「裁いてはいけません。」
「私たちは寛容をもって、人を受け入れなくてはいけません。」
現代では、この世の人々はその言葉をよく言います。
ある意味、その言葉は正しいです。
イエス様は偽善的な裁きに関して警告します。(マタイ7:1ー5)
パウロは、教会の外部の人たちを裁くすることを神様に委ねなさいと教えます。(11ー12a)
それでも、パウロははっきりと言います。「悔い改めずにあえて罪を犯す自称クリスチャンを裁きなさい。」(12b)
つまり、
あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。(13)
もちろん、私たちは怒りをもって、独善的な態度を取ってはいけません。
むしろ、私たちはその人とその罪のために悲しむべきです。(2)
また、私たちは、その人が悔い改めるように望んで、祈るべきです。(5)
でも、私たちはその人の罪を受け入れてはいけません。むしろ、その人を私たちの中から除き去らなくてはなりません。
その原則は神様の律法から来ました。モーセは、罪の問題を扱って裁くことに関して話したとき、こう言いました。
もし人が、あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司やさばき人に聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その者は死ななければならない。
あなたはイスラエルのうちからその悪い者を除き去りなさい。
そうすれば、民はみな聞いて恐れ、もう不遜なふるまいをすることはないであろう。(新命記17:12ー13)
モーセの時代、不遜な罪の罰は死刑でした。教会の時代では、その罰は教会から追い出されることです。でも原則は同じです。教会では、私たちは悔い改めずにあえて罪を犯す人を許してはいけません。
残念なことですけど、コリント人たちは不遜な態度を取っていました。「私たちはそんな人を歓迎するよ。私たちは愛の教会だから」と自慢しました。だから、パウロは彼らを厳しく責めました。(2、6)
誤解しないでください。私たち皆は、罪に落ちてしまう時もあります。
また、よく同じ誘惑に負けてしまうクリスチャンもいます。
でも、もしそのクリスチャンが悔い改めて、本当に神様に従いたいなら、私たちはその人のために祈り、その人を支え、励ますべきです。
でも、故意に罪を犯し、「神様の御言葉を気にせずに、勝手にする」と言う人は別です。
その人は、正直に、「私はクリスチャン」と主張できません。そして、私たちはその人を私たちの教会に歓迎することができません。
