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ルカの福音書のデボーション

自分を正しいと思い込もうとしていないか

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。

人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。(ルカの福音書16:15)

主よ、私が悪いことをするとき、言い訳するのは簡単です。

私は周りの人々に、自分が正しいことをしていたと思わせるかもしれないし、自分自身にもそう思わせるかもしれません。でも、あなたは私の心をご存じです。

時々、私は言い訳しながら、あなたが忌み嫌われることをしてしまいます。ごめんなさい。

あなたの恵みに感謝します。

どうか、毎日、私を探り、私の心を知ってください。そして、私があなたを喜ばせる人生を送るように助けてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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良い父?

私たちの天のお父さんが、どんなに良い方であるかを、私たちは分かっているでしょうか。

放蕩息子は分かっていませんでした。その文化では、自分の遺産を早く受け取るように頼むことは、基本的に「あなたは死んでしまえばいい」と父に言うのと同じ意味でした。

そして彼は飢え、必死になったとき、自分の父が許してくれて、息子として受け入れてくれるとは想像できませんでした。

その兄も、父がどんなに良い方であるかを分かっていませんでした。むしろ、自分を奴隷のように見なしていました。「俺はずっと父のために働いているのに、決して報いを受けていない」と思っていたのです。

しかし最終的に、その父は自分の良い性格を証明しました。放蕩息子の罪にもかかわらず、父は彼を許し、息子として喜んで受け入れてくれました。

また、長男が怒って、ふてくされていたときも、父は愛を持って、手を差し伸べました。

あなたはどうでしょうか。あなたの天のお父さんが、どんなに良い方であるかを分かっているでしょうか。

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私たちはなぜ教会に来るのでしょうか

今日の箇所を読んだとき、いろいろなことを考えさせられましたが、会堂でのイエス様の言葉は私の心を打ちました。

会堂司が気にしていたのは、宗教的なルールを守ることでした。だから、イエス様がある女性を癒されたとき、会堂司はまったく喜びませんでした。逆に、彼は怒りました。

働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。(ルカの福音書13:14)

しかし、イエス様は答えられました。

この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。(16)

教会に行くとき、私たちは何を気にするのでしょうか。

たぶん、宗教的なルールを心配することはないかもしれませんが、どれほど自分のこと、特に教会で自分が何を得ることができるかを考えているでしょうか。

でも、毎週の日曜日、神様はサタンに縛られていて、解放が必要な人を教会に何人送っておられるでしょうか。彼らが教会に来たとき、私たちは気づくでしょうか。

主よ。教会に行くとき、私の目を開いてください。サタンに縛られ、傷ついている人に気づくように助けてください。

私があなたの愛のパイプラインとなるようにしてください。私を通して、彼らが解放されるようにしてください。

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信仰の薄い人?

天のお父さん、私が心配に満ちて、信仰の薄い人にならないようにしてください。あなたは、烏やゆりのお世話をしてくださいます。だから、あなたが私のお世話をしてくださることを信じるように助けてください。

私の心が心配に満ちず、あなたに向かうように。

私にとって、あなたが私に御国を喜んでくださることは驚くべき事です。その真理を実感して、私がこの世のものに執着しないように。

喜びに満ちている心をもって、私があなたの御国のために周囲の人々に触れるように。私の中の喜びを見ると、彼らがあなたとの関係を望むようにしてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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間違った疑問

今日の箇所では、私たちはとても有名な例え話を読みました。それは、良いサマリア人の話です。

イエス様と律法の専門家は、神様を愛することと、隣人を愛することについて話していました。専門家は隣人を正しく愛していなかったので、自分が正しいことを示そうとして、イエス様に訊きました。「私の隣人とは誰ですか。」(ルカの福音書10:29)

興味深いのは、イエス様がその疑問に直接答えられなかったということです。どうしてでしょうか。なぜなら、それは間違った疑問だったからです。

では、正しい疑問は何でしょうか。

イエス様は例え話を語られたあと、専門家に訊かれました。「だれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」(36)

専門家は答えました。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」(37a)

イエス様は彼に言われました。「正解です。では、あなたも行って、同じようにしなさい。」(37b)

つまり、正しい疑問は「私の隣人は誰だろうか」ではありません。私たちは、誰を愛するか、愛さないかを選んではいけません。

正しい疑問は、「私は隣人だろうか。私は憐れみを与える人だろうか。」です。そう訊いたら、私たちは誰を愛するか選ぶことができません。むしろ、私たちは周りの人々すべてを愛さなくてはなりません。

私が告白しなくてはならないのは、人を愛することが難しいときもあるということです。愛しにくい人もいるからです。

だからこそ、私は救い主が必要です。実は、私たち皆が救い主を必要としています。なぜなら、私たちは人を正しく愛せないときがあるからです。

ところで、それこそがイエス様の要点でした。イエス様は、専門家が自分の罪を認めるように望まれました。でも、専門家は言い訳しようとしました。

とにかく、私の祈りはこうです。

主よ。あなたは私を憐れんで救ってくださるほどに、私を愛しておられました。だから、あなたの恵みによって、私も周りの人々に対する隣人、また憐れみを与える者となることができるように助けてください。

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周りの人々のニーズに備えるため

そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった。

人々はみな、食べて満腹した。(ルカの福音書9:16ー17)

英語の翻訳では、「イエスは。。。パンと魚を群衆に配るように弟子たちに何回もお与えになっていました。」

「何回もお与えになっていました。」

その言葉は、私の心に残りました。

私たちの周りには、霊的なニーズを持つ人々が多くいます。でも、弟子たちのように、私たちには彼らに与えられるものがあまりありません。

それでも、イエス様は私たちに、ただ「あなたがたが、あの人たちのニーズに備えなさい」と言われるだけではありません。

むしろ、彼らのニーズに備えるために、イエス様は私たちに恵みと資源を与え続けてくださいます。

でも、それらを望むなら、私たちはイエス様に繋がらなくてはなりません。その資源を受け、恵みに満たされて溢れるために、私たちは常に霊的な蛇口の下に立たなくてはなりません。

でも、私たちはそうしているでしょうか。

イエス様はこう言われました。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。。。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(ヨハネ15:5、9)

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どれほど、私の目にはあなたが小さく見えてしまうのでしょうか

主よ、どれほど、私の目にはあなたが小さく見えてしまうのでしょうか。

私の人生には嵐が訪れ、その嵐はとても大きなものに見えます。でも、私が忘れてしまうのは、あなたがその嵐よりも大きな方であるということです。

そして、私はパニックになり、あなたは私に訊かれます。「あなたの信仰はどこにあるのですか。」

主よ、私があなたの偉大さを悟ることができるように助けてください。私があなたの力に畏敬の念を抱くことができるように助けてください。

でも、あなたの力と偉大さを見たとき、ゲラサ人たちのようにあなたを恐れるのではなく、悪霊から解放された人や、癒された女性、復活した少女の両親のように、あなたの慈しみを悟ることができるようにしてください。

私が恐れず、ただあなたを信じることができるように助けてください。(ルカの福音書8:50)

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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資格がある?資格がない?

今日の箇所には、人々が自分自身をどのように見なしていたかについて、興味深いことが記されています。特に、自分がイエス様にお付き合いいただく資格があると思っていたかどうかが注目されます。

百人隊長について見ると、ユダヤ人たちは、彼にはイエス様の助けを受ける資格があると考えていました。なぜなら、彼は多くの良いことをしていたからです。

しかし、百人隊長自身はそうは思いませんでした。だからこそ、彼はイエス様にこう言いました。

あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。(ルカの福音書7:7)

その反面、シモンは、自分が資格を持っていると思っていました。もしかしたら、彼は、イエス様がシモンの家に入る資格がないと思っていたかもしれません。

さらに、シモンは、罪深い女性が偉い先生に付き合う資格はないと思っていました。

でも、実は、私たち皆は資格のない者です。なぜなら、私たち皆は返すことができない罪の借金を持っているからです。でも、私たちがへりくだって、イエス様のもとに来ると、イエス様は私たちに言います。「あなたの罪は赦されています。」

そして、恵みによって、イエス様は私たちを受け入れてくださいます。

だから、感謝に満ちている心をもって、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づきましょう。(へブル4:16)

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私たちを喜ばれる神

さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。

そして祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。

すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。(ルカの福音書3:21ー22)

私にとって興味深いのは、この話のあと、ルカがイエス様の家系図について書いていることです。そして、その家系図の最後に、ルカはこう記します。「アダムは神の子である」。

それを読んで、私はこう考えました。「アダムを造ったとき、神様はアダムに『あなたは私の愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』と言われたのだろうか」。

私は分かりません。でも、もしかしたら、神様はそう言われたかもしれません。

もちろん、イエス様は罪のない神の子です。

でも、アダムも神様によって、完全な人間として造られました。

だから、神様がアダムに『あなたは私の愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』と言われたとしても、不思議ではありません。

でも驚くべきことは、罪深い私たちに対しても、神様が『あなたは私の愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』と言われることです。

どうして、神様はそう言えるのでしょうか。

それは、十字架でイエス様が、私たちの罪の代価を支払ってくださったからです。だから神様は、私たちを見るとき、罪ではなく、イエス様の義に包まれた私たちをご覧になります。

だから神様は、私たちに微笑みながら、『あなたは私の愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』と言われるのです。

『あなたに怒る』とは言われません。

『あなたにはがっかりです』とも言われません。

むしろ、『あなたを喜ぶ』と言われます。

そのことを思い巡らし、心から喜びましょう。

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ルカの福音書のデボーション

神様の慈しみを心に留める

しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。(ルカの福音書2:19)

その言葉を読んだとき、私はこう思いました。「どれだけ、私はそうするだろうか。神様が私のために良いことをしてくださるとき、その出来事を私の心に納めるだろうか。どれだけ、私はその出来事に思いを巡らすだろうか。」

神様が私たちのためにしてくださったことを忘れるのは、簡単なことです。私たちは、意識してその出来事を自分の心に納めないと、苦しみの中で絶望するのも、簡単なことです。

私たちの人生では、剣が私たちの心を刺し貫く時もあります。(35)

だから、そんな時が来る前に、神様がご自身の慈しみを私たちに現してくださるとき、神様が何をしてくださったかを、私たちの心に納めましょう。

いっそのこと、神様の慈しみを忘れないように、日記やスマホ、コンピューターのWordファイルなどに、神様が何をしてくださったかを書き留めましょう。そして、神様の慈しみに思いを巡らしましょう。

それだけではなく、羊飼いたちのように、周りの人々に、神様が私たちのためにしてくださったことを伝えましょう。

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伝道者の書のデボーション

最終的な答え

「この世は壊れている。神様が良い方なら、どうして私たちは悪をよく見るのか。」

「人生の意味は何だろうか。」

この二つの疑問は、この書の主なテーマです。

今なお、人々は同じ二つの質問をします。

イエス様以外で最も賢明な人であるソロモンは、その二つの疑問について、こう言われました。

わが子よ、さらに次のことにも気をつけよ。多くの書物を書くのはきりがない。学びに没頭すると、からだが疲れる。(伝道者の書12:12)

悪の理由を説明しようとする本は、何冊あるでしょうか。

また、自己啓発の本や、人生の意味を説明しようとする本は、何冊あるでしょうか。数えきれないほどあります。

もちろん、それらの本は、ある程度、真理を持っているでしょう。もしかしたら、それらの本は、私たちを良い方向に導くかもしれません。なぜなら、すべての知恵は神様から来るからです(11)。

そして、神様の恵みによって、ノン・クリスチャンたちも、ある程度まで真理を把握します。

でも、最終的に神様から離れるなら、すべての人間の知恵は不十分なものと証明されます。人間の知恵に頼るなら、私たちは結局、疲れて、絶望してしまいます。

一つの結論だけによって、私たちは本当の命を知ります。その真理を信じ、その真理によって私たちの人生を送るなら、後悔せずに、他の本を捨てることができます。

その結論は、何でしょうか。

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。

神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。(13-14節)

悪の疑問の答えは、何でしょうか。どうして「良い人たち」は苦しむのでしょうか。

最終的に、自分の限られた知恵や知識では、私たちはその疑問に答えることができません。また、私たちの知恵が限られているので、神様とその善良さを疑う立場にはありません。

むしろ、私たちは神様を恐れるべきです。なぜなら、ある日、神様は私たちの罪を含めて、すべての悪を裁かれるからです。そして、イエス様とその十字架の働きだけによって、私たちは神様の御前に立つことができます。

人生の意味は、何でしょうか。神様の命令を守ることです。特に、神様を愛し、周りの人々を愛することです。この世にある他のものは、最終的に空しいものです。なぜなら、それらは儚いものだからです。

私たちが死ぬとき、天国に持っていけるものは、二つしかありません。それは、神様との関係と、他のクリスチャンたちとの関係です。だから、神様との関係、また御国の働きに投資しましょう。そうしてこそ、私たちは人生の意味を知ることができます。

 

 

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伝道者の書のデボーション

私たちの人生はただの一息だから

ソロモンがしばしば言う「空しい」という言葉を読むとき、覚えておいた方がいいのは、その言葉が「一息」、また「一時的」という意味もあるということです。

「一息」はとても一時的なものなので、その言葉は空しさの比喩としてよく使われています。

聖書の中では、命はしばしば一息に例えられます。この地上にある私たちの人生はとても短いのですから。

私たちの人生は不確定要素に満ちています。どんな災いが自分に降りかかるか分かりません。

もちろん、不確定要素のために、私たちは伏線を張ることができます。未来に何が起こるか分からないから、そうするのは賢明なのです。(伝道者の書11:1-6節)

でも、以前も言ったように、私たちは皆、死を避けることができません。

では、その真理を知った上で、どうすればいいでしょうか。

1.神様から与えられた賜物である命を喜びましょう。喜ぶことができる神様の賜物はたくさんありますから。(7-9節)

2.壊れた世界に生きていることを覚えておきましょう。どんなに正しい人でも、悪い時は必ず来ます。(8節b)

3.悪いことも良いことも、この人生にあるすべてがはかないものであることを心に留めておきましょう。

だから、悪いことが起こるとき、それがはかないものであることを覚えておきましょう。私たちの問題は永遠に続くわけではありません。

特に、若い人たちはそれを心に留めておかなくてはなりません。多くの若者は、自分の青春を無駄にしてしまいます。なぜなら、ずっと自分の苦しみにくよくよするからです。(10節)

その反面、良いことが起こったら、喜びましょう。神様に感謝しましょう。でも、良い時もはかないものであり、また悪い時が必ずもう一度来ることを覚えておきましょう。

4.中でも、この地上にある私たちの人生が永遠の準備であることを心に留めておきましょう。そして、ある日、神様が私たち皆を裁かれることを覚えておきましょう。(9節b)

私たちは一時的なものに集中して、たくさんの時間を無駄にすることができます。救えないものに望みを託すこともできます。

だから、そうせずに、神様に向かい、望みを託しましょう。

ダビデと一緒に、こう祈りましょう。

主よ、お知らせください。私の終わり、私の齢がどれだけなのか。私がいかにはかないかを知ることができるように。

ご覧ください。あなたは、私の日数を手幅ほどにされました。あなたの御前では、私の一生はないも同然です。

人はみなしっかり立ってはいても、実に空しいかぎりです。まことに、人は幻のように歩き回り、まことに 空しく立ち騒ぎます。人は蓄えるがだれのものになるのか知りません。

主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇39:4-7)

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伝道者の書のデボーション

自然なもの?

「死は自然なものです。死は、ただ生命の循環の一部です。」

そんな言葉を聞いたことがあるでしょうか。

それは本当でしょうか。

ある意味では、それは本当ですが、ある意味では、本当ではありません。

この罪によって壊れた世界では、死は自然なものです。パウロが言ったように、罪の報酬は死です。(ローマ6:23)

でも、神様はもともと私たちを永遠のものとして造られました。

死が本当に自然なものであれば、人々は死を恐れず、悲しむことはないでしょう。でも、実際には、自分自身に死が自然なものだと説得しようとしなくてはなりません。

自分の心の中で、彼らはソロモンが分かってきたことを理解します。それは、死が悪であるということです。(3節)

すべての人は死にますし、私たちが全然予期しないときに、死は来るかもしれません。(2、11ー12節)

では、その真理にどのように反応するべきでしょうか。

私たちは絶望するのを選ぶことができます。また、死に対して憤るのを選ぶことができます。

私たちは憎しみや妬みや他の空しい感情を抱いて、たくさんの時間を無駄に費やすのを選ぶことができます。

もしくは、命がはかないものであっても、私たちはソロモンの助言に従って、神様から与えられた賜物であるこの人生を楽しむのを選ぶことができます。大切な人々に愛を示すことができます。(6ー9節)

また、神様から与えられた脳と体を用いて、仕事やレジャーやすべての活動を通して、神様に栄光を帰するのを選ぶことができます。(10節、コロサイ3:17)

でも、なぜ私たちはそうするべきでしょうか。命がはかないものであるなら、私たちの人生や行動には本当に意味があるのでしょうか。

意味があります。なぜなら、死は終わりではないからです。

イエス様はこう言われました。

わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(ヨハネ14:19)

また、最終的に、

正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある。(伝導者の書9:1)

だから、死を考えるとき、絶望しないでください。むしろ、ソロモンのお父さんダビデと一緒に歌いましょう。

私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。

それゆえ、私の心は喜び、私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。

あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。

満ち足りた喜びがあなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります。(詩篇16:8ー11)

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伝道者の書のデボーション

悪に触れる世界での信仰

私たちが悪に満ちた世界に存在していることを否定することはできないでしょう。悪に触れない人は誰もいません。でも、悪に直面したら、どうすれば良いでしょうか。

今日の箇所では、私たちは三つの答えを見つけます。

1.この世の悪の理由を知るために、脳みそを絞ってはいけません。前回の記事でも言いましたが、イエス様以外では、ソロモンは最も賢明な人なのに、すべての悪の理由を知ることができませんでした。私たちも知ることができません。(伝導者の書8:16ー17)

2.神様が最終的に正義をもたらすことを信じましょう。(12ー13節)

この世で、正義を見ることができないかもしれません。(10ー11節)

でも、神様は良い方で、最終的に、全地をさばくお方は、公正を行います。(創世記18:25)

3.神様の知恵を求めましょう。

この世では、相手を傷つける力を持っている人々がいます。(9節)

私たちはクリスチャンかもしれませんが、人々に決して傷つけられないとは限りません。だから、どうすれば良いかを考えるとき、神様の知恵を求めるべきです。

私たちはいつ正義を求めるべきでしょうか。私たちはいつ相手にあわれみと恵みを与えるべきでしょうか。私たちはいつ、ただ正義を神様の手に委ねるべきでしょうか。その疑問に答えるために、私たちには神様の知恵が必要です。

だから、ソロモンはこう言いました。

知恵ある者の心は時とさばきを知っている。すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいは多い。(5-6節)

4.喜ぶことを選びましょう。(15節)

いつも自分のトラブルに集中するなら、私たちは絶望の落とし穴に落ちてしまいます。でも、主は近いです。主は良い方です。だから、苦しみのとき、主とその慈しみに集中しましょう。

また、私たちの重荷を主に委ねるとき、神様が今までしてくださったことを感謝することを忘れないようにしましょう。

そうするにつれて、この世の悪に触れても、私たちは神様の平和を知ることになります。(ピリピ4:6ー7)

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詩篇のデボーション

弟子の祈り

味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。(詩篇34:8)

主よ。私は慈しみを味わったことがあります。でも、あなたの慈しみをもっともっと味わいたいと思います。

聖書を読むとき、私があなたの慈しみを味わうように。

私が祈って、あなたの御声を聞くとき、私があなたの慈しみを味わうように。

あなたが私の祈りに応えてくださるにつれて、私があなたの慈しみを味わうように。

私がもう一度失敗して、罪に落ちるとき、あなたの赦しの甘さを知って、あなたの慈しみを味わうように。

試練に直面して苦しむとき、私の弱さと力不足を見るとき、私があなたの恵みは私に十分であり、あなたの力が弱さのうちに完全に現れることが分かるにつれて、あなたの慈しみを味わうように。

私が社会に出て、周りの人々に触れるにつれて、彼らがあなたの慈しみを味わうように。

私を通して、私の家族があなたの慈しみを味わうように。

私を通して、私の友人や同僚や隣人があなたの慈しみを味わうように。

私を通して、あなたの民があなたの慈しみを味わうように。

そして、不完全な神の子供である私を通してあなたが人々に触れてくださるにつれて、私があなたの慈しみを味わうように。

私が毎日、何かとあなたの慈しみを味わうように。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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伝道者の書のデボーション

どうしてこれが私に起こっているの?

正直に言うと、今日の個所には分かりにくい言葉があります。

私はいろいろな聖書学者の解説を読みましたが、彼らの意見はあまり一致していません。

例えば、

あなたは正しすぎてはならない。

自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。

あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。

一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。(伝道者の書7:16-18)

「あなたは正しすぎてはならない」とはどういう意味でしょうか。

また、「あなたは悪すぎてはいけない」とは、どういう意味でしょうか。

ソロモンは、「やりすぎないなら、ちょっと罪を犯しても良い」と言っているのでしょうか。

多分そうではありません。なぜなら、ソロモンは「神を恐れる者は、この両方(の真理)を持って出て行く。」と言っているからです。

では、ソロモンは何を言いたいのでしょうか。

12節では、ソロモンは、知恵が私たちを守ると言っています。

でも、ソロモンは私たちに警告します。私たちは知恵を持っているかもしれませんが、何も悪いことが起こらないとは限りません。

もちろん、神様が私たちを祝福してくださるときもありますが、神様が私たちが試練に直面することを許されるときもあります。

良い人が滅びることもあるし、悪い人が栄えることもあります。(13-15)

とは言え、20節で、ソロモンは、本当に正しい人が誰もいないことを指摘しています。

私たち皆は罪人です。

だから、「どうして、これは私に起こっているの?私は何も悪いことを全然していないのに。」と正直に言える人は誰もいません。

どれだけ、私たちは、相手の罪に気づくのに、自分が同じ罪を犯していることに気づかないでしょうか。(21-22)

だから、たぶんソロモンが意味したのはこうです。「自分が正しいほどに、試練や苦しみを経験することに値しないと考えてはいけません。」

そんなに正しい人は誰もいません。

その反面、「良い人が滅びることもあるし、悪い人が栄えることもあるので、やたらと罪を犯してもいい」と考えてはいけません。なぜなら、その道は必ず死に導くからです。(ローマ6:23)

では、「自分を知恵のありすぎる者としてはならない」とはどういう意味でしょうか。

多分、ソロモンが意味したのは、「自分が十分な知恵を持って、悪の理由のすべてを悟ることができると考えてはいけない」ということです。

イエス様以外では、ソロモンは最も知恵のある人でした。

それでも、ソロモンは悪の理由を説明することができませんでした。

彼は男性も女性もよく観察しました。

彼は、完全に理解できる女性を誰も見つけられませんでした。理解できる男性もあまりいませんでした。

彼が分かったのは、一つのことです。それは、すべての人々が罪に染まっているということです。(23-29)

悪の理由のすべてを理解しようとすると、私たちの脳は爆発してしまい、私たちは自分の信仰を壊してしまうかもしれません。

ヨブの友人たちは、すべての理由を理解していると思っていましたが、最終的に、神様は彼らの知恵を批判し、彼らを責められました。

だから、その二つの間違った考え方を避けましょう。

むしろ、神様の御前にへりくだり、神様が良い方であることを信じ、何が起こっても、神様に従いましょう。

そうすれば、ヨブのように、私たちは神様がやっぱり良い方であることを知るようになります。

 

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伝道者の書のデボーション

満足して生きる、祝福を分かち合う

この章の主なテーマの一つは、満足することです。ソロモンはこう書きました。

目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。 これもまた空しく、風を追うようなものだ。(伝導者の書6:9)

私たちが満足していないなら、自分の人生を楽しむことができません。でも、どれだけ私たちは持っていないものを追い求めすぎて、持っているものを楽しんでいないでしょうか。

ソロモンは、たくさんの子供がいる人について話します。しかし、自分の不満のゆえに、その人は自分の子供たちとの関係を楽しみませんでした。だから、彼は愛されていない人として亡くなり、彼の死を悼む人は誰もいませんでした。(3)

でも、満足することだけでは足りません。イエス様の例え話の一つでは、ある人は大満足でした。(ルカ12:16ー21)

でも、彼がとても自己中心だったので、神様は彼を裁かれました。もしかしたら、イエス様がこの話を語られたとき、伝道者の書6:2を考えておられたかもしれません。

私たちは、神様に人々を祝福するように召されています。人々を祝福するにつれて、私たちはイエス様の言葉を実感します。つまり、

受けるよりも与えるほうが幸いである。(使徒の働き20:35)

神様があなたに与えてくださった人生を楽しみたいと思うでしょうか。

満足することを学びましょう。

そして、神様があなたを祝福してくださったように、周りの人々を祝福しましょう。

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私たちは誰を信頼すべきか

ある州で、貧しい者が虐げられ、権利と正義が踏みにじられているのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもう一人の上役がいて、彼らよりももっと身分が高い者たちもいるからだ。

国にとっての何にもまさる利益は、農地が耕されるようにする王がいることである。(伝道者の書5:8ー9)

あなたはどう感じるか分からないけど、私は政治家たちや官僚たちや裁判官たちをあまり信じていません。

ちょっと可笑しいけど、ソロモンが王だったのに、彼もその人たちをあまり信じていなかったらしいです。

もちろん、政治家や官僚や裁判官の皆が悪いわけではありません。

ソロモン自身は政府の利点をよく分かっていました。良い政府があれば、国は栄えることができます。(9)

その反面、説明責任のために政治制度や官僚制があるけれど、堕落が入り込んでしまいます。その結果は?政府や社会に、私たちは不正をよく目にします。

私たちが罪によって壊れた世界にいるので、それは当然のことです。

だから、私たちクリスチャンは、政府に希望を寄せるべきではありません。もちろん、神様が政府を良いものとして立ててくださり、政府は必要なものです。それでも、私たちの政府は不完全な道具です。

それでは、私たちは誰に信頼を寄せるべきでしょうか。私は、チャールズ・コルソンというクリスチャンの言葉が大好きです。

希望はどこにあるでしょうか。私は、社会の腐敗によって落ち込んでいる人に何度も会ったことがあります。

私たちが持っている希望は、政治家にあるわけではありません。

私たちの希望は、新しい法律を制定することではありません。

私たちの希望は、この国の実績から生まれるものではありません。

私たちが持っている希望は、人々の心に働いている神様の力です。

それがこの国の希望です。それが私たちの人生の希望です。