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ヨハネの福音書のデボーション

もうダメ?

ヨハネの福音書11章

マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(ヨハネの福音書11:21)

マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(32節)

今まで、マリアとマルタの言葉を読んだとき、彼女たちがイエス様を責めているのだと思っていました。「何でもっと早く来てくださらなかったのですか。もっと早く来てくださっていたら、私の兄は死ななかったでしょうに。」

しかし今、私は彼女たちが本当にイエス様を責めていたのかどうか、少し疑問を感じています。

なぜなら、イエス様が着かれたとき、ラザロはすでに墓に葬られていて、四日が経っていたからです。つまり、イエス様がすぐに来られたとしても、ラザロはすでに二日間亡くなっていたということになります。

だから、たぶん、彼女たちが言いたかったのは、「イエス様のせいではないけれど、兄が病気になったとき、あなたがそんなに遠くにおられなかったらと思います。もしここにいてくださったなら、私の兄は死ななかったでしょうに」ということだったのかもしれません。

でも、はっきりしているのは、イエス様が着かれたとき、マリアとマルタには、イエス様がラザロを復活させることができるという考えがまったく思い浮かばなかったということです。イエス様にラザロを復活させていただきたいと願うという考えも、まったく思い浮かびませんでした。

マルタは「あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています」と言いましたが、24節と39節にあるマルタの言葉を見ると、彼女がイエス様にその日にラザロを復活させていただけるとは考えていなかったことが、はっきりと分かります。

それを読んで、私はこう考えました。「もうダメだ。祈り続けるのはもう無駄だ」と思うときがあるでしょうか。

「イエス様がこの死んだものを復活させることはできない。私の状況には、もう復活の希望がない」と思うときがあるでしょうか。

私は、イエス様がそんなに小さなお方だと思ってしまうでしょうか。

イエス様が、私の願いや思いをはるかに超えて行うことができると信じているでしょうか。それとも、イエス様にできることについての私の概念は、まだ小さすぎるのでしょうか。

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