今週、コリント人への手紙第一第6章〜第10章を読むことは、本当に興味深い体験でした。実は、私たちは第6章〜第10章をひとつのまとまりとして読むべきです。
この章全体を通して、二つのテーマが貫かれています。
第一のテーマは、コリント人たちの口癖です。それは、「すべてのことが許されている」(6:12;10:23)という言葉です。
この口癖によって、彼らは性的な罪を犯すことや、偶像に捧げた肉を食べることはまったく問題ないと考えていました。
パウロは、性的な罪については厳しく責めました(6:12;10:8)。しかし、偶像に捧げた肉を食べることについては、ある程度まで許容しました(第8章)。
パウロがコリント人たちの考え方を正そうとする中で、私たちは第二のテーマを見ることになります。それは、「私たちは誰のものか」、そして「私たちは何のために生きているのか」という問いです。
私たちは誰のものでしょうか。私たちは主のものです。なぜなら、イエス様が十字架でご自身の血によって、私たちを買い取ってくださったからです(6:19〜20;10:14〜20)。
では、私たちは何のために生きるべきでしょうか。私たちは、神様とその御国のために生きるべきです。
この真理は、結婚(第7章)、奉仕(第9章)、そしてクリスチャンとしての自由と権利(第8章と第10章)に関する私たちの考え方を形づくるはずです。
このことや、その他の生活における決断をするとき、私たちはまず「主に自分が何を望むか」を考えるべきではありません。
むしろ、最初に考えるべきことは、「神とその御国に仕える最も良い方法は何か」、そして「どのようにすれば、神の御国にできるだけ多くの人を導くことができるか」ということです。
パウロは、この第二のテーマを次のようにまとめています。
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。
私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。(10:31ー33)
イエス様の言葉も心に留めておきましょう。
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(つまり、あなたの必要なもの)はすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)
あなたの考え方や人生は何によって形成されているでしょうか。
