コリントの教会はいろいろな問題を抱えていました。ある人は自分の兄弟を欺いていました。また、性的な罪を犯している人もいました。
なぜでしょうか。おそらく主な理由は、その教会でこの言葉が流行していたからです。
すべてのことが私には許されている。(コリント人への手紙第一6:12)
その言葉は、人々がパウロの教えを曲げたことから来たようです。それは、「あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです」(ローマ6:14-15)という言葉です。
現代でも、多くの人が同じようにパウロの教えを曲げています。彼らは神の恵みを放縦に変えてしまいます(ユダ1:4)。
しかし、パウロははっきりと言います。悔い改めず、あえて罪を犯す自称クリスチャンは、神の国に入ることができません(9-10)。
一方で、他の人々はいつもこう考えます。「罪を犯さずに、どれだけ罪に近づくことができるだろうか。」
たとえば、交際中の男女は、「キスなどのルールはどうだろうか」とよく尋ねます。
けれども、それは誤った問いです。
パウロが言ったように、あることは「許されている」かもしれませんが、それが益になるとは限りません(12)。
そして注意しなければ、その許されていることが罪に至る可能性もあります。
では、正しい問いとは何でしょうか。
それは、「私は誰のものでしょうか。どのようにして、その方を喜ばせることができるでしょうか」ということです。
クリスチャンにとって、その答えは明快です。
あなたがたは、もはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい(19-20)。
あなたは誰のものでしょうか。あなたは自分の行動によって主を喜ばせているでしょうか。
