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ヨハネの黙示録

天国:花嫁が現れた!

ヨハネの黙示録21-22

いいえ、この記事でこのブログを終えることはありません。私たちは永遠に新しい天と新しい地にいるのですから、数日にわたって、それらがどんなところであるのかについて話していきましょう。🙂

皮肉なことに、最後の七つの災害に満ちた七つの鉢を持っていた七人の御使いのうちの一人がヨハネのもとに来て、「ここに来なさい。あなたに、子羊の妻である花嫁を見せましょう」と言います。

この御使いは、古い天と古い地の破壊に関わっていましたが、 彼は新しい天と新しい地をヨハネに紹介するのです。

前回の記事でも触れましたが、「新しいエルサレム」とは、文字通りの都市なのか、神様の民なのか、それともその両方なのかは分かりません。

でも、この場面を読んでいると、高価な真珠のたとえ話を思い出しました。そこでは、ある人がその真珠を得るために、持っていたものすべてを売り払いました(マタイ13:45〜46)。

イエス様は、十字架でご自分の血によって、教会という高価な真珠を、ご自分の花嫁として買い取られたのです。

パウロによれば、

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:26-27)

今日の聖句では、キリストの花嫁が登場し、私たちはその美しさを目にすることができます。ヨハネはこう語ります。

都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。(黙示録21:11)

ヨハネが花嫁を描写するとき、「12」という数字や「12の倍数」という数字が頻繁に登場し、それらの数字は時に「1000」(完全さを表す数字)と組み合わされています。

なぜ「12」なのでしょうか。その答えは、21章12節と14節にあるかもしれません。

「12」とは、神様の民を象徴する数字です。イスラエルの十二部族は旧約聖書時代の神様の民を象徴し、12使徒は新約聖書時代の神様の民を象徴します。(私たちも新約聖書の時代に生きています。)

旧約の信仰者たちは、新約の信仰者たちと共に神様の民なのです。

そして、花嫁は旧約時代の祭司たちのように宝石で飾られます(出エジプト記28:15〜21)。

エデンの園もまた、宝石で飾られていました(エゼキエル書28:13)。

この花嫁には、神様と出会うために神殿に行く必要はありません。なぜなら、神様ご自身と子羊ご自身が「神殿」だからです(21:22)。

つまり、昔は神殿が神様の臨在を表しましたが、新しい天と地において、神様はご自身が私たちの間におられるため、そのような建物は不要です。その上、神の栄光、そして子羊の栄光が都市を照らしています(21:23)。

しかも、花嫁自身も輝いています。この世の国々は彼女の栄光によって照らされ、国民たちはそれぞれの栄光を彼女にささげます(21:24)。

花嫁は完全に安心しています。侵入者が入る恐れがないため、その都市の門は常に開かれています。アダムとエバが裸でも恥を感じず安心していたように、キリストの民も人間関係において完全に安心しています。

御霊の喜びに満たされるにつれて、私たちの心の奥底から、生ける水の川が流れ出ます(ヨハネ7:37-39)。そのため、私たちはいのちの実を結び、味わいます(22:1-2)。

でも、天国で花嫁にとって最も素晴らしい事は何でしょうか。それは、私たちが神様のみ顔を見ることです(22:4)。

この都市は立方体として描写されています(21:16)。

聖書の中で、他に立方体として描かれているのはただ一つ。それは神殿の至聖所であり、神様がそこに住んでおられました(列王記第一6:20)。

その立方体の意味は?前回の記事で、私たちはその意味を見ました。

見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(21:3)

また、

もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え。。。彼らは世々限りなく王として治める。(22:3,5)

どうして、私たちはそんな素晴らしい祝福を得ることができるのでしょうか。

なぜなら、2000年前、イエス様は十字架で私たちの罪のために死んでくださいました。イエス様の働きのおかげで、私たちはイエス様の尊い宝石のように輝き、イエス様の花嫁として栄光を持って、イエス様と共におり、共に治めます。

私はその日が来るのを待ちきれません。

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