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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(4)

ヤコブの手紙2:17-26

前回の記事でさらに言いたいことがありましたが、すでに記事が長くなっていたため、その代わりに今日の記事で触れることにしました。

以前の記事で、私が強調したかったことの一つは、クリスチャンとして成熟し、完全な者になるには時間がかかるということです。私たちは、一瞬にして完全なクリスチャンになるわけではありません。

アブラハムの信仰も、一瞬で完全なものになったわけではありませんでした。彼がイサクを生贄として捧げようとした時、その信仰はようやく成熟しました。

けれども、それまでの彼の信仰は何度も揺らいでいました。そのため、彼は相続人を得るために妻の奴隷ハガルと関係を持ちました。

また、20章では、アビメレク王に嘘をつき、自分の妻サラを妹だと言いました。(それは半分は真実でした。サラはアブラハムの異母妹だったのです)。

なぜ彼は嘘をついたのでしょうか。それは、アビメレクがアブラハムを殺し、サラを奪うことを恐れたからです。

では、私のポイントは何でしょうか。

一つ目は、私はあなたに自分の信仰について考えることを促したということです。けれども、その際、自分の失敗ばかりに目を向けて落ち込むのは簡単です。

「もしかしたら、私は本当に救われていないのではないか。私の人生には愛の実が見られないし、さまざまな面で失敗ばかりしている。」

しかし、そうした反応は私の意図ではなく、また、ヤコブの意図でもありません。

ある人々は自分がクリスチャンだと自称しながらも、自分勝手な人生を送っても問題ないと考えます。

彼らは、「私は信仰をもって、あなたは行いを持っている」と言い、信仰と行いの関係をまったく認めようとしません。ヤコブと私は、そのような人の信仰を疑います。

なぜなら、信仰と行いは深く結びついているからです。真の信仰は必ず変えられた人生へと導きます。十字架を見て神様の愛を悟り、神様を愛するならば、自然と神様を喜ばせたいと願うようになります。

もしあなたが自分の信仰に疑問を感じているならば、私はこう問いかけます。「あなたは本当に神様を愛しているでしょうか。神様を本当に喜ばせたいと思うでしょうか。」

もしあなたが「はい」と答えることができるならば、私はあなたを心配しません。なぜなら、あなたは聖霊の力と導きによって自然に変化し始めるからです。その過程には時間がかかり、困難を伴うかもしれません。それでも、それは確実に起こります。

次に、人の成長が遅すぎると感じても、その人を急いで裁かないように注意しなくてはならないということです。

人々はそれぞれ異なるペースで成長します。彼らの行いは心の状態をよく表しますが、それが信仰の完全な尺度であるとは限りません。

ある人は外見上、立派なクリスチャンに見えるかもしれません。しかし、神様の目には、その心が正しくないこともあります。

その一方、ある人が偽善者に見えたとしても、その人は自分の部屋で泣き叫びながら祈っているかもしれません。「神様、どうして私はこんな人間なのでしょうか。赦してください。私を変えてください。」

けれども、聖い人生を送ることに関心を持たない人を見るならば、その人の信仰を疑うべきです。そのような人はいつも言い訳をし、訓戒されると、「でも、私は信仰によって救われた。私の行動は関係ない」と答えます。

私はそのような人の信仰を疑います。ヤコブも同じようにするでしょう。

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