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コリント人への手紙第二のデボーション

神様の栄光を見る

コリント人への手紙第二3章

モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」

 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」」(出エジプト記33:18ー20)

その出エジプト記の箇所と第二コリント3章には、深い関係があります。

私たち罪深い人間にとって、神様の栄光は恐ろしいものです。神様が聖なる方であり、人間がそうではないため、人は神様の顔を見ると死んでしまいます。

そのため、神様の栄光が通り過ぎるとき、モーセは岩の後ろに隠れなければなりませんでした(出エジプト記33:21–23)。

また、幕屋や神殿の中には、至聖所の前に垂れ幕がありました。なぜなら、神様が至聖所でご自身の栄光を現されたため、通常は祭司たちでさえ入ることができなかったからです(レビ記16:2)。

一年に一度だけ、宥めの日に大祭司は至聖所に入ることができましたが、そのとき、香を主の前の火にくべて「雲」を作りました。それは、神様の栄光が霞むためです(レビ記16:12–13)。

イスラエル人にとって、神様の栄光によって輝いていたモーセの顔を見るのは、恐ろしいことでした。だから、その栄光が消えていったにもかかわらず、モーセは覆いをかけました(出エジプト記34:29–30)。

しかし、十字架でイエス様が死なれたとき、その垂れ幕は裂かれました。そして、私たちは主に立ち返ると、覆いは取り除かれます。イエス様の顔を見るとき、私たちは神様の栄光を見るのです。

その栄光を見ても、私たちは滅びることはありません。むしろ、私たちは主と同じかたちに姿を変えられていきます。

私たちは罪深い者であるにもかかわらず、神様は私たちを少しずつ変えてくださいます。そして、イエス様がもう一度この世に来られると、私たちはたちまちイエス様に似た者とされます(第一ヨハネ3:2)。

そして、最も素晴らしいことは、モーセの場合は神様の栄光が消えていきましたが、私たちの場合は、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくということです(第二コリント3:18)。

だから、パウロのように大胆に振る舞いましょう(第二コリント3:13)。

大胆に神様に近づきましょう(ヘブル10:19–22)。

また、大胆に命を与える福音を伝えましょう(第二コリント4:4–6)。

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