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コリント人への手紙第一のデボーション

人の心に安らぎをもたらす

兄弟たちよ、あなたがたに勧めます。ご存じのとおり、ステファナの一家はアカイアの初穂であり、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました……

ステファナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。あなたがたがいない分を、彼らが埋めてくれたからです。彼らは、私の心とあなたがたの心を安らがせてくれました。このような人たちを尊びなさい。(コリント人への手紙第一16:15,17~18)

「私の心とあなたがたの心を安らがせてくれました。」

多くの英訳では、この言葉は「私の心とあなたがたの心を潤してくれました」と訳されています。

その意味で、ステファナたちは、イエス様の心を持っていたと言えるでしょう。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書11:28~30)

ステファナたちは熱心に主に仕えました。

しかし、不思議なことに、時として周囲の人々はそのような人に出会うと、かえって疲れを覚えたり、罪悪感を抱いたりすることがあります。自分にはそこまでの「熱心さ」がないと感じてしまうからです。

パリサイ人たちは、まさにそのような影響を周囲に与えていました。

けれども、人々がステファナたちと別れるとき、その心は潤され、安らぎを得ました。

私は、そのような人になりたいと願っています。

神様への熱心さを人々に見せつけたいのではありません。むしろ、ステファナたちやイエス様に触れられた人たちと同じように、私と過ごした人々も、心が霊的に潤され、安らぎを得てほしいと願っています。

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あなたのようにされる

私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。(コリント人への手紙第一15:49)

主よ、あなたはこの世に来て、私たちのようになられました。それは、私たちがあなたのようになり、あなたのかたちを持つ者とされるためです。

それが私の希望です。

私が罪と戦っている今も、あなたは私のうちで働き、罪から私を清め、私をあなたのようにしてくださっています。そして、私に対するあなたの恵みが無駄になることはありません。

私は必ずあなたのようになります。すべてにおいて、あなたのかたちに完全に似た者となる日を楽しみにしています。

その日が来るまで、あなたの恵みと力によって、私がいつも堅く立ち、動かされることなく、主のわざに励む者となるようにしてください。

私の働きがあなたにあって無駄でないことを知っています。また、私のうちでなされているあなたの働きも、無駄ではないと確信しています。

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あなたに何の益になるだろうか

今日の箇所では、パウロは預言や異言について多く語ります。ほかの記事で私はそのことについて述べましたが、今日、このことばが私の心に響きました。

あなたがたに何の益になるでしょう。(コリント人への手紙第一14:6)

パウロは、説教をするときも、一対一で語るときも、いつもこのことを心に留めていました。「私の言葉は、あなたに何の益になるだろうか。」

人と話すとき、私もそのような心を持ちたいです。私は、ただ空気に向かって語るようなことはしたくありません。(コリント人への手紙第一14:9)

もし、人を成長させたり、励ましたりするために、五つの言葉を語ることができるなら、私はそれを語りたいのです。(コリント人への手紙第一14:19)

主よ、パウロの心、そしてあなたの心を私に与えてください。私のすべての言葉が、周囲の人々に祝福となるようにしてください。

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あなたに心が奪われて

私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。コリント人への手紙第一13:11~13)

天のお父さん、私は幼子のような考え方をしたくありません。あなたからの賜物ではなく、あなたご自身に私の心が奪われることを願っています。

あなたは私に対して寛容であり、親切です。あなたは私に決していらだっておられません。あなたは私の罪を心に留めておられません。あなたは私の弱さを忍耐強く受け止め、私を信じ、私の最善を望んでおられます。あなたの私への愛は、決して絶えることがありません。

天のお父さん、私に対するあなたの愛は、本当に素晴らしいです。あなたと顔と顔を合わせてお会いできる日を楽しみにしています。あなたが私を完全に知っておられるのと同じように、私もあなたを完全に知ることを楽しみにしています。

そのときまで、私をあなたのかたちにますます似た者としてください。あなたが私を愛してくださったように、私が周囲の人々を愛することができるように助けてください。

そして、毎日毎日、一瞬一瞬、あなたとその愛に私の心が奪われるようにしてください。

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知らないことは幸せだろうか(2)

さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。

ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。(コリント人への手紙第一12:1~3)

「私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。」

パウロは何度もこの言葉を語りました。

そして、その言葉が、もう一度私の心を打ちました。

パウロは基本的にこう語っているのです。

「私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。以前、あなたがたは無知のゆえに惑わされました。ですから、これから私はあなたがたに教えておきます。あなたがたに知ってほしいからです。」

私も知りたいのです。

自分の無知のうちに歩み続けたくありません。 また、今持っている知識で満足したくもありません。

私はもっと知りたいのです。

神の御霊と偽りの霊をどのように見分けるのか、もっと知りたい。霊的な賜物についても、もっと理解したい。

その賜物を与えてくださった同じ御霊、同じ主、同じ神をもっと知り、その賜物をくださった神の目的と計画をもっと知りたい。

神が私をご自身のからだの一部分としてどのように見ておられるのかもっと知りたい。 神が私をどれほど大切にしてくださるのかもっと知りたい。

また、神がご自身のからだに属するほかの一人ひとりをどのように見ておられ、その人たちをどれほど大切にしてくださるのかももっと知りたい。

そして、はるかにまさる道を知りたい。賜物をどのように用いるべきか、そしてイエス様のために人生をどのように生きるべきか、そのはるかにまさる道を知りたい。

主よ、私は無知のうちに歩みたくありません。 私は知りたいのです。

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キリストが私たちのかしらであるからこそ

しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり……

男はだれでも祈りや預言をするとき、頭をおおっていたら、自分の頭を辱めることになります。(コリント人への手紙第一11:3~4)

11章でパウロが扱っているのは、文化的な問題のようです。つまり、祈りや預言をするときに、男性と女性がかぶり物を着けるべきかどうかということです。

現代の日本文化では、なぜそれが問題になるのか分かりにくいかもしれません。

けれども、男性として、私には二つのことが明らかです。

1.キリストは私のかしらです。つまり、キリストは私の指導者であり、私の王です。そして、私はキリストに申し開きをしなければなりません。

2.だからこそ、すべての言葉や行動において、私はキリストを敬うべきです。

私はそのような男性になろうと努めています。

そして、妻や娘が、私のうちにそのような夫、父、指導者の姿を見ることを願っています。

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主に倣う

私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。

私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。(コリント人への手紙第一10:33~11:1)

33節にあるパウロの言葉を読んだとき、私はイエス様のことばを思い起こしました。

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。(マルコの福音書10:45)

パウロは、人々が救われるために、自分の利益ではなく、多くの人の益を求めることで、イエス様に倣っていました。

私もイエス様に倣いたいと願っています。

けれども、私はまだ自分勝手で、人のことではなく、自分のことを考えてしまうことが多いです。人々の益となること、人々を育てること、人々が救われることではなく、むしろ自分自身の益を求めてしまいます。

主よ、あなたは私を救うためにすべてを捧げてくださいました。だから、私の目を自分からあなたへと向けてください。あなたと、あなたが私のためにしてくださったことに心を奪われ、あなたに倣わずにはいられない者としてください。

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あなただけ

というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、

私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。(コリント人への手紙第一8:5~6)

私の神よ、あなたは私を造られました。私の人生はあなたへと向かっています。私はあなたを知り、愛し、仕え、喜ばせるために造られました。

この世には、多くの神々や主があります。この世の人々は富や力や幸福を求めています。

しかし、私にとっては唯一の神がおられます。そして、天のお父様、私はあなたのために存在しています。

また、私にとっては唯一の主がおられます。そして、イエス様、私はあなたによって生かされています。

私の一息一息はあなたからの賜物です。あなたは私を造られただけではなく、毎日毎日、一瞬一瞬、私を支えてくださいます。

だから、あなたから与えられた人生を送りながら、私の目は常にあなたに向けられています。

自分自身でも、ほかの何ものでもなく、あなただけに向けられています。

私はあなたによって造られ、あなたのために造られました。

私の人生の目的は、あなただけです。

あなただけにあって、私の人生はその本来の意味を見いだし、満たされるのです。

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性的な罪を犯すと

淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。(コリント人への手紙第一6:18)

この世は、 性について本当に混乱しています。彼らはパウロの言葉を読んでも、その意味するところを全く理解できません。

彼らにとっては、「淫らな行い」というものはほとんど存在しません。もしあるカップルが関係を持つことに同意しているなら、それで問題はないと考えるからです。だれも傷つけていないと思うからです。

けれどもパウロは、私たちに淫らな行いを避けなさいと促します。そして6章では、「淫らな行い」とは何かを具体的に定義しています。(コリント人への手紙第一6:9、13~16)

さらに7章では、性的な関係は結婚の中だけで楽しむべきものであることをはっきりと教えます。パウロは、独身の人たちに「欲情に燃えるなら関係を持っても良い」と言ったのではなく、結婚するよう勧めました。(コリント人への手紙第一7:8~9)

またパウロは、結婚している人たちに、性的な誘惑を避けるために関係を持つことを促します。(コリント人への手紙第一7:2~5)

しかし、どうして性的な罪はそんなに悪いのでしょうか。

性的な罪を犯すと、神様や関係を持つ相手だけでなく、自分自身にも罪を犯すことになります。神様がご自身の宮のために造られた尊いからだを軽んじてしまうからです。(コリント人への手紙第一6:19)

さらに私たちは、キリストをも自分の性的な罪に関わらせてしまいます。なぜなら、キリストは私たちのうちに住んでおられるからです。(コリント人への手紙第一6:15~16)

キリストを自分の性的な罪に巻き込んでしまうことを思うと、ぞっとしませんか。

だからこそ、パウロはこう語ります。

あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(コリント人への手紙第一6:19~20)

あなたはどうでしょうか。

あなたのからだをもって、神様の栄光を現しているでしょうか。

自分のからだを重んじているでしょうか。

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二重にあなたのもの

からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです……

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(コリント人への手紙第一6:13,19-20)

主よ、私は罪にふけるために造られたのではありません。私はあなたのために造られ、あなたに仕え、あなたの宮となるために造られたのです。

私は二重にあなたのものです。

あなたはご自身のために私を造られました。

そして、私が自らをサタンの国の奴隷として売り渡したとき、あなたは十字架で流されたご自身の血によって、私を買い戻してくださいました。

ですから主よ、私のからだも、人生も、思いも、言葉も、行いも、そのすべてにおいて、あなたが私の主でいてください。

私という存在のすべてにおいても、私のすることのすべてにおいても、どうかあなたがあがめられますように。

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責めのことば一つもない

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(コリント人への手紙4:4~5)

天のお父さん、自分を裁こうとすることは危険です。なぜなら、自分を騙したり、自分を義と認めてもらおうとしたりする方法はいくらでもあるからです。

しかし、私をさばかれる方は、あなただけです。そして裁きの日に、私があなたのみ前に立つとき、あなたは闇に隠れたことを明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。

それでも、私は恐れる必要はありません。なぜなら、あなたが私を最後まで堅く保ってくださり、その日、あなたから私への責めのことばが一つもないという確信があるからです。

だから今、私はあなたの愛を確信し、あなたのみ前に立ち、ダビデと同じように祈ります。

【主】よ、私を調べ試みてください。
私の心の深みまで精錬してください。

あなたの恵みは私の目の前にあり、
あなたの真理のうちを私は歩み続けました。(詩篇26:2~3)

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幼子のように振る舞っていないか

兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました……

あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。(コリント人への手紙第一3章)

今朝、このことばは私の心を打ちました。

私はもはやキリストにある幼子ではありません。けれども、イライラするとき、特に人に対してイライラするとき、成熟したクリスチャンらしく反応することが難しいことがあります。

最近、そのようなことがあったので、今朝、悔い改めなければなりませんでした。

私は幼子のように振る舞いたくありません。イライラするとき、この世の人々のように歩みたくないのです。

むしろ、私が愛している主のようになりたいのです。

主よ、あなたのようになりたいです。私を変えてください。すべてのことにおいて、私があなたのように反応できるように助けてください。

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神の深みを探る

それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。(コリント人への手紙第一2:10)

「神の深み。」

このことばは私の目に留まりました。

いったいどうすれば、私たちは永遠の神の深みを余すところなく探ることができるでしょうか。

つまり、神のもっとも深い思い、ご心、ご計画、ご性質を完全に理解し尽くすことができるでしょうか。

多くの人々は「永遠って退屈なのかなあ」と思います。

しかし、永遠に永遠の神の深みを探ることは、決して退屈だとは言えないと思います。

驚くべきことは、今でも神の深みを探り始めることができるということです。

なぜなら、御霊によって、神様はご自身の深みにアクセスを与えてくださったからです。

それを思うと、本当に心が躍ります。

私は神の深みのすべてを探りたいのです。

永遠に入ってからだけではなく、今も、毎日毎日、一瞬一瞬、探り続けたいと願っています。

主よ、あなたを知りたいです。ご自身を私に現してください。私があなたのみことばを読むとき、日々あなたとともに歩むとき、ご自身の深みを現してください。

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責められるところがない

主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。

神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。(コリント人への手紙第一1:8~9)

「責められるところがない。」

このことばは私の心に深く響いています。

ときには、私の頭の中で責める声が聞こえてきます。その声は私の罪や欠点を思い出させます。

しかし、私はその声に耳を貸すことを拒みます。

私の神は真実です。そして、この真実の神は私を決して諦めることはありません。むしろ、私が御子のかたちと同じ姿になるまで、神様は私を最後まで堅く保ってくださいます。

今も、そしてとこしえまでも、イエス様は私の義と聖と贖いであられるのです。

だからこそ、私は責められるところのない者なのです。

それを思うと、心から喜びます!

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困難な時代にあっても

毎日のニュースを読むと、私たちが困難な時代に生きていることがよく分かります。そして、へこたれたり、恐れたり、絶望したりするのは、たやすいことです。

しかし、まさにこのような時代にこそ、パウロの言葉が本当に適切だと感じます。

目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。(コリント人への手紙第一16:13ー14)

「目を覚ましていなさい。」

なぜでしょうか。なぜなら、サタンは私たちを絶望させようとしているからです。また、私たちを恐れさせようとしています。

ペテロが言ったように、サタンは吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています(第一ペテロ5:8)。だから、私たちは気を付けなくてはなりません。

「雄々しく、強くありなさい。」

どうして私たちはそうできるのでしょうか。なぜなら、私たちのうちにおられるイエスは、この世にいる悪魔よりも偉大だからです(第一ヨハネ4:4)。

イエス様にあって、私たちはすでに勝利を得ています(第一コリント15:57–58)。

また、イエス様はもう一度この世に来られます。最初に来られたとき、イエス様は私たちの罪を背負われましたが、今度はすべての悪を滅ぼし、救いをもたらし、すべてを新しくしてくださいます(ヘブル9:28)。

「一切のことを、愛をもって行いなさい。」

なぜでしょうか。私たちが世の人々と違うのは、キリストの愛です。そして、その愛によってのみ、私たちは神の国のために、周りの人々に影響を与えることができます。

だから、堅く信仰に立ちましょう。ダビデが歌ったように、私たちは主のいつくしみを見るのです(詩篇27:13)。

待ち望め 主を。雄々しくあれ。
心を強くせよ。 待ち望め 主を。(詩篇27:14)

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コリント人への手紙第一のデボーション

互いに建て上げる

今日の箇所では、パウロは教会にさまざまな指示を与えています。特に、異言や預言に関する指示が中心です。

もちろん、それらの指示は重要ですが、それだけに注目するなら、私たちはパウロの主なポイントを見逃してしまうかもしれません。

それは、教会において、私たちはただ自分自身や自分の益について考えるべきではないということです。むしろ、周りの人々のことを考え、特にその人をどのように強めることができるかを思い巡らすべきです。

(新改訳第3版では「徳を高める」と訳され、第4版では「成長させる」と訳されていますが、ギリシャ語のニュアンスは「建てる」あるいは「強化する」という意味です。)

パウロは何度も教会を強めることについて語ります。けれども、彼が語っているのは組織の強化ではありません。むしろ、神の民をどのように強めることができるかを語っています。なぜなら、神の民そのものが教会だからです。

パウロによれば、教会に行くとき、ただ「どうすれば自分の益を得られるか」と考えるなら、私たちは子どものような考え方をしていることになります(20)。

多くのクリスチャンは教会に来て、「励まされたい」「力を受けたい」と言います。

もちろん、自分の教会で励まされたり、強められたりすることを願うのは自然なことです。

しかし、パウロが語っているのは、私たち全員が「どうすれば他の人を強めることができるか」を考えるべきだということです(26)。

ですから、日曜日に教会へ行くときは、意図的に誰かに声をかけましょう。その人を励ましましょう。その人のために祈りましょう。

もしオンライン礼拝に参加するなら、意図的に教会の人に電話やLINE、Zoomなどで連絡を取り、会話を持ちましょう。

意図的に互いに強め合い、励まし合う教会となりましょう。

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最も大切なこと

今日、私が気づいたのは、パウロが霊的な賜物について語っているものの、賜物そのものがパウロの主なポイントではないということです。

もし賜物が主題であるならば、パウロはそれらをもっと具体的に説明していたはずです。

たとえば、パウロは賜物を列挙しますが、ある賜物を省略しており(ローマ12:6〜8)、それぞれの賜物が何であるかを詳しく説明していません。

では、パウロは霊的な賜物について教えるよりも、何を伝えたかったのでしょうか。

それは、コリント人たちが教会の分裂や派閥を捨てるべきだということです。パウロは何度もそのテーマを繰り返しています。

「あなたがたは一つのからだです。あなたがたは同じ御霊、同じ主、同じ神に属しています。あなたがたの賜物は教会全体の益のために与えられています。互いに必要とされているのです。互いに敬い合うべきです。

教会のメンバーの苦しみは、あなたの苦しみです。その一方で、もしその人が尊ばれるなら、その人と共に喜びましょう。その人はあなたの一部です。または、あなたはその人の一部です。

あなたがたは霊的な賜物を求めています。それは良いことです。しかし、覚えておきなさい。あなたがたは一つのからだです。だから、分裂を捨てなさい。」

そして、パウロはこの話を第13章へと続けます。

私たちはどうでしょうか。私たちはパウロのように、神の教会とそのメンバーたちを大切にしているでしょうか。それとも、私たちはコリント人たちのように考えてしまっているでしょうか。

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裁きと懲らしめの違い

コリント人たちの一つの問題は、聖餐式において主とその十字架の御わざを祝いながら、キリストのからだを軽んじてしまったことです。つまり、彼らは貧しいクリスチャンたちに恥ずかしい思いをさせていたのです。

そのため、あるコリント人たちは主によって裁かれ、病気になったり、亡くなったりしました(コリント人への手紙第一11:22、30)。

それは本当に厳しい裁きであったため、パウロはコリント人たちに警告します。「そのような裁きを避けるために、聖餐式を受ける前に、自分の心を吟味しなさい」(28、31)。

神様の懲らしめが厳しいときもあります。しかし、覚えておきましょう。私たちが主から受ける懲らしめは、この世が受ける裁きとは異なります。

パウロはこう言いました。

私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。(コリント人への手紙第一11:32)

主から私たちが受ける懲らしめがどんなに厳しくても、それは永遠の死に至るものではありません。その意味で、私たちは主の怒りを恐れる必要はありません。

しかし、覚えておきましょう。神様は私たちの罪を軽んじられません。だから、私たちも自分の罪を軽んじてはなりません。そうでなければ、神様の懲らしめが非常に苦しいものとなることがあります。その意味で、私たちは主を恐れるべきです。

もちろん、神様は私たちを愛しておられます。しかし、それは私たちが主の懲らしめを免れるという意味ではありません。だから、ヘブル人への手紙の著者の言葉を覚えておきましょう。

わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。 主に叱られて気落ちしてはならない。

主はその愛する者を訓練し、 受け入れるすべての子に、 むちを加えられるのだから。(へブル12:5ー6)

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私たちは誰のものか、何のために生きるのか

今週、コリント人への手紙第一第6章〜第10章を読むことは、本当に興味深い体験でした。実は、私たちは第6章〜第10章をひとつのまとまりとして読むべきです。

この章全体を通して、二つのテーマが貫かれています。

第一のテーマは、コリント人たちの口癖です。それは、「すべてのことが許されている」(6:12;10:23)という言葉です。

この口癖によって、彼らは性的な罪を犯すことや、偶像に捧げた肉を食べることはまったく問題ないと考えていました。

パウロは、性的な罪については厳しく責めました(6:12;10:8)。しかし、偶像に捧げた肉を食べることについては、ある程度まで許容しました(第8章)。

パウロがコリント人たちの考え方を正そうとする中で、私たちは第二のテーマを見ることになります。それは、「私たちは誰のものか」、そして「私たちは何のために生きているのか」という問いです。

私たちは誰のものでしょうか。私たちは主のものです。なぜなら、イエス様が十字架でご自身の血によって、私たちを買い取ってくださったからです(6:19〜20;10:14〜20)。

では、私たちは何のために生きるべきでしょうか。私たちは、神様とその御国のために生きるべきです。

この真理は、結婚(第7章)、奉仕(第9章)、そしてクリスチャンとしての自由と権利(第8章と第10章)に関する私たちの考え方を形づくるはずです。

このことや、その他の生活における決断をするとき、私たちはまず「主に自分が何を望むか」を考えるべきではありません。

むしろ、最初に考えるべきことは、「神とその御国に仕える最も良い方法は何か」、そして「どのようにすれば、神の御国にできるだけ多くの人を導くことができるか」ということです。

パウロは、この第二のテーマを次のようにまとめています。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。

私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。(10:31ー33)

イエス様の言葉も心に留めておきましょう。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(つまり、あなたの必要なもの)はすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)

あなたの考え方や人生は何によって形成されているでしょうか。

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神様を喜ばせる選び

前にもこの箇所について書きましたので、今回は具体的な解説はしません。ただ、今日私が気づいたのは、第8章には第6章との強い関係があるということです。

(ちなみに、パウロがこの手紙を書いたときには、章と節の番号は付けられていませんでした。)

前回の記事でも触れましたが、コリント人たちには口癖がありました。それは、

すべてのことが私には許されている。(コリント人への手紙第一6:12a)

でも、パウロはこのように答えました。

すべてが益になるわけではありません。(6:12b)

第8章では、私たちはもう一度、コリント人たちの口癖を見ることになります。つまり、彼らは「偶像の神は実際には存在しないので、その偶像に捧げた肉を食べてもよい」と言っていました。

実のところ、パウロはその考えに同意しています(8:4〜6、8)。

しかし問題は、その肉を食べることが教会に益をもたらしていないという点です。なぜなら、弱い良心を持つクリスチャンたちがそれを見て、自分の信仰が滅びることになったからです(8:10〜11)。

そのため、パウロはコリント人たちに思い起こさせます。

すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。(新改訳, 第3版)

パウロは、ただ神学的な真理を教えているだけではないと思います。むしろ、以前に自分が語ったことを、コリント人たちに思い起こさせているのです。つまり、

あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(6:19〜20)

だから、パウロはコリント人たちに訓戒を与えます。

あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。(8:12)

この場合、偶像に捧げた肉を食べること自体は罪ではありませんでしたが、兄弟たちがつまずいたため、彼らの行為は罪となりました。

ですから、覚えておきましょう。「何が許されているか?」という問いは、誤った問いです。

正しい問いは、「私は誰のものでしょうか。どのように神様を喜ばせることができるでしょうか」ということです。

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誤った問いかけ

コリントの教会はいろいろな問題を抱えていました。ある人は自分の兄弟を欺いていました。また、性的な罪を犯している人もいました。

なぜでしょうか。おそらく主な理由は、その教会でこの言葉が流行していたからです。

すべてのことが私には許されている。(コリント人への手紙第一6:12)

その言葉は、人々がパウロの教えを曲げたことから来たようです。それは、「あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです」(ローマ6:14-15)という言葉です。

現代でも、多くの人が同じようにパウロの教えを曲げています。彼らは神の恵みを放縦に変えてしまいます(ユダ1:4)。

しかし、パウロははっきりと言います。悔い改めず、あえて罪を犯す自称クリスチャンは、神の国に入ることができません(9-10)。

一方で、他の人々はいつもこう考えます。「罪を犯さずに、どれだけ罪に近づくことができるだろうか。」

たとえば、交際中の男女は、「キスなどのルールはどうだろうか」とよく尋ねます。

けれども、それは誤った問いです。

パウロが言ったように、あることは「許されている」かもしれませんが、それが益になるとは限りません(12)。

そして注意しなければ、その許されていることが罪に至る可能性もあります。

では、正しい問いとは何でしょうか。

それは、「私は誰のものでしょうか。どのようにして、その方を喜ばせることができるでしょうか」ということです。

クリスチャンにとって、その答えは明快です。

あなたがたは、もはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい(19-20)。

あなたは誰のものでしょうか。あなたは自分の行動によって主を喜ばせているでしょうか。

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コリント人への手紙第一のデボーション

故意に罪を犯す自称クリスチャン

「裁いてはいけません。」

「私たちは寛容をもって、人を受け入れなくてはいけません。」

現代では、この世の人々はその言葉をよく言います。

ある意味、その言葉は正しいです。

イエス様は偽善的な裁きに関して警告します。(マタイ7:1ー5)

パウロは、教会の外部の人たちを裁くすることを神様に委ねなさいと教えます。(11ー12a)

それでも、パウロははっきりと言います。「悔い改めずにあえて罪を犯す自称クリスチャンを裁きなさい。」(12b)

つまり、

あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。(13)

もちろん、私たちは怒りをもって、独善的な態度を取ってはいけません。

むしろ、私たちはその人とその罪のために悲しむべきです。(2)

また、私たちは、その人が悔い改めるように望んで、祈るべきです。(5)

でも、私たちはその人の罪を受け入れてはいけません。むしろ、その人を私たちの中から除き去らなくてはなりません。

その原則は神様の律法から来ました。モーセは、罪の問題を扱って裁くことに関して話したとき、こう言いました。

もし人が、あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司やさばき人に聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その者は死ななければならない。

あなたはイスラエルのうちからその悪い者を除き去りなさい。

そうすれば、民はみな聞いて恐れ、もう不遜なふるまいをすることはないであろう。(新命記17:12ー13)

モーセの時代、不遜な罪の罰は死刑でした。教会の時代では、その罰は教会から追い出されることです。でも原則は同じです。教会では、私たちは悔い改めずにあえて罪を犯す人を許してはいけません。

残念なことですけど、コリント人たちは不遜な態度を取っていました。「私たちはそんな人を歓迎するよ。私たちは愛の教会だから」と自慢しました。だから、パウロは彼らを厳しく責めました。(2、6)

誤解しないでください。私たち皆は、罪に落ちてしまう時もあります。

また、よく同じ誘惑に負けてしまうクリスチャンもいます。

でも、もしそのクリスチャンが悔い改めて、本当に神様に従いたいなら、私たちはその人のために祈り、その人を支え、励ますべきです。

でも、故意に罪を犯し、「神様の御言葉を気にせずに、勝手にする」と言う人は別です。

その人は、正直に、「私はクリスチャン」と主張できません。そして、私たちはその人を私たちの教会に歓迎することができません。

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コリント人への手紙第一のデボーション

清い良心?

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。(コリント人への手紙第一4:4)

パウロはきっと、私たちが神様の御前に清い良心を保つべきだと言うはずです。

しかし、パウロが理解していたのは、私たちは自分の心によく欺かれるということです。

つまり、私たちは自分が清いと思っていても、自分の罪を見ることができません。パウロがコリント人たちに4〜5節を書いたとき、預言者エレミヤの言葉を思い浮かべていたことでしょう。

人の心は何よりもねじ曲がっている。 それは癒やしがたい。 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。

わたし、主が心を探り、心の奥を試し、 それぞれその生き方により、 行いの実にしたがって報いる。(エレミヤ書17:9ー10)

では、私たちはいつも自分の心が清いかどうか心配するべきでしょうか。「私の心の中に、隠れた罪があるだろうか。私が気づいていない悪い動機があるだろうか。」と、ずっと疑問に思うべきでしょうか。

いいえ、神様は、私たちがいつも罪悪感をもって、恐れによって生きることを望んでおられません。

もちろん、謙遜な心を持つべきです。

毎日、ダビデのように祈ればよいと思います。「私の心を探ってください。悪いものがあれば、教えてください。」(詩篇19:12〜13;139:23〜24)

もし神様が何か罪を現されたなら、ぜひそれを告白し、悔い改めましょう。

しかし、神様が何も現されないなら、私たちが立っている恵みを感謝しましょう。

実際、もし神様が私たちの罪のすべてを一度に現されたなら、私たちは圧倒されてしまうでしょう。

けれども、恵みによって、神様は私たちを最後まで堅く保ち、裁きの日に責められるところがない者としてくださいます。(第一コリント1:8)

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救いの土台

神は真実です。(コリント人への手紙第一1:9a)

その言葉をちょっと噛み締めましょう。

神は真実です。

どうして私たちの救いは確実なものでしょうか。その答えは、この短い言葉にあります。

神は真実です。

素晴らしい愛によって、神様は私たちを召し、御子との交わりに入れてくださいました。(9b)

恵みによって、神様は私たちを聖なる者とし、聖徒として召してくださいました。(2)

そして、神の真実のゆえに、神様は私たちを最後まで堅く保ち、裁きの日に責められるところがない者としてくださいます。(8)

私の救いは、自分の忠実さによるものではなくて良かった。なぜなら、私はよく真実でない者だからです。

そういうわけで、私はテモテへのパウロの言葉が大好きです。

私たちが真実でなくても、 キリストは常に真実である。 ご自分を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

だから、自分が真実でないと思って落胆している時、心に留めておきましょう。

神は真実です。