神は、このようにして世を愛された。そのひとり子をお与えになったのです。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16、英訳)
私はその英訳が好きです。多くの翻訳は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と訳されるけど、通常、そのギリシャ語は「ほどに」ではなく、「このように」と訳されます。
ヨハネの手紙では、ヨハネは違う言葉を使うけど、同じ概念を伝えます。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを得させてくださいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9ー10)
パウロは似たようなことを言います。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ書5:8)
驚くべきことは、神様が私たちの悔い改めを待たずに、まずご自身の愛を示してくださったことです。神は裁きではなく、憐れみをもって私たちに目を向けられます。
イエス様が「御子を遣わすことによって神様がこの世に愛を示された」と言ったとき、ニコデモはどう思ったでしょうか。
もしニコデモが、神が御子を遣わされたという概念を持っていたとしたら、それは反逆の世を裁くためだったでしょう(詩篇2篇)。
ニコデモは、詩篇2:12にある幸いな人たちがかつて反逆的な人たちであったことを考えたことがあったでしょうか。ニコデモは、御子を通して示された神の愛のゆえに、彼らが悔い改めたと考えたことがあったでしょうか。その詩篇を書いた詩人はそんなことを考えたことがあったでしょうか。
私にはわかりません。でも、ヨハネ3:16のもっとも驚くべきことを覚えていましょう。それは、神様が悔い改めることのない反逆の世(私たちを含む)をまず愛し、その世を救うために、御子を遣わしてくださったということです。
だから、今日、その言葉に思いを巡らしましょう。ヨハネ3:16、第一ヨハネ4:9−10、ローマ5:8に思いを巡らしましょう。
その真理を浴びましょう。「神様はまず私を愛しててくださいました。」
