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ガラテヤ人への手紙のデボーション

壊れた人々の重荷を担う

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(ガラテヤ人への手紙6:1~2)

パウロの言葉を読んだとき、イエス様のみことばを思い起こしました。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書11:28~30)

パウロは、私たちが主のように、罪によって重荷を負っている壊れた人々に触れるように召しています。

しかし、正直に言うと、多くの場合、そのような人に対する私の最初の反応は、パリサイ人たちのように独善的で、さばきに満ちています。

私はそのような態度を取りたくありません。

主と同じように、私は人々に手を伸ばし、罪の重荷を下ろして、御国に入るように招きたいのです。

Pictures coloured with your pain
痛みに彩られた記憶
Images of silent shame
秘めた恥の思い出
All the things you thought you had to hide
隠さなければならないと思っていたすべてのこと
Broken memories you’ve locked inside
心の奥に閉ざしてきた傷

Oh, lay it down
ああ、重荷を下ろしなさい。
Come lay it down
ここに来て、重荷を下ろしなさい。
Come to the kingdom
御国に入ってきなさい。—マーク・ガーシュメル

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信仰、望み、愛

私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。(ガラテヤ人への手紙5:5~6)

愛によって働く信仰。

それが私を定義するでしょうか。

私の失敗への罰ではなく。

神様の基準に達することができないという不安でもなく。

むしろ、王が私を愛し、すでに受け入れてくださったことを信じる信仰。

私の失敗にもかかわらず、ある日、私が聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせてくださるという望み。(コロサイ人への手紙1:22)

そして、その結果は、私から流れ出る神様への愛、また周囲の人々への愛。

主よ、私の人生は信仰、望み、愛によって特徴づけられるものとなりますように。

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すでに神様に受け入れられている

あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。

キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです……

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

7  ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。 (ガラヤ人への手紙3:26~28;4:6~7)

あるユダヤ人たちがガラテヤのクリスチャンたちに伝えたメッセージはこうでした。「あなたはまだ神様に受け入れられていません。神様があなたを受け入れてくださるためには、あなたがまだまだ行わなければならないことがあるのです。」

けれども、パウロはガラテヤ人たちにはっきりと語りました。「それは嘘です。あなたはすでに受け入れられているのです。それは自分の行いによるのではなく、あなたが信仰によって喜んで王を受け入れたことによるのです。」

なぜなら、神様との関係を壊したのは、私たちが神様を王として拒んだことだからです。だから、その関係を修復するのは、私たちがイエス様に信頼を寄せ、王として受け入れることなのです。

つまり、私たちはイエス様が良いお方であり、私たちを愛し、私たちの最善を知り、望んでおられることを信じます。そして、十字架で私たちのために死んでくださったことによってイエス様がそのことを証明してくださったと信じるので、イエス様を王として喜んで受け入れるのです。

そして、私たちの思いや行為は、徐々にその信仰と調子を合わせていくのです。

それが、信仰によって生きることです。

アブラハムはそのような人でした。彼はしばしば失敗しました。なぜなら、彼の信仰は何度も揺らいだからです。(創世記15~20)

けれども、彼はいつもこの真理に戻りました。「神様は私の信頼にふさわしいお方です。」

だから、時間が経てば経つほど、彼のすべての思いや行為はその信仰に調子を合わせていったのです。(創世記21~24)

そういうわけで、アブラハムが何度も失敗したにもかかわらず、神様は彼の信仰を義と認め、受け入れてくださいました。神様は、アブラハムの信仰がどこに至るかを知っておられたからです。

私はまだ、私があるべき姿には達していません。私は生きるかぎり、「たどり着いた」とは言えないでしょう。

それでも、神様は私をすでに受け入れておられるのです。

私の行いや実績のためではなく、むしろ、揺らぐことはあっても、心の奥底では神様を信じているのです。

神様にとって、それは十分なのです。

あなたもそのような確信を持っているでしょうか。

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私を愛してくださった王

今朝、私は「キリスト」と「神の子」ということばに思いを巡らしていました。

私たちはイエス様について話すとき、そのことばをよく使いますが、その意味を深く考えることはあまりないでしょう。

キリストとは、「神によって油を注がれた王」という意味です。

「神の御子」は、もちろんキリストが神であられることに触れますが、ユダヤ人たちは王をある意味で「神の子」として理解していました。

だから、今日、ガラテヤ人への手紙2章20節を新鮮な思いで読みました。

私は王とともに十字架につけられました。

もはや私が生きているのではなく、王が私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、王に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙2:20)

貼り付けられた革命家と同じように(その人は普通、強盗と呼ばれますが、実際には革命家だったのかもしれません)、私は正当な王とともに十字架につけられました。

反逆者である私は、もはや生きていません。

むしろ、王は私のうちに住み、心の王座に座っておられるのです。

今、私は毎日この王への信仰によって生きています。この王が良いお方であり、私を愛し、私の最善を望んでおられることを心から信じているのです。

だからこそ、愛と信頼に満ちた心で、私の良い王に従おうと選びます。私はもはや自分自身のためではなく、イエス様のために生きているのです。

王様が長く生きられますように。

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私のうちに啓示された御子

しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき……(ガラテヤ人への手紙1章)

今朝、パウロの言葉に思いを巡らしていました。

神様は御子を私のうちに啓示したいと願っておられます。

周囲の人々が神様がどれほど素晴らしく、恵み深く、愛深いお方であるかを見ることができるように、神様は私を器として用いたいと願っておられるのです。

さらに、神様は喜んで私を用いたいと思っておられるのです。

他の人がいないから仕方なく私を用いられるのではありません。

私がひびの多い器であるにもかかわらず、そのひびを通して神様はご自身の栄光を現すことを喜んでおられるのです。

だからこそ、今日、このように祈っています。

主よ、周囲の人々があなたがどれほど素晴らしいのかを見ることができるように、ご自身を私のうちに啓示してください。

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あなたのいつくしみ深い霊が私を導いてくださいますように

御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。。。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。。。

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(ガラテヤ人への手紙5:18、22ー23、25)

今日の箇所を読んだとき、私はこう思いました。「単なるルールの一覧ではなく、生きておられる神の御霊に従っていて、よかった。」

なぜなら、ルールの一覧は、私の弱さを見たときに、あわれみも思いやりもまったく示してくれないからです。私の存在に心を留めてくれることもありません。

しかし、御霊は冷たく無関心なお方ではありません。むしろ、私の弱さに対して、あわれみと心遣いをもって応えてくださいます。

正直に言えば、私は御霊との関係を親しく感じるのが少し難しいです。なぜか、天のお父さんやイエス様ほどには、御霊が人格を持つお方として心に届いてこないことがあります。

けれども、御霊の実が「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」であるなら、まさに御霊ご自身がそのようなお方なのでしょう。私を見つめるとき、きっとそのような御顔を向けてくださっているのではないでしょうか。

今日、私はそのようなことを思い巡らしています。そして、私の悲しみと苦しみの中で、天のお父さんに祈っています。

あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。(詩篇143:10)

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喜んで選ばれた

しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、 異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに(喜んで啓示してくださったとき)。。。(ガラテヤ人への手紙1:15〜16、新改訳とその脚注による)

「神がその御子を、私のうちに喜んで啓示してくださったとき。。。」

それは、なんと驚くべきことばでしょう。

いったい、なぜ神様が、その御子を私のうちに啓示してくださるのでしょうか。

おそらく、パウロもそのように自問自答したのではないでしょうか。

彼はかつて、冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした(第一テモテ1:13)。

異邦人に御子を啓示するために、神様はもっとふさわしい人を選ぶこともできたはずです。

それでも、神様はパウロを選ばれました。

しかも、ただ選ばれただけでなく、喜んでパウロを選ばれたのです。

このことばを読むと、私は希望を抱かずにはいられません。

神様は、この世にご自身を啓示するために、私たちすべてを神殿とし、また祭司として召しておられるのです。

しかし、自分自身を振り返ると、私の中にはさまざまな過ちや、目立つひびのある壁が見えるのです。あなたも、そう感じるときがあるのではないでしょうか。

ご自身を啓示するために、神様はきっと、私たちよりももっとふさわしい人を、神殿や祭司として選ぶこともおできになるでしょう。

それでも、神様は私たちを、いやいやながらではなく、喜んで選び、御子を私たちのうちに啓示してくださいます。

それがなんと不思議な恵みでしょう。

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イエスの焼き印を帯びる

肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないようにと、あなたがたに割礼を強いています。

割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。。。

これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。」( ガラテヤ人への手紙6:12~14、17)

今日、「私は、この身にイエスの焼き印を帯びている」という言葉を噛み締めていました。

パウロの時代、焼き印は、奴隷が誰のものかを示す印でした。

ユダヤ人たちにとって、割礼は彼らが神様のものであることを示す印でした。

パウロはユダヤ人だったから割礼を受けていましたが、パウロにとって、自分が神様のものである印は割礼ではありませんでした。

むしろ、彼は、福音を忠実に述べ伝えるために受けた傷跡を指しました。

パウロは、神の律法を守ること、特に割礼を受けることによる救いではなく、イエスの十字架による救いを述べ伝えました。

そういうわけで、ユダヤ人たちはパウロを何度も迫害しました。福音を述べ伝えるため、パウロは他の苦難も経験しました。(第二コリント11:24〜29)

だから、ガラテヤ人たちに偽りの福音を伝えた人たちに、パウロは言いました。

「もう私を煩わせないでください。ガラテヤ人たちの間で私の仕事を邪魔しないでください。あなたたちは真のキリストのしもべたちではありません。

あなたたちがガラテヤ人たちに割礼を受けさせたい理由は、単に迫害を避けるためです。でも、割礼ではなく、私の傷跡は、私がキリストのものであることを示しています。」

しかし、もしかしたら、パウロはガラテヤ人のクリスチャンたちに、もう一つのことを言いたかったのかもしれません。

「あなたたちが神様のものであることを示すのは、割礼ではありません。あなたたちは、すでに十字架でキリストが受けられた傷跡を、霊的に受けているのです。

あなたたちは、キリストとともに十字架につけられました。あなたたちは律法に対して死に、その律法によって罪に定められることはありません。

さらに、あなたたちを奴隷にしていた罪に対しても死に、もはやこの世のもののために生きることはありません。むしろ、あなたたちを愛し、あなたたちのためにご自身を与えてくださったイエス様のために生きているのです。

そのような人こそ、神の子供です。」

ですから、神の子供たちとして、誇りを持って、十字架につけられた私たちの主の傷跡を持ちましょう。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙2:19〜20)

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御霊によって導かれているの?律法の下に生きているの?

御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。(ガラテヤ人への手紙5:18)

御霊によって導かれている人と、律法の下にいる人には、似ているところがあります。

表面的には、御霊によって導かれている人も、律法の下にいる人も、どちらも良い人に見えます。

でも、著しく違う点もあります。

律法の下にいる人は、ルールに従うことで、神様の愛と受け入れを得ようと一生を過ごします。

でも、そのルールを完全に守ることができないので、神の基準に達することができないという不安をいつも抱えています。

また、神様を失望させることをいつも恐れています。だから、彼らが失敗するとき、神様から罰せられることを恐れています。そういうわけで、神様のことを考えると、彼らはいつもおどおどしています。

ある律法の下にいる人は、自分がルールをちゃんと守っていると思うので、自信があります。でも、実際のところ、彼らは何度も神の律法を破っているので、神様に裁かれることになります。

でも、御霊によって導かれている人々は、罪に定められることは決してありません。なぜ彼らはその確信を持っているのでしょうか。それは、神の律法を完全に守ることができると思っているからではなく、むしろ、彼らがイエス様とその十字架の働きを信じているからです。

彼らは、「神の愛と受け入れを得るために頑張らなきゃ」と考えるのではなく、神様がすでに彼らを愛して、受け入れてくださっていることを知って安心しています。

その喜びを持って、彼らは天のお父さんと歩みます。彼らは毎日、天のお父さんを喜ばせたいと思っています。それは、彼らが神様を恐れているからではなく、自分たちへの神の愛に応えているからです。

彼らは自分の力と努力で神様の律法を守ろうと考えていません。恐れをもって、「私の心の中で、隠れた罪があるだろうか」といつも心配することはありません。

そうではなく、彼らは天のお父さんと一緒に次の一歩を踏み出したいのです。そして、御霊によって導かれて、彼らは一歩一歩進み、自分の罪を殺し始めます。

また、一歩一歩進んで、彼らは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という実を結び、だんだん自分を愛してくださる天の父のようになります。

あなたはどのような人生を送っているでしょうか。御霊に導かれている神の愛する子として生きているでしょうか。

もしくは、律法の下にいるかのように生きているのでしょうか。

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アバ、お父さん

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。(ガラテヤ人への手紙4:6-7)

お父さん、

あなたは神です。だから、私があなたを「神様」と呼ぶことを要求することができます。

あなたは私の主です。だから、私があなたを「主」と呼ぶことを要求することができます。

あなたは私の創造主です。だから、私があなたを「創造主」と呼ぶことを要求することができます。

でも、あなたは私をご自分の子とし、養子縁組の書類にあなたの御霊で印を押してくださいました。

そして、御霊は「アバ、お父さん」と叫ぶことを教えてくださいます。

だから、私はあなたを「神様」、「主」、「創造主」と呼ぶときもあるけれど、私は通常、御霊が教えてくださった言葉を使うことを選びます。

「アバ。お父さん。」

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神の子の生き方

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙2:19ー20)

私は上の言葉が大好きです。

私はかつて神の律法の下にありました。その時、律法は私の養育係りとして、正しいことを教えてくれたけれど、正しいことを行うために力を与えることはできませんでした。(ガラテヤ3:24)

むしろ、私が失敗したとき、罪を犯したとき、神の律法は私を断罪することしかできませんでした。

でも、私を断罪した神の律法は、私をイエス様に導いてくれました。律法を通して、私にはイエス様が必要なのだと分かりました。そして律法が私をイエスの十字架に導いた途端、私は律法においては死んだ者となりました。

私はもはや律法によって断罪されていません。なぜなら、十字架でイエス様が私の罪と失敗の代価を払ってくださったからです。

そして、イエス様とともに、神様に敵対的だった私、神様を信頼できなかった私も死にました。

そして今は、キリストが私のうちに生きておられます。

私たちは、神の期待に応えられないことを恐れて生きているのではありません。

むしろ、イエス様が私を愛し、私のためにご自分を与えてくださったという確信を持って、生きているのです。

神様に愛され、受け入れられるため、頑張ってルールを守らなくてはならないと思って、生きているのではありません。

むしろ、神様が私をご自分の子供として愛し、受け入れてくださっているという確信を持ち、安心して生きているのです。

また、私は毎朝起きるたびに、神様が私を見て、「あなたは私の愛する子供です。私はあなたを喜ぶ」と言っておられるという確信をもって、生きているのです。

だから、私の最大の願いは、私の天のお父さんのために生き、天のお父さんを喜ばせることです。

それが神の子の生き方です。

それは、あなたの生き方でしょうか。

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神様から離れる

私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。(ガラテヤ人への手紙1:6)

「神様から離れる」という言葉を聞くとき、私たちは、罪の道に戻る放蕩息子のような人をよく考えるでしょう。

もちろん、そのような人は神様から離れているけれど、パウロは違うことについて話しています。

ガラテヤ人たちにとって危険なのは、罪の道に戻ることではなく、ルール中心の生活を送ることです。彼らの場合、割礼を受けなくてはならないし、いろんなユダヤ教の儀式的な律法に従わなくてはならないと教えられました。

でも、その儀式は真の聖さとは何の関係もありませんでした。(コロサイ2:20〜23)

さらに、その律法は一時的なものでした。その律法の目的は、ユダヤ人にキリストを指し、キリストの到来に備えて彼らの心を整えるということです。(ガラテヤ3:19〜25)

私たちはルールではなく、神様に焦点を合わせるべきです。「神様は私の人生とその回りで、何をしておられるだろうか。御霊は私をどこに導いてくださっているだろうか。」

ルールに集中する人生は、自己中心のものです。つまり、私たちはよくこう考えます。「私は神の基準に達しているだろうか。」

恵みの生活は神中心です。「神様はとても良いお方です!神の恵みと愛は素晴らしい!神様はどこに行っておられるだろうか。私も行きたい!神の働きに参加したい!」

だから、神様から離れる人生、特にルール中心の生活を捨てましょう。むしろ、喜びをもって、毎日毎日、一瞬一瞬、御霊に導かれましょう。

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疲れた

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。。。

失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。

ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(ガラテヤ人への手紙6:2、9ー10)

正直に言うと、上の言葉は私にとって、今ちょっと難しいです。なぜなら、問題解決の目処が立たないとき、相手の重荷を負うのはとても辛いのです。そして、今は、問題解決の目処が立ちそうにありません。

それでも、パウロは言います。「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」

でも、自分の力では、私はそのことばに従うことができません。私には、ぶどうの木にとどまることによって生まれる霊的な栄養と憩いが必要です。(ヨハネ15:4-5)

イエス様、私は今あなたを必要としているのです。あなたはブドウの木で、私は枝です。あなたを離れては、私は何もすることができないのです。

あなたは私に、「失望せずに、あきらめずに人の重荷を負いなさい」と言われました。

でも、私は疲れました。だから、私がどのようにあなたに一瞬一瞬とどまることができるかを教えてください。私を強めてください。私を満たしてください。

そして、あなたの臨在で、あなたの恵みと愛によって、私の魂をリフレッシュしてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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聖霊によって歩み、導かれ、生き、進む

御霊によって歩みなさい。(ガラテヤ人への手紙5:16)

御霊によって導かれている。。。(18節)

私たちは、御霊によって生きているのなら。。。(25a節)

御霊によって進もうではありませんか。(25b節)

聖霊様、私はたくさんの宗教的なルールを守って頑張ろうとするクリスチャン生活を送ろうとしているのではありません。むしろ、私はあなたとの関係の中で歩んでいます。

聖霊様、あなたのおかげで私は命を持っています。私は霊的に死んでいましたが、あなたの恵みによって、私にいのちの息を吹き込んでくださいました。だから今、あなたによって、私は神の子供として「アバ、父」と叫びます(4:6)。

ですから聖霊様、今日、私を導いてください。あなたがどこへ行かれるのかを教えてください。私の周りで、あなたが何をなさっているのかを教えてください。

今日、私はあなたと歩調を合わせることができるように助けてください。私があなたより先に行かず、あなたに遅れず、あなたと違う道を歩まないように。

むしろ、私があなたの知恵と力によって、あなたと共に歩み、あなたの実を結び、周りの人々にあなたの愛で触れることができるようにしてください。

あなたによって歩み、導かれ、生き、進むという人生がどのように送れるかを教えてください。私はそのような人生をもっと知り、歩みたいのです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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信仰によって生きる?

これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。。。

律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。(ガラテヤ人への手紙3:2ー3,11)

信仰によって生きるとは、どういう意味でしょうか。パウロは何を意味したのでしょうか。

たぶん、その意味の基礎は2章20節にあります。

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

信仰によって生きるとは、この二つのことを信じることから始まります。

1. 神様は実際に私を愛しておられます。

2. イエス様は私の罪のために死んでくださいました。十字架で、イエス様は私の罪の債務を完全に赦してくださいました。

私が初めてその真理を実感したとき、私は深く感動しました。何年もの間、その真理を知ってはいましたが、その日、その真理は私の心に染み渡りました。

多くの人は、クリスチャンになるとき、その真理を信じ、喜びます。しかし、やがて次のような思いが心に入り始めます。

「神様は私にがっかりしているのではないか。」

「私はあまり良いクリスチャンじゃないなあ。もっと良いクリスチャンになるべきだ。」

「私はもっとやるべきだろう。もっと聖書を読んだり、祈ったり、友達にイエス様のことを話したり、神様に仕えたりするべきだろう。」

「私は罪に対してもっと勝利を得るはずなのに。」

「私はもっと良い人間になるべきだ。もっと良い父親。もっと良い母親。もっと良い生徒。もっと良い教会のリーダー。」

そそのような考えが自分の心に浮かぶことがあるでしょうか。

それらは信仰の言葉ではありません。それらは信仰から生まれる喜びの言葉ではありません。

私たちがクリスチャンになったとき、神の愛、イエス様の十字架の働きによる神の受け入れを信じ、喜びました。それなのに、どうしてすぐに、神様の愛と受け入れが私たちの「実績」によるものだと考え始めるのでしょうか。

パウロはガラテヤ人たちにこう言いました。「クリスチャンになるとき、神様があなたがたを受け入れた理由は、あなたがたが割礼を受け、神の律法に従ったからではありません。むしろ、あなたがたがイエス様を信じることによって、神様はあなたがたを受け入れてくださいました。

では、なぜ今、神の律法に従うあなたがたの努力によって、神様の受け入れを得ようとしているのですか。」

あなたはどのようにクリスチャンとしての生活を送ろうとしているでしょうか。信仰によって生きているでしょうか。イエス様があなたを愛し、あなたのためにご自身を与えてくださったことを喜んでいるでしょうか。

もしかすると、あなたが神の愛と受け入れに値することをまだ証明しようとしているでしょうか。

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他の福音?

しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。

私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取りとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。

もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(ガラテヤ人への手紙1:8-10)

ガラテヤの教会は深刻な問題に直面しました。あるユダヤ人たちは彼らに、「モーセの律法を守り、割礼を受けなければ、あなたは救われない」と教えました。

しかし、その教えはパウロが彼らに述べ伝えていた福音とは正反対のものでした。つまり、私たちは神の恵みによってのみ救われるのです。

だから、パウロは彼らにこう言いました。「もし誰かが別の『福音』を述べ伝えるなら、その人は神様に呪われるべきです。私たちの福音はイエス様ご自身から来たものです。

私たちがその福音を変えれば、周りの人々を喜ばせるかもしれませんが、キリストを喜ばせることにはなりません。」

現代では、救われるために割礼を受けなければならないと教える人はほとんどいないでしょう。しかし、他の点では人々は福音を変える誘惑にさらされています。

たとえば、多くの人々は「イエス様を信じても信じなくても、すべての『良い人』は天国に行く」と信じたがります。

また、罪を悔い改める必要性について語ることを避ける人もいます。さらに、神様が「罪」と呼ぶことを「善」と呼び、神様が「善」と呼ぶことを「悪」と呼ぶ人もいます(イザヤ書5:20;ローマ1:24–32)。

私たちがそのような「福音」を述べ伝えるなら、周りの人々は喜ぶかもしれません。しかし、イエス様は喜ばれません。

正直に言えば、キリストの福音を忠実に述べ伝えるのが難しい時もあります。そうすれば、私たちが愛している人々は喜ばないかもしれません。

それでも、神様への愛、そして彼らへの愛をもって、イエス様が私たちに委ねられた福音を忠実に分かち合いましょう。なぜなら、その福音によって、イエス様は私たちを救ってくださったのですから。

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御霊と共に歩む

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(ガラテヤ人への手紙5:25)

聖霊様、あなたのおかげで、私は命を受けています。あなたは私の罪を清め、私を新しくしてくださいました。(テトス3:5)

だから、これからも私を導いてください。私がどの道を歩むべきか、ささやいてください。一瞬一瞬、あなたと歩調を合わせるように、私を助けてください。

そうすれば、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が、私の心から自然に流れ出ることを、私は知っています。

何にもまして、私はあなたを喜ばせたいのです。

私が間違った道を歩み始めたら、正しい道へと導いてください。

私の目があなたから離れないようにしてください。私が一歩一歩、あなたについていけますように。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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味わった幸福を失わないために

あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。(ガラテャ4:15、新共同訳)

天のお父様、私が味わった神の子供としての幸福を、決して手放すことのないよう、あなたの愛にとどまらせてください。

私の罪や失敗や弱さのゆえに、救いの確かさを疑うことなく、あなたを信頼し続ける者でいられますように。

主よ、私があなたの歓心を買おうとするのではなく、ただ恵みによって生きることを教えてください。

私はもはや奴隷ではありません。私は暴君の神の罰を恐れていません。

私は愛深い天の父の子供です。

アバ、父よ。私に対するあなたの愛を確信をもって、あなたのみもとに来ます。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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神の子供

多くのクリスチャンたちは、よく疑いをもって、「神様は自分の子供として私を本当に受け入れておられるだろうか」と考えます。

なぜなら、彼らは自分の罪と失敗を見るとき、「いったいどうして、神様は私を受け入れてくださるだろうか」と考えるからです。

でも、パウロは大切な質問を投げかけます。

あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(ガラテヤ人への手紙3:2)

言い換えると、「どうして、神様はそもそもあなたを受け入れたのですか。なぜ神様は御霊を遣わして、あなたのうちに住まわせたのですか?」

あなたは何とか一年ぐらい完全に律法を守ることができたからでしょうか。1週間ぐらいその律法を守ることができたからでしょうか。一日ぐらいその律法を守ることができたからでしょうか。一時間ぐらいその律法を守ることができたからでしょうか。

違います。

あなたがイエス様とその十字架の働きを信じたからです。

そして、神様は試用期間で私たちを自分の子供として受け入れるのではありません。

ある会社はそのように人々を採用するかもしれません。

でも、神様はそのように自分の子供を養子にされません。

だから、神の子供としての自分のアイデンティティを心に留めておきましょう。

あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子供です。(26節)

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

救いの不思議さを思い巡らす

私たちはどれほど、自分の救いの不思議さを思い巡らすでしょうか。

パウロはよくそうしていました。

しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が。。。御子を私のうちに啓示することを良しとされた。。。(ガラテヤ人への手紙1:15-16)

パウロは自分のことについて話していましたが、その言葉は私たちにも当てはめることができます。

私たちが自分の母の胎にあるときから、神様は私たちを選び出してくださいました。

そして、ご自身のタイミングで、神様は恵みをもって、私たちを召してくださいました。

さらに、その同じ恵みによって、神様は私たちの周りの人々を救うために、私たちの人生を通して御子を現してくださいます。

その言葉を考えてみましょう。

想像してください。あなたが自分の母の胎にいるとき、神様はあなたを見て、「あなたを選びます」と言われました。

また、あなたを神様に近づけた色々な小さな「偶然」を思い起こしてみましょう。

そして、少し考えてみてください。あなたは不完全な者なのに、神様はあなたを用いて人々に御子を現すことを良しとされています。

そのすべてのことの不思議さを思い巡らしましょう。

神様の恵みの不思議さを思い巡らしましょう。