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コリント人への手紙第二のデボーション

弱虫ではない

キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの間にあって力ある方です。

キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。(コリント人への手紙第二13:3~4)

このことばは、わたしの心に深く響きました。

私たちの主は弱虫ではありません。

主は柔和でへりくだっておられるでしょうか。

もちろん、そうです。

しかし、弱虫でしょうか。

絶対にそうではありません。

イエス様は弱さのゆえに十字架につけられました。しかし、その弱さのただ中でも、イエス様は弱虫ではなく、勇気をもって十字架へ向かうことを決心されました。

そして今、「弱い」ということばをイエス様に当てはめることはできません。なぜなら、イエス様は私たちの間にあって力ある方だからです。イエス様は私たちの主であり、裁判官であり、すべてを治めておられます。

それにもかかわらず、驚くべきことに、イエス様はその力と権威を、使節としての私たちに委ねてくださいます。

さらに、神の子どもであり、共同相続人である私たちに、力と権威を与えてくださいます。

私たちは弱虫ではありません。

私たちは柔和でへりくだっているでしょうか。

もちろん、そうです。

しかし、弱虫ではありません。

だからこそ、弱虫のように生きてはなりません。むしろ、主から委ねられた力と権威によって、堅く立ちましょう。

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私の弱さを喜べているでしょうか

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。 (コリント人への手紙第二12:9~10)

主よ、私はあなたの恵みが本当に私に十分であることを信じているでしょうか。あなたの力が私の弱さのうちにこそ完全に現れることを信じているでしょうか。私の弱さを喜べているでしょうか。

それを告白するのは簡単ではありません。私は弱い自分が嫌でたまりません。

しかし、私が弱いとき、私は自分ひとりで立つことができません。むしろ、あなたにより頼むしかありません。

そして、そのときこそ、私はあなたに最も近いのです。なぜなら、あなたが私に力を注いでくださり、私は再びあなたの愛の深さを思い出すからです。

イエス様、あなたはそのように三十三年間この世を歩まれ、誰よりも天の父と親しく交わっておられました。

私もそのような関係を願います。天の父に近づきたいです。あなたと親しく歩みたいです。

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私たちの主にならう

キリストの柔和さと優しさをもってあなたがたにお願いします。(コリント人への手紙第二10:1)

「キリストの柔和さと優しさ。」

今朝、このことばに思いを巡らしていました。

そのことばを読んで、イエス様のことばを思い起こしました。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。(マタイの福音書11:29)

イエス様は柔和さや優しさによって特徴づけられていたので、そこから外れたとき、周囲の人々は驚きました。

残念なことに、同じことが言えないクリスチャンもいます。彼らについて話すとき、「柔和さ」や「優しさ」という言葉がすぐに思い浮かぶことはあまりありません。

彼らのSNSの投稿を見るとき、特にそう感じます。

もし私たちの主な霊的な武器が愛なら、人々の人生にある要塞をどれほど多く打ち倒すことができるでしょうか。

もし真理だけでなく、私たちが柔和さや優しさによっても特徴づけられているのなら、どれほど多くの要塞を打ち倒すことができるでしょうか。

主よ、あなたは柔和さや優しさによって私を扱ってくださいました。同じように、私も周囲の人々を扱うことができるように助けてください。

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天の父にならう

私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(コリント人への手紙第二9:6~7)

私はこのことばを読んだとき、神様が私たちに望んでおられる与える姿こそ、神様ご自身の与える姿なのだと気づかされました。

例えば、神様は福音の種をわずかだけ蒔いておられるのではありません。良い地を一つも逃さないように、豊かに蒔いておられるのです。

また、神様はいやいや私たちに与えてくださるのではありません。神様は喜んで、惜しみなくご自身の子供たちに良い賜物を与えてくださるのです。

ことばに表せないほどの賜物である御子を与えてくださって、神様はその寛容さを示されました。

神様はそのような与える方なのです。

神様はそのような父なのです。

神様はそのような神なのです。

私はそのような人になりたいと願っています。

彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。(コリント人への手紙第二9:9)

天のお父さん、私はあなたのようになりたいです。

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単にチェック欄を埋めているだけなのか

あなたがたはすべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちからあなたがたが受けた愛にもあふれています。そのように、この恵みのわざにもあふれるようになってください。(コリント人への手紙8:7)

このようなことばを読むとき、「このリストのどのチェック欄を埋められるだろうか」と考えてしまうのは簡単です。

「信仰は?強いほうだろう。

言葉は?もっと気を付けなければ。

知識は?まだまだ。

熱心は?まあまああるだろう。

愛は?もっと成長しなきゃ。

寛大さは?それは大丈夫だろう。」

そのように考えたことがありますか。

もちろん、このように自分を省みることには益があります。自分の強みや、成長すべきところを知るのは良いことです。

しかし、気を付けなければ、この考え方は律法主義へと傾いてしまいます。

チェック欄を埋められるとき、プライドが生まれます。

チェック欄を埋められないとき、失望が生まれます。

そして、私たちのすべての行動の土台となるべき喜びを忘れてしまいます。

7節はもちろん大切な聖句ですが、私は9節のほうがさらに大切だと思います。

なぜでしょうか。

7節をチェックリストとして使えば、行動の変化は生まれるかもしれませんが、心の変化までは保証しません。

しかし、9節には心の変化をもたらす力があります。

だから7節のことばを自分の人生に当てはめ、「どのチェック欄を埋められるか、埋められないか」を考える前に、9節を読んでください。

その真理の中に自分を深く浸してください。

そして、その真理を喜びましょう。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(コリント人への手紙8:9)

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神様に愛されている者

愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。(コリント人への手紙第二7:1)

愛する者たち。

そのことばは、私の心に深く響きました。

パウロは手紙を書くとき、たびたび読み手を「愛する者たち」と呼びました。

しかし、パウロは単に「私はあなたを愛している」と伝えたかったのではなく、むしろ読み手にその身分を思い起こさせようとしていたのではないでしょうか。つまり、「あなたがたは神様に愛されている者たちです。」

そして、そのことばの直前で、パウロは彼らにこう語っていました。

私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。

「わたしは彼らの間に住み、また歩む。
わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。

それゆえ、彼らの中から出て行き、
彼らから離れよ。
──主は言われる──

汚れたものに触れてはならない。
そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、

わたしはあなたがたの父となり、
あなたがたはわたしの息子、娘となる。
──全能の主は言われる。」(コリント人への手紙第二6:16~18)

そのことばは、神様との特別な関係や、私たちへの神の愛を映し出しています。そして、そのことばを語ったあと、パウロはこう語ります。

愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。(コリント人への手紙第二7:1)

なぜ、私たちはこの世から離れるべきなのでしょうか。

なぜ、私たちは罪を避け、聖なる者となるべきなのでしょうか。

それは、私たちが神様に愛されている息子たちと娘たちだからです。

聖なる者となるべき理由、そして私たちが何をするにも、その理由を忘れないようにしましょう。

それは、私たちが神様に愛されているからです。

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天の父の心

コリントの人たち、私たちはあなたがたに対して率直に話しました。私たちの心は広く開かれています。

あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなってはいません。むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです。

私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。(コリント人への手紙第二6:11~13)

今朝、私はこのパウロの言葉が、どのように天の父の心を映し出しているのかを思い巡らしていました。

神様は、私たちに率直に語り、心を広く開いておられ、愛を決して惜しむことがありません。

そして、豊かな愛をもって、私たちにこう語っておられます。「あなたの心をわたしに広くしてください。」

天のお父さん、何も惜しまずに、私はあなたに心を広く開きます。

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喜ぶ真理、分かち合う真理

すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。(コリント人への手紙第二5:19、新改訳2003)

すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。(新改訳2017)

「違反行為の責めを人々に負わせない。」

「背きの責任を人々に負わせない。」

これらは本当にすばらしいことばです。

この世はこう言います。「あなたが失敗したなら、その責任を負うべきです。その代償を払わなければなりません。その恥を背負うべきです。」

しかし、イエス様は私の罪の責任を背負ってくださいました。私の恥を背負ってくださいました。

私は、もはや過去に縛られているのではありません。イエス様はすべてを新しくしてくださいました。

今日、その真理を喜んでいます。

しかし、それだけではなく、私は罪と恥を背負っている周囲の人々に、その真理を分かち合いたいと願っています。

「主よ、ここに私がおります。私を遣わしてください。」

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主の麗しさを見て

しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。

主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、主の栄光を鏡に映すように見ながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(コリント人への手紙第二3:16~18 、脚注の訳)

今朝、私はこの箇所に思いを巡らしていました。

イスラエルの民は、モーセの顔に神様の栄光が映っているのを見て怖がったため、モーセは顔に覆いを掛けました。

しかし、モーセは神の栄光を見たいと願っていました。主の麗しさに憧れていました。だからこそ、主と話すときには、その覆いを外しました。

私も主の麗しさを見たいと願っています。驚くべきことは、イエス様ご自身がその覆いを取り除いてくださるということです。イエス様は私にこう語ってくださいます。「その覆いはいらない。私を見てごらん。私を見てほしいの。私を知ってほしいの。」

そして、その麗しさを見ると、私は変わります。主を見れば見るほど、主を知れば知るほど、私はますます主のようになっていきます。

私は、もう昔の私ではありません。けれども、まだこれからの私でもありません。

しかし、大切なのは、主が私を愛しておられることです。だから、私は大胆に、覆いを取り除いたまま、主の前に立つことができます。そして、主は、私がもっと近づき、主を本当に知ることへと招いてくださいます。

主よ、あなたは私の顔から覆いを取り除いてくださいました。あなたは私を受け入れ、愛してくださいます。私は自由にあなたに近づくことができます。だからこそ、私は近づきます。あなたを見て、知ることを心の奥から願っています。

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キリストの香り

しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。

私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。

滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。(コリント人への手紙第二2:14~16)

「神様にとって、私たちは芳しいキリストの香りです。」

そのことばは、本当に驚くべきことです。

神様にとって、私は芳しいキリストの香りです。

私が不完全であり、そのことばにふさわしくないと感じるにもかかわらず、神様は私に語っておられます。「わたしにとって、あなたは芳しい御子の香りです。だからこそ、あなたが出会うすべての人に、その香りを放ちなさい。」

その恵み深いことばは、本当に不思議です。しかし、天のお父さんが私をご覧になるのと同じように、自分自身を見ることを選びます。

そのことばを心に抱き、出会うすべての人の間でそのことばを生きることを選びます。

「私は芳しいキリストの香りです。」

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恵みに特徴づけられた人

私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。(コリント人への手紙第二1:12)

「肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきた」ということばを読んだとき、少し不思議に思いました。パウロなら、「肉的な知恵によらず、神の知恵によって行動してきた」と言うはずだ、と感じたからです。

では、なぜパウロは「肉的な知恵」を「恵み」と対比したのでしょうか。

もしかすると、パウロはこう語りたかったのかもしれません。

「私は、私自身やその知恵によってあなたがたを感動させたいのではありません。むしろ、私のうちに働いている神の恵みによって、あなたがたが心を動かされてほしいのです。

特に、神様が、過ちの多い私をどれほど恵み深く扱ってくださっているのか、そのことによってあなたがたの心が動かされてほしいのです。

また、キリストに対する私の熱心さを見るとき、それが神の受け入れを必死に求める心から出ているのではなく、神がすでに私を受け入れてくださっているという安心から流れていることを知ってほしいのです。

そして、私と別れるとき、私から流れているその恵みによって、あなたがたが潤され、安らぎを得てほしいのです。」

周囲の人々が私を見るとき、彼らはそのような人を見ているでしょうか。恵みによって特徴づけられている人を見ているでしょうか。

主よ、私をそのような者としてください。

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自分自身を試し、吟味する

あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。

それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。

あなたがたが不適格な者なら別ですが。(コリント人へん手紙第二13:5)

それはかなり厳しい言葉ですね。

でも、その文脈を覚えていた方がいいです。あるコリント人たちは、自分がクリスチャンと自称したのに、パウロの権威を拒絶し、神様の権威をも拒絶してしまいました。

さらに、彼らは自分の罪を悔い改めることを拒みました(10〜12章)。

そんなことをしてしまったら、自分がクリスチャンであると主張することはできません。

真のクリスチャンは、罪に何度も落ちてしまうかもしれませんが、神様の権威を拒絶しません。また、罪を犯したとき、言い訳をしません。むしろ、悲しんで、すぐに悔い改めます。

簡単に言うと、真のクリスチャンは神様に対して柔らかい心を持っています。

あなたは、そのような心を持っていますか。

もしそのような心を持っていないなら、自分がクリスチャンかどうかを疑わなくてはなりません。

でも、神様に対して柔らかい心を持っているなら、心配しなくていいです。なぜなら、神様はあなたのことを諦められないからです。

むしろ、神様はあなたのうちに始められたことを完成させてくださいます(ピリピ1:6)。

あなたが弱くて、何度も失敗しても、主イエスの恵み、天の父の愛、聖霊の交わりは、永遠にあなたとともにあります。

だから、毎日それを心に留めておいて、心を安らかにしましょう。

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へりくだって神様に頼る

1章にも12章にも、パウロは自分が耐えられない試練に直面しました。パウロはその二つの試練に圧倒されました。

そして、その二つの試練によって、パウロは同じ教訓を学びました。それは、へりくだって神に頼ることです。

私たちは、自分が賢くて、どんな問題に遭遇しても、自分の力によって解決できると思って、自分をよく騙してしまいます。

しかし、神様は私たちを自己に頼るものとして造られたのではありません。むしろ、神様は私たちを神に頼るものとして造られました。

そういうわけで、神様は私たちの試練を許されます。その試練によって、私たちは、自分が思っていたほどに賢くも強くもないことを実感します。

そして、私たちはもう一度、神様の御前に来て、子供のような依存と信頼をもって、神様に両手をあげます。

そうすれば、神の恵みが私たちに十分であることがわかるようになります。また、神の力が弱さのうちに完全に現れることがわかるようになります。

そのとき、私たちはパウロと一緒に、こう言います。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(コリント人への手紙第二12:9bー10)

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あなたの推薦を受けるために

私たちは、自分自身を推薦している人たちの中のだれかと、自分を同列に置いたり比較したりしようとは思いません。

彼らは自分たちの間で自分自身を量ったり、互いを比較し合ったりしていますが、愚かなことです。。。

自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。(コリント人への手紙第二10:12、18)

主よ。自分自身を他の人と比較するのは簡単なことです。つまり、自分の実績を周りの人々の実績と比較するのは簡単なことです。

しかし、そんな考え方は空しいものです。最終的に、大切なのはただ一つ──あなたの評価です。

あなたは私を他の人と比較しておられるのではありません。むしろ、私があなたに忠実であるかどうかを評価しておられるのです。

だから、私が忠実なしもべとなるように。あなたの推薦を受けたいです。そして、あなたの誉め言葉を聞きたいです。

「よくやったよ。良い忠実なしもべ。」

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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癒しがない?赦しがない?

私たち皆、後悔することがあります。そして、自分の罪と失敗の結果を見ると、罪悪感に圧倒される時もあります。

確かに、私たちの敵であるサタンは、私たちが自分の罪の重さに押しつぶされることを望んでいます。

けれども、神様は何を望んでおられるのでしょうか。

さまざまな意味で、パウロの心は私たちの天の父の心を映しています。

パウロは手紙を書きながら、コリント人たちを彼らの罪のために責めていました。その手紙を読んで、彼らは罪悪感を抱き、悲しみました。

それでも、パウロはその悲しみについて何と言ったでしょうか。

今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。

あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。(コリント人への手紙第二7:9)

人に傷つけられるとき、私たちはよく、相手が自分の悪さを認め、苦しむことを望みます。相手が罪悪感に押しつぶされるのを見て、私たちは喜んでしまうことがあります。

実のところ、私たちが相手の苦しみによって滅びることを望む時さえあります。

しかし、パウロはそう望みませんでした。コリント人たちが害を受けることを望んだわけではありません。パウロが望んだのは、ただ彼らが悔い改めることでした。

私たちの天の父も、同じことを望んでおられます。

罪の結果は、本当に苦しい時もあります。圧倒的な罪悪感に押しつぶされそうになることもあります。

けれども、神様が私たちを押しつぶしたいわけではありません。むしろ、神様が望んでおられるのは、私たちが悔い改めることです。そして、悔い改めるなら、その結果は死ではなく、癒しです。

パウロはこう言っています。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(10節)

もしかしたら、あなたは罪悪感に押しつぶされそうになっているかもしれません。「私には癒しがない。赦しがない。」と思っているかもしれません。

しかし、癒しはあります。赦しもあります。

必要なのは、ただ悔い改めることです。自分の罪を認め、神様の赦しを願うなら、神様は必ず赦してくださいます。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」──主は言われる──

「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。 たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ書1:18)

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福音の務めを汚さないように

私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、  むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。(コリント人への手紙第二6:3ー4)

今朝、その言葉は私の心を打ちました。

福音は多くの人につまずきを与えるものです。人々に彼らの罪や神様の聖さについて語るとき、また、イエス様だけが救いの道であると主張するとき、私たちは相手を怒らせる可能性があります。

しかし、彼らが怒ったとしても、私たちを見ると、私たちの中に疑う余地のない誠実さを見るはずです。また、私たちの中に御霊の実、愛や親切や忍耐などを見るはずです。

では、なぜパウロの言葉が私の心を打ったのでしょうか。

時に、私は自分の行為や言葉によって、人々に福音をそしる機会を与えてしまっているのではないかと疑問に思います。

正直に言うと、私はそうしたことがあります。そのとき、私は悔い改めなくてはなりませんでした。

けれども、私だけではなく、私たち皆が、キリストの使節として召されています。

神様の恵みと力によって、その召しにふさわしく歩み、私たちの務めを果たしましょう。私たちが自分の言葉や行為によって、人々に福音をそしる機会を与えないように。

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あなたに喜ばれる者となるために

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。。。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(コリント人への手紙第二5:9ー10、14ー15)

主よ。私が心から願うのは、あなたに喜ばれることです。私のすべての行為や思いによって、あなたを喜ばせたいのです。

しかし、私は自分の人生を振り返ると、どれほど失敗してきたかが分かります。そして、私は改めて、なぜあなたが十字架で死なれなければならなかったのかを悟ります。けれども、あなたの十字架の御わざによって、私は神の義とされました。

あなたが私を見ると、私の罪や失敗を認めません。むしろ、私はキリストの完全な義に包まれています。

そういうわけで、あなたは私を受け入れます。あなたは私に言われます。「あなたはわたしの愛する子です。わたしはあなたを喜ぶ。」

あなたの愛は素晴らしいものです。

その愛が私の人生を動かしますように。あなたの愛が、私の人生観を形づけますように。また、あなたの愛が、私が周りの人々を見る目を形づけますように。

私が毎日、自分のためではなく、あなたのために生きますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神様の栄光を見る

モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」

 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」」(出エジプト記33:18ー20)

その出エジプト記の箇所と第二コリント3章には、深い関係があります。

私たち罪深い人間にとって、神様の栄光は恐ろしいものです。神様が聖なる方であり、人間がそうではないため、人は神様の顔を見ると死んでしまいます。

そのため、神様の栄光が通り過ぎるとき、モーセは岩の後ろに隠れなければなりませんでした(出エジプト記33:21–23)。

また、幕屋や神殿の中には、至聖所の前に垂れ幕がありました。なぜなら、神様が至聖所でご自身の栄光を現されたため、通常は祭司たちでさえ入ることができなかったからです(レビ記16:2)。

一年に一度だけ、宥めの日に大祭司は至聖所に入ることができましたが、そのとき、香を主の前の火にくべて「雲」を作りました。それは、神様の栄光が霞むためです(レビ記16:12–13)。

イスラエル人にとって、神様の栄光によって輝いていたモーセの顔を見るのは、恐ろしいことでした。だから、その栄光が消えていったにもかかわらず、モーセは覆いをかけました(出エジプト記34:29–30)。

しかし、十字架でイエス様が死なれたとき、その垂れ幕は裂かれました。そして、私たちは主に立ち返ると、覆いは取り除かれます。イエス様の顔を見るとき、私たちは神様の栄光を見るのです。

その栄光を見ても、私たちは滅びることはありません。むしろ、私たちは主と同じかたちに姿を変えられていきます。

私たちは罪深い者であるにもかかわらず、神様は私たちを少しずつ変えてくださいます。そして、イエス様がもう一度この世に来られると、私たちはたちまちイエス様に似た者とされます(第一ヨハネ3:2)。

そして、最も素晴らしいことは、モーセの場合は神様の栄光が消えていきましたが、私たちの場合は、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくということです(第二コリント3:18)。

だから、パウロのように大胆に振る舞いましょう(第二コリント3:13)。

大胆に神様に近づきましょう(ヘブル10:19–22)。

また、大胆に命を与える福音を伝えましょう(第二コリント4:4–6)。

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信頼と希望を神様に向けて

私たちは、困難や試練に直面するとき、自分に頼るのはたやすいことです。私たちはよく、自分の力と知恵に頼ります。私も、しばしばそうしてしまいます。

だからこそ、時に、神様は私たちが対処できないほどの圧倒的な試練を経験することを許されるのかもしれません。その試練を通して、私たちは自分の力と知恵に頼るのではなく、神様に頼ることを学びます。

パウロも、そう考えていたようです。

彼はこう言いました。

兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。

私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。

実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。(コリント人への手紙第二1:8ー9)

しかし、パウロは神様に信頼を寄せることを学び、希望を知るようになりました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。(10)

あなたはどうでしょうか。どんな試練に遭っているでしょうか。

誰に信頼を寄せているでしょうか。誰に希望を置いているでしょうか。