カテゴリー
マタイの福音書のデボーション

インマンヌエル

マタイの福音書1章

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

「見よ、処女が身ごもっている。
そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」

それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(マタイの福音書1:21、23)

「神が私たちとともにおられる。」

今朝、私は、このことばがどれほど驚くべきことなのかに思いを巡らしていました。

アブラハムが何度も失敗したにもかかわらず、神様は彼を決して捨てられませんでした。神様は、アブラハムとともにおられる神でした。

タマル、ラハブ、ルツは、イスラエルの民の中では異邦人であり、また、タマルとラハブには複雑な背景がありましたが、神様はその三人を受け入れてくださいました。神様は、タマルとともにおられる神、ラハブとともにおられる神、ルツとともにおられる神でした。

ダビデがウリヤを殺し、その妻を奪ったにもかかわらず、神様はダビデを捨てられませんでした。むしろ、神様はダビデを懲らしめられ、ダビデが悔い改めたとき、彼を赦してくださいました。神様は、ダビデとともにおられる神でした。

イスラエル人たちが神様に背を向け、バビロンに追放されたときでさえ、神様は彼らを捨てられませんでした。むしろ、彼らを取り戻してくださいました。神様は、イスラエルとともにおられる神でした。

そして、その忠実な愛の究極的な現れとして、神様はご自分の民をその罪からお救いになるために、イエス様を遣わしてくださいました。

驚くべきことは、そこに私たちも含まれているということです。

神様は私たちとともにおられます。

神様は私たちをご自分の者と呼んでくださいます。

私たちの罪にもかかわらず。

私たちの過去にもかかわらず。

私たちの失敗にもかかわらず。

神様は私たちから距離を置かれるのではありません。

神様は、私たちとともにおられる神です。

それはなんとすばらしいことでしょう。

コメントを残す

一瞬一瞬をもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む