どのようにして私があなたの心を知ることができるでしょうか。私はあなたの心を見抜くことはできません。

ただ、あなたの行為を見ることしかできません。けれども、その行為のゆえに、私はあなたの信仰を疑います。なぜなら、あなたの人生に神様への愛と人々への愛が見られないからです。

もしあなたが本当に神様の愛を知っていたら、その愛は自然にあなたの人生から溢れ出るはずです。」

ある人々は、パウロの言葉とヤコブの言葉が矛盾していると考えます。なぜなら、パウロは「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる」と教えました(ローマ3:28)。

しかし、ヤコブによれば、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブ2:24)からです。

では、私たちはどのようにしてこの二つの言葉を調和させることができるのでしょうか。

神様の目には、私たちは信仰によって義と認められます。なぜなら、神様は人の心を見抜くことができ、その人が本当に信仰を持っているかどうかを理解されるからです。

けれども、人の目には、私たちは行いによって義と認められます。なぜなら、人は他人の心を見抜くことができず、その行いだけを見ることしかできないからです。

興味深いことに、パウロとヤコブはそれぞれの主張を証明するために、同じ聖句と登場人物を用いています。

ヤコブはこう言いました。

私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。(21-22)

では、アブラハムは誰によって義と認められたのでしょうか。神様でしょうか。ある意味ではそうです。

しかし、アブラハムの行為によって、周りの人々も彼が神様を信じていたことを知るようになりました。それ以前、彼らはアブラハムが本当に神様を信じていたかどうか分かりませんでした。彼らはアブラハムの心を見ることができなかったからです。

過去のアブラハムの行為を見ると、彼を偽善者と呼ぶこともできたでしょう。

例えば、彼は信仰が弱く、相続人を得るために、自分の妻の奴隷と関係を持ちました。アブラハムの妻がそれを勧めたとはいえ、その行為は信仰の表れではなく、むしろ神様の約束を疑ったことを示していました。

けれども、アブラハムがイサクを生贄として捧げたとき、彼は自らの信仰を証明しました。

神様は、イサクを通してアブラハムが多くの子孫を得ると約束されました。けれども、神様がその生贄を命じたとき、イサクにはまだ子供がいませんでした。それでも、アブラハムは神様の約束を信じ、イサクを捧げようとしました。

彼の信仰は成長しました。以前は偽善的な行動をとり、信仰が揺らいでいましたが、今や彼は神様を完全に信頼していました。

だからこそ、ヤコブはこう言いました。

アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(23)

では、アブラハムはいつ神様を信じたのでしょうか。そして、彼はいつ神様によって義と認められたのでしょうか。生贄の前でしょうか、それとも後でしょうか。

それは、生贄の前でした。実際には、イサクが生まれる前から、すでにアブラハムは神様によって義と認められていました。(創世記15:6)

その時、神様はアブラハムの心をご存知でした。神様は彼が本当に信じていたことを知っていたので、彼を義と認められました。

それでも、アブラハムがイサクを祭壇に捧げた時、その信仰は成熟し、完全なものとなりました。

以前の記事で私は言いましたが、信仰の成熟や完成には時間がかかることがあります。時に、私たちの信仰は揺らぎ、成長の過程で苦しみを伴うこともあります。

しかし、真の信仰を持っているならば、進展があるはずです。そして、最終的に周囲の人々もその進展を目にすることになります。

あなたはどのような信仰を持っているでしょうか。

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