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ガラテヤ人への手紙のデボーション

イエスの焼き印を帯びる

ガラテヤ人への手紙6章

肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないようにと、あなたがたに割礼を強いています。

割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。。。

これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。」( ガラテヤ人への手紙6:12~14、17)

今日、「私は、この身にイエスの焼き印を帯びている」という言葉を噛み締めていました。

パウロの時代、焼き印は、奴隷が誰のものかを示す印でした。

ユダヤ人たちにとって、割礼は彼らが神様のものであることを示す印でした。

パウロはユダヤ人だったから割礼を受けていましたが、パウロにとって、自分が神様のものである印は割礼ではありませんでした。

むしろ、彼は、福音を忠実に述べ伝えるために受けた傷跡を指しました。

パウロは、神の律法を守ること、特に割礼を受けることによる救いではなく、イエスの十字架による救いを述べ伝えました。

そういうわけで、ユダヤ人たちはパウロを何度も迫害しました。福音を述べ伝えるため、パウロは他の苦難も経験しました。(第二コリント11:24〜29)

だから、ガラテヤ人たちに偽りの福音を伝えた人たちに、パウロは言いました。

「もう私を煩わせないでください。ガラテヤ人たちの間で私の仕事を邪魔しないでください。あなたたちは真のキリストのしもべたちではありません。

あなたたちがガラテヤ人たちに割礼を受けさせたい理由は、単に迫害を避けるためです。でも、割礼ではなく、私の傷跡は、私がキリストのものであることを示しています。」

しかし、もしかしたら、パウロはガラテヤ人のクリスチャンたちに、もう一つのことを言いたかったのかもしれません。

「あなたたちが神様のものであることを示すのは、割礼ではありません。あなたたちは、すでに十字架でキリストが受けられた傷跡を、霊的に受けているのです。

あなたたちは、キリストとともに十字架につけられました。あなたたちは律法に対して死に、その律法によって罪に定められることはありません。

さらに、あなたたちを奴隷にしていた罪に対しても死に、もはやこの世のもののために生きることはありません。むしろ、あなたたちを愛し、あなたたちのためにご自身を与えてくださったイエス様のために生きているのです。

そのような人こそ、神の子供です。」

ですから、神の子供たちとして、誇りを持って、十字架につけられた私たちの主の傷跡を持ちましょう。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙2:19〜20)

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