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コリント人への手紙第二のデボーション

癒しがない?赦しがない?

コリント人への手紙第二7章

私たち皆、後悔することがあります。そして、自分の罪と失敗の結果を見ると、罪悪感に圧倒される時もあります。

確かに、私たちの敵であるサタンは、私たちが自分の罪の重さに押しつぶされることを望んでいます。

けれども、神様は何を望んでおられるのでしょうか。

さまざまな意味で、パウロの心は私たちの天の父の心を映しています。

パウロは手紙を書きながら、コリント人たちを彼らの罪のために責めていました。その手紙を読んで、彼らは罪悪感を抱き、悲しみました。

それでも、パウロはその悲しみについて何と言ったでしょうか。

今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。

あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。(コリント人への手紙第二7:9)

人に傷つけられるとき、私たちはよく、相手が自分の悪さを認め、苦しむことを望みます。相手が罪悪感に押しつぶされるのを見て、私たちは喜んでしまうことがあります。

実のところ、私たちが相手の苦しみによって滅びることを望む時さえあります。

しかし、パウロはそう望みませんでした。コリント人たちが害を受けることを望んだわけではありません。パウロが望んだのは、ただ彼らが悔い改めることでした。

私たちの天の父も、同じことを望んでおられます。

罪の結果は、本当に苦しい時もあります。圧倒的な罪悪感に押しつぶされそうになることもあります。

けれども、神様が私たちを押しつぶしたいわけではありません。むしろ、神様が望んでおられるのは、私たちが悔い改めることです。そして、悔い改めるなら、その結果は死ではなく、癒しです。

パウロはこう言っています。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(10節)

もしかしたら、あなたは罪悪感に押しつぶされそうになっているかもしれません。「私には癒しがない。赦しがない。」と思っているかもしれません。

しかし、癒しはあります。赦しもあります。

必要なのは、ただ悔い改めることです。自分の罪を認め、神様の赦しを願うなら、神様は必ず赦してくださいます。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」──主は言われる──

「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。 たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ書1:18)

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