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出エジプト記

偽物

試合を始めましょう!まあ、実は、試合じゃないけど、試合のようなものです。

パロが神様の御言葉を拒絶して、イスラエル人をさらに迫害した後で、神様はご自身をパロに現されました。つまり、神様がすべての主であることを示されました。

最初に、神様はモーセの杖を蛇に変えられました。

次に、ナイル川を血に変えられました。

その後、神様は蛙を用いて打たれました。

ところが、なぜだか、パロの呪法師もその奇跡を行いました。

どうして彼らはそのようなことができたのでしょうか。サタンの力によって行ったのかもしれません。

やがて反キリストが現れる時、彼もまた多くの驚くべき奇跡を行うでしょう。(マタイ24:24)

とはいえ、もしかすると彼らは単なるトリックを知っていて、そのようにしただけなのかもしれません。

けれども、すぐにそのトリックが通用しなくなり、神様の奇跡を真似できなくなりました。

神様の4つ目の奇跡を行うまでに、その呪法師は何もできなくなりました。ブヨを作れないと彼らが言ったのは、「これは神の指です。」ということです。(出エジプト記8:19)

神様の6つ目の奇跡までに、彼らは自分の足で立てなくなりました。足に腫物があったからです。(出エジプト記9:11)

7つ目の奇跡のとき、彼らはモーセの雹の警告を聞いて、自分の家畜としもべを家に避難させました。(出エジプト記9:20)

8つ目の奇跡のとき、彼らは皆と一緒にパロに「イスラエル人を行かせてください!」と言いました。(出エジプト記10:7)

私のポイントは?

神様から私たちを引き離すために、サタンは偽物を使います。偽物の奇跡によって、パロは神様を信じませんでした。

けれども、その偽物は脆い模倣です。そして、私たちが騙されたら、滅びます。

例えば、神様は結婚の中でセックスを祝福として与えてくださいました。特別な方法で、男性と女性を結びます。肉体的にだけでなく、感情的にも、霊的にも結びます。

サタンは何を提供するでしょうか。ポルノ、売春、どこでも、誰とでも、いつでものセックス。

結果は何でしょうか。砕かれた心、壊れた結婚、傷ついた子供、中絶、性病、死。

神様の愛と受け入れと赦しによって、私たちは本当の愛を知ることができます。そして、神様の愛を知れば知るほど、他の人との関係も強くなります。

相手が、私たちが彼らを愛し、受け入れ、許していることを理解すれば、私たちの結婚や友情はさらに強められます。

そして、私たちは神様との関係と友情の中で安心することができます。なぜなら、私たちは受け入れられているからです。愛されているからです。

その一方、サタンが提供するのは条件付きの愛です。

「もし何かを受け取れば、この関係を続ける。だが、受け取らなければすぐに去ってしまう」という愛です。

その結果はどうなるでしょうか。関係は長続きしません。

そして、私たちは問いかけます。

「なぜ私はだめなのでしょうか。どうして、私の関係はいつもだめになってしまうのでしょうか。」

結局、私たちは落ち込み、絶望してしまいます。

神様はご自身との関係によって喜びを提供してくださいます。神様は永遠の方だから、その喜びも永遠に続きます。

サタンは何を提供するでしょうか。一時的な喜びです。お金、車、家、持ち物。

けれども、そのすべては一時的なものにすぎないので、その喜びもまた一時的です。そのため、私たちは空しくなり、いつも何かを求め続けますが、決して満足することはできません。

あなたは何を求めるでしょうか。本物か偽物でしょうか。

偽物を求めるなら、パロのように、あなたが持っていたものも、望んでいたこともすべて失ってしまいます。

しかし、本物を求めるなら、真の命を見いだすことができます。 イエス様はこう言われました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。

私が来たのは、羊が命を得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)

あなたは誰に従っているのでしょうか。

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出エジプト記

あなたに​従ったけど、どうなったか見てください。

モーセは、神様が何が起こるか言われなかったと言えませんでした。神様は「パロの心が固くなるよ。びっくりしないでください。」と言われていました。

それでも、モーセは文句を言っていました。

モーセとアロンはパロの前に行って、三日間の休みを頼みました。「私たちは神様にいけにえを捧げたいからです。」と言いました。

「イスラエル人を開放しなさい」とは言わず、「ちょっと旅行したいです」と言っただけです。

けれども、パロはこう答えました。

「主とは一体何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。あなたは怠け者なだけです。行け!働け!」

それに、パロは監督に命じました。

お前たちはレンガを作るわらをこれまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。

そしてこれまで作っていた量のレンガを作らせるのだ。それを減らしてはならない。(出エジプト記5:7ー8)

イスラエル人が文句を言っていたときに、パロは答えました。

「あなたのせいです。あなたは怠け者ですから。働け!」

だから、イスラエル人はモーセに文句を言って、もはやモーセの言葉を聞かなかったのです。

そして、モーセは神様に文句を言いました。

主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。

私がパロのところに行って、あなたの御名によって、語ってからこのかた、彼はこの民に害を与えています。

それなのにあなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません。(出エジプト記5:22ー23)

つまり、「私はあなたが言われた通りにしたんだけど、何が起こったか見てください。」

神様はもう一度、モーセにパロのところに行きなさいと言われたとき、モーセは答えました。

イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。

私は口下手なのです。(出エジプト記6:10)

神様はモーセが従ったら、全てがスムーズに行くことを約束されませんでした。神様は何が起こるか教えてくださっていました。

しかし、モーセは忘れてしまったため、うまくいかないと、すぐに諦めたくなりました。

私たちの人生が上手くいかないと、どれぐらい私たちはその態度を取るでしょうか。

時々、私たちは神様が言われた通りにしますが、大変な状態になります。そして、私たちは文句を言って、諦めたくなります。

私たちがクリスチャンになるときに、神様はスムーズな人生を約束されません。幸せで、トラブルがない人生を約束されません。

イエス様はこう言われました。

誠に、あなた方に告げます。私のために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てたもので、その百倍を受けない者はありません。

今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠の命を受けます。(ルカ10:29ー30)

多くの人は神様から良い物をいただくことが大好きです。しかし、神様が言われたのは、クリスチャンの人生には迫害が普通であるということです。

イエス様は言われました。

あなた方は世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)

イエス様は「患難があるかもしれない」とは言われませんでした。

「万が一、患難が来るかもしれない」とも言われませんでした。

「患難が絶対に来る」と言われました。

けれども、その後で、イエス様は言われました。

しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33b)

つまり、この世に、迫害と試練があっても、神様は私たちを助けてくださいます。

イエス様は私たちの一番大切な必要を十字架で満たしてくださったので、他の必要も満たしてくださいます。

ですから、神様に従うとき、あなたの道がいつもスムーズであるわけではないことを覚えていましょう。

神様が約束されたのは、もし神様に従うなら、その問題を乗り越えて、あなたが喜ぶことができるということです。

だから辛い時に、諦めないようにしましょう。神様に従う人にとっては、結局後悔がないのです。

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小さい事じゃない

この箇所について書くかどうかちょっと考えていました。少し難しい所ですし、この箇所を読んで、少し驚きました。

モーセがエジプトに向かう途中、突然、神様はモーセを殺そうとされました。どうしてでしょうか。

モーセは神様の命令に従わなかったからです。つまり、息子に割礼を行いませんでした。

そして、神様はそのことを軽く考えておられませんでした。モーセを殺そうと考えられたのです。なぜでしょうか。なぜそんなに大切な事だったのでしょうか。

実は、服従はいつもとても大切なのです。

誘惑が訪れる時、私たちはしばしばこう考えてしまいます。

「これは小さな罪だろう。別に構わないはずだ。神様はそんなに怒られないだろう。」

そして、その思いに引きずられて、私たちは誘惑に敗れてしまいます。

しかし、小さいという罪は全くありません。聖書に書いてあるのは「罪から来る報酬は死です。」ということです。(ローマ6:23)

「大きな罪から来る報酬は死である」とは書かれていません。

「すべての罪から来る報酬は死である」と書かれているのです。

私たちが小さいか大きいかと思うかどうかは関係ありません。

最初の罪、つまり、アダムとエバが禁断の木の実を食べたことについて考えたら、その罪はレイプや殺人ほど悪くないでしょう。

ところが、その罪の結果は死でした。その結果は神様から離れることでした。

その罪が原因で、イエス様は十字架で私たちの罪のために死んでくださったのです。

もし、私の罪が小さいと言ったら、イエス様の死を軽蔑することになります。

もし、罪が小さいことだったら、イエス様が死ぬ必要はなかったのです。しかし、イエス様が十字架で死んでくださらなかったら、私たちは神様から永遠に離れることになります。

モーセが学んだのは、小さい罪などないということです。すべての罪は重大なことです。

多分、神様は「息子に割礼をしなさい」と命じられたのでしょう。アブラハムとの契約の一部だったからです。それでも、モーセは割礼を行いませんでした。

理由は分かりませんが、細かい事だと思ったかもしれません。

あるいは、モーセの妻は割礼が嫌いだったかもしれません。彼女は息子に割礼を行ったとき、あまり嬉しくなかったようです。

とにかく、モーセが神様の命令に従わなかったため、神様はそれを真剣に扱われました。

あなたはどうでしょうか。

モーセのように神様の言葉を無視しますか。

罪を軽く見て、「神様は気にされないだろう」と思うでしょうか。

神様は、どの罪でも無視されないことを覚えておきましょう。すべての罪は重大なことです。

そう思わなければ、「神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵の御霊を侮る」 (へブル10:29)

私たちの人生の中の罪を無視することは、決して小さな事ではありません。

だからこそ、神様の御心にかなう態度を取りましょう。

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出エジプト記

心配している?それとも、言い訳を言っている?

神様がエジプトからイスラエル人を救い出すためにモーセを呼ばれた時に、モーセは従いたくなかったから、たくさんの言い訳を言いました。

「私は資格がないです。私は取るに足りない人です。それに、あなたは誰ですか?」

神様が答えられた後で、モーセにはもっと言い訳がありました。

「誰も信じてくれないです。」

それは良い言い訳だと思います。なぜなら、以前、誰もモーセのリーダーシップを受け入れていなかったからです。

それに、もし誰かがあなたの将来について「神様からのメッセージがある」と言ったら、あなたはどう思うでしょうか。信じるでしょうか。

だからこそ、神様はモーセにしるしを与えてくださったのです。

「信じてくれないなら、そのしるしを示しなさい。」と命じられました。

それでも、モーセは、まだ言い訳がありました。

私は言葉の人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く舌が重いのです。(出エジプト記4:10節)

ある人が思うのは、モーセはどもったということです。それとも、モーセはスピーチの障害があったと思います。

それが本当かどうか分かりません。ある可能性はモーセが人の前に立ったら、緊張し過ぎたかもしれません。

とにかく、神様はその言い訳を受け入れませんでした。

「モーセ。私はあなたを造った。あなたの長所も短所もすべて知っている。私はあなたの口を造った。だから、行きなさい。私はあなたの口と共にいて、あなたの語るべきことを教えよう。」

だから、モーセはやっと正直に言いました。

「神様。他の人を遣わしてください。」

つまり、「でも。。。行きたくありません。」

その時、神様は怒られました。

「分かった。あなたの兄アロンがあなたを助けるだろう。だが、この使命から逃れることはできない。アロンと共に行き、パロに面と向かいなさい。」

神様があなたに何かを委ねられる時、あなたはどのように応答するでしょうか。

「はい。行きます。」と答えるでしょうか。

それとも、「でも、神様…」と答えるでしょうか。

ある時、私たちは良い理由で心配しています。

けれども、ある時、その理由は言い訳だけです。つまり、私たちは信仰がないから、神様に従いたくないです。

神様がモーセにいろんなしるしを示してくださっても、励ましてくださっても、モーセは信仰を持っていなくて、全然やる気がありませんでした。

どうしてか分かりませんが、多分失敗を恐れていたかもしれません。以前、努力したのに、失敗しました。もう一回失敗してしまうと思ったかもしれないから、エジプトに行きたくなかったのです。

私は彼の気持ちを理解できます。信仰で歩むのは怖いです。私は失敗が大嫌いです。安全に進みたいです。

しかし、私たちのために神様が準備してくださったプランを知るために、私たちは神様に信頼して、その信仰の一歩を踏み出さなければなりません。

良いことに、私たちが一人でしなくていいです。神様は私たちと共に歩んでおられます。

それに、私たちの周りのクリスチャンがいます。アロンはモーセを励まして手伝ったように、周りのクリスチャンが私たちを励まし手伝ってくれるのです。

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神様は何者でしょうか。私たちは何者でしょうか。

モーセはイスラエル人を救い出すために、エジプトへ行くことを望みませんでした。数年前、イスラエル人を助けようとしましたが、彼は拒絶されました。それでも、神様は「エジプトに戻りなさい」と命じられたのです。

モーセが力あるエジプトの若い王子であった時に、もし神様が彼を呼ばれていたなら、多分モーセはためらわなかったでしょう。

ところが、呼ばれた時にはモーセはすでに80歳でした。彼の力と権威はとうの昔に失われ、若者の自信と大胆さもすでに消えていました。残されていたのは、砕かれた老人だけでした。

だから、モーセは言いました。

私はいったい何者なのでしょうか。 (出エジプト記3:11節)

「神様、私は取るに足りない者です。羊飼いにすぎません。力もありません。エジプトではもはや影響力を失いました。

それに、かつて自分の民を助けようとしたのに、彼らは私に背を向けました。だから、私はエジプトから逃げざるを得ませんでした。神様、果たしてこの私を遣わそうとしておられるのでしょうか。

神様の答えは興味深いでした。モーセの質問を無視して、答えられました。

私はあなたと共にいる。

これがあなたのための印である。私があなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出す時、あなた方は、この山で、神に仕えなければならない。(12節)

つまり、「あなたが何者か気にしないです。構わないです。大切なのは、私が何者かです。私はあなたと共にいるから、できます。」

どれほど神様が何かをしなさいと命じられる時に、私たちは「私はいったい何者なのでしょうか」と尋ねることでしょう。

「私は才能がありません。私は取るに足りない者です。」

しかし、神様は答えられます。

「あなたが何者か構わないです。私はあなたと共にいるからです。だから、私はあなたを助けてあげます。あなたはできます。」

時々、いったいどうして神様は私を日本に遣わされたかと思います。

宣教師として来ましたが、私は別に外向的な人ではありません。実は、私はかなりシャイです。知らない人に会うことが苦手です。スムーズに会話を続けることが苦手です。

それに、私の日本語もあまり上手ではありません。

だから、どうして神様が私を選ばれたのか、私には分かりません。

ただ一つ確かなのは、神様が私をここに遣わし、私と共にいてくださるということです。そして、私は神様の愛によって人々の人生に触れることができました。

とにかく、神様がモーセの最初の質問を無視されたので、モーセは次の質問をしました。

「あなたは誰でしょうか。イスラエル人のところに行く時に、誰が私を遣わしたかと言いましょうか。あなたの名前は何でしょうか。」

神様は答えられました。

私は「私はある。」という者である。

あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。

「私はあるという方が、私をあなた方のところに遣わされた。」と。(14節)。

それはどういうことでしょうか。

その意味は、「私は永遠の方である。私は初めから存在し、いつまでも存在し続ける。私は決して変わらない方である。だから、私はアブラハム、イサク、ヤコブに約束したことを果たし、私の民を救い出す。」

この話から、私たちは何を学べますか。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセと共に歩んでおられた神様が、今も私たちと共に歩んでくださることを確信できます。

彼ら四人が何度も失敗したのに、神様は彼らを諦められませんでした。同じように、神様は私たちをも決して諦めません。

神様が彼らに忠実であったように、私たちにも忠実でいてくださいます。たとえ私たちが罪を犯しても。たとえ私たちが失敗しても。私たちには弱さが多くありますが。

だから、もしあなたが自分を嫌い、「私はダメだ」と思う時には、神様がどのようなお方であるかを心に覚えておきましょう。神様の約束を心にしっかり留めておきましょう。

主ご自身がこう言われるのです。「私は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)

私たちは​失敗しても、罪を犯しても、神様が私たちを捨てません。

そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して、何ができましょう。」(ヘブル13:6)

神様がどうやって私たちを用いることができるかと思うのに、また、他の人の反応を恐れるのに、私たちは確信を持って、「神様は私と共におられ、私を助けてくださいます」と言えます。

イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも、同じです。(へブル13:8)

周りの人が変わっても、私たちの状況が変わっても、たとえ私たち自身が変わっても、イエス様は決して変わらず、いつも私たちに忠実でいてくださいます。

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神様はどこでしょうか

「神様はどこでしょうか。」

辛い時に、多くの人々はそう聞きます。

「神様!苦しんでいますよ。見ておられますか?聞いておられますか?あなたはどこですか?」

エジプトで、イスラエル人はそのように感じていたと思います。2章の最後に、次のように書かれています。

イスラエル人は労役にうめき、わめいた。(出エジプト記2:23節)

私の大学の宗教の授業で、教授はユダヤ人の大虐殺について話しました。教授が言われたのは、牢屋で、あるユダヤ人が壁に「神様はどこですか」と書いていたということです。

「神様はどこですか。私たちが苦しむ時に、どこにおられるのでしょうか。どうして、助けてくださらないのでしょうか。」

何年か前、私の妻の友人が自ら命を絶ちました。その時、妻はこう問いかけました。

「神様はどこにおられたのでしょうか。どうして、神様は彼を止めてくださらなかったのでしょうか。」

それは難しい疑問です。私は答えられません。私が言えるのは聖書の教えだけです。

イスラエル人について、次のように書かれています。

彼らの労役の叫びは神に届いた。。。

神はイスラエル人をご覧になった。神は御心を留められた。 (出エジプト記2:23,25)

そして、神様はモーセにこう言われました。

私は、エジプトに居る私の民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼の叫びを聞いた。

私は彼らの痛みを知っている。

私は下ってきたのは、彼らをエジプトの手から救い出す。。。ためだ。(出エジプト記3:7-8)

神様は私たちにも同じことを言われます。

「あなたの叫び声を聞いておられます。あなたの惨めさを見ておられます。だから、私はあなたを救い出すために来ました。」

この世界に私たちが見える悪は罪の結果です。

エジプト人の罪によって、イスラエル人は苦しみました。そして、ドイツ人の罪によって、ユダヤ人は苦しみました。

この世界の多くの苦しみは、人が人を傷つけることから来ます。また、多くの人が神様に背を向けて自分の道を行くから、苦しみが来ます。だから、多くの人は苦しんで叫びます。

しかし、神様は私たちの叫び声を聞いてくださいました。私たちの惨めさを見てくださいました。だから、人間としてこの世界に来られ、この罪深い世を癒すために、十字架で死なれました。

神様はどこですか。

神様はここにおられます。それだけではなくて、神様に信頼してイエス様を救い主として受け入れた人の中に住んでおられます。

だから、神様はモーセに言われたように、私たちにも言われます。

「今、行け。私はあなたをパロのもとに遣わそう。私の民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(出エジプト記3:10)

神様は奴隷の人生からイスラエル人を救い出すためにモーセをエジプトに遣わされました。そのように、神様は罪の鎖から人々を解放するために私たちを遣わされます。

だから、私たちは苦しんでいる人を見て、「神様はどこですか」と聞いたら、答えを忘れないでください。

神様はあなたの中に住んでおられます。だから、あなたは何をしますか。

あなたは、その苦しみを見るけど、何もしないでしょうか。

それとも、その人々にとって、あなたは神様の手と足になるでしょうか。

私たちは苦しむときに、神様があなたの中に住んでおられることを覚えておきましょう。あなたを捨てていません。

神様が約束されたのは、「私は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」ということです。(ヘブル13:5)

でも、神様が教会の兄弟たちと姉妹たちの中に住んでおられることを覚えておきましょう。あなたが苦しむときに、彼らがあなたに触れるための、神様の手と足と耳と口です。だから、彼らから逃げないようにしましょう。

私たちは苦しむときに、他の人から隠れることが簡単です。そして、一人で泣いて苦しみます。

けれども、それは神様の御心ではありません。

そのような場合のために、神様はその人をあなたの人生に与えてくださったのです。

だから、その兄弟たちと姉妹たちのところに行って、あなたの重荷を置きましょう。彼らの慰めを受けましょう。そして、彼らが苦しむときに、彼らを慰めてあげましょう。

パウロはこう書いていました。

「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」

神様はどこですか。

神様は私たちの中に住んでおられます。

だから、この世界に行って、人々にイエス様の愛で触れましょう。

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追放人

ヘブル人として、パロの宮殿で育ったモーセはどう感じていたでしょうか。

パロと他のエジプト人はモーセを完全に受け入れたでしょうか。それとも、モーセは本当のエジプト人ではなかったから、ちょっと汚名を着せられたでしょうか。

ヘブル人はモーセのことをどのぐらい知っていたでしょうか。モーセの背景を知っていたでしょうか。モーセがヘブル人だと知っていたでしょうか。

そう知っていたら、ヘブル人はどう感じたでしょうか。モーセを嫌っていましたか。なぜなら、彼らは奴隷なのに、モーセには楽な人生があったからです。

モーセは2つの文化に属していました。けれども、彼は本当に「私はエジプト人だ」と思っていたでしょうか、「私はヘブル人だ」と思っていたでしょうか。

ある日、モーセは選択しなければなりませんでした。

ヘブル人が働く時に、モーセは、あるエジプト人がヘブル人をいじめているのを見ました。

それを見たモーセは激しく怒りました。なぜでしょうか。

不正義だと思ったからでしょうか。

自分の民への忠義からでしょうか。

エジプト人がモーセを本当に受け入れていなかったからでしょうか。

私にはわかりません。いずれにせよ、モーセは突如として怒りに駆られ、エジプト人を殺してしまいました。

多分、そのあとで、モーセはヘブル人の皆が自分を受け入れるはずだと思ったのでしょう。ところが、すぐにそれは間違いだとわかりました。

次の日、二人のヘブル人が喧嘩して、モーセは止めさせようとしました。けれども、一人は言いました。

「あなたは私たちの裁判官でしょうか。あなたは私たちも殺すでしょうか。」

その瞬間に、モーセはヘブル人が彼の犯罪を知っていたけれど、パロから守るつもりがなかったということを理解しました。

もし、パロが何が起こったかを尋ねたら、皆は真実を言うでしょう。そして、パロは真実を知り、モーセを殺そうと思いました。

だから、二つの文化に属するモーセは、その二つの文化から追い出されました。

彼は砂漠をさまよい、ミデヤンに行き、イテロという人がモーセを家に迎え入れました。

イテロはモーセが困っていることを知っていたはずです。

「この人はエジプト人で、以前は高価で綺麗な服を着ていましたが、今はボロボロになってしまった。多分、彼は偉い人でしたが、今はすべてを失い、恐れているようです。なぜだろう。」

しかし、イテロはモーセの中に良いものを見ました。なぜなら、イテロの娘が困っているときに、モーセは助けてくれたからです。

だから、イテロはモーセを家に迎え入れました。

結局、モーセはイテロの娘と結婚し、息子ができました。彼はその息子をゲルショムと名付けました。その意味は寄留者です。なぜなら、「私は外国にいる寄留者だ」と言ったからです。

あなたもそう思うかもしれません。受け入れられないと思うかもしれません。誰もあなたを愛していないと思うかもしれません。だから、この世界で、寂しくて、拒絶されて、さまよいます。

けれども、イテロがモーセの中に良いことを見て、家に迎え入れたように、神様はあなたのためにそうしてくださいます。

拒絶されても、本当に受け入れられていないと思うのに、神様はあなたの中に良いことを見られます。神様はあなたを造られたからです。

あなたが自分がダメだと思うかもしれませんが、神様はあなたのことを信じ、あなたのポテンシャルを知っておられます。もし、神様を求めたら、あなたの人生を変えてくださいます。

ヨハネ1:12に書いてあるのは、

イエス様を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。

あなたは疲れたでしょうか。寂しいでしょうか。拒絶されたでしょうか。

あなたを創造し、愛しておられる神様を求めてください。

あなたが誰であっても、たとえどんなに失敗しても、悪を行ってしまっても、神様はあなたを歓迎してくださいます。

イエスはこう言われました。

私の所に来る者を私は決して捨てません。(ヨハネ6:37)

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神様のユーモア

神様の冗談?

時々、人々は、神様がユーモアの感覚を持っておられるかどうかと思います。

あるコメディアンは答えました。

「もちろん神様はユーモアの感覚を持っておられる。カモノハシを見たことがありますか。それは冗談かミスです。しかし、神様はミスをされない。」

私はカモノハシが神様の冗談かどうか分かりませんが、神様はユーモアの感覚を持っておられると思います。

2章で、神様のユーモアがはっきり見えると思います。

パロはすべてのヘブル人の赤ちゃんを殺すように命じました。けれども、ある日、パロの娘が帰ってきて、「ただいま!」と言いました。

そしてパロの頬にキスして、「私が見つけたものは何だと思いますか?」と言いました。

「何?」

「川に入ったときに、カゴを見ました。それを開けたら、すごく可愛い男の子がいました。」

「え?男の子?カゴに?川で?」

「そうです。ヘブル人の赤ちゃんです。私は養子にします。」

パロの宮殿で、どんな混乱があったか、想像できますか。

「絶対ダメです。すべてのヘブル人の男の子が殺されるように命じました。その赤ちゃんをこちらに連れてきなさい。今すぐ殺します。」

「お父様はひどいです!赤ちゃんはとてもかわいくて、無力です。その赤ちゃんが欲しいのです。ある女の人にその赤ちゃんを世話するためにお金を払います。モーセはいい名前でしょう。」

「分かった。分かった。一人のヘブル人は別に構わないでしょう。」

パロは、後で、びっくりしたでしょうね。:)

神様はパロの家にヘブル人を救い出す人を連れて来られました。パロの息子として、訓練と教育を受けました。そして、その勉強したことでイスラエルの民をリードしました。

私は神様の考え方を想像できます。

「私の民を奴隷にするのでしょうか。そして、ヘブル人の男の子を殺すのでしょうか。私はどうしようかなあ。そうですねえ。ああ、分かりました。パロの娘は川のそばにいます。完璧。じゃあ、このカゴをちょっと右のほうに押したら…」

パロの娘がお父さんにこの話をしたときに、私は神様の笑いを想像できます。

神様がユーモアの感覚を持っておられること以外に、私たちは何を学べますか。

私たちの人生はどんなにひどくても、神様は支配しておられます。

モーセの両親は必死でした。自分の息子をパロの命令から守りたかった。三ヶ月ぐらいモーセを隠していましたが、結局、隠すのが無理になりました。

だから、祈りながら、川の上にモーセを送りました。しかし、神様はその状態を見て、その祈りに答えてくださり、彼らの圧制者と戦ってくださいました。

あなたはどうですか。大変な状態にありますか。希望がないと思いますか。

どんな状態にあっても、神様は支配しておられることを覚えておきましょう。もし、神様に向かうなら、必ず助けてくださいます。

第一コリント10:13に書いてあるように、

あなた方の会った試練はみな人の知らないようなものではありません。

神は真実な方ですから、あなた方を耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。

むしろ、耐えることのできるように、試練と共に、脱出の道を備えて下さいます。

あなたはどんな試練に直面しても、神様があなたに耐えられないような試練に会わせることはありません。

神様はあなたを一人で立たせることはなく、むしろ、脱出の道をすでに備えてくださいます。

もし、あなたが神様を求めるなら、その道を見つけることができます。

けれども、あなたは神様を求めているのですか。

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誰を恐れていますか

モーセはこの箇所を書きながら、思わず笑みを浮かべていたのではないでしょうか。特に、ヘブル人の助産婦シフラとプアの話です。

エジプトで最も権威のある者、パロは、その二人にヘブル人の男の子を殺すよう命じました。

けれども、この助産婦たちがその命令に従わなかったと聞いたとき、パロは彼女たちを呼び寄せました。

そして言いました。「どうして、私の命令に従わなかったのか。」

そして、その二人は真剣な顔で答えました。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前にすでに産んでしまうのです。」

私はその場面を思い描くことができます。パロはこれを聞いて、「ああ、なるほど。知らなかった。初めてそんなことを聞いた。活力なのか。なるほど。」と言ったかもしれません。

どうして、この二人はパロに敵対する勇気があったのか。その二人は神様をパロより恐れていたからです。

17節にこう書いてあります。

しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じた通りにはせず男の子を生かしておきました。

そして、神様はその二人を祝福してくださったのです。

20-21節によれば、

神はこの助産婦たちに良くしてくださった。それで、イスラエルの民は増え、非常に強くなった。助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。

あなたは誰を恐れていますか。あなたにとって、一番尊敬する人は誰ですか。神様でしょうか。それとも、別の人でしょうか。

時々、私たちは人々の反応を恐れるので、神様との関係に影響を及ぼします。

私の友だちはずっとバプテスマを受けるのを伸ばしていました。なぜなら、彼女のご両親の反応を恐れていたからです。

もう一人の友だちはクリスチャンになることをずっと伸ばしていました。なぜなら、ご主人の反応を恐れていたからです。

しかし、その二人が神様を、ご主人やご両親以上にうやまったなら、神様は彼女たちを祝福してくださるでしょう。

もし、神様を他の人々より恐れたら、トラブルが全然起こらないと言っているのではありません。

その選択をして、ある人はあなたに対して怒るかもしれません。

ある友だちは、仕事よりも神様を大切にしたため、同僚が本当に怒りました。もっと残業をしてほしいと言われましたが、彼は拒みました。神様が彼に別の働きを命じておられたからです。

結局、彼はその会社をやめました。けれども、神様はその選択を喜ばれると思います。

神様はイザヤに言われました。

まことに主は強い御手を持って私を捕らえ、私にこう仰せられた。この民の道に歩まないよう、私を戒めて仰せられた。

「この民の恐れるものを恐れるな。おののく な。万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなた方のおののきとせよ。そうすれば、この方が聖所となられる。」(イザヤ8:11ー14)

神様はあなたにとって聖所となられます。状態が辛くて、皆があなたに反対するときに、主に走ることができます。

しかし、神様は私たちに注意されます。「この世の道を歩んではなりません。」

むしろ、私たちは神様を恐れて、従うべきです。

そうすれば、神様はその助産婦を祝福してくださったように、あなたも祝福してくださいます。

あなたは誰を恐れているのでしょうか。

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本当に赦された

ヨセフの人生には涙を流す理由が数多くありました。

エジプトの奴隷として売られた時。

レイプの濡れ衣を着せられて監獄に入れられた時。

兄たちが初めてエジプトに来て、ヨセフが過去に直面した時。

久しぶりにベニヤミンに会った時、

そして、ヤコブに会った時。

そして、ヤコブが亡くなった時。

とはいえ、ヨセフにとって最も心が辛かった涙は、その後に流れたのかもしれません。

ヤコブが亡くなった後、ヨセフの兄たちは彼にメッセージを送りました。

「何年も前、私たちはあなたに対して罪を犯しました。けれども、亡くなる前に、お父さんは『兄たちを許してください』と言っていました」と。

ヨセフは、その言葉を聞いて泣きました。

なぜでしょうか?

おそらく、ヨセフが何年も前に兄たちを許していたにもかかわらず、彼らがまだ罪悪感を抱き、ヨセフとの間に壁を感じていたからです。

そして、ヨセフが兄たちを呼ぶと、彼らはこう言いました。

「私たちはあなたの奴隷です。」

しかし、ヨセフは彼らを床から起こしてこう言いました。

「そんなことをしなくてもいいのです。どうしてそのように振る舞うのですか。私は、もうすでにあなたたちを許しました。私は神様ではないし、あなたの裁判官でもありません。私はあなたたちの弟です。

だから、立ってください。恐れないでください。私はお兄さんたちの面倒を見ます。」

私たちが罪悪感を抱いている時、神様はヨセフのように涙を流されるのでしょうか。

私たちが神様を恐れ、神様に近づくことをためらい、神様が私たちを罰すると思っている時、神様は泣かれるのでしょうか。

神様が私たちをすでに赦し、養子として受け入れてくださったのに、私たちがまだ恐れて神様の足元にひれ伏している時、神様は泣かれるのでしょうか。

ヨセフとは異なり、神様は私たちの裁判官であられます。しかし、イエス様の十字架の働きによって、神様は私たちを裁かれません。

むしろ、神様は私たちを起こして立たせてこう言われます。

「どうしてそんなに恐れているのですか。私はもうあなたを赦しました。私のひとり子はあなたの罪のためにすでに代価を払いました。私はあなたを裁かない。あなたは私の子供です。

だから、立って、恐れないでください。私はあなたを世話します。」

あなたの過去のことで、まだ罪悪感を感じているでしょうか。

罪悪感によって神様に近づくことをためらっているでしょうか。

ヨセフが兄たちを許したように、神様はあなたを赦してくださいました。そして、神様はあなたを受け入れてくださいます。

だからこそ、恐れずに神様に近づきましょう。

こういう訳ですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。

イエスはご自身の肉体という垂れ幕を通して、私達のためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

また、私達には神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心を清められ、体を清い水で洗われたのですから、真ったき信仰を持って、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10:19ー22)

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創世記

どうやって祝福を失うのか

創世記において「祝福」という言葉は非常に重要です。この言葉は60回も記されており、通常は父親が息子たちを祝福するか、神様が人を祝福する場面で登場します。

ですから、創世記の最後に長い祝福の記述があるのは、とてもふさわしいことだと言えるでしょう。この場面では、ヤコブが息子たちを祝福しています。

けれども、この箇所で特に目を引くのは、ヤコブが与えなかった祝福です。ヤコブはルベンとシメオン、そしてレビを祝福しませんでした。なぜでしょうか。

ルベンは父のそばめ(身の回りの世話をする召使い)と関係を持ったことで、祝福を失いました。

ラケルが子どもを持てなかった時、彼女は自分のはしため(身分の低い女性)をヤコブに与え、子どもを持つ手段としました。

皮肉なことに、ルベンは長男としての自分の立場を強めようとして、このそばめと関係を持ったのです。

この習慣は現代では理解し難いものですが、その時代の習慣の一つだったのでしょう。実際、ダビデの息子アドニヤもソロモンの立場を奪おうとし、そのようなことを試みました(1列王記2:13ー25)。

けれども、ヤコブが生きている間にこのことをしたために、ルベンは祝福を失ったのです。

シメオンとレビは、シェケムの事件によって祝福を失いました。

シェケムがヤコブの娘をレイプした際、シメオンとレビは復讐のため、その都市の全ての男性を殺害しました。

このため、ヤコブは「彼らの仲間に加わらない。彼らの集いに連ならない」と言い、二人を祝福しなかったのです。

これらのことから何を学べるでしょうか。

神様から祝福を受けることについて、私たちの行動は非常に重要です。

私たちの救いは神様の恵みによって与えられますが、もし神様からの祝福を受けたいのであれば、私たちの行動が神様にとって大切なのです。

では、私たちはどのように行動すべきなのでしょうか。

1.神様の祝福を受けたいなら、神様の道を歩まなくてはなりません。自分の道を進んではいけません。

ルベンは必死に祝福を受けたいと思いながらも、神様の道を歩まず、自分の道を選びました。その結果、求めていた祝福を失ってしまいました。

同じように、多くのカップルは神様の道を歩まず、自分の道を選んでしまうために、結婚がうまくいかなくなってしまうことがあります。

多くの人は神様の道を歩まず、自分の道を選ぶため、人間関係が壊れてしまいます。

両親たちが神様の道を歩まず、自分の道を選ぶことで、子育ては非常に困難になります。

また、多くの人々が神様の道を歩まず、自分の道を選んだ結果、経済的な問題を抱えることになります。

どれほど私たちが神様の祝福を祈り求めたとしても、神様の道を歩まないのであれば、それは無駄になります。

神様の御言葉に従うことを拒否したまま、神様の祝福を祈ることはできません。私たちは神様に従わなくてはならないのです。

2.私たちが罪の生活を続けるならば、神様は私たちとの交わりを拒否されます。そして、神様は祝福の手を私たちから取り除かれるのです。

ヤコブはこう語りました。

彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らの集いに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。(創世記49:5ー6)

私の意見ですが、ヤコブがシメオンとレビを祝福しなかった理由の一つは、彼らが全く悔い改めなかったことだと思います。それどころか、彼らは自分たちの行動を正当化しようとしました(創世記34:31)。

私たちは自分の罪を正当化して悔い改めないまま、神様の祝福を期待することはできません。

神様は聖なる方です。ですから、もしあなたが自分の罪を後悔せず、それを続けるならば、神様はあなたとの交わりを拒まれるのです。

ここで明確にしておきたいことがあります。もしあなたが罪と戦っているならば、私はそれでも神様があなたを祝福しないと言っているわけではありません。私たちは皆、何らかの罪と戦っています。

しかし、もしあなたが罪を犯した後で全く後悔しないのであれば、神様はあなたを祝福されないのです。

では、私たちは救いさえも失ってしまうのでしょうか。神様は私たちを見捨てられるのでしょうか。

いいえ、そうではありません。

とはいえ、神様は祝福の手を取り除き、サタンがあなたを攻撃することを許されるのです。

それはなぜでしょうか。

それは神様があなたを嫌われているからではありません。そうではなく、神様があなたを祝福したいからです。

第一コリント5:5で、パウロはこの原則を教えています。ある人がひどい罪を犯しながらも全く後悔しなかったため、パウロはこう言いました。

このような者をサタンに引き渡しました。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。

神様はあなたを祝福したいと望んでおられます。それは、あなたを通して他の人をも祝福したいと望んでおられるからです。

しかし、私たちが自分の道を行き続けるならば、その祝福を受けることはできません。

さて、あなた自身はどうでしょうか。

あなたは神様があなたを祝福できる状態にありますか。

神様に従っていますか。

神様の前で、あなたの心を清く保っていますか。

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創世記

神様の祝福、神様の御心

ヨセフと父ヤコブの会話は、非常に興味深い内容です。

ヤコブは死が近づいていたため、ヨセフとその息子たちを祝福するために呼び寄せました。

ヤコブは視力がほとんど失われていたので、ヨセフは長男のマナセをヤコブの右側に、次男のエフライムをヤコブの左側に立たせました。

というのも、その時代の習慣では、右側に立つ者は左側に立つ者よりも尊敬されていたからです。

ヨセフはヤコブがマナセにより大きな祝福を与えることを望んでいました。けれども、ヤコブはヨセフの期待通りにはしませんでした。

ヤコブは手を交差させて、右手をエフライムの頭に置き、左手をマナセの頭に置きました。そしてヤコブは二人を祝福しましたが、最大の祝福をエフライムに与えました。

ヨセフはその様子を見て怒り、こう言いました。

「いや、お父さん、それではいけません。もっと大きな祝福をマナセに与えてください。」

けれども、ヤコブはこう答えました。

「いや、分かっている。マナセも一つの民となり、大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」

こうして、ヤコブはその二人を祝福しました。

これは、少し皮肉な状況でした。ヤコブは自分の人生を振り返ったのかもしれません。

というのも、神様はかつてヤコブの母リベカに、「次男のヤコブは長男のエサウよりも大いなる者となる」と告げました。

けれども、それはイサクの願いに反するものでした。

そして今、ヤコブ自身がヨセフに同じようなことを語っているのです。

この物語から、神様の御心と祝福について、私たちは二つのことを学ぶことができると思います。

一つ目は、神様の祝福において、私たちの地位や立場は重要ではないということです。他の人が私たちをどう評価するかも関係ありません。

ヨセフの家族では、マナセは長男としてより高く評価されていました。けれども、神様は別の計画を持っておられました。神様の御心によって、エフライムが大いなる者となったのです。

あなたも、自分が特別な人間ではないと思い、自分自身を見下してしまうことがあるかもしれません。

あなたは自分について、このように思っているかもしれません。

「私は特別な才能がない。」

「私は特別な人間じゃない。」

「マクドナルドで働いているだけだ。」

「私は主婦にすぎない。」

「私は普通の会社員にすぎない。」

そして、「どうして神様が私のような人を祝福したいと思うだろう」と考えることもあるでしょう。

幼い頃、ご両親が兄弟や姉妹と比較して、いつもあなたの方が劣っていると言ったことがあるかもしれません。

「どうしてあなたは兄のようにスポーツができないの?」

「どうして姉のように賢くないの?」

学校に行ったとき、あなたはあまり人気者ではなく、今でもあまり友達がいないかもしれません。

しかし、神様はそのようなことを気にされません。

神様は他の人があなたをどう評価しているかを気にされません。

神様はあなたの地位や立場を気にされません。

神様はあなたを深く愛しておられ、あなたを祝福したいと望んでおられます。

イエス様は神の国について、こう語られました。

今しんがりの者が後で先頭になり、今先頭の者がしんがりになるどのです。(ルカ13:30)

イエス様がユダヤ人と話された時、その言葉を語られました。ユダヤ人は、神様の選ばれた民族として、特別な立場にあると思っていました。

けれども、イエス様が語られたのは、神の国が来る時には全世界から人々が集まるということでした。

ユダヤ人だけではなく、ユダヤ人が見下していた人々にも神様の栄誉が与えられるのです。そしてユダヤ人自身が、神様によって低くされるのです。

もっと広い視点で見ると、現在低い立場に置かれ、見下されている人々も、後に祝福され、高く上げられるでしょう。

ですから、あなたの地位や才能、他の人があなたをどう評価するかによって、神様の祝福を受けられないと思わないでください。

イエス様に従い、神様のために生きるなら、神様はあなたに祝福を注いでくださいます。

神様の御心について考える時、私たちは一つの重要なポイントを学ぶことができます。それは、神様の御心が私たちの心と時に異なるということです。

ヨセフは自分の息子たちのために計画を持っていました。イサクも自分の息子たちのために計画を持っていました。イサクとヨセフは、長男がより高い立場を得ることを望んでいました。

ところが、それは神様の計画ではありませんでした。

私たちはしばしばヨセフのように反応します。ヤコブが自分のプランを示した時、ヨセフは「それはダメです。お父さん、間違っています。このようにしてください。」と言いました。

けれども、ヤコブは「いや、そうはしない。私には別の計画がある。」と言いました。

このように、私たちには自分の計画がありますが、神様はしばしば違うことをされます。そして私たちは、「いや、神様、それは間違っています。このようにしてください。」と言ってしまいます。

しかし、神様はこう言われます。

人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。(箴言16:9)

私たちは神様と戦い、自分の道を進もうとすることができます。または、神様に信頼し、神様の道を歩むことができます。けれども、神様に従うならば、私たちは祝福を見つけることができます。

ずっと、私は神様が私を日本に導いてくださることを知っていましたが、それに抗っていました。しかし、神様に従った時、神様は私を祝福してくださいました。

あなたは神様の祝福を求めているでしょうか。

他の人があなたをどう見るかは関係ありません。

あなたの地位や立場も関係ありません。

神様はあなたを深く愛しておられ、あなたを祝福したいと望んでおられます。

とはいえ、神様の御心は時に私たちの心と異なることを忘れないでください。そして、もし神様の祝福を望むなら、神様を信頼し、従うべきです。

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買い取られた

「私の人生だよ。」

「私の体だよ。私がしたいことをする権利がある。」

ある人々は、自分の罪を正当化しようとする時に、このような言葉をしばしば口にします。けれども、それは本当に正しいのでしょうか。

エジプト人は飢饉によって苦しみ、全地が衰え果てていました。飢饉の厳しさの中で、彼らはヨセフに向かって「助けてください」と叫びました。

そこでヨセフは穀物を売り、彼らの切実な要求に応えました。しかし、人々のお金が尽きると、次に家畜を差し出して穀物を買いました。

それでも飢饉が続き、すぐに家畜を売り尽くしてしまいました。飢饉が終わらないと思われ、人々は絶望に陥り、ついにこう言いました。

私たちはあなた様に何も隠しません。

私たちの銀も尽き、家畜の群れもあなた様のものになったので、私たちの体と農地のほかには、あなた様の前に何も残っていません。

私たちはどうして農地と一緒にあなた様の前で死んで良いでしょう。

食物と引換に私たちと私たちの農地とを買い取ってください。私たちは農地と一 緒にパロの奴隷となりましょう。

どうか種をください。そうすれば私たちは生きて、死なないでしょう。そして、土地も荒れないでしょう。(創世記47:18ー19)

だから、エジプト人は皆、パロのものになったのです。彼らの土地も、彼らの人生もパロのものとなりました。けれども、その結果、彼らは飢饉から救い出されたのです。

同じように、私たちも罪のために朽ち果てていました。エジプト人と同じく、私たちには自分自身を救う術がありませんでした。

多くの人々は神様の好意を得ようとしましたが、結局、どれだけ努力しても、私たちの支払いでは十分ではありませんでした。私たちの罪があまりにも多かったからです。

そこで、神様は私たちのために行動してくださいました。ローマ書5:6にはこう記されています。

私たちはまだ弱かったとき、キリストは定められたときに、不敬虔な者のために、死んで下さいました。

どうしてイエス様は私たちのために死んでくださったのでしょうか。

それは、私たちの罪のために罰を受けてくださったからです。その死を通して、神様はご自身の民として私たちを買い取ってくださいました。

黙示録5:9には、イエス様について次のように記されています。

あなたは、巻物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖いました。

また、第一ペテロ1:18―19にはこう記されています。

ご承知のように、あなた方が先祖から伝わった虚しい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちるものにはよらず、傷ももなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

だから、私たちにとって、それはどういう意味を持つのでしょうか。

答えは第一コリント6:19―20に記されています。

あなた方は、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

あなた方は、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分の体を持って、神の栄光を現しなさい。

つまり、クリスチャンはもはや「私の体だ」とか「私の人生だ」とか「何をしたいことをする権利がある」と言うことはできません。

私たちはクリスチャンになった時、神様がイエス様の血によって私たちを買い取ってくださいました。そのため、私たちは自分自身のものではなく、神様のものとなったのです。

あなたはどのように生きていますか。自分自身のものとして生きていますか。お金や時間、そして人生を自分自身のもののように扱っていませんか。

あなたの人生は自分自身のものではありません。あなたの時間も、お金も、自分自身のものではないのです。

あなたは代価を払って買い取られたのです。ですから、その事実にふさわしい生き方をしましょう。

私たちは声を上げます。
私たちは手を伸ばします。
私たちは自分の人生を
あなたに捧げます。
私たちは供え物です。

主よ、どうか私たちの声を用いてください。
私たちの手を用いてください。
私たちの人生を用いてください。
私たちは供え物です。

私のすべての持ち物、
私たちの全存在、
そして私たちの希望を、
あなたに捧げます。
私たちは供え物です。

ーークリス・クリスチャン

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創世記

この世から離れても、この世の人に触れること

創世記には、とても興味深い場面があります。年老いたヤコブが、強大な国の最も力ある者であるパロの前に立っていました。

もしあなたがそのような状況にいたら、どうするでしょうか。例えば、アメリカ大統領の前に立ち、たくさんのカメラマンとシークレットサービスに囲まれていたら、何を言うでしょうか。

かつての詐欺師ヤコブは、試練の年月によって疲れ果てていました。若い頃はうぬぼれがちでしたが、年老いた今は謙虚になりました。

では、そのヤコブは何をしたでしょうか。

彼はパロを祝福しました。それも一度だけではなく、二度祝福しました。

パロはその時、何を感じたのでしょうか。ヤコブを見下したでしょうか。

彼は、「どうして、この羊飼いが、この国の最も力のある者に祝福しようとしているのだろう」と思ったのでしょうか。

それとも、その祝福に込められた重みを感じたでしょうか。もしかすると、生ける神がこのヤコブに触れられた結果、今この場所に神の臨在を感じられるのではないか、と思ったかもしれません。

パロがどう感じたのか、正確には分かりません。

しかし、以前にもお伝えしたように、私たちは周りの人々に触れるべきです。

彼らが私たちを見た時、私たちの中にキリストを見るはずです。また、私たちが彼らに触れた時、彼らはキリストの手を感じるはずです。

けれども、この世の人々に触れていかなければならない一方で、私たちはこの世から離れるべきでもあります。

つまり、この世界にキリストのための影響を与えるべきですが、私たち自身がこの世界から影響を受けないよう注意しなければなりません。

ヨセフの家族がエジプトに引っ越したとき、ヨセフはそのことを考えていたのではないでしょうか。ヨセフはエジプトに影響を与えましたが、エジプト人は神様に仕える者ではありませんでした。

アブラハムの家族がカナンの地に入る前、周囲の人々の影響を受けて他の神々に仕えるようになってしまったように、ヨセフもまた、エジプト人が自分の家族に悪い影響を与えるかもしれないと考えていたのかもしれません。

そこでヨセフは父と兄たちにこう言いました。

「私たちは羊飼いだと言いなさい。なぜならば、エジプト人は羊飼いを見下すからです。それによって、エジプト人と少し距離を置くことができます。」

この世から離れつつ、世の人々に触れることは、バランスを取るのが非常に難しいことです。

もし完全に離れ、クリスチャンだけと過ごすなら、イエス様を知らない人々に影響を与える機会が失われてしまいます。

けれども、もし神様を知らない人々だけと過ごすなら、彼らの価値観や考え方から悪影響を受ける可能性があります。

どちらの極端も避けるべきです。

私はバランスを崩すと、たいていクリスチャンだけと時間を過ごしすぎる傾向があります。というのも、クリスチャンと過ごすことは安心でき、楽だからです。私たちが同じ価値観や考え方を共有しているからです。

しかし、神様は私たちがこの世の人々を祝福することを望んでおられます。そのためには、神様をまだ知らない人々と時間を過ごさなければ、それを実現することはできません。

あなたの場合はどうでしょうか。

バランスは取れていますか。

それとも、バランスを失っているでしょうか。

クリスチャンとの時間が多すぎて、この世の人々に触れる機会を失っていないでしょうか。

それとも、この世の人々に触れすぎて、彼らの価値観や考え方に影響を受けていないでしょうか。

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創世記

苦しむときになんで神様は沈黙しているか

聖書には、神様の民の苦しみについて数多くの物語があります。とはいえ、ヤコブほど苦しんだ人はいないと思います。

もちろん、ヨブの苦しみはもっと強烈だったかもしれません。けれども、その苦しみの期間はもっと短かったように感じます。(私の印象であり、間違っているかもしれませんが。)

多くの預言者たちは迫害を受けました。神様の言葉を伝えるために、多くの預言者が命を失いました。けれども、神様は沈黙しておられませんでした。神様は預言者たちと頻繁に対話されていました。

しかし、ヤコブの場合はまったく異なります。

創世記46章を読んで、一つ心に残ることがあります。神様はヤコブにこう言われました。

「私自身があなたと一緒にエジプトに下り、また、私自身が必ずあなたを再び導き上げる。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」

これは確かに心強い言葉です。

けれども、それ以前の20年間、神様はどこにおられたのでしょうか。

その20年間、神様からの慰めの言葉はどこにあったのでしょうか。

なぜ、「ヨセフはまだ生きている」と知らせなかったのでしょうか。

ヨセフが奴隷として売られ、エジプトの支配者になるまで13年が経ちました。

そして、エジプトに7年間の大豊作がありました。

その後、飢饉が始まり、さらに2年が過ぎた頃、ヨセフの兄たちはエジプトに行き、ヨセフが自分のことを明かしました。

それからやっと、ヤコブはヨセフがまだ生きていることを知りました。

なぜ神様はこの期間、一言も言ってくださらなかったのでしょうか

ヤコブは息子たちに騙され、ヨセフが死んだと思い込み、慰めを拒んで泣き苦しみ続けていました。彼はこう言いました。

「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。」(創世記37:35)

何年経っても、その痛みが癒えることはありませんでした。そして20年後、その悲劇はヤコブの決断に大きな影響を与えました。

ベニヤミン(ヤコブが愛していた妻ラケルの最後に残った息子)を兄弟たちとともにエジプトに送ることを拒んだのです。なぜなら、彼も死ぬかもしれないと考えたからです。

そして、兄弟たちが「ベニヤミンはエジプトに行かなくてはならない」と言った際、ヤコブはこう答えました。

「私の子は、あなた方と一緒に行かせない。彼の兄は死に、彼だけが残っているのだから。あなた方の行く道中で、もし彼に災いがふりかかれば、あなた方は、この白髪頭の私を悲しみながらよみに下せることになるのだ。」(創世記42:38)

状況がさらに悪化してどうしようもなくなったとき、ヤコブはついにベニヤミンをエジプトに送る許可を与えました。そして、こう言いました。

「私も失うときには、失うのだ。」(創世記43:14)

それでも、神様はこの間、一言も言ってくださいませんでした。

苦しむ時、困難であっても、私たちは神様の臨在を感じることがあります。

神様が近くにおられるという感覚を持ち、神様の慰めを経験します。さらには神様の声を聞くこともあります。

そのため、苦しみの中でも、私たちの試練は耐えられるものとなるのです。

けれども、ある時には、神様が沈黙しているように感じることがあります。祈りが天井に届かず、問いかけても答えが来ないのです。そして、神様が非常に遠く感じられることもあります。

ヤコブは20年間、そのような苦しみを経験しました。

それでも、ヤコブには見えなかったものがありました。実際には神様は働いておられたのです。

ヤコブには見えなかったのですが、神様はヤコブとその家族を救う計画を持っていました。神様は沈黙しておられるように見えても、ヤコブへの愛を持ち続けておられました。

その20年間、神様はヤコブの家族の中で働いておられました。

ヨセフの中でも働いておられました。

ヨセフの兄弟たちの中でも働いておられました。

さらにヤコブの中でも働いておられました。ただヤコブはその事実を見ることができなかったのです。

しかし、それを見ることができた時、その何十年もの悲しみは重荷のように取り除かれ、再び喜びを味わうことができました。

あなたは今、苦しんでいるかもしれません。そして、神様が遠く感じられるかもしれません。神様があなたを愛していないのではないかと思うかもしれません。神様があなたを捨てたと思うかもしれません。

けれども、神様はヤコブを捨てられませんでした。同じように、神様はあなたをも決して捨てていません。

神様は今も働いておられます。神様は今もあなたの叫びを聞いておられます。そして、神様はあなたのために計画を持ち続けておられます。

ですから、どうか神様にしがみついてください。

一ヶ月かかるかもしれません。一年間かかるかもしれません。二十年間かかるかもしれません。あるいは、一日だけかもしれません。

それでも、もう一度、あなたの人生における神様の働きを見ることができる時が必ず来るでしょう。だからこそ、どうか諦めないでください。

パウロはこう書いています。

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。

それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ 5:3ー5)

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許し

この箇所を読みながら、もう一度聖書の登場人物の心に触れたいと思います。特に、ヨセフの心です。

ヨセフは兄たちを逮捕し、脅し、解放し、兄たちの袋の中に銀を入れ、ベニヤミンを盗みの罪で責め、そして自分が誰であるかを明かしたとき、何を考えていたのでしょうか。

兄たちがエジプトに到着するまでに、ヨセフは兄たちへの怒りと苦い感情を完全に解決していたのでしょうか。それともまだ、自分の感情と戦い続けていたのでしょうか。

兄たちが本当に変わったかどうか試したかったのでしょうか。それともただ、自分が経験した苦しみと同じように兄たちを苦しませて復讐したかったのでしょうか。

正確な答えは私には分かりません。

時々、ヨセフはすでに許していたと思えることもあります。

けれども時々、まだ許していなかったとも思えます。

それでも、ヨセフがどう感じていたとしても、私たちは許しについて多くのことを学ぶことができると思います。

1.許しは、相手があなたに何をしたかを無視することではありません。また、相手があなたに何をしたかを否定することでもありません。

ヨセフはこうはっきりと言いました。

「私はヨセフです。知っているでしょう?あなたがたは私を奴隷として売りました。私に対して罪を犯しました。」

時々、人々は痛みを避けるために、傷つけられたことを否定します。

しかし、痛みを癒すためには、それを無視せず、認める必要があります。その傷を認めるまでは、あなたを傷つけた人と和解することはできません。

ヨセフはそれを行いました。

2.許しとは、相手に「あなたは私に何も負っていない」と伝えることです。

ヨセフは兄たちにこう言いました。

今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。(創世記45:5)

多くの場合、私たちは相手が自分を責めることを望みます。相手に罪悪感を抱いてほしいと思うことがあります。

けれども、ヨセフはこう言いました。

「私はもはやあなたを許しました。どうか自分を責めないでください。私はあなたを責めていないからです。」

3.許しとは、過去を手放し、未来を受け入れることです。

ヨセフは兄たちの行動がどんなに悪かったかを考え続けることはしませんでした。むしろ、神がこの状況を通して家族を救われたことを指摘しました。ヨセフはこう言いました。

神は命を救うために、あなたがたより先に私を遣わしてくださったのです。

この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることも ないでしょう。それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。

それは、あなたがたのために残りのものをこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。 (創世記45:5-7)

神様は私たち一人一人のために計画を持っています。そして、私たちを通して人々に触れることを望んでおられます。

けれども、許せない態度は鎖のようなものです。私たちはその鎖によって過去に縛られます。過去に縛られると、神様が私たちのために準備された未来に進むことができません。

だからこそ、未来に進み、神様の祝福を見つけるためには、過去を手放さなければなりません。

ある人はこう言いました。

許したら囚人を解放する。しかし、そのとき分かるのは、その解放した囚人が自分自身であることです。

それでも、許しは無謀に危険な状況に飛び込むことを意味するわけではありません。

相手が謝っても謝らなくても、神様は「許しなさい」と言われます。許さないと、私たちは過去に縛られ、未来に進むことができません。

けれども、相手が後悔していない限り、その人はあなたにとって身体的にも感情的にも危険である可能性があります。

許すために、相手が後悔する必要はありません。けれども、関係を回復するためには、相手が後悔する必要があります。

こうした理由から、ヨセフはそのように行動したのだと思います。兄たちが本当に変わったかどうかを確認したかったのです。

兄たちがその変化を示したとき、ヨセフは自分を明かしました。

もし変化がなかったならば、ヨセフは自分を明かさなかったかもしれません。

もし、誰かがあなたを傷つけた場合、許すべきです。しかし、相手が後悔しておらず、変わろうとしないのであれば、注意する必要があります。そうしなければ、再び傷つけられるかもしれません。

多くの人々は、相手が後悔する前に関係を回復しようとしますが、その結果、再び傷つけられてしまうことがあります。

相手があなたを傷つけたことを認めず、自分が変わる必要があることを理解せず、変わろうとしないのであれば、その人から離れたほうが良いでしょう。

距離を保つことができない場合、自分をだまさないでください。その人は変わっていないのです。

だから、その人の行動に備えて、自分の心を準備してください。そうすれば、ある程度、自分の心を守ることができるでしょう。

とはいえ、もう一度お伝えします。

相手が後悔していようといまいと、私たちは許さなければなりません。それは、相手のためではなく、私たち自身のためなのです。

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創世記

無力な過去、実り多い未来

ヨセフは13年間でさまざまな困難な経験をしました。

ヨセフの兄たちは彼を奴隷として売りました。

そして、パロの廷臣の管理人となりましたが、レイプの濡れ衣を着せられて監獄に入れられてしまいました。

ところが、突然パロはヨセフにエジプト全土を支配させました。パロだけがヨセフよりも権威を持っていました。

ヨセフはパロの娘と結婚し、息子が二人生まれました。

長男をマナセと名付けました。その名前は「忘れる」という意味があります。なぜならば、ヨセフは「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」と言ったからです。

次男をエフライムと名付けました。その名前は「実り多い」という意味があります。ヨセフは「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた」と言ったからです。

ヨセフは本当に過去を忘れたのでしょうか。

いいえ、違うと思います。けれども、神様からの祝福について考えたとき、ヨセフの過去はもはや無力となりました。ヨセフに影響を与えることはできなかったのです。

ヨセフは「私を実りを結んだ者とされた」と言うだけではなく、むしろ「私を実り多い者とされた」と述べました。

ローマ書8章で、パウロはこう書いています。

今のときのいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(18節)

どの栄光について書かれているのでしょうか。それは、キリストがもう一度この世界に戻るときに、私たちに啓示されようとしている栄光です。

他の箇所では、このように記されています。

しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似たものとなることが分かっています。なぜならその時、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。(第一ヨハネ3:2)

その時、

[神は]彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:4)

私たちは、自分の悪い思い出を完全に忘れることができるでしょうか。その可能性はあるかもしれません。

しかし、別の可能性として、この世界にいる間、神が編んだ命のタペストリーの一部として、その悪い思い出を思い返すことがあるかもしれません。

そして、そのタペストリー全体を見たとき、それは美しいものとして見えるのです。

ところが、ヨセフのように、私たちもこの世界でその栄光を少し見ることができるのではないでしょうか。

神様が私たちに触れてくださるので、たとえこの世界で多くの苦しみや悲しみを経験したとしても、平和と喜び、そして満足を見つけることができます。

そのため、どのような苦しみがあっても、私たちは希望を持つことができます。この世界での希望、そして天国での希望です。

それでも、今あなたが苦しんでいるなら、どうすればよいのでしょうか。

あなたは一人ではないことを思い出してください。

ローマ書8:26―27には、このように記されています。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、どのように祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神の御心に従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

ある時、私たちの苦しみがあまりにも多く、どう祈るべきか、また何のために祈るべきか、よく分からないことがあります。

けれども、そのとき、聖霊様が私たちのために祈り、神様の御心に従って私たちのためにとりなしをしてくださいます。だからこそ、パウロはこう言うことができたのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が全ての事を働かせて益としてくださる事を、私たちは知っています。(28節)

聖霊様が私たちのために祈ってくださるからこそ、神様が私たちのために全てを働かせて益としてくださることを確信することができます。

ヨセフの試練のときにも、聖霊様はヨセフのために祈っておられました。

そして、私は確信しています。今、聖霊様はあなたのためにも祈っておられます。

だからこそ、どんなに大変な状態にあっても、神様が私たちを救い出してくださることを知ることができます。

そして、私たちは振り返ってヨセフのようにこう言うことができるのです。「私の過去には私を支配する力がありません。今、私は実り多い者とされた。」

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全体の真理を言う?

「悔い改めなさい!あなたは地獄に行くよ!」

アメリカでは時々、ある人が箱の上に立ち、そのような言葉を叫ぶことがあります。

けれども、ある日神戸で友達と散歩していたとき、スピーカーから誰かが何かを叫んでいる車を見かけました。

日本でこうした車を見かけると、通常は選挙期間中で、政治家が「私に投票してください」と訴えている場合がほとんどです。

しかし、その日は「キリスト」という言葉が聞こえてきたため、私は友だちに「あの人は何を言っているのだろう?」と尋ねました。

彼はこう答えました。「あなたは地獄に行くから悔い改めなさいと言っています。」

その時、私はただ「なるほど」としか返事ができませんでした。

私はクリスチャンですが、そのような方法は自分では決してしないと思います。それが本当に効果的であるかどうか疑問に感じます。

それでも、神様のメッセージには2つの側面があることを理解する必要があります。それは必ずしもいつも明るいメッセージではありません。

ヨセフはそのことを学びました。神様からのメッセージをいろんな人に与えましたが、それは必ずしもいつも幸せなメッセージではありませんでした。

献酌官に対して、ヨセフは許しと回復のメッセージを伝えました。献酌官がパロを怒らせましたが、パロは彼を許し、元の地位に戻すという内容でした。

けれども、調理官の場合、パロが許すメッセージはありませんでした。かえって、調理官が裁かれて殺されるというメッセージでした。

おそらくヨセフは喜んでそのメッセージを伝えたわけではなかったでしょう。とはいえ、それが真実だったので、そのメッセージを伝えました。

パロに対する神様からのメッセージもまた同様でした。良い知らせもあれば、悪い知らせもありました。「エジプトに七年間の大豊作が訪れる。しかし、その後で七年間の飢饉が起こる。」というメッセージでした。

ヨセフは、パロが飢饉の話を聞いて大喜びするとは思わなかったでしょう。それでも、そのことを隠すことなく、良い知らせも悪い知らせも伝えました。それが真実だったからです。

そして、ヨセフが真実を伝えたおかげで、エジプトは飢饉に備えることができました。

ヨセフが伝えたメッセージに2つの側面があったように、クリスチャンのメッセージにも2つの側面があります。

もちろん、キリストにあって赦しと回復、喜びがあります。しかし、キリストを拒否するなら裁きと罰が来るのです。

私たちは神様のメッセージを伝えるとき、2つの側面を伝えているでしょうか。

多分、最も有名な箇所はヨハネ3:16です。

神は、実に、その一人子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。

たくさんの人はこの章が大好きです。なぜならば、神様の愛についての話であり、イエス・キリストによって私たちが永遠の命を持てるという希望に満ちた話だからです。

しかし、もう一つの側面があります。この章には、信じる者は滅びないと書かれています。

それでは、信じない者はどうでしょうか。答えははっきりしています。その人たちは滅びます。死後、神様から永遠に離れることになります。

そして、ヨハネの意味を読み取れなかった人たちのために、彼はもう一度こう書いています。

御子を信じる者は裁かれない。信じない者は神のひとり子のみ名を信じなかったので、すでに裁かれている。(ヨハネ3:18)

聖書を読むと、何度も福音のメッセージに2つの側面があることがわかります。

信じる者に対しては、赦しと救いです。

信じない者に対しては、裁きと神様の怒りです。

私が言いたいのは何でしょうか。「あなたは地獄に行く」と人に言ったほうがよいのでしょうか。

はい、その通りです。

私たちが福音を伝えるとき、相手が理解しなければならないのは、大きな問題があるということです。私たちは罪人です。しかし、神様は清いお方なので、罪を罰しなければなりません。

聖書には「罪から来る報酬は死です」と書かれています。(ローマ書6:23)

このメッセージの一部を省くことはできません。なぜならば、これは救いのメッセージだからです。

もし深刻な状態がなければ、どうして救いが必要でしょうか。もし、人が浜辺で安全に立っているなら、救いは必要ありません。

溺れている人だけが救いを必要とします。

燃えているビルの外に立っているなら、救いは必要ありません。けれども、そのビルの中にいて脱出できないなら、救いが必要です。

人は安全な状態にいないので、福音を聞く必要があります。罪に縛られており、地獄に行く運命にあります。

どんな言葉で表しても構いません。

「永遠の死。」

「神様から永遠に離れる。」

それはすべて同じ意味です。

では、どうして私はスピーカー付きの車を使った宣伝方法に反対するのでしょうか。

それは、そのクリスチャンが恐怖を与えることによって人を救おうとしているからです。

けれども、イエス様はそのような方法を取りませんでした。聖書を読むと、イエス様の方法はまったく違っていました。イエス様は愛によって人を救い出したかったのです。

それでも、イエス様は地獄と裁きについて頻繁に語られました。

それにもかかわらず、罪人たちはイエス様に惹きつけられたのです。

なぜでしょうか。

おそらく、イエス様の愛を感じていたからです。

その一方、人々がその車のメッセージを聞いても、愛を感じることはおそらくまったくないでしょう。

あなたは全体の真理を伝えたとき、相手の反応を心配していますか。

ヨセフはパロに全体の真理を伝えたからこそ、エジプトは飢饉から救われました。

もし私たちが全体の真理を語れば、救いの機会を提供することができます。それは地獄からの救いの機会です。

しかし、そのためには全体の真理を伝える必要があります。それとは何でしょうか。

その証とは、神が渡したちに永遠の命を与えられたということ、そして、この生命が御子のうちにあるということです。

御子を持つものは命を持っており、神の御子を持たないものは命を持っていません。(第一ヨハネ 5:11ー12)

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つらい状態に入っても、忠実です

ヨセフは神様や兄弟たちに対して苦い気持ちを持つ権利があったかもしれません。彼の最も大きな過ちは、話しすぎたことでした。その過ちのために、彼は穴に投げ込まれ、数時間後にはエジプトの奴隷として売られました。

その後、ヨセフは外国へ行き、その国の言葉をよく知らず、見知らぬ人々に仕えなければなりませんでした。

そのような状態で、ヨセフが苦々しい気持ちを持つことは簡単だったでしょう。

神様に怒りをぶつけることも簡単だったはずです。「これは不公平です。私はこの状況に値しません。どうして、あなたはこの状況を許されたのですか。」

けれども、ヨセフはそうしませんでした。むしろ、新しい主人に忠実に仕え、神様にも忠実に仕え続けました。そのため、神様はヨセフを祝福され、ヨセフの主人も祝福されました。

ところが、突然、問題が起こりました。主人の妻はヨセフに恋をし、「一緒に寝ましょう」と誘ってきました。

ヨセフが誘惑に負けることは、簡単だったでしょう。このように考えるのは、容易だったかもしれません。

「私は家から遠く離れています。ここでは誰も私の神様を知らないし、父も兄弟たちも私の行動を知らない。少しぐらい楽しんでもいいじゃないか。」

しかし、ヨセフは拒否しました。むしろ、彼はこう言いました。

「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

毎日、彼女がヨセフを誘惑し続けても、ヨセフはその誘惑に屈しませんでした。

けれども、ある日、他の人がいない時に、彼女はヨセフを捕まえました。その時、彼女は本当にしつこく誘いました。

「一緒に寝ましょう。誰もいませんし、誰も知りません。全てを整えています。」

再び、ヨセフが誘惑に負けることは簡単だったでしょう。

「もう、これくらいはいいだろう? 今回だけ彼女と寝る。美しい人だし、誰も知らないし。私はずっと大変な状況だったから、楽しい時間を過ごすに値するんじゃないか。」

しかし、ヨセフは逃げました。

残念なことに、逃げる時、彼女はヨセフの上着をつかんでいました。

再び拒否されて、彼女は激しく怒りました。それで彼女は皆に「ヨセフが私をレイプしようとした」と嘘をつきました。

そのため、ヨセフは悪いことをしていないにもかかわらず、再びトラブルに巻き込まれ、監獄に入れられました。

あなたがヨセフだったら、どのように感じたでしょうか。私なら、本当に苦い気持ちを抱いたと思います。私は神様の道を行き、正しいことをしようとしたのに、このような大変なことが起こるなんて。

でも、ヨセフはそのような苦い考えを心に留めることを許しませんでした。むしろ、ヨセフは神様に忠実に仕え続けました。だからこそ、ヨセフが監獄にいる間も、神様は彼を祝福されました。

この箇所で最も大切な言葉は、「主はヨセフと共におられました。」ということです。

神様はヨセフの人生におけるトラブルを防がれませんでした。たとえヨセフが神様の道を歩んだとしても、すべてがスムーズに進むとは約束されなかったのです。

とはいえ、何が起こっても、神様はヨセフと共におられました。ヨセフはそれを理解していたからこそ、神様に忠実に仕え続けたのです。

あなたはどうでしょうか。今のあなたの状況では、苦い気持ちを抱いているでしょうか。

あなたのミスが原因でトラブルが起きているかもしれません。

または、神様の道を歩んでいるにもかかわらず、トラブルが降りかかっているかもしれません。

どうか忠実であり続けてください。苦さがあなたを支配することを許さないでください。もしも忠実であり続けるならば、どんなにつらい状況にあっても、神様は必ずあなたを救い出してくださるでしょう。

神様は、あなたの人生が完全であることや、悪いことが起こらないことを約束されたわけではありません。

しかし、神様が約束してくださったのは、どんなにつらい状況にあっても、神様があなたと共にいてくださるということなのです。

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愛されていない、誰からも求められていない

創世記を読むときに、たくさんのひどい話に驚かされました。特に女性についてのひどい話が多くあります。

レアとタマルの話は特に心に残ります。

父ラバンの欺きによって、レアはヤコブと結婚しました。けれども、その結果、ヤコブはレアを愛していなかったのです。

レアは「私は愛されていなくて、不要です」と感じました。レアの息子たちの名前はそのことを反映しています。(その話はここにあります。)

タマルも、自分が愛されていなくて、不要だと感じました。夫が悪人であったため、神様は彼を殺されました。

夫の兄弟も、その文化の習慣に従ってタマルと結婚しましたが、本当は結婚したくなかったのです。そして、セックスのためにタマルを利用し、その時に精液を地に流していました。

神様はそれを見て、その兄弟も殺されました。

さらに、義理の父ユダは「私の末っ子が大人になったらあなたにあげる」と言いましたが、結局タマルに末っ子を与えませんでした。なぜならば、タマルが不幸をもたらすと思ったからです。

「タマルと結婚すると彼も死ぬかもしれない」と考えたのです。

そのため、タマルは愛されていなくて、自分は不要だと感じました。

彼女は必死になり、遊女のように振る舞い、ユダと寝ました。(タマルが顔を覆っていたため、ユダはタマルだと認識しませんでした。)

そして、タマルが妊娠したと知ったとき、ユダはタマルを殺そうと考えました。なぜならば、タマルは結婚していないのに妊娠し、遊女のように振る舞ったと思われたからです。

しかし、ユダは何ヶ月も前にその遊女(タマル)と関係を持っていたのです。それは非常に偽善的な行動だったと思います。

それでもユダは、「この不要な女がいなくなる」と思い、内心では本当に喜んでいたのかもしれません。

けれども、タマルがその子供の父がユダであることを証明すると、ユダは驚愕しました。それで、ユダは「私が悪かった」と認め、タマルを生かしました。そして、双子が生まれました。

レアとタマルは、人に愛されず、不要だと思われていましたが、神様はその二人を愛し、大切だと思われました。

神様の恵みは本当に素晴らしいと思います。神様はその二人を選び、イエス様の家系図にもタマルとレアの名前が記されています。

もし私が神様だったら、多分ラケルを選んだと思います。なぜならば、ヤコブはラケルを愛し、その息子ヨセフは兄たちよりも正しい人だったからです。

しかし、ラケルではなくレアを通してイエス様が来られました。

また、もし私が神様だったら、タマルを選ばなかったと思います。なぜならば、ユダもタマルも本当にひどいことをしたからです。

けれども、タマルを通してもイエス様が来られました。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

あなたは、愛されていなくて、不要だと思うことがあるかもしれません。もしかすると、あなたの夫や妻が不倫して、あなたを捨てたかもしれません。

あなたは虐待を受けたことがあるかもしれません。両親の愛と受け入れを求めても、どんなに努力をしても愛を与えてもらえなかったのかもしれません。

あなたは彼氏や彼女を探しているかもしれません。けれども、周りにはたくさんの友達が結婚しているのに、自分にふさわしい人を見つけられないことがあるかもしれません。

何回付き合っても、結局うまくいかず、あなたの心が壊れてしまったでしょう。心を開き、体も許してしまったかもしれませんが、最終的に拒否されたのです。

しかし、たとえ愛されていない、不要だと感じる時があっても、神様はあなたを見ておられ、愛しておられます。

神様はあなたの名前を知っておられます。

神様はあなたの全てをよく知っておられます。

たとえ失敗をしても、罪を犯しても、神様はあなたを愛しておられるのです。だからこそ、イエス様をこの世に送られました。イエス様は十字架で、あなたの罪のために死なれ、蘇られました。

それはなぜでしょうか。神様はあなたを愛しておられ、あなたと親しい関係を望んでおられるからです。

たとえあなたが誰であっても、どんな苦しみを感じていても、神様にはあなたのための計画があります。神様に手を伸ばすならば、神様があなたのためにずっと手を差し伸べていたことをすぐに知るでしょう。

神様はあなたの苦しみを癒し、あなたの心を愛で満たしたいと望んでおられます。どうか、神様を仰ぎませんか。

主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛を持って、私はあなたを愛した。それゆえ、私はあなたに誠実を尽くし続けた。」(エレミヤ書31:3)

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冷たい心

日本の離婚率はアメリカのよりも低いですが、離婚はだんだん増えています。

最近、私が読んだのは、60代の人々の中で、離婚が増えているということです。なぜならば、新しい法律により、離婚したカップルは年金をもっと均等に分けるからです。

多くの家庭では、カップルはあまりコミュニケーションがなく、その結婚も上手くいっていないようです。それで、たくさんの奥さんは夫の退職の日を全く楽しみにしていません。

このようなわけで、夫が退職してから、すぐに離婚する場合があります。

しかし、それは私が聞いた他の話より良いかもしれません。ある女性は夫のために脂っこい料理を作っています。なぜならば、夫が早めに亡くなるかもしれないからです。

それは悲しいことですが、多くの夫が妻をあまり優しく扱わないので、そのような状態になっています。

以前、私はある夫について書きました。彼は釣りが好きなので、あまり家族と時間を過ごしません。妻が文句を言っても、彼は無視して出かけてしまいます。

妻と子に対しての態度も本当に冷たいです。私はそのような人がいることが信じられません。

ヨセフの兄弟たちも、非常に冷たかったです。ずっとヨセフに嫉妬しており、ヨセフを見て、殺すことを決めました。

ルベンは、ヨセフを殺さないように、皆を説得しましたが、ヨセフのためではなく、多分自分のためです。

ルベンが長男だから、彼が知っていたのは、父の目には責任があるということです。ですから、「穴に投げ込みなさい」と言ったのです。その後、ヨセフを救い出そうと思ったのです。

そして、ルベンがどこかに行っている間に、ヨセフは「どうかこんなことをしないでください」と請いましたが、兄弟たちは無視してしまいました。それに、からかったかもしれません。

そして、ある商人が通りかかった時、ユダはヨセフを奴隷として売る考えを思いつきました。それで、嫌いな弟がいなくなり、兄弟たちはお金を受け取りました。

その後、ヨセフの服を血に浸して、父に渡しました。

もちろん、ヤコブはヨセフが殺されたと思い、ずっと泣いていました。

兄弟たちは父を慰めようとしましたが、ヨセフを救い出す気が全くありませんでした。

イエス様は世の終わりについて、このように言われました。

不法がはびこるので、多くの人達の愛は冷たくなります。(マタイ24:12)

どうやって愛が冷たくなるのでしょうか。

自己中心さは一つの理由です。私たちの必要と欲望を他の人よりも大切にすると、私たちの愛は冷たくなり、相手の愛も冷たくなるのです。

釣りが大好きな生徒の妻や娘たちとの関係が危機に瀕していますが、本当の危険は、妻や娘たちが何も言わなくなる時です。その時が来ると、怒りの熱がなくなり、心が無感覚になってしまい、残るのは冷たい心です。

もう一つの理由は妬みです。

他の人が幸せでも、私たちはその人のために嬉しく思わず、妬みます。

多くの場合、相手はどうしてその関係が崩れたか分からないのです。相手が知っているのは、あなたが冷たくなったということだけで、どうしてそうなったのかは分からないのです。

ヨセフと兄弟たちはその通りでした。ダビデとサウルもその通りでした。(サムエル記 第一 18ー19)

怒りと許せない心も、私たちの心を冷たくします。

誰かが私たちを傷つけると、私たちは怒りを心の中に持ち続けます。

その怒りはその人に対して苦さになり、その苦さは憎しみになるかもしれません。ヨセフの兄弟たちはその通りでした。

ヤコブは兄弟たちよりもヨセフを愛し、とてもきれいな服をヨセフに与えました。そして、兄弟たちの心は苦くなり、ヨセフを憎むようになったのです。だから、彼らの心は冷たくなりました。

あなたはどうですか。

周りの人に対して、あなたの心は冷たくなっていますか。夫に対してでしょうか。

妻に対してでしょうか。

子供に対してでしょうか。

同僚に対してでしょうか。

教会の人に対してでしょうか。

心が冷たくなると、神様を悲しませます。なぜならば、イエス様をこの世に送ってくださった神が彼らとあなたを愛してくださるからです。

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって、証印を押されているのです。

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなど を、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなた方を赦してくださったように、互い に赦し合いなさい。(エペソ4:30ー32)

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いつ黙ったほうがいいのか?

ヨセフが兄たちに夢を話したとき、彼はどんな態度をとったのでしょうか。

うぬぼれていたのでしょうか。

それとも、本当に兄たちの反応を予想できなかったのでしょうか。

どのように伝えたのか、考えてみましょう。

「私の夢を聞いてください。夢の中で、あなたの束が私の束の回りに来て、頭を下げました。

そして、もう一つの夢を見ました。太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいたのです。

すごいでしょう。どういう意味なのでしょうか。」という感じではないでしょうか。

あるいは、こうだったのではないでしょうか。

「おい、私の夢を聞いてください。いつか、あなたたちは私の前に頭を下げるのです。」

真相はわかりませんが、兄たちも父も本当に怒り、ヨセフは困難に直面することになりました。

この話から私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

黙っているほうが良い時があります。

たとえ神様から聞いたと思っていても、沈黙を守るほうが良い場合があるのです。

私が大学生のころ、教会で友人が好きだった女性にこう言いました。

「神様は私があなたと結婚すると言いました。」

彼女は怒ってすぐにこう返しました。

「神様は私にはそう言いませんでした!」

結局、その二人は結婚しませんでした。けれども、その日、友人は自分の言葉を気をつける重要性を学びました。

箴言には、言葉を慎重に扱うことについて多くの教えがあります。例えば、

軽率に話して人を剣で刺すようなものがいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。(箴言12:18)

ヨセフはその言葉に従っていたら良かったのかもしれません。

ヤコブが兄たちよりもヨセフを愛していたため、兄たちは妬んでいました。

けれども、ヨセフの言葉は兄たちの嫉妬を和らげるどころか、むしろその心を剣のように深く突き刺しました。

兄たちはさらに怒りを募らせました。なぜなら、ヨセフが自分の立場を誇示しているように見えたからです。

私たちはどれほど、自分の言葉で関係を癒すどころか、むしろ人をさらに傷つけることがあるでしょうか。

特にケンカの際、人を傷つける言葉を言うのは簡単です。

「あなたは馬鹿だ!」

「信じられない!」

「どうしてそんな馬鹿なことをしたの?」

「あなたは本当にわがままだ!」

「許せない!」など。

箴言15:1には、「柔らかな答えは怒りを静める。しかし激しい言葉は怒りを引き起こす」と書かれています。

あなたの口から出る言葉は、関係を癒す言葉でしょうか。それとも、関係を壊す言葉でしょうか。

ときに、特に怒りを感じているとき、黙るのは難しいものです。

けれども、他の種類の言葉も関係を破壊することがあります。それがゴシップです。

箴言16:28には、「ねじれ者は争いを巻き起こし、陰口をたたく者は親しい友をか離れさせる。」と書かれています。

時には、ジョークでさえも私たちの言葉が人を傷つけることがあります。日本人の場合についてはわかりませんが、アメリカ人はよくあります。

あるとき、私もジョークのつもりで言った言葉で友達を傷つけてしまったことがありました。わざとではありませんでしたが、傷つけてしまったのです。

それ以来、私は気を付けるようにしています。

私が学んだことは、「人をジョークで侮辱するよりも、人を励ますほうが良い」ということです。

ジョークで人を侮辱すれば、傷つけてしまうかもしれません。

その一方、人の励ましの言葉は人を建て上げます。

あなたの口から出る言葉は何なのでしょうか。

それは祝福でしょうか、それとも呪いでしょうか。

それは傷でしょうか、それとも癒しなのでしょうか。

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新しい名前

私の妻が妊娠したとき、娘の名前についてよく考えました。たくさんの候補を挙げましたが、私は「エミリ」が気に入っていました。

けれども、娘が生まれる前に、私の従姉妹が自分の娘に「エミリ」と名付けてしまいました。

そこで私たちは「結実」という名前に決めました。

「実を結ぶ」という意味で、ガラテヤ書5:22–23に由来しています。

私たちは結実が御霊の実を結ぶことを願っています。

名前は大切なものです。名前には子供に対する両親の希望が反映されています。

けれども、時々名前には否定的な意味が含まれることもあります。ヤコブとヤコブの息子ベニヤミンの場合もそうでした。

ヤコブの名前は「かかとをつかむ人」という意味があります。

それは、ヤコブが生まれるとき、双子の兄エサウのかかとをつかんで生まれてきたことに由来します。

まるでただ乗りをするような意味合いでした。

そして、もう一つの意味は「詐欺師」です。

ヤコブの人生はその名前を反映していました。

ベニヤミンはヤコブとラケルの末っ子でした。ベニヤミンが生まれたとき、ラケルはひどい陣痛に苦しみ、息を引き取りました。

ラケルは死ぬ直前に赤ちゃんに「ベン・オニ」という名前を付けました。その名前の意味は「私の悲しみの子」です。

しかし、ヤコブはその名前を「ベンヤミン」に変えました。その意味は「私の右手の子」です。

ヤコブは息子を「私の悲しみの子」としてではなく、敬意を持って見ることを選びました。

愛するラケルを失ったにもかかわらず、人の右隣に座ることが栄誉であるように、息子を尊敬しました。

神様はヤコブの名前を「詐欺師」から「神様と格闘する者」に変えられました。

創世記32章ではその意味が示されています。

けれども、35章では神様が新たな意味を付与されたのかもしれません。それは「神様と共にいる王子」です。

神様はこう言われました。

一つの国民、諸国の民つどいが、あなたから出て、お王たちがあなたの腰から出る。(創世記35:11)

こういうわけで、神様はヤコブを二度イスラエルと名付けられたのかもしれません。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちがクリスチャンになったとき、私たちはもはや過去に縛られません。私たちの失敗に縛られることもありません。

たとえ大失敗したとしても、神様は私たちの過去を重要視されません。むしろ、神様は私たちの将来に目を向け、良い計画を持っておられます。

さらに、私たちはもはや両親の感情や期待に縛られることもありません。他の人の感情や期待にも縛られません。

私たちの両親、先生、あるいは周りの人々が私たちを「馬鹿」と呼んだり、「価値のない人」と名付けたりしたことがあるかもしれません。

彼らが私たちを見てがっかりしたこともあるかもしれません。

しかし、神様はこう言われます

「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」(イサヤ書43:4)

神様は私たちを愛しているがゆえに、イエス様を私たちの代わりに送られました。つまり、イエス様は私たちの罪のために死んでくださいました。

あなたがどのように名付けられていても、またあなたが自分の名前を好きかどうかは関係ありません。神様には、あなたのために新しい名前があります。

それは過去に縛られない名前です。他の人の感情や期待に縛られない名前です。

むしろ、神様のあなたに対する計画を反映した名前です。神様があなたをどのように見ているかを映し出す名前です。

イエス様はこう言われました

私は勝利を得るものに。。。白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかは誰も知らない、新しい名が書かれている。」(黙示録2:17)

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でも、私は怒る権利がある。

聖書には、多くの厳しい物語があります。

それに対して、多くの人が「どうしてこんなことが書かれているのだろう」と疑問を抱きます。

その理由は、これらの物語が示しているのは、人が神様から離れ、自分の道を選び続けると、人間の状態がどれほど悪化するかということなのです。

特に創世記34章にはひどい話が記されています。ヤコブの娘ディナが、シェケムという男にレイプされました。

その後、ヤコブの息子たちは復讐をしました。彼らはシェケムとその都市の男たちを騙して殺し、彼らの全財産を奪い、おさな子、妻たち、家の全てのものを略奪し、捕虜にしました。

ヤコブが息子たちにその行動について問うたとき、彼らは全く後悔していませんでした。むしろ、「私たちの妹が遊女のように扱われてもいいというのですか」と答えました。

ヤコブの息子たちの怒りは、ある程度まで理解できるものです。シェケムはディナを愛していたとしても、彼女をレイプする権利はありませんでした。息子たちが怒るのは当然であり、正義を要求する権利もありました。

けれども、おそらくその都市では正義を実現することは難しかったでしょう。なぜならば、シェケムはその都市の指導者の息子だったからです。

それでも、彼らの行動は間違っていました。怒りを表す方法は全く正しいものではありませんでした。その行動は正義とは言えず、ただの復讐でした。

私たちは怒る権利があったとしても、復讐をする権利はありません。

ヤコブはこう言いました。

愛する兄弟たち。あなた方はそのことを知っているのです。しかし、誰でも、聞くには早く、語るには遅く、怒るには遅いようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(ヤコブ1:19ー20)

人の怒りとはどのようなものですか。

1. 人の怒りは復讐に向かいます。

ヤコブの息子たちのように、自分のために復讐をします。時には行動で、時には言葉で復讐をします。

例えば、私たちは言葉で人を攻撃します。「あなたはひどい」「信じられない」「私は許せない」と言うのです。それは、相手に罪悪感を抱かせたいからです。

2. 人の怒りは壁を壊すどころか、むしろ壁を築きます。

足を踏み鳴らしたり、ドアをバタンと閉めたり、目つきが短剣のように鋭くなったりします。部屋に入ると、室温が10度ぐらい下がったように感じます。

それでも、相手が「どうしたの?」と尋ねれば、あなたは「何でもない」と答えます。けれども、その後も相手を睨みつけ、再び足を踏み鳴らして立ち去ります。

3. 人の怒りは内側でくすぶり、化膿します。

もし怒りをすぐに解決しなければ、それは苦々しさや憎しみに変わるかもしれません。

あなたはこう言うかもしれません。「でも、ブルースは状況を知らない。本当に傷つけられたし、私は怒る権利がある。」

確かにその通りかもしれません。

しかし、その怒りは神様が望むあなたの人生を生み出すことはありません。それどころか、あなたの人間関係を壊し、心の中にがんのような苦しみを生じさせ、人生を惨めにしてしまいます。

相手を傷つけていると思うかもしれませんが、実際には自分自身を傷つけているのです。この怒りを手放さないと、あなた自身の人生が破壊されてしまいます。

けれども、イエス様は違いました。

[ののしられても、ののしり返せず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(第一ペテロ2:23)

だから、私たちは怒ったとき、どうすればよいのでしょうか。

パウロはこう言いました。

愛する人達。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。

それは、こう書いてあるからです。「復讐は私のすることである。私が報いをする、と主は 言われる。」

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むこと になるのです。

悪に負けてはいけません。かえって、善を持って悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:19ー21)

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創世記

私は神、私の神

カナンからハランへ向かう間に、ヤコブの神様との関係は大きく成長しました。

カナンを離れるとき、ヤコブはアブラハムとイサクを通して神様について聞いていましたが、神様との個人的な関係はまだ築かれていませんでした。

そしてベテルで初めて神様に出会いましたが、完全に神様に降伏することはありませんでした。

神様と格闘した際、ヤコブはまだ神様を「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神」と呼び、自分自身の神として認めることはなかったのです。(創世記32:9)

しかし、神様が忠実な神として現れ、ヤコブをカナンへ無事に導かれた後、ヤコブは祭壇を築きました。そして、その祭壇を「エル・エロへ・イスラエル」と名付けました。

この名前の意味は、「神様はイスラエルの神様です。」

時々私は忘れてしまうことがありますが、その時点ではイスラエルという国はまだ存在していませんでした。むしろ、神様がヤコブに「イスラエル」という名を与えられたのです。

そのため、ヤコブの言葉は「神様はイスラエルという国の神」という意味ではありませんでした。ヤコブが言ったのは、「神様は私の神です」ということだったのです。

それ以前のヤコブは、「私は神」という態度を持っていました。

神様に仕えるために生きるのではなく、自分自身に仕えるために生きていました。

神様に信頼せず、神様のタイミングを待つこともありませんでした。むしろ、他の人を傷つけてでも自分の道を進んでいたのです。

しかし、ついにヤコブは「神様、あなたは私の神です」と言いました。

そして、その瞬間から彼の人生は大きく変わりました。

ただし、彼が完全に失敗しなくなったわけではありません。彼はまだ恐れや疑いと戦い続けていました。

それでも、ついに神様がヤコブの心の王座に座るようになったのです。

もし、最初からそのような態度だったとしたら、ヤコブの人生はどれほど違っていたでしょうか。

さて、あなたはどうでしょうか。

「私は神」という態度をとっているでしょうか。

まだ自分の道を選び続けていますか。

神様に信頼せず、自分自身を頼りに生きていますか。

他の人を傷つけてでも、自分を喜ばせるために生きているでしょうか。

それとも、「神様は私の神です」と言う態度をとっていますか。

私はある昔の賛美歌が特に心に残っています。

イエス様に全てを明け渡します。
自由に全てを捧げ、
私はいつまでもイエス様に信頼します。
イエス様の御前で毎日生きます。

イエス様に全てを明け渡します。
私の全てがあなたのものとなりますように。
聖霊の臨在を感じることができますように。
あなたは私の神です。

イエス様に全てを明け渡します。
私の人生をあなたに捧げます。
あなたの愛と力で私を満たしてください。
あなたの祝福が私に豊かに注がれますように。

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創世記

本当に赦されたか?

私は、エサウの許しに対するヤコブの反応が、神様の赦しに対する多くの人の反応と似ていると思います。

ヤコブはエサウの許しを買おうとしましたが、最終的には、神様がその問題をすでに解決してくださったことが分かるようになりました。

エサウがまだ怒っていると思い込んでいましたが、彼が来たときには、涙を流し、手を伸ばして、走り寄り、ヤコブを抱きしめました。

その後、エサウが「私の家に行きましょう。私の家族を紹介したいです」と言いましたが、ヤコブはこう断ります。

「ありがとうございます。けれども、私の家族と家畜を早く連れて行くのは難しいので、どうぞお先に行ってください。後で会いましょう。」と。

そして、エサウが「私が連れている者を幾人か、あなたの助けに残しておきましょう」と提案しましたが、ヤコブは再びこう断ります。

「それは結構です。大丈夫です。また後でお会いしましょう。」と。

そして、エサウはその場を去りましたが、ヤコブはついて行かず、別の場所へ向かいました。

なぜでしょうか?エサウはヤコブを許していました。それなのに、恐れる必要がもうないことにヤコブは気づいていませんでした。

彼はそのことを理解していたかもしれませんが、心の奥底には、疑いの種が残っていたのではないでしょうか。

「エサウは本当に私を許したのだろうか。あんなにも悪いことをしたのに、私を許しただろうか。

それはあり得ない。以前、あれほどエサウは怒っていたし、私を殺したいとまで思っていたのに。本当に許してくれたのだろうか?」

そのため、ヤコブはエサウとの距離を保ち続けたのです。

私たちはどれほどそのようなことをしているでしょうか。神様の赦しを買うために、教会に行ったり、十一献金を捧げたり、さまざまな良いことをします。

しかし、イエス様が私たちの罪のために罰を受けてくださり、私たちがすでに赦されていることに気づいていないのです。

そのため、私たちは恐れて神様に近づこうとしません。

けれども、私たちが目を上げると、怒っている神様を見るのではありません。むしろ、神様は私たちに向かって走ってきて、涙を流しながら手を伸ばし、私たちを抱きしめてくださるのです。

それでも、赦しが与えられたことが分かっても、私たちの心には、疑いの種が残っていることがあります。

「神様は本当に私を赦してくださったのだろうか?私は本当に悪かったのに。まだ罪と戦っているのに。本当に私を赦してくれるのだろうか?」

そのため、私たちは神様に近づかなくなり、神様から距離を置き、神様の罰を恐れて待つのです。

しかし、神様はそのようなお方ではありません。

ローマ書8:1には、「こういう訳で、今はキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」と書かれています。

さらに、ローマ書8:33–34にはこう書かれています。

神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。神が義と認めてくださるのです。

罪に定めようとするのは誰ですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

パウロが問うたのは、「神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。」ということです。

それは神様ではありません。

神様は義と認めてくださるのです。

「罪に定めようとするのは誰ですか。」

それはイエス様ではありません。

イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。そして今も、イエス様は私たちのために祈っておられます。

イエス様が私たちの弁護士であり、私たちのためにとりなしてくださっているのに、神様が裁判官として「無罪」と宣言してくださるなら、どうして私たちは恐れる必要があるのでしょうか。

ですから、神様を恐れて生きるのではなく、むしろ、神様を愛することを学びましょう。

ヨハネはこう言っています。

愛には恐れがありません。全 き愛はおそれを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。

神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:18ー19)

あなたが神様の愛と赦しを深く知ることができますように。

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創世記

神様と格闘する

ちょっと恥ずかしいですが、認めます。私はプロレスが好きです。

大好きというわけではありませんが、時々見ています。

はい、分かっています。プロレスは本当の試合ではありません。結果は前もって決まっています。それでも、見るのは楽しいです。

この箇所では、私たちは史上初のレスリング試合について読んでいます。本当の試合でしたが、結果は前もって決まっていました。

最後に、ヤコブは「もうギブアップ!」と言いました。

この話を考えるとき、神様に問いかけたいことがあります。

それは次のような問いです。

創世記33章を読むと、私たちは神様がエサウを祝福し、彼がすでにヤコブに対する怒りを抱いていなかったことを知ることができます。

それでも、神様は何も語られませんでした。

むしろ、ヤコブを不安にさせました。

ヤコブは恐れに駆られ、必死に祈りました。

「神様!助けてください!兄が私を殺そうとしています!どうすればよいのでしょうか。

あなたは『帰りなさい』と言われたよね。

あなたが私を祝福すると言われたのではありませんか。

どうか、私の状態をご覧ください。私は殺されてしまいます。」

どうして神様はヤコブが恐れることを許されたのでしょうか。

それはわかりませんが、多分、神様はヤコブが自分に降伏し、自分に頼ることを学ぶことを望まれたのだと思います。

ヤコブはそれまでの人生で、自分の道を歩んできました。彼の人生は、自分の力と努力に依存して生きていたのです。

けれども、その夜、ヤコブは絶望していました。もう何もできない状況でした。逃げることも隠れる場所を見つけることもできませんでした。

ヤコブの家族はあまりにも大きく、彼の持ち物も多すぎたため、彼の命は兄エサウの手に委ねられていたのです。

そこで、ヤコブは家族から離れて、一人で必死に祈りました。

ヤコブは、次の日にはエサウが自分と家族を捕まえるだろうと思ったのかもしれません。だからこそ、彼は「明日は私の最後の日だ」と考えた可能性があります。

そんな中、突然、ある人がヤコブを攻撃し、彼と格闘を始めました。

私がこの話を初めて読んだ時、ヤコブとその人が静かに格闘しているのだと思っていました。けれども、今では、彼らが格闘しながら少し会話をしていたのではないかとも思います。

多分、ヤコブは叫んだのでしょう。「何をするのですか?あなたは誰ですか?なぜ私を攻撃するのですか?」

その人はどう答えたのでしょうか。「どうしてそんなに戦い続けるのですか?もう降伏しなさい。」と言ったかもしれません。

「いやだ!決して降伏しない。」

「降伏しなさい。」

「いやだ!」

夜が明けるころ、ヤコブがまだ戦い続けていて、降伏していなかったため、その人はヤコブの股関節を打ち、外してしまいました。そしてその人は言いました。

「私を去らせよ。この戦いはもう終わっている。」

ヤコブは答えました。「あなたを去らせません。」

しかし、ヤコブはすでに負かされていました。もう格闘することはできず、戦う力を失っていたのです。彼は降伏するしかなく、何もできませんでした。

あわれみを請うことしかできず、ついには諦めて、その人にしがみついていました。

涙を流しながら、彼は叫びました。

「あなたを去らせません。私はあなたの祝福を必要としています。」

その人は言いました。「あなたの名前は何ですか。」

ヤコブは答えました。「ヤコブです。詐欺師という意味です。」

その人は言いました。

「もはや、あなたは詐欺師と呼ばれることはありません。あなたの人生において、人を騙してきました。兄を騙し、父を騙し、おじを騙したのです。

しかし、これからは、あなたは『神と格闘する者』と呼ばれるでしょう。なぜなら、神と格闘する中で、あなたは自分の問題を解決する鍵を見つけたからです。

その鍵は、他の人を騙すことではありません。

その鍵は、自分の努力でもありません。

鍵は、あなたが私に降伏することです。」

それを聞いて、ヤコブは恐れていたかもしれません。この人は誰なのだろうと考え、「あなたの名前は何ですか」と尋ねました。

けれども、その人は答えることなく、「どうして私の名前を知りたいのですか」と言い、ヤコブを祝福しました。

その瞬間、ヤコブは自分が誰と話していたのかを悟りました。それは、神様でした。

ある学者によると、その人はイエス様であった可能性もあります。

そして、ヤコブはその場所をペヌエルと名付けました。ペヌエルとは、「神の顔」という意味です。

ヤコブはこう言いました。

「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私の命は救われた。」

ヤコブが足を引きずりながらその場所を去ったとき、彼は砕かれていましたが、同時に祝福された人でもありました。

さて、あなたはどうでしょうか。あなたは神様と格闘していませんか。

もし神様の道ではなく自分の道を選んでいるなら、あなたの人生は苦しいのではないでしょうか。

もし問題を乗り越えたいのなら、神様と格闘するのではなく、神様に降伏すべきです。

神様にしがみつきましょう。

また、本当の祝福は神様から来ることを学ぶのです。

あなたは神様と格闘するのでしょうか。

それとも、神様に降伏するのでしょうか。

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創世記

人間関係を壊す方法

何ヶ月か前、昔のアルフレッド・ヒッチコック劇場のテレビ番組を見ました。「ワイフ必殺法」という番組でした。

ブラックコメディーで、ある男性が一所懸命、妻から自分を自由にしようとしました。

そのために、複雑な計画を立てました。彼は妻を殺したいと思っていることを、妻にそう思わせました。

彼女は怖くなり、彼を殺そうとしましたが、結局失敗して、逮捕され、刑務所に入りました。だから彼は自由になりました。

ところが、すぐに彼自身も厳しい状況に陥りました。もし興味があれば、ぜひご覧ください。

とにかく、それは悪人が悪人を扱う話でした。妻も、かなり悪かったのです。

ヤコブとラバンの話を読むと、その番組を思い出しました。

モーセがこの話にタイトルをつけるとしたら、たぶん「義理の息子を追い出す方法」と書いたかもしれません。

「自分の娘の結婚関係を壊す方法」というタイトルも適切かもしれません。

ラバンは意識的にヤコブを追い出そうとしたわけではなかったかもしれません。とはいえ、どうしてラバンは自分の行動の結果を予測できなかったのでしょうか。

私はラバンの行動について読んだとき、信じられない気持ちになりました。ラバンはヤコブを騙して、レアと結婚させました。そして、ラケルと結婚するために、さらに七年間ヤコブに働かせました。

その後、ラバンはヤコブに「ぶち毛とまだら毛の羊と山羊をあげる」と約束しました。

ところが、その日にラバンはぶち毛とまだら毛の動物をすべて取り除き、別の場所で息子たちに世話をさせました。

結果として、ヤコブが世話した羊と山羊はすべて白いものでした。

ラバンの狙いは、ヤコブが白い羊と山羊を世話することで生まれる子羊や子山羊が全て白くなるはずだというものでした。つまり、ヤコブが何も得られないようにする計画だったのです。

けれども、たくさんのぶち毛とまだら毛の羊と山羊が生まれると、ラバンは契約を変更しました。実際、ラバンは十回も一方的に契約を変えたのです。

ラバンは一体何を考えていたのでしょうか。ヤコブが文句を言ったとき、ラバンはまったく謝りませんでした。

「もともとは、私の娘と羊と山羊なのだから、私の行動は当然だ」と主張しました。

ラバンは自分の態度と行動がヤコブとの関係を壊し、娘たちとの関係をも壊したことに気づいていたでしょうか。

ラバンの扱い方について、レアとラケルは「私たちは奴隷か家畜のように売られた」と感じていました。

ラケルは、ヤコブが自分を愛していると知っていたため、少し慰められていたかもしれません。

けれども、レアは、ヤコブが自分を愛していないと知っていたため、深い惨めさを抱いていました。

どのようにして私たちは関係を壊すことができるのでしょうか。結婚の話ではありますが、どのような関係にも同じことが言えると思います。

二心。

良い関係のためには相手を信頼できなくてはなりません。しかし、二心があれば、関係を壊す可能性があります。

ヒッチコックの話の最初のシーンで、夫は妻にこう文句を言っていました。

「私たちが結婚する前は、あなたは全然違う人だった。あなたは全然違う人のふりをしていた。私は騙された。」と言いました。

デートのとき、どれほど私たちは猫をかぶるのでしょうか。本当の性格を示さずに、結婚のために壊れやすい基盤を築いてしまうことがあります。

人の感情を尊重しない。そして、人の感情に全く気づかない場合もあります。

妻や夫が傷つけられたとき、あなたは「あなたが敏感すぎる」と言うでしょうか。

それとも、その感情を尊重して、自分の行動を変えるでしょうか。

「正直さが欲しい」と言うのは簡単ですが、相手が正直に感情をシェアしたときに、本当に聞いて変わるでしょうか。

それとも、無視するでしょうか。

自己中心的な態度とプライド。

ラバンは自己中心的すぎて、自分の行動が悪いことを理解していなかったのでしょうか。それとも、プライドが高すぎて、謝ることができなかったのでしょうか。私には分かりません。

いずれにせよ、ラバンの行動は間違っていました。もしあなたも自己中心的であれば、またはプライドの問題があれば、それが原因で関係を壊してしまう可能性があります。

自己中心的になれば、自分の悪さに気づかないかもしれませんし、人を傷つけても、自分の行動は正しいと言い張るかもしれません。

そして、プライドがありすぎて謝らない場合、私たちは関係に壁を築いてしまいます。

プライドと自己中心的な態度が原因で、どれほど多くのカップルが結婚を破壊してきたでしょうか。

あなたの関係はどうでしょうか。もし誰かがあなたの人生について本を書くとしたら、その本の題名は「友だちや妻、夫を追い出す方法」となるのではありませんか。

あなたが自分の関係を大切だと思うなら、自分の人生を見つめ直しましょう。そして、関係を壊す原因となるものを取り除きましょう。

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創世記

人を利用している?人を愛している?

聖書の中で、これは最も不思議な話かもしれません。

同時に、とても悲しい話でもあります。

ヤコブはラケルを見て、恋に落ちました。そこで、ヤコブはラケルの父ラバンにこう言いました。

「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えます。」

それは特に珍しい話ではありません。その時代、男性が女性と結婚したいと思ったら、その父に支度金を払うのが普通でした。

けれども、結婚式の日に奇妙なことが起こり始めました。

ヤコブは7年間働いた後に結婚しましたが、その晩、ヤコブは自分の暗い天幕にベールをかぶった花嫁を連れて行きました。

ところが、朝になったら、花嫁はラケルではなく、ラケルの姉レアでした。

ヤコブが文句を言うと、ラバンはこう言いました。

「われわれのところでは、長女より先に下の娘を嫁がせるようなことはしないのです。けれども、もう七年間、私に仕えたら、ラケルもあなたにあげます。」

ヤコブは同意し、ラケルとも結婚しました。

しかし、もちろんヤコブはレアを愛してはいませんでした。

神様がそれをご覧になり、レアの胎を開いてくださいました。そして、息子が三人生まれました。

生まれたときのレアの言葉は、本当に悲しい言葉でした。

長男をルベンと名付けました。ルベンという名前は、「私の悩みを見た」という意味です。

レアは「主が私の悩みをご覧になり、今こそ夫は私を愛するであろう。」と言いました。

次男をシメオンと名付けました。シメオンという名前は「聞かれた」という意味です。

レアは「主は私がきらわれているのを聞いてくださり、この子をも私に授けてくださいました。」と言いました。

彼女の三人目の息子が生まれたとき、レビと名付けました。レビという名前は「結びつく」という意味です。

レアは「こんどこそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に三人の息子を生んだのだから。」と言いました。

ラケルは子供を持つことができなかったので、強い怒りを覚えました。

そこで、ラケルは自分のはしためビルハを妻としてヤコブに与えました。

そして、ビルハはヤコブと関係を持ち、ラケルのために子供を産みました。

そのあとで、レアがもう子供ができなくなったので、妬んで、自分のはしためをヤコブに与え、そのはしためを通して子供を授かりました。この状況はずっと続きました。

どうしてこの状態はそんなに大変になったのでしょうか。

ラバンは大切なことを忘れていたからです。

それは、人を利用してはいけないということです。人を愛すべきだということです。

長女を嫁がせるためにヤコブを利用していました。ただの労働力としてヤコブを利用していました。

ヤコブの感情をまったく気にしていなかったのです。自分の娘たちの感情をもまったく気にしていなかったのです。

この箇所を読むと、ラバンが娘たちにそんな考え方を教えたことが明らかに分かります。

その結果、二人はヤコブと、はしためを自分の戦いのための道具として扱いました。ヤコブも悪かったのです。

箴言30:21~23にこう書いてあります。

この地は三つのことによって震える。いや、四つのことによって耐えられない。。。きらわれた女が夫を得た事です。

私たちはどのように人をみなすでしょうか。神様が愛しておられる人として、考えるのでしょうか。私たちが愛するべき人として、考えるのでしょうか。

それとも、欲しいものを得るための道具として、考えるのでしょうか。

私たちが人を道具として考えたら、この世界にはさまざまな悩みが生じます。

ある関係で、男性は女性に「あなたを愛している」と言いますが、実は彼女と関係を持ちたいだけです。

ある結婚で、人はお金だけのために結婚します。

職場では、時々ある人が立場が上がるために、他の人を踏みつけます。

けれども、私たちが人をそのように考えたら、相手は劣化するし、私たちも劣化します。

私たちは愛するために造られ、また、愛されるために造られています。しかし、人を愛さず、むしろ人を利用したら、私たちは神様が私たちのために計画してくださった人生を経験しないのです。

私たちは惨めになり、私たちの周りの人も惨めになるのです。

ある歌が大好きです。

物を利用して、人を愛すること
それがあるべき姿です。

物を利用して、人を愛するべきなのです。
この世を見渡してみれば、すぐに分かるでしょう。
物を愛し、人を利用してしまえば、
その結果、待っているのは惨めな人生だけだからです。

物を利用して、人を愛すれば、
幸せな人生が待っています。

物を利用して、人を愛するべきなのです。
その逆になってはいけません。

なぜなら、物を愛し、人を利用してしまえば、
その結果、待っているのは惨めな人生だけだからです。

物を利用して、人を愛すること
それがあるべき姿です。

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出会い

クリスチャンホームで育ったため、ずっと教会に行っていました。

私は7歳くらいのときにクリスチャンになりました。聖書について多くを学びましたが、長い間クリスチャンとして成長していませんでした。

中学生になるころには、教会に行くのが嫌になりました。教会に友達がいたにもかかわらず、他のことをしたいと思うようになりました。

高校生のとき、私の家族は別の教会に行き始めました。その教会が以前の教会と全く違っていたので、私はますます教会に行きたくなくなりました。賛美の時間は長すぎると感じたし、その教会の人たちが自分とは違うように感じられたのです。

けれども、ある日、すべてが変わりました。

高校生向けの聖書の学び会に参加し始めました。通常、賛美の時間は15分程度で、その後に聖書を勉強します。

しかし、その日は違いました。リーダーが計画していたかは分かりませんが、15分ではなく、ずっと歌い続けました。

その日、初めて神様の臨在を経験しました。神様に触れたように感じたのです。

クリスチャンになってからすでに7年が経っていましたが、そのとき初めて「神様はここにいる。遠く離れた場所ではなく、ここにいる」と実感しました。

その真実を知ったことで、私の人生は完全に変わりました。

ヤコブはベテルで同じように感じたかもしれません。祖父アブラハムと父イサクから神様について聞きながら育ったことでしょう。もしかすると神様を信じていたかもしれませんが、神様に直接出会ったことはなかったのです。

けれども、ある夜、ヤコブは夢の中で天使たちが天国へ続くはしごを上り下りしているのを見ました。そして神様はヤコブに語り、アブラハムとイサクに与えた約束をヤコブにも与えました。

突然、ヤコブにとって、神様は遠くにおられる方ではなくなりました。近くにおられる方となったのです。ヤコブはこう言いました。

「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」

もちろん、神様はずっとそこにおられました。けれども、ヤコブはそれに気づいていませんでした。ヤコブは成功しようと努力するあまり、神様が見えなくなってしまったのです。

自分の道を進む中で、人生をめちゃくちゃにしてしまいました。兄を恐れて逃げざるを得なくなり、将来がどうなるのかも分からず、不安を抱えていました。

そのような中で、神様はヤコブにこう語られました。「ヤコブ、私はいるよ。あなたと共にいるよ。」

あなたはどうですか。神様に出会ったことがありますか。

それとも、あなたにとって神様は遠くにおられる存在でしょうか。

神様の臨在を感じているでしょうか。

神様は実在の方だと受け止めているでしょうか。

それとも、伝説の登場人物のように感じているでしょうか。

以前、神様に出会ったけれど、今は神様が見えなくなってしまったということはないでしょうか。

かつては神様が近くにおられて、触れることができると感じていたかもしれません。しかし、人生の困難に直面し、プレッシャーと戦う中で、神様が再び遠くに感じられることもあるかもしれません。

ヤコブに呼びかけたように、神様は私たちにも呼びかけておられます。

「私はここにいるよ。あなたと共にいるよ。私は約束を守るまで、あなたを離れない。約束が成就した後も、あなたを決して見捨てないよ。」

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不十分です

この箇所を読んだら、私が考えるのは、両親に対するエサウの反応が、神様に対する多くの人々の反応と似ているということです。

エサウは神様に従わないヘテ人と結婚して、イサクとリベカを悲しませました。しかし、エサウは両親の思いを全く理解していませんでした。

けれども、ヤコブを祝福したときに、イサクは「カナン人と結婚してはならない」と言いました。

エサウはそれを聞いて、両親の思いを理解するようになりました。

それで、父の好意を得るために、エサウは両親が受け入れる女性と結婚しようと考えました。

もちろん、ヤコブが向かった地には行けなかったため、イシュマエルの子孫の中に行きました。けれども、イサクとリベカがそれを喜んだかどうかは分かりません。

同様に、多くの人々は知らずに神様の心を傷つけます。しかし、理解できるようになると、彼らが考えるのは、「もし良いことをすれば、大丈夫になる。神様は私たちを赦してくださいます」ということです。

けれども、イザヤ64:6には、こう書かれています。

私たちは皆、汚れた者のようになり、私たちの義は皆、不潔な着物のようです。

私たちは皆、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。

つまり、良いことをしても、神様の目の前では不十分です。その良いことは罪の染みをきれいにすることができません。どうしてでしょうか。

想像してみてください。ある夫は悪いことをして、その妻はとても怒っています。だから、夫はプレゼントを渡して、「許してください」と言います。

でも、妻がプレゼントを開けたら、それは汚れたぼろです。彼女の反応はどう思いますか。

同様に、私たちの義は汚れたもののようです。

「汚れた着物」という言葉は本当に厳しい言葉です。直訳してみると、「使っていた生理用ナプキン」という言葉になります。

誰がそれを受け入れるでしょうか。

神様がそれを受け入れてくださるでしょうか。

いいえ、決してそのようなことはありません。

けれども、多くの人々はそのように考えます。彼らは「もし良いことをすれば、神様は私たちを受けて入れてくださる」と思います。

しかし、その考え方は間違っています。

もう一つの例を挙げてみましょう。私は二歳の娘のキスが大好きです。けれども、娘がスパゲッティを食べていて、ソースが口の周りについていると、そのキスは全く欲しくありません。それは汚れたキスだからです。

そのように、私たちが神様にいろんなことを捧げようとしても、それらが私たちの罪で汚れているならば、神様は受け入れてくださいません。

では、私たちの罪はどのように清められるのでしょうか。一つの方法しかありません。それは、イエス・キリストの十字架で流された血によってのみ清められるのです。ローマ書5章にはこう書かれています。

私たちがまた弱かったとき、キリストは定められたときに、不敬虔な者のために死んで下さいました。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け 深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちに対するご自身の愛を明らかにしておら れます。

ですから、今すでにキリスト血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

もし敵であった私たち が、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼の命によって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

そればかりでなく、私 たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエスキリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。(6ー11節)

私たちは自分を救う力を持っていませんでした。どんなことをしようとしても、私たちの行動は罪で汚れているのです。

しかし、私たちが弱いときに、イエス様は十字架で死んでくださり、私たちの罰を受けてくださいました。だから、イエス様の行動によって、私たちは神様の怒りから救い出されました。そして、それにより、神様と和解することができました。

私たちの行動ではなく、イエス様が十字架で成し遂げてくださった行動によるものです。

だから、心に留めておきましょう。良い行動によって、神様の好意を得ることはできません。私たちの行動は罪によってあまりにも汚れているのです。

もしあなたが神様に受け入れていただきたいのであれば、まずあなたの罪は清められなければなりません。そのためには、イエス・キリストの十字架の働きを信じなければなりません。

イエス様とその働きに信頼してみませんか?

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結果が良かったら、いいんじゃない?

神様に、この箇所について、たくさんの質問をしてみたいです。

例えば、イサクはどれほど知っていたのでしょうか。神様がリベカに「エサウはヤコブに仕える」と言われた後、リベカはそのことをイサクに伝えたのでしょうか。もし伝えたなら、イサクはどのように反応したのでしょうか。

また、エサウがヤコブに長子の権利を売った時、イサクはそのことを知っていたでしょうか。知っていたとすれば、どのように反応したのでしょうか。

イサクが何も知らなかった場合、彼は自分の行動が正しいと思っていたかもしれません。

けれども、もしイサクがすべてを知っていたなら、彼の態度に問題があったと感じるかもしれません。なぜなら、神様の御心を知りながらも、エサウに長子の祝福を与えようとしていたからです。

とはいえ、イサクがどこまで知っていたかは、はっきりとは分からないのです。

では、リベカとヤコブの行動はどうだったのでしょうか。多分、リベカがヤコブに神様の言葉を伝えたのだと思います。なぜなら、ヤコブは長子の権利を求めていたからです。

けれども、イサクが祝福するためにエサウを呼んだ時、リベカとヤコブはパニックになりました。

それで、イサクを騙し、結局ヤコブはイサクの祝福を手に入れました。リベカとヤコブの計画は成功しました。それに、神様はヤコブを祝福したいと言われたはずです。

それは神様の御心だったのでしょうか。リベカとヤコブの行動は正しかったのでしょうか。

その結果を見てみましょう。エサウは非常に怒り、ヤコブを殺そうとしました。そのため、ヤコブは逃げなければならず、母親に二度と会うことはありませんでした。ずっとエサウを恐れ続け、仲直りするまでには何年もかかりました。

イサクを騙すという決断の結果、ヤコブは恐れと心配を抱え、多くの年月を浪費してしまいました。

神様にもう一つお聞きしたいことがあります。もしヤコブとリベカがイサクを騙さなかったら、どうなっていたでしょうか。

神様はイサクに「エサウを祝福するな。ヤコブを祝福しなさい」と言われたでしょうか。

私は知りません。リベカとヤコブは自分たちの道を選んだからです。

けれども、私が知っているのは、神様はいつも約束を守られる方だということです。神様はリベカとヤコブの助けを必要としておられませんでした。

ある時、私たちは「少し悪いことかもしれないけれど、しなければならない」と思うことがあるかもしれません。

また、こう言うこともあります。「この方法しかなかった。私はそうするしかなかった。」

しかし、神様の御心から離れて何かを強制しようとすると、大変な結果を招くことがあります。

イシュマエルの件では、アブラハムとサラがその教訓を学びました。

そして、ヤコブの祝福の件では、リベカとヤコブも同じ教訓を学びました。

神様の御心を待たずに何かを強制しようとすることで、どれほどの後悔が生じるでしょうか。

箴言14:12にはこう書かれています。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

また、箴言3:5-6にはこう書かれています。

心を尽くして主に拠り頼みなさい。自分の悟りに頼ってはなりません。あなたの行く所どこにおいても主を認めなさい。そうすれば、主があなたの道をまっすぐにしてくださいます。

その言葉を心に留めておきましょう。

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創世記

でも、フェアじゃない

私は大阪に住んでいた時、デビッドという人と同じ寮で暮らしていました。

私はデビッドに本当にイライラさせられました。あまり仲が良くありませんでした。私が一番イライラしたのは、彼が約束を守らなかったことです。

つまり、一緒に暮らし始めた時、私たちは交代でトイレとお風呂を掃除し、日常用品を買うことに同意しました。私は約束を守りましたが、彼は全然守りませんでした。

時々私は丁寧に頼みましたが、イライラした時には言い方が荒くなってしまいました。でも、丁寧に頼んでも荒く頼んでも、何も変わりませんでした。

トイレットペーパーがなくなった時、私は自分の部屋からティッシュペーパーを持ってきて、彼がトイレットペーパーを買ってくるのを待っていました。

普通は2~3日間かかりましたが、その間、彼はポケットティッシュをトイレに置きました。それを見ると、私はすぐに取ってしまいました。

はい、分かっています。私も悪かったです。でも、本当にイライラしました。

私の心にいつもぐるぐる回っている思いは「これはフェアじゃない」ということでした。

「どうして、いつも私がお風呂とトイレを掃除しなければならないのだろうか。どうして、いつも私がトイレットペーパーとティッシュペーパーを買わなければならないのだろうか。」と考えていました。

私は正しかったです。でも、私は悪かったのです。もちろん、それはフェアではありませんでしたが、その問題を解決する方法は良くありませんでした。

イサクは私よりも忍耐強かったのです。

ペリシテに住んでいた時、ペリシテ人はイサクを妬んで、アブラハムが掘った井戸に土を詰めてしまいました。

イサクが新しい井戸を掘ると、ペリシテ人は「この水は私たちの物だ。ここを出て行きなさい。」と言いました。

イサクが他の場所に移り、新しい井戸を掘った時、彼らはまた同じことをしました。

私だったら、きっと怒っていたと思います。私はこう言ったでしょう。

「これはフェアじゃない。私はこの井戸を掘ったのに。どうしてこのペリシテ人がこの井戸を取って使う権利があるのか。どうして私はまた新しい井戸を掘らなくてはならないのか。水が必要なら、彼らが自分の井戸を掘るべきだ。」

でも、イサクは私とは違いました。

文句を言わずに、井戸を掘り続けたのです。結局、ペリシテ人はイサクをもう困らせることはありませんでした。

そして後に、ペリシテ人との平和条約を結ぶことができました。

私は普通に忍耐強いですが、状況がフェアではないと思うと、すぐに怒ってしまいます。

でも、神様が命じられたのは、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」ということです。(ローマ12:18)

そのためには、私たちは人をありのままで受け入れなければなりません。

家事に関して、私はデビッドを頼ることができませんでした。彼が家事をまったくしなかったからです。私はデビッドを変える力がなかったので、彼をありのままで受け入れるしかありませんでした。

デビッドを変えようとしましたが、結局うまくいきませんでした。

人は変わりたいと思えば変わるかもしれませんが、私たちが他人を変えることはできません。だから、不公平な状況に直面することも多いかもしれません。

でも、相手を受け入れないと、相手との平和を失うだけでなく、自分の心の中の平和も失います。

誰かが私たちを怒らせた時、何も言わない方がいいでしょうか?とんでもありません。

一度、またはもう一度何かを言うべきです。でも、その後は、その人を許しましょう。

相手が変わらなくても、受け入れましょう。なぜなら、イエスキリストは私たちを受け入れてくださったからです。パウロはこう言いました。

キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。(ローマ15:7)

パウロは教会の関係について語りました。

もし私たちが教会でも、仕事でも、学校でも、家庭でも、互いに受け入れるのなら、私たちの関係はどれほど良くなるのでしょうか。

そして、どれほど神様に栄光をおささげすることができるのでしょうか。

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創世記

恐れによって生きている?

私はイサクの行動が信じられません。

アブラハムがしたように、自分の妻を紹介するときに、「こちらは私の妹です」と言いました。

なぜ信じられないのでしょうか。それは、アブラハムが同じことをしたとき、イサクはまだ生まれていなかったからです。

アブラハムはそのような悪いアドバイスを与えたのでしょうか。「外国に行ったら、リベカを妹として紹介したほうがいい」と言ったのでしょうか。

そう言ったとしても、なぜアブラハムはイサクに、パロとアビメレクの反応について注意しなかったのでしょうか。

恐れるとき、私たちは馬鹿なことをよくします。アブラハムもそうでしたし、イサクもそうでした。

恐れると、私たちは行動の結果を正しく見ることができなくなります。将来が怖いから、占い師や星占い師に相談してしまいます。

私たちは一人ぼっちの人生を怖がるあまり、相応しくない人と結婚することがあります。

私たちは彼氏や彼女を失うことを恐れるため、一緒に寝てしまいます。

私たちの家族や友達に拒絶されることを恐れるあまり、行動や言葉でイエス様を否定してしまうことがあります。

しかし、神様は私たちに将来を恐れて生きることを望んでおられません。

神様は私たちを愛し、世話してくださいます。また、神様は私たちに最善を望んでおられます。神様は、私たちがそのことを知り、それに基づいて生きることを望んでおられます。

私たちが心からそれを信じることができればいいのにと思います。

いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げよう。

「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわがが神。」と。(詩篇91:1ー2)

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創世記

近視的

子供の頃、私の家族はみんな眼鏡をかけていました。

どうしてかはわからないけれど、私は少し羨ましく思っていました。

かっこいいと思ったので、目を大事にせずに過ごし、小学校二年生のときから眼鏡が必要になりました。

これまでにたくさんの眼鏡やコンタクトレンズを買ってきました。目を大事にしなかったことを本当に後悔しています。

エサウは自分の将来に対して、かなり近視的でした。

長男として、いろいろな特権がありました。彼の遺産は兄弟の遺産の二倍だったし、イサクが亡くなったら、エサウは家族のリーダーになるべきで、神様がアブラハムとイサクに約束された祝福を受け継ぐべきでした。

でも、エサウはその特権を軽蔑しました。彼は現在の欲望を優先し、その特権にはあまり価値がないと思いました。だから、一瞬で、レンズ豆の煮物のためにすべてをヤコブに与えました。

エサウを批判するのは簡単ですけど、私たちはどれくらいイエス・キリストにおける遺産を軽視しているでしょうか。

どれくらい私たちは現在の必要と欲望を天の遺産より優先しているでしょうか。私たちは自分のキャリアを追求し、お金を追い求め、物を追い求める中で、一番大切なことを忘れがちです。

結局、この世界から天国に持っていけるのはたった2つだけです。つまり、神様との関係と神様を知っている人たちとの関係です。

この2つのものは永遠です。天国の遺産の大部分を構成するのは、この2つのものです。

この世界の残りは埃になり、なくなります。だから、こんな一時的なものに、なぜそんなに焦点を当てるのでしょうか。

ヨハネはこう書きました。

世界も、世にあるものも、愛してはなりません。

もし誰でも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

すべての世にあるもの、すなわ ち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(ヨハネの手紙第一2:15ー16)

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創世記

振り返らない

日本に引っ越したとき、どれぐらいここにいるか全然分かりませんでした。最初の計画は、二年間ぐらいここに住んでみることでした。

その間に、神戸の教会に行き始めました。そこで、スモールグループのセミナーがありました。そのとき、神戸の牧師が宣教師について話しました。

ある言葉が本当に心に残りました。

それは、「日本に宣教師として来るなら、Bの計画を持ってはいけません。Aの計画だけを持つべきです。」というものでした。

つまり、ずっと日本にとどまることを計画するべきだ、ということです。

「うまくいかないから帰る」という考えを捨ててください、と言われました。

なぜなら、日本で関係を築くのには時間がかかります。そして、日本人がクリスチャンになるために、その関係はとても大切なのです。

その牧師の経験では、多くの人がこう言いました。

「キリスト教に興味があるけど、あなたはどれぐらい日本にいるつもりでしょうか。もし、私がクリスチャンになってから、あなたがアメリカに帰ってしまったら、私はどうすればいいのですか。」

私はその言葉を忘れず、その後、ずっと日本にいることを決めました。

この箇所を読んで、そのことについて考えました。

アブラハムはイサクのために妻を見つけたかったのですが、カナン人と結婚することを望みませんでした。だから、妻を捜すために、アブラハムの親戚の元へしもべを送りました。

しもべは尋ねました。「もし誰もカナンに引っ越したがらないなら、どうしますか。あそこに戻りましょうか。」

けれども、アブラハムは答えました。「絶対に戻らないでください。」

それは聖書に記されたアブラハムの最後の言葉です。

どうしてアブラハムはそんなに断固とした態度をとったのでしょうか。神様が「以前の人生を捨てて、私と新しい人生を始めなさい」と命じられたからです。

そして、アブラハムは、イサクが神様の約束を捨てることを望みませんでした。

それに、神様に従えば、神様が必ずイサクのために妻を備えてくださると信じました。だから出身地に帰る必要はないと思いました。

以前の態度とは全然違いました。

パロの事件やアビメレクの事件、イサクの出産のときは、そんな信念がなくて、失敗しました。

けれども、アブラハムの信仰はやっと成熟しました。神様の計画を信じて前を向きました。振り返ることを拒否しました。

ヘブル書11章にこのように書いてあります。

もし、出てきた故郷の事を思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(15-16節)

神様は私たちがそのように生きることを望んでおられます。

時々クリスチャンの生活は大変になり、私たちが望むようには人生がうまくいかず、振り返って「クリスチャンになる前の人生はもっと楽だった」と考えてしまうのは簡単なことです。

振り返ると、以前の生活に戻ることも簡単です。私の場合、もし私がいつもハワイを思い続けていたら、ホームシックになり、日本での生活をあきらめることも簡単だったでしょう。

しかし、神様は私たちがいつも振り返ることを望んでおられるのではありません。

神様は前を向いて歩んでほしいと願っておられます。

そして、神様が望んでおられるのは、私たちが神様の備えてくださった道をしっかりと歩み続けることです。

一番簡単な道ではないかもしれません。けれども、結局、一番祝福のある道です。

あなたはどう思うかわかりませんが、私はその道を歩みたいです。

ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリストイエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。

すなわち、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリストイエスにおいて上に召してくださる神の栄冠をを得るために、目標をめざして一心に走っているのです。(ピリピ3:12-14)

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創世記

寄留者と異国人

日本の政府は私が他の惑星から来たと思っています。

証拠があります。日本に引っ越したときに、政府から身分証明書をもらいました。そのカードに書いてあるのは「Certificate of alien registration」ということです。つまり、「宇宙人の登録証明書」と書かれています。

ちょっと冗談ですが、実は、政府がその言葉を翻訳したとき、「宇宙人」と書かずに、「外国人」と書きました。

とはいえ、「alien」を読むたびに、いつも笑ってしまいます。

英和辞典を調べて「Alien」を引くと、いろいろな定義があります。もちろん、二つの定義は「宇宙人」と「外国人」です。

聖書は「寄留者」という語を用いています。

とにかく、アブラハムはカナンに寄留者として住んでいました。神様はアブラハムをカナンに導き、カナンがアブラハムの子孫の遺産になると約束してくださいました。けれども、その時はまだ来ていませんでした。

だから、アブラハムの妻サラが亡くなったとき、葬る場所がありませんでした。それで私有墓地を買わなければなりませんでした。ヘテ人と話したとき、アブラハムはこう言いました。

「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。」

そして、ヘテ人は墓地を売りました。

アブラハムも亡くなり、そこで葬られました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、待ち望みました。ヘブル書11章にこのように書かれています。

信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。。。

これらの人々は皆、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者である事を告白していたのです。

彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めている事を示しています。

もし、出てきた故郷の事を思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。

それゆえ、神は彼らの神と呼ばれる事を恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(へブル書11:9-10,13-16節)

私が日本に引っ越した後、兄はオアフ島からハワイ島に引っ越しました。姉と旦那さんもすぐに引っ越し、その後、私の両親もあそこに引っ越しました。

今、私がオアフ島に帰ったら、家が全然ありません。それはかなり寂しいことです。

私の出身地に帰ると、私が育った家を見たら、知らない人がそこに住んでいて、その家の雰囲気も違います。もう私の家ではないと感じます。

とはいえ、その家は決して私の家ではありませんでした。この世界は短期での居留先です。私たちは寄留者と異国人で、この世界に属していないのです。私たちの本当の家は天国にあります。

だから、あなたの心はどこにあるのでしょうか。この世界にあるのでしょうか。つまり、あなたの焦点はこの世界にありますか。それとも、あなたの本当の家を求めているのでしょうか。

ある人は、天国中心の者はこの世界に役に立たないと思います。けれども、C.S. ルイスはこう言っています。

歴史を読んでみると、現在の世界のために最も熱心に働いたクリスチャンは天国中心のクリスチャンでした。

イエス様の使徒たちはそのようなクリスチャンでした。

奴隷貿易と戦ったイギリスのクリスチャンたちも天国中心のクリスチャンでした。

しかし、今ではクリスチャンたちが天国についてほとんど考えなくなり、この世界で神様のために効果的な器ではなくなりました。(私の言い換え—C.S. ルイスの『キリスト教の精髄』という本からです。)

ルイスの言うとおりです。私たちが天国中心であるならば、私たちの優先順位はすべて正しくなります。

しかし、この世界を最も大切にしたならば、私たちの優先順位と人生はめちゃくちゃになってしまいます。あなたの心はどうでしょうか。あなたの優先順位は正しいでしょうか。

この歌の歌詞が大好きです。

私たちは大使です。
神様のメッセージを携えて、
私たちはしばし留まらなければなりません。

この世を出る前に、
しなければならないことがたくさんあります。

信者となる人はまだたくさんいるでしょう。
私たちの使命は必ず成功するでしょう。
ハデスの門には打ち勝てません。

私たちは寄留者と異国人です。
私たちはこの世界の者ではないのです。

ーーボブ・ハートマン

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創世記

神様は良い方です

ある教会で、ワーシップリーダーはよく「神様は良い方です」と言います。

すると、皆は「いつもその通りです」と答えます。

さらに、リーダーが「いつもそうでしょう?」と言うと、皆は「はい。神様は良い方です」と答えます。

その習慣を批判しているわけではありませんが、皆はその言葉の意味を理解して、心から信じているでしょうか。それとも、人生がうまくいく時だけ信じるのでしょうか。

事実は、その言葉を信じるかどうかによって、私たちのクリスチャンとしての生活は形成されます。良い方向に行くかもしれませんし、悪い方向に行くかもしれません。

ある日、アブラハムは深い苦しみに直面したと思います。なぜなら、神様は「あなたの愛しているひとり子イサクを全焼のいけにえとして、私に捧げなさい。」と言われました。

アブラハムが25年以上もイサクが生まれることを待ち続けたのに、神様は「全焼のいけにえとして捧げなさい」と言われました。

そう聞いた時、何人の人が「神様は良い方です」と言えるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。

おそらく、私は全く言えないと思います。

しかし、アブラハムは従いました。それに遅れることなく、迅速に従ったのです。朝早く、アブラハムとイサクは出かけました。

アブラハムはイサクを縛り、祭壇の上に置き、刀を取って、イサクを殺すために手を伸ばしました。そこまでして従いました。すると、神様はアブラハムを止めてくださいました。

どうしてアブラハムはそこまで従えたのでしょうか。それは、アブラハムにとって「神様は良い方」という言葉がただのキャッチフレーズではなかったからです。

アブラハムはその言葉を本当に信じていました。

アブラハムは神様の約束をよく知っていました。神様はイサクを通して国家を作ると約束されました。

アブラハムが信じていたのは、「神様は良い方だから、決して約束を破られるはずがない」ということです。

「もし神様が私に息子を殺しなさいと命じられたとしても、必ずよみがえらせる」と信じました。

神様はアブラハムをがっかりさせられることはありませんでした。(ヘブル11:19)

創世記22章5節のアブラハムの言葉は本当に重要だと思います。下僕たちに話した時、「私たちはあなたのところに戻ってくる」と言いました。

ヘブル語では、さらに強い言葉で「私たちは必ずあなたのところに戻ってくる」と言っています。

アブラハムは神様が良い方であると信じたからこそ、心を尽くして従ったのです。

あなたはどうでしょうか。神様が良い方であることを本当に信じていますか。本当に信じているでしょうか。

それとも、あなたにとって、それはただのキャッチフレーズなのでしょうか。

心から神様が良い方であることを信じるまでは、私たちは神様に従うことをためらってしまいます。

神様の道が最善かどうかを疑ってしまうのです。

そして、心から神様が良い方であることを信じるまでは、決して神様を喜ばせることはできません。

へブル書の著者こう記しました。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル書11:6)

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創世記

「私の道」を手放す

イサクが生まれた時、アブラハムは難しい決断に直面しました。サラはイシュマエルがイサクをからかっているのを見ました。それでサラはアブラハムにこう言いました。

「ハガルとイシュマエルを追い出しなさい。」

かなり厳しい言葉でした。アブラハムはイシュマエルのお父さんだったし、その文化では息子を追い出すことは許されていませんでした。

それでも、神様も追い出すように命じられました。それはなぜでしょうか。

一つの可能性として、イサクが生まれてもアブラハムはイシュマエルに長男の祝福特権を与えようと考えていたかもしれません。それは、創世記17章でアブラハムが神様にそのように祈られたからです。

14年もの間イシュマエルだけが息子だったので、アブラハムはイシュマエルを本当に愛していました。しかし、その計画は神様の御心ではありませんでした。

とはいえ、もっと大切な理由があったと思います。イシュマエルは「私の道」という考えを象徴していました。

アブラハムが自分の道を選んだ結果、イシュマエルが生まれました。

神様がすぐに子を与えてくださらなかったとき、アブラハムとサラの信仰は揺らぎ、自分たちの道を進んでしまいました。

サラは女奴隷ハガルをアブラハムに与え、ハガルを通してイシュマエルが生まれました。

けれども、アブラハムとサラは間違っていました。彼らの道は神様の道ではありませんでした。

おそらく、神様が言われたかったのは、「『私の道』を放す時だ」ということです。

神様はこう言われました。

「私はイシュマエルを世話する。彼は絶対に大丈夫です。しかし、イシュマエルを手放す時です。自分の計画を放す時です。そして、私と私の計画に心尽くして従う時です。」

だからアブラハムは神様に従いました。

神様は私たちにも同じことを求めておられます。

私たちはよく、神様の道に進みたいと思いつつも、私たちの道を放すことができません。時には、神様のタイミングを待つことができず、アブラハムのように自分の知恵と力で行動しようとしてしまいます。

また、神様の道に進もうとしても、うまくいかないように思える時には、諦めて自分の道に戻ってしまうこともあります。

しかし、神様が私たちに語っておられるのは、「手放しなさい。私に信頼しなさい。私はすべてのことを世話しているのです。」ということなのです。

そして、私たちが関係や仕事、経済を神様に委ねるとき、神様の祝福を知るようになるのです。

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創世記

言い訳の余地はない

「でも知らなかった。私の良心はきれいです。」

ゲラルの王アビメレクがアブラハムの妻を自分の妻として取ったとき、彼はそう言いました。

そして、それは事実でした。アブラハムのほうが悪かったのです。

アブラハムはうそをつきました。つまり、「サラは私の妹だ」と言ったのです。

だから、アビメレクはサラを取りました。

しかし、神様はアビメレクに面と向かってこう言われました。

「あなたが召しいれた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。」

アビメレクは本当に知らなかったのですが、罪を犯しており、その罪を償う必要がありました。

私たちはどれほど多くの罪を知らずに犯しているでしょうか。多分、自分が思っているよりもはるかに多いかもしれません。

だからこそ、日が終わったら「神様、私の心を探ってください」と祈るべきです。そうしないと、私たちが気づかないまま罪を犯して、その罪が神様との関係を妨げるかもしれないからです。

ダビデはそのことをよく知っていたので、こう祈りました。

誰が自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。

どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。

そうすれば、私は全ったき者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。(詩篇19:12-13)

別の祈りで、ダビデはこのように祈りました。

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:23-24)

神様、どれほど私が知らずに罪を犯していて、その罪が私たちの関係を妨げることがあるのでしょうか。どうか赦してください。

聖霊の声に対して、私の耳がもっと敏感になりますように。そして、私が罪を犯したら、すぐに気づいて告白できますように。

ダビデが祈ったように、私の隠れた罪をお赦しください。私のうちに傷のついた道があるかどうかを見てください。

傲慢の罪から守ってください。あなたと親しい関係を心から望んでいるからです。アーメン。

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そうすれば、どうなりますか

最近、ある人と話しました。

彼は釣りが大好きです。家族が三重県に住んでいて、彼は単身赴任で大阪に住んでいます。毎週、彼は三重県に家族に会いに帰りますが、ちょっと言い直すと、彼は家族にほとんど会いません。むしろ、釣りをしに行くのです。

笑顔で彼はこう言いました。「私の妻はいつも文句を言って、娘たちと遊んだほうがいいと言われます。」二人の娘がいて、今8歳と10歳です。

彼に会ったばかりだったので、何も言いませんでしたが、言いたかったのは「そうすれば、どうなると思いますか。」ということです。

「釣りをするのは楽しいかもしれませんが、いつもそうしていると、家族の関係はどうなりますか。」と言いたかったのです。

彼は大阪に住んでいて、ほとんど家族に会いません。家に帰っても、家族とあまり時間を過ごさないのです。

ある日、家族の関係が完全にだめになってしまうことに気づくかもしれません。その日はすでに来ているかもしれません。

私たちは皆、人生の決断をします。多くの場合、その決断が良いものだと思うかもしれません。けれども、自分に問いかけなくてはならないのは、「そうすれば、どうなりますか。」ということです。

ロトの娘たちは家系を保ちたかったのです。しかし、ソドムが滅びたとき、その二人の夫はいなくなりました。それに、ロトと娘たちの三人では山に住んでいました。再婚の可能性が全くありませんでした。

そこで、その二人は父を酔わせて彼と寝たのです。家系を保ちましたが、その結果は何でしたか。自分たちと父が堕落してしまったのです。

ロトがそれに気づいたら、どのように感じたでしょうか。ロトもたくさんの悪い決断をしました。

その時、彼は何も持っていませんでした。そして、アブラハムに戻れない理由は何もありませんでした。アブラハムはきっとロトを受け入れたでしょう。

けれども、ロトは恥ずかしく思ったかもしれません。だから、プライドを守ろうとして戻らなかったのです。

ところが、その決断によって、娘たちの行動で、三人のプライドは完全に失われてしまいました。

しかし、素晴らしいことは、どんなにひどい状態に陥っても、神様にはそれを良いことに変える力を持っておられるということです。

ロトの娘はモアブという息子を生みました。

その家系からルツという女性が現れました。ルツは義理の母と共にイスラエルに行き、ボアズという男性と結婚しました。

そして、その二人の子孫を見てみると、誰の名前が見つかるでしょうか。イエス・キリストです。

ロトと娘たちはとても悪い決断をしました。それでも、神様はその悪い状態を良いことに変えてくださいました。

神様は私たちのためにも同じことをしてくださいます。

クリスチャンではない人と結婚して、今結婚問題に直面しているかもしれません。

あなたが家族を無視していて、今妻が離婚したいと思っているかもしれません。

経歴を追い求めるあまり神様から離れた結果、今あなたの人生は虚しくなり、神様があなたを見放したと思うかもしれません。

どんなに人生がめちゃくちゃになっていても、神様は決してあなたを見捨てません。神様はあなたを諦めません。一番ひどい状態にあっても、それを美しいものに変えてくださいます。

だから、神様に立ち返ってください。悪い決断をしたことを認めてください。赦しを求めて祈ってください。そして、神様は助けてくださいます。

神様はその問題を取り去らないかもしれませんが、必ず助けてくださいます。

主のみ前で、へりくだりなさい。そうすれば、主があなた方を高くしてくださいます。(ヤコブ4:10)

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手放すべき物にまだしがみついている?

数年間前に、NOVAという英会話学校で働きました。日本の中で、一番大きな英会話学校で、あそこで7年ぐらい働きました。

けれども、最後の2~3年間で、少し不穏な傾向に気づきました。一つ目は、NOVAがあまりにも速く拡張しました。

そして、最後の年に、たくさんのNOVAの学校が閉鎖され始め、私の給料も遅れて支払われました。

そのとき、私はNOVAを辞めるべきだったのですが、少し難しかったのです。なぜなら、給料は良かったし、有給休暇がたくさんあったし、働く日と時間が良かったからです。ほかの学校にはそんな良い条件がないと思っていました。

だから、実際に希望がなくても、希望し続けたのです。そして、NOVAは倒産してしまいました。突然、多くの先生が仕事を失い、新しい仕事を見つけるのが非常に難しくなりました。

今は、まあまあ良い仕事がありますが、もっと早くNOVAを辞めていたら、もっと良い仕事が見つけられたかもしれないと思います。

ロトは同じような状況にありました。土地の問題で、ロトはアブラハムから離れました。ロトはソドムを見て、本当に良い所だと思いました。

そして、すぐにソドムのリーダーになったようです。リーダーはいつも都市の門に座り、人々の争いごとを裁いていました。だから、良い所にいて、良い立場がありました。

とはいえ、問題がありました。それは、ソドムが非常に邪悪な都市だったことです。

おそらく、リーダーとして、ロトはソドムに良い例を示そうとしたのでしょう。しかし、ソドムはますます悪くなりました。ペトロはロトについてこう書いています。

無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。

というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。(第2ペテロ2:7-8)

もう一つの問題がありました。ソドムの人たちはロトの考え方に影響を与えました。ロトはソドムに影響を与えるよりも、ソドムがロトに影響を与えました。

この話を読むと、そのことがはっきりと分かります。ソドムの人たちがロトの家を攻撃し、天使を辱めようとしたとき、ロトは何をしましたか。「私のお客さんを辱めないでください。むしろ、私の娘たちを辱めてください」と言ったのです。

もし不敬虔な人たちだけと時間を過ごしていると、また、神様の道を教える人がいないなら、そのような問題がよく起こります。つまり、不敬虔な人の態度と考え方を取ってしまうのです。

ロトはずっと前に出たほうがよかったのです。どうして、そうしなかったのでしょうか。たぶん居心地が良かったからです。

その社会で自分の立場は楽しかったかもしれません。だから、行きたくなかったのかもしれません。希望がなくても、希望し続けたのです。けれども、それは彼と家族にほとんど災害をもたらしました。

天使がロトに裁きのことを注意しても、ロトはためらいました。天使たちはロトと家族を都市から引っ張らなくてはなりませんでした。それでも、ロトは出て行くことにためらったのです。

私たちは、良くないものをどれほど持ち続けているでしょうか。

それは、家族から引き離す仕事かもしれません。

それとも、教会に行けなくさせる仕事かもしれません。

あるいは、クリスチャンではない彼や彼女との関係かもしれません。

あるいは、ポルノかもしれません。

時には良いものさえも、私たちを神様から離れさせることがあります。

例えば、時間を取りすぎる趣味かもしれません。インターネットや本、テレビ、スポーツかもしれません。

それらは基本的に悪いものではありません。

しかし、それが私たちを支配し始めるなら、悪いものとなってしまいます。

私にとって、時々それは問題になります。

あなたはどうでしょうか。あなたは何にしがみついていますか。

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神様の心を反映する

アブラハムは何回も失敗したことがありました。けれども、この箇所を読むと、なぜ神様がアブラハムを選ばれたのかがよく分かります。

なぜなら、この会話のアブラハムの言葉と願いの中に、神様の心にあるものが見えてくるからです。つまり、あわれみを与えようとされる御心です。

神様はアブラハムに言われました。

「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重いのです。私は下って行き、私に届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見ようと思います。私は知りたいのです。」(創世記18:20ー21節)

アブラハムはその結果がよく分かりました。それは裁きでした。

しかし、甥ロトと彼の家族はソドムに住んでいたため、アブラハムはあわれみを求めて祈り始めました。

これは本当に感動する箇所です。

二人の人、すなわち二人の天使はソドムのほうに行きましたが、アブラハムは主の御前に立ち、ソドムを見つめていました。

彼は数分間、静かに立っていたかもしれません。裁きがもうすぐ来ることを知っていたからです。

けれども、アブラハムはおずおずと神様に近づきました。そして、神様の隣に立つと、そっとささやきました。

あなたは本当に、正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。本当に滅ぼしてしまわれるのですか。

正しい者を悪い者と一緒に殺し、そのため、正しいものと悪いものとが同じようになるというような事を、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。

全世界を裁くお方は、公儀を行うべきではありませんか。(創世記18:23-25)

神様は答えられました。

もしソドムで、私が五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。(26)

1分経ったかもしれません。そして、アブラハムは尋ねたのです。

もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。(28)

神様は答えられました。

滅ぼすまい。もしそこに私が四十五人を見つけたら。(28b)

その会話が続く中で、だんだんアブラハムはその人数を減らしました。50人、40人、30人、20人、最後に10人になりました。

アブラハムはとりなし続けていたら、神様の恵みはどこまで及んでいたでしょうか。1人まででしょうか。

もしかしたら、神様は1人のために町を滅ぼさなかったかもしれません。

なぜ神様は、会話をそこまで継続させたのでしょうか。どうして私は神様が1人のために町を赦したかもしれないと思うのでしょうか。

なぜなら、神様は、いつか裁かなければならなくても、あわれみを与えるのが大好きです。そして、私たちが神様の御心を反映して、あわれみを与えたいなら、神様は喜ばれます。

だから、私たちが人のために祈って、「神様、あわれみを与えてください」と頼んだら、神様はすぐに「はい、そうします」と答えられます。

私たちはどうでしょうか。その情け深くて、あわれみ深い心がありますか。人が神様のあわれみを知って、神様を知るように望みますか。

それとも、全然気にならないでしょうか。

イエス様を知らない人のために、どれほど祈っているでしょうか。

その人のために祈るとき、神様があわれみを与えてくださるように祈っていますか。

それとも、裁きを願って祈っているでしょうか。

それとも、まったく祈っていないでしょうか。

神様はあわれみを与えることを望んでおられます。神様は私たちがその御心を反映することを望んでおられます。

神様を知らない人について考えるとき、あなたはどのように感じるでしょうか。

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苦さと喜び

聖書を読むとき、時々その登場人物の顔を見たいと思います。まるでビデオで録画されたかのように、彼らの表情が分かればいいのにと思います。

例えば、アブラハムとサラが神様の言葉を聞いて笑ったとき、その笑い方が同じだったかどうか知りたいです。

よく分かりませんが、多分違う笑い方だったと思います。

アブラハムが笑ったときは、きっと良い冗談を聞いたときのような笑い方だったのではないでしょうか。

彼は、「ええ?サラが妊娠するの?90歳なのに?それはいい冗談ですね。もうひとつ面白い話を聞かせてください。」と言ったかもしれません。

しかし、サラが笑ったときは、少し苦い感じがあったのではないでしょうか。彼女は神様の約束をよく知っていました。何十年も前から聞いていたことでした。けれども、まだ赤ちゃんは来ていませんでした。

その間に彼女は非常に恥を感じました。自分の女奴隷が彼女を侮辱しました。それでも、もう一度神様は約束をされました。

サラの反応は?彼女はこう言ったかもしれません。

「まさか!何度もその約束を聞いたけれど、何も起こりませんでした。今となっては私はもう老いぼれています。それでも赤ちゃんを生むというのですか?主人も年寄りなのに?まさか!信じられません。」

神様の約束を成就するために待たなければならないとき、苦い思いが浮かぶことは簡単です。

神様に従っているにもかかわらず、まだ祝福を受けていないとき、心が苦くなることは簡単です。

祝福が決して訪れないと思うことも簡単です。神様が約束を守らないと思うことはさらに簡単です。

その時、私たちはどうするでしょうか。約束を信じ続けるでしょうか。神様が私たちを祝福されることを信じ続けるでしょうか。それとも、諦めてしまうのでしょうか。

アブラハムとサラの信仰は時々動揺しました。けれども、結局、彼らは神様を信じ続けました。そして、神様の祝福を知ることができました。

アブラハムとサラの信仰が時々動揺したにもかかわらず、神様はその二人に恵みを与え、息子を授けられました。

そして、不信仰から生まれた苦い笑いは、喜びの笑いに変わったのです。

その時、サラはこう言いました。

神は私を笑われました。聞く者は皆、私に向かって笑うでしょう。

誰がアブラハムに、「サラが子供に乳を飲ませる」と告げたでしょう。

ところが私は、あの年寄りに子を産みました。(創世記21:6ー7)

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無理なことができる神様

6月から、少し眠ることが難しくなりました。

どうしてなのか分からないのですが、一週間に2回ほど、十分に眠れない日が続いています。一度だけですが、全く眠れなかった日もありました。特に大きなストレスがあるとは思いません。

体力的な問題なのか、霊的な問題なのか、よく分かりません。一つの可能性として、蒸し暑さが原因かもしれません。いずれにせよ、私にとっては、初めてこのような問題が生じたのです。どうしてなのでしょうか。

眠れない夜があると、その次の夜には少しストレスを感じます。つまり、「今晩は眠れるだろうか」と考えてしまいます。

しかし、そう考えることでリラックスできず、また眠れなくなってしまうのです。

けれども、この箇所を読みながら、神様がどんなことでもできる方であることを思い出したいです。不眠症すらも癒せる方です。

この箇所で、神様は初めてご自身を全能の神として紹介されました。おそらく、アブラハムにとって神様の約束を信じることは難しかったからでしょう。

アブラハムは99歳で、まだ子どもがいませんでした。サラも年を重ねており、子どもを産むことができない状態でした。神様がサラを通して赤ちゃんを授けるという約束は、非常に信じがたいものでした。

だからこそ、神様が現れた時に「私は全能の神です」と言われました。

つまり、「あなたの状況は不可能のように思えるかもしれないが、私は何でもできるのです」と。

それでも、アブラハムにとっては、神様がその約束を守られることは信じがたいものでした。そこで、アブラハムは笑いながら提案したのです。

「イシュマエルがいます。約束を果たすために彼を使ってください。」

しかし、神様は断られました。

「いや。私が約束したように私はやります。あなたは無理だと思うかもしれないが、私は何でもできます。」と言われました。

さて、眠れない話に戻ります。どうして時々きちんと眠れないのか分からないのです。そして、心配することは簡単です。もし、「全然心配していない」と言えば、それは嘘になるでしょう。

正直に言うと、あなたの祈りがほしいです。特に日曜日の夜のために祈ってください。なぜか日曜日は特に大変なのです。

神様が私に平安を与えてくださるように祈ってください。そして、神様が私の問題を癒してくださるように祈ってください。

神様、あなたは何でもできる方です。あなたは私を見ておられる神です。あなたは私を聞いてくださる神です。私の不眠症の問題と私の心配をよく知っておられます。

私が寝るときに平安を与えてください。原因は分からないけれども、あなたは分かっておられます。だから助けてください。

あなたが無理なことをできる神であることを信じます。アブラハムにとっても、あなたは無理なことができる神でした。今でも何でもできます。

私がそのことを信じることができますように。アーメン。

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見ておられる神様、聞いておられる神様

「神様はあなたが何をしているか見ておられるよ。神様は知っておられるよ。神様から隠れることはできません。」

この言葉を聞くと、少し恐怖を感じるかもしれません。まるで神様が天国で罪を犯す者を探し、稲妻で罰する存在のように感じられることがあります。

しかし、創世記16章において、神様はそのような姿ではなく、ご自身を違った形で示されました。

ハガルは大きな失敗をしました。サラが赤ちゃんを授かることができなかったため、家族の名を保つためにアブラハムにハガルを与えました。そしてハガルは妊娠しました。けれども妊娠した後、ハガルはサラを軽蔑しました。

ハガルは、「あなたは30年も40年も妊娠できなかった。けれど、私は1年で妊娠できた。」というような言葉でサラを侮辱したのでしょう。

その結果、サラはハガルをいじめました。

「いじめ」とはどのような意味だったのでしょうか。暴力をふるったのかもしれませんし、ひどい言葉を浴びせたのかもしれません。

いずれにせよ、ハガルはその状況に耐えることができず、すぐに逃げ出しました。

サラの行動は間違っていましたが、ハガルにも過ちがありました。彼女自身の態度と行動によって、事態が悪化したのです。

それでも、神様がハガルに向き合われた時、彼女を責めることはありませんでした。彼女の態度や行動を理由に罰することもありませんでした。また、「あなたの態度や行動は当然だ」とも言いませんでした。

むしろ、神様はハガルに懸念を示され、「どこから来たのですか?どこへ向かっているのですか?」と尋ねられました。

ハガルがサラから逃げていると答えると、神様は彼女に一部始終を説明するよう求めることも、罰を与えたり、告白を強要することもありませんでした。

むしろ、神様はこう言われました。

「サラのもとに戻りなさい。そして、サラのもとで身を低くしなさい。あなたも間違いを犯しました。そのため、謝罪しなさい。そうすれば、全てが解決されます。」

さらに、神様はハガルにこう言われました。

見なさい。あなたは身ごもっており、男の子を産もうとしています。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞かれたからです。(創世記16:9-11)

つまり、「あなたの苦しみを私はよく知っています。確かにあなた自身の行動がその苦しみをもたらしました。しかし、あなたが息子を見る時、いつでも思い出しなさい。私はあなたの声を聞く神です。」

(イシュマエルの名前は「神は聞かれる」という意味です。)

ハガルの答えは?

そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエルロイ。」と呼びました。

それは「ご覧になる方の後ろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからです。(創世記16:13)

ハガルにとって、神様が彼女を見ておられること、また神様が彼女の声を聞いておられることは、恐れるべきことではありませんでした。それは心配事ではなく、むしろ希望となりました。

彼女が学んだのは、この見て聞いてくださる神様に従うならば、哀れみを見つけることができるということです。

あなたは失敗したことがあるかもしれません。悪い選択をしてしまい、あなたの人生が混乱してしまったこともあるかもしれません。

しかし、神様があなたを見ておられることを忘れないでください。

神様があなたの声を聞いておられることを心に留めておいてください。

そして、ハガルに哀れみを与えられたように、神様はあなたにも哀れみを与えてくださいます。

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普通かもしれないけど、正しいでしょうか。

最近、中年の生徒と娘さんの彼について話しました。生徒が彼に初めて会った時、様々なことについて話しましたが、突然彼がこう言いました。「あなたの娘さんと一緒に海外旅行に行きます。」

生徒の答えは、「私はびっくりしましたが、許しました」というものでした。おそらく、その生徒は自分を良い父親だと思ったのかもしれません。

そのカップルが別々の部屋に泊まるかもしれませんが、そうしないとしても驚くことはないでしょう。私たちの文化では、カップルが結婚する前に一緒に過ごすことはごく普通のことです。

最近、私の姉も別の話を聞きました。16歳の娘さんの誕生日パーティーについて話した時、あるお母さんがこう言いました。「ウォッカを取り上げましたが、ラム酒は許しました。」

そのお母さんは、十代の子どもがアルコールを飲むことを当たり前だと思ったのかもしれません。

私たちの文化では、多くのことが普通に見えるかもしれません。しかし、重要なのは、これが普通であるかではなく、これが正しいことであるかどうかということです。

アブラハムも似たような問題に直面しました。神様が子どもを与えることを約束されましたが、10~20年待っても子どもは与えられませんでした。

さらに、サラはすでに年をとっており、子どもを授かることができない状況でした。

その文化では、家族の名が途絶えることは非常に深刻な問題でした。家族の名がなくなることは最悪の事態だと考えられていたでしょう。

また、その時代の文化では、妻が子どもを産めない場合、女奴隷を主人に与えることが一般的でした。主人が女奴隷と関係を持ち、赤ちゃんが生まれ、その赤ちゃんが相続人となるのです。

そのため、サラはその文化の習慣に従いました。それは当時の社会では普通のことでした。けれども、それが正しかったのでしょうか。答えは「いいえ」です。

神様はサラが子どもを産むことを約束されていましたが、彼らはその約束を信じませんでした。神様のタイミングを待たず、文化に従い、自分たちで神様の約束を成就させようとしました。

その結果、赤ちゃんは生まれました。

ところが、予想しなかった問題が発生しました。女奴隷ハガルが妊娠していることが分かった時、彼女はサラを軽蔑しました。

サラは怒り、アブラハムを責めてこう言いました。「これはあなたのせいです。」

けれども、それは元々サラ自身の提案だったのです。

さらに、この決断がもたらしたもう一つの予想外の結果として、ハガルの子孫(イスラム教徒)とサラの子孫(ユダヤ人)の間に長きにわたる戦争の歴史が生まれました。

しかし、神様の言葉から離れて文化に従うと、そのようなことが起こるのです。

文化は移り変わります。100年前に普通だったことは、今では普通ではないでしょう。同様に、100年後には、今普通だと思われていることももはや普通ではなくなるでしょう。

その一方、神様の道と言葉は決して変わることがありません。

そして、神様の道と言葉から離れると、私たちは自らを危険にさらしてしまいます。望まない妊娠、中絶、アルコール中毒、離婚、壊れた家族など、こうした例を私はいくらでも挙げることができます。

だからこそ、私たちは選択しなければなりません。文化に従うのか、それとも神様に従うのか。

時には矛盾がないこともありますが、もし矛盾があった場合、私たちはどちらを選ぶべきでしょうか。

ヨシュアがイスラエル人を約束の地に導いた時、こう言いました。

今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実を持って主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こうおよびエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい。

もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、今日選びなさい。

しかし、私と私の家とは、主に仕えます。(ヨシュア記24:14-15)

イスラエル人たちはエジプトで先祖たちが従っていた文化の習慣を続けるか、それとも捨てるかを決めなければなりませんでした。文化に従うのか、神様に従うのかを選択しなければならなかったのです。

私たちも同じようにその選択をしなければなりません。

私たちもヨシュアの言葉を宣言しましょう。「私と私の家とは、主に仕えます。」

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神様を信じる?

時々、神様を信じることは難しいと感じます。私たちは神様の約束をよく知っており、神様が何を言われたかも理解しています。それでも、時には私たちの状況によって、神様に従うことが困難になることがあります。

例えば、皆が知っているように、日本にはクリスチャンの人口が非常に少ないです。1%以下です。そして、クリスチャンの女性は男性よりも圧倒的に多いです。

男性にとっては良い状況かもしれませんが、女性にとっては困難を伴う現実となります。

聖書にはクリスチャン同士で結婚するべきだと書かれていることは知っています。しかし、信仰を持つ良い伴侶を見つけるのが難しく、神様がふさわしい人を備えてくださると信じることが難しい場合があります。

特に待つ期間が長くなるほど、信じ続けることがさらに難しくなります。そのため、多くの人が諦めて、クリスチャンではない人と結婚する選択をします。

残念ながら、それは結婚の問題を解決する一方で、結婚生活に新たな問題をもたらすことがよくあります。つまり、キリストを信じない人と共に生活することで、様々なプレッシャーや葛藤が生じるのです。

アブラハムも似たような選択に直面しました。それは、神様を信じるかどうかという問題でした。

神様が彼に約束されたのは、彼が故郷を離れ、神様に従えば、大いなる国民とされるというものでした。けれども、アブラハムはすでに七十代で、まだ子どもがいませんでした。

それでも、神様は彼のもとに再び現れ、「あなたの受ける報いは非常に大きい」と語られたのです。

アブラハムの答えはこうでした。

「どうしてそんなことを言えるでしょうか。私はまだ子どもがいませんし、年老いています。私の下僕が私の財産を全て受け継ぐことになります。どうして私の報いが大きいと言えるのでしょうか。あなたが約束された祝福はどこにあるのでしょうか。」

神様の答えはこうでした。

「その人があなたの跡を継ぐことはありません。天を見上げなさい。もし星を数えられるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになるのです。」

その約束を信じるのは難しかったと思います。

「私は子どもがいませんし、妻も年を取っています。それなのに、私の子孫が星のようになるのですか。」と思ったかもしれません。

それでも、アブラハムは決断をしました。その決断とは?

神様を信じること。

アブラハムは完璧な人ではありませんでした。多くの場合に失敗しましたし、神様を信頼しないこともありました。

例えば、パロの話(創世記12章)やゲラルの王の話(創世記20章)はその例です。

とはいえ、この時とこの場所で彼はこう決めました。「神様を信じます。」

だから、神様は喜ばれました。

神様が何よりも望んでいるのは、私たちが神様に信頼することです。

アダムとエバに対しても、神様は彼らの信頼を望んでおられました。

「どの木からでも自由に食べてよい。でも、この木からは食べてはならない。私を信頼しなさい。私はあなたにとって最善を望んでいるのだから。」

しかし、アダムとエバは神様を信頼せず、神様との関係は壊れてしまいました。

ヘブル人への手紙11:6にはこのように書かれています:

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づくものは、神がおられることと、神を求めるものには報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

私たちの多くは、神様がおられることを信じています。

けれども、本当に神様が私たちにとって最善を望んでおられることを信じているでしょうか。神様に信頼すれば、報いてくださる方であることを本当に信じているでしょうか。

それは最も重要な問いかけです。

クリスチャンではない人と結婚する人にとって、その答えは「信じていない」ということになります。

誤解しないでください。クリスチャンではない人と結婚したからと言って、私はあなたを責めているわけではありません。孤独は辛いものです。長く待つほど希望が薄れていき、信じ続けることがますます難しくなるのです。

アブラハムにとっても、長く待つことは困難でした。創世記16章では、アブラハムとサラは待ちきれず、大きな過ちを犯してしまいました。

とはいえ、神様との親しい関係を望むなら、私たちの心の中で決断をする必要があります。それはつまり、神様を信じること、そして神様に信頼することです。

あなたは過ちを犯したことがあるかもしれません。神様に信頼せず、間違った選択をしたことがあるかもしれません。

それでも、がっかりしないでください。

アブラハムも過ちを犯しました。彼もある時、神様に信頼せず、誤った選択をしました。

しかし、神様はアブラハムを見捨てませんでした。

そして、あなたのことも決して見捨てません。

もし神様との関係を回復したいのなら、もう一度神様のもとに行き、このような祈りを捧げてください。

神様、私は失敗しました。赦してください。しかし、今日あなたの前に来て、私が言いたいのは、あなたを信じるということです。あなたに信頼する。

そうすれば、神様があなたを赦してくださいます。

アブラハムは失敗をしたにもかかわらず、「あなたを信じる」と言ったとき、神様はその信仰を彼の義と認められました。

同じように、もしあなたが心から「あなたを信じる」と言えば、神様はその信仰をあなたの義と認めてくださいます。

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成功と祝福はどこから来るか

私はアブラハムを軍事戦略家としてはあまり考えませんが、この箇所では、彼の行動に驚かされます。

ロトとその家族を救い出すために、アブラハムは318人の手勢で、5人の王とその軍隊を相手に戦い、打ち破りました。

その時、プライドを持つのは容易だったでしょう。「私は偉大だ。私は優れたリーダーだ。」と思ってもおかしくありません。

しかし、アブラハムはそうしませんでした。むしろ、神の祭司メルキゼデクが「この勝利は主から来た」と言った時、アブラハムはそれに賛同しました。

そして、アブラハムはメルキゼデクにすべてのものの十分の一を献げました。

さらに、アブラハムはリーダーであったにもかかわらず、略奪を全く行わず、一緒に戦った者たちにその分け前を与え、残りをソドムの王と彼に組した王たちに戻しました。

どうしてでしょうか。それは本当の祝福がどこから来るかを彼が覚えていたからです。

また、アブラハムは不敬虔な人々から何も受け取りたくなかったのです。彼は23節でこう言いました。

「糸一本でも、靴ひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが『アブラハムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。」

私たちはどれほどプライドの罠に陥りやすいでしょうか。自分の才能や努力だけで成功したと思い始め、神様がその才能や力を与えてくださったことを忘れます。

それを忘れると、神様を忘れることも容易になり、神様から離れて、ほかのものから祝福を求め始めます。例えば、お金やこの世の物から祝福を得ようとするようになります。

イスラエル人も約束の地に入った後、同じことが起こりました。ヨシュアの世代の人々が亡くなると、イスラエル人は神様が自分たちをその地に導いてくださったことを忘れました。

そして、さまざまな神々から祝福を求め、神様を脇に置いてしまいました。つまり、彼らは神様をあまり大切にしなくなったのです。

多くの場合、彼らは神様を捨てたわけではありませんが、他のものを求め、神様を脇に置いていました。

私たちも同じようなことをしてしまうのではないでしょうか。神様を捨てるわけではありませんが、神様を脇に置くことがあります。

私たちの人生がうまくいくとき、どうやってその罠を避けることができるでしょうか。

一つ目は、神様がどなたであるかを覚えておくことです。つまり、神様は天と地を創造された方、いと高き神です。

ヘブル語の別の解釈では、「神様は天と地の所有者」とも表現されています。

つまり、神様はすべてを創られたので、すべては神様のものです。そして、私たちの持ち物もすべて神様から来るものです。

第一コリント4:7にはこう書かれています。

いったい誰が、あなたをすぐれた者と認めるのですか。

あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。

もしもらったのなら、なぜもらっていないかのように誇るのですか。

エレミヤ9:23-24では、神様がこう言われました。

知恵あるものは自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富むものは自分の富を誇るな。

誇るものは、ただ、これを誇れ。悟りを得て、私を知っている事を。

私は主であって、地に恵みと公儀と正義を行うものであり、私がこれらの事を喜ぶからだ。

私たち自身ではなく主にあって誇るならば、私たちは祝福と成功がどこから来るかを覚えておくことができます。

二つ目は、受けた祝福に対して神様に感謝することです。

メルキゼデクは言葉で感謝を捧げ、アブラハムは十一献金によって感謝を捧げました。

時々クリスチャンの中には「十一献金を捧げなくてもいい。それは旧約聖書の律法だけで、私たちはもうその律法に縛られていない」と言う人がいます。

それは事実です。しかし、律法が与えられる前に、モーセではなくアブラハムが、初めて十一献金を捧げました。そしてそれは、神様に感謝するしるしとして捧げたものでした。

私たちもそれと同じです。律法を守るためではなく、義務としてでもなく、献金を通して神様に感謝を表し、私たちが祝福をどこから受けているかを認めます。

その結果、プライドの罠を避けることができるのです。

神様、祝福と成功がどこから来るのかを、いつも覚えていられるようにしてください。

私の才能や努力だけではないことを認めます。すべてがあなたから来ることを認めます。

感謝の心を常に持てるように助けてください。私が他のものを求めるあまり、あなたを脇に置かないようにしてください。

私の人生の中心にあなたを置くことができますように。アーメン。

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喧嘩する価値がない

時々、私は妻と喧嘩します。一般的に小さなことについて喧嘩をしますが、時々、議論が少し激しくなることもあります。

振り返ってみて私が考えるのは、「どうして私はそんなに頑固になったのか」ということです。

(時には「どうして妻がそんなに頑固なのか」と思うこともありますが、それは妻には言わないでください。)

それでも多くの場合、私は自分のプライドと戦い、妻に譲りたくないと思っています。

例えば、私たちにはベビーカーがあり、ハンドルの上にフックがついているストラップがあります。私たちは娘と出かけるとき、普段そのフックにかばんをかけます。かばんをかけていない場合、注意しないと、そのストラップが自然にハンドルの横に落ちてしまいます。

ある日、妻が苛立っていました。私がベビーカーを使った際、ストラップが落ちていたのに直さなかったからです。

ある日、私の妻がいらいらしていました。それは、私がベビーカーを使ったときにストラップが落ちてしまい、直さなかったからです。

(皆さんが私を責める前に言っておきたいのですが、それまで妻からは何も言われていませんでした。ただ、その日だけ「なぜ全然直さないの?」と言われたのです。)

私にとって、その問題はとても些細なことでした。ストラップが落ちたところで、二秒で直せますし、誰が気にするでしょう?

私の妻です。

私が思ったのは、「直すのに二秒かかるだけだし、そんなに気になるなら、妻自身が直したほうがいいのに」ということです。

けれども、神様は静かな声でこう言われました。「たった二秒で済むのなら、なぜそんなに頑固になるのか?直しなさい。」

「はい、はい。わかりました。」

(ため息)

それから、できるだけそのストラップをきちんと直すようにしています。しかし、こんな小さな喧嘩でも、プライドは本当に厄介なものになります。

アブラハムとロトの争いは、さらに大変なものでした。その地には、彼らが一緒に住むための十分な資源がありませんでした。彼らの持ち物が多すぎたからです。そのため、アブラハムの牧者たちとロトの牧者たちの間で争いが起こりました。

アブラハムは家族のリーダーとして、ロトに命令する権利がありました。「ここから出なさい」と言えば、ロトは従わなければなりませんでした。

けれども、アブラハムはそうしませんでした。代わりに、彼はこう言いました。

「私たちは親戚同士です。だから、争いはやめましょう。あなたが行きたい方を選んでください。もしあなたが左に行くなら、私は右に行きます。もしあなたが右に行くなら、私は左に行きます。」

そして、ロトがより良い土地を選んだ時も、アブラハムは文句を言いませんでした。むしろ、「神様があなたを祝福してくださるように」と言い、ロトと別れました。

その後、神様はアブラハムを豊かに祝福してくださいました。

もし喧嘩するときに、私たちが「あなたは私の友人です。あなたは私の妻です。あなたは私の夫です。私たちの関係は、この喧嘩よりも大切です。あなたを愛しているから、私は譲ります。」と言えたら、私たちの人生はどれほど良くなるでしょうか。

私たちがプライドを捨て、パウロの言葉の通り、キリストを恐れ尊び、互いに従い合えば(エペソ5:21)、私たちの人生はどれほど豊かになるでしょうか。

そして、神様はどれほど私たちの関係を祝福してくださることでしょうか。

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祝福になるため?

以前言ったように、聖書の登場人物はどんなに敬虔であっても、失敗することがありました。アブラハムもそのとおりです。

飢きんがあったため、アブラハムとサラはエジプトに行って滞在しました。けれども、アブラハムは神様に信頼せず、サラにこう言いました。

「あなたが私の妻であることを誰にも言わないでください。あなたが私の妹だと言ってください。」

実はそれは真実でした。アブラハムとサラは異母兄妹だったのです。

結果はどうだったでしょうか。パロはサラを自分の妻として迎えました。

サラはどう思ったでしょうか。「私の主人はひどい。なぜ何も言わなかったの?どうしよう」と感じたかもしれません。

アブラハムはいったい何を考えていたのでしょうか。

神様に信頼しなかったにもかかわらず、アブラハムは一時的な祝福を受けました。羊やラクダ、家畜など、パロからたくさんのものをもらいました。

しかし、パロにとってアブラハムは祝福ではなく、呪いとなりました。神様はサラの件で、パロとその家をひどい災害で痛めつけました。

最終的に、パロはサラをアブラハムに返しましたが、アブラハムとその家族をエジプトから追い出しました。

アブラハムはその経験から学ぶべきでしたが、数年後に同じことをしました。

アブラハムはゲラルという場所に行き、「サラは私の妹です」と言って、王によってサラはその妻として迎えられました。

サラは「また!私の主人はひどい!信じられない!」と思ったかもしれません。

そして、神様は王に警告しました。「サラはアブラハムの妻です。彼女を返さなければ、あなたは必ず死ぬ。」と告げられました。

このようにして、アブラハムは王にとってもサラにとっても呪いとなりました。

パロとゲラルの王は同じような反応を示しました。

あなたは私にいったい何という事をしたのか。

なぜ彼女があなたの妻である事を、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。

だから、私は彼女を私の妻として召しいれていた。(創世記12:18-19)

また、

あなたはなんという事を、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪あなたに犯したのか。

あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。 あなたはどういうつもりで、こんな事をしたのか。(創世記20:9-10)

アブラハムの答えは?

「あなたがたが不敬虔な人々だから、私を殺して私の妻を奪うと思ったので、うそをつきました。さらに実際には、それはうそではありません。彼女は本当に私の妹です。」

では、パロとゲラルの王の返事は何だったのでしょうか。「あなたの神様を本当に知りたい。あなたの言葉と行動を通して、私はあなたの神に惹き付けられています。」と言ったのでしょうか。

まったく違うと思います。たぶん、「私の方がアブラハムより正しい。彼のせいで私が呪われた。」と思ったのではないでしょうか。

アブラハムを非難するのは簡単です。けれども、どれほど私の周りの人々が、私について同じようなことを言えるでしょうか。

私が周りの人々にとって祝福ではなく呪いになっていることは、どれほどあるのでしょうか。

私は自分の妻にとってどれほど呪いになっているでしょうか。同僚にとっては?

友人にとっては?

近所の人々にとっては?

正直に言うと、その答えを知りたくありません。

神様、私はあなたに信頼せず、自分の道を選んだことをどうか赦してください。私が周りの人々にとって祝福ではなく呪いになったことをどうか赦してください。

私の人生を通して、人々があなたに惹き付けられるようになりますように。私が変えるべきところを示してください。そして、それを変える力を与えてください。アーメン。

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祝福を受けるため。祝福を与えるため。

今日の箇所を読んで興味深いと感じたのは、神様がバベルの人々から取られたものをアブラハムに与えたということです。つまり、神様はアブラハムに大いなる国と大いなる名を与えられました。

やはり、そのようなもの自体は本質的に悪いものではありません。

さらに興味深いのは、神様が「あなたの名は祝福となる…地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と言われたことです。

神様はアブラハムを祝福したいと望まれましたが、それと同時に、アブラハムが周りの人々を祝福することも望んでおられました。

最終的には、アブラハムの子孫であるイエス様を通して、この世界が祝福されました。

しかし、アブラハムが生きている間、神様が望まれたのは、アブラハムが他の人々を祝福することでした。

多くのクリスチャンたちは「神様、私を祝福してください」と祈りますが、どのくらい「神様、私によって他の人々を祝福してください」と祈るでしょうか。

「私の妻にとって、私は祝福となるように。私の子供、教会の人たち、同僚たち、近所の人たちにとっても、私が祝福となるように。」

どれほどそのように祈っているでしょうか。

興味深いのは、私たちが他の人にとって祝福となると、私たち自身も祝福されるということです。

箴言11:25にはこう書かれています。

おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。

英語の翻訳ではこう書かれています。

人をリフレッシュする者は自分がリフレッシュされる。

神様、時々自己中心になることは簡単です。そして、いつも自分の願いだけのために祈ってしまいます。しかし、どうか私を変えてください。

今日は私自身を祝福してくださるように祈るのではなく、むしろ私が周りの人々にとって祝福となるように祈ります。

私を通して、人々がリフレッシュされ、励まされるように祈ります。

私の妻、娘、教会の人々、同僚たち、近所の人々にとって、私が祝福となるように祈ります。

彼らが私の中にあなたを見出せますように。私の人生を通して、人々があなたに惹き付けられるようになりますように。

どうか私が自分自身に焦点を当てるのではなく、周りの人々に焦点を当てることができますように。私の心を変えてください。アーメン。

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出なさい

「出なさい!」

その言葉は少し厳しく聞こえるかもしれません。

ある英訳では、さらに厳しい表現になっています。「Get out!」、つまり、「出ていけ!」という意味です。

アメリカでは、子供たちが乱暴すぎるとき、親が苛立って「Get out!」と言うことがあるかもしれません。

神様は苛立ってはおられませんでしたが、アブラハムにとって神様の言葉は厳しいものだったでしょう。

なぜ神様はアブラハムにそのような命令をされたのでしょうか。「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出なさい」と命じられた理由は何だったのでしょうか。

もしかすると、周りの人々がアブラハムに悪い影響を与えていたのかもしれません。

アブラハムの家族は偽物の神々を崇拝していたのです。彼らは真の神様を崇拝していたかもしれませんが、他の神々も崇拝していました。(ヨシュア記24:2)

アブラハムとサラは神様に従い始めていましたが、彼らの考え方はすでに自分たちの文化の影響を受けていました。

創世記15章と16章を読めば、その影響ははっきりと分かります。そのため、神様は「出なさい」と命じられたのです。

私たちに影響を与えるものは何でしょうか。私たちの考え方と行動を形作っているものは何でしょうか。私たちの文化でしょうか。私たちの家族でしょうか。私たちの友達でしょうか。

アブラハムに「出なさい」と命じられたように、神様は私たちにも同じことをおっしゃっています。私たちは神様に喜ばれない、この世の影響から逃れるべきです。

パウロはこう言いました。

この世界と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

私たちの周りにあるいろいろなものが私たちにプレッシャーをかけ、影響を与えようとしています。

時々、ある人は私たちを愛していても、私たちにプレッシャーをかけ、影響を与えようとします。彼らは私たちの最善を望むかもしれません。

しかし、私たちが注意を払わなければ、彼らの影響によって、私たちは神様から離れた道を歩んでしまう可能性があります。だから、友達や家族であっても、自分の文化であっても、私たちは悪い影響から逃れるべきです。

その関係を完全に断ち切るべきだと言っているわけではありません。けれども例えば、アドバイスを求めるときは、神様の価値観を持っている人々を求めるべきです。

多くのクリスチャンたちは、世の価値観を持つ人々にアドバイスを求めることがあります。

その人が私たちを愛しているかもしれませんが、そのアドバイスが私たちを神様に喜ばれない道に導いてしまう可能性もあります。

「彼とセックスしてもいいでしょう。彼を愛しているから問題ありません。」

「彼女と結婚してもいいでしょう。彼女はクリスチャンではありませんが、構わないです。彼女を愛しているでしょう?さらに、あなたの影響で彼女がいつかクリスチャンになるかもしれません。」

「夫と離婚したら?今は本当に大変でしょう。」

「その仕事は良い選択でしょう。教会に行けなくなるけれど、それは仕方ありません。神様は理解してくださるでしょう。」

「仏壇の前で拝んでもいいでしょう。深い意味はありません。それは単なる日本の文化的習慣です。」

そのアドバイスを与える人々は善意を持っているかもしれません。しかし、彼らの価値観は異なります。もしそのアドバイスに従えば、私たちは神様に喜ばれない道を歩むことになります。

神様は何を言われたでしょうか。。

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。

そうすれば、私はあなたがたを受け入れ、私はあなたがたの父となり、あなたがたは私の息子、娘となる、と全能の主が言われる。(第二コリント6:17-18)

それでも、私は繰り返します。その関係を完全に断ち切るべきだと言っているわけではありません。とはいえ、その人の影響から離れるほうが良いでしょう。

神様の御心を知りたいですか。神様を喜ばせたいと思っていますか。

御言葉を求め、従いましょう。そうすれば、神様の御心が何か、つまり、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知ることができるようになります。

また、神様の子としての人生を知り、誰よりもあなたを愛しておられる天の父を知るようになります。

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ためらっている

私にとって、日本に移住することは簡単な決断ではありませんでした。

ハワイで育ち、大学を卒業するまでずっとハワイに住んでいたからです。私の家族や友達は皆ハワイにいて、正直に言うと、あそこの生活はとても楽でした。私はずっとハワイで暮らそうと思っていました。

けれども、突然、神様が私を呼ばれました。神様は大きな声で私を呼ばれたわけではありませんし、私は奇跡的なしるしを見たわけでもありません。それでも、神様が私を呼ばれたのです。

その日のことはよく覚えています。

友だちと話しているうちに、なぜか分かりませんが、宣教師になることについて話し始めました。そして私はこう言いました。

「神様は、私が宣教師になることを望んでいないだろう。」

すると友だちがこう答えました。「本当にそう思うのか。神様にもう尋ねたのか。」

私は言いました。「いや、別に。。。」

その夜、神様と話した時、私はこう伝えました。

「くだらないことだと思うけど、友達に宣教師になることについて訊いたほうがいいって言われたんだ。」

それを言った瞬間、大きな声ではなかったけど、答えが返ってきました。「はい。尋ねなさい。」

私の返事をよく覚えています。「ええと。実は、私は尋ねたくありません。宣教師になれと言われたら困るから。」

それから2年ほど、私は悩み続けました。神様は「日本に行きなさい」と言われましたが、私は行きたくありませんでした。

結局、日本に引っ越すことになったのですが、驚いたことに、ハワイにいたときよりも日本の暮らしのほうが楽しかったのです。そして、「やっぱり、神様は何をしているのかよく知っておられる」と思いました。

アブラハムも私と同じように悩んでいたかもしれません。新改訳によれば、アブラハムの父テラが亡くなった後で、神様はアブラハムを呼ばれたようです。

しかし、英訳によれば、テラが死ぬずっと前から神様はアブラハムを呼ばれていたようです。使徒の働き7:2ー3にもそう書かれています。

神様が呼ばれた後、いつアブラハムは神様に従い始めたのでしょうか。それはちょっとはっきりしていません。けれども創世記11:31によれば、アブラハムはカナンに家族を連れて行くようにテラを説得したようです。

ところが、カナンに到着する前に彼らはカナンに行くことを諦めたようです。なぜ彼らは諦めたのでしょうか。それは私には分かりません。

もしかすると、テラはアブラハムに「もう疲れた。私は年をとり過ぎている。ここに泊まろう」と言ったのかもしれません。その後、彼らは自分たちの町を作り、テラが亡くなるまでそこに住んでいました。

けれども、テラが亡くなった後、アブラハムは神様の約束を思い出したようです。そして、神様に従おうと決心し、再びカナンに向けて出発しました。

神様が素晴らしい約束を与えてくださったのに、どうしてアブラハムはそんなに長く待ったのでしょうか。

たぶん、私と同じ理由でしょう。彼の生活は楽だったし、家族や友だちがいたからです。それにアブラハムは親孝行の気持ちを抱いていたかもしれません。

しかし、神様に従うことをためらったことで、アブラハムは神様の祝福を何年も逃してしまいました。

私たちの生活が楽すぎて、神様に従わないことで、どれほど多くの神様の祝福を逃しているのでしょうか。

私たちは良いものに執着し、より優れたものや最も良いものを逃してしまうことがどれほど多いでしょうか。

私にも、神様に従うことが難しいと感じる時があります。楽な人生が好きだからです。信仰によって歩くことが怖い時もあります。

しかし、私が学んだのは、神様が何をしているのかよく知っておられるということです。そして、神様に従えば、神様は私たちを祝福してくださいます。

イエス様はこう言われました。

まことに、あなた方に告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者で、だれ一人として、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠の命を受けない者はありません。(ルカ18:29-30)

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なんかおかしい

英語のことわざに「人生で確かなことは2つしかない。それが死と税金です」というものがあります。

けれども、最初はそうではありませんでした。最初は税金もなく、死もありませんでした。最初、アダムとエバは永遠のものとして造られました。

私たちは皆、死を当然のことだと思っていますが、昔はそうではなかったのです。

大洪水の後、人間の寿命がどれほど縮んだかは興味深いと思います。また、同時期に誰が生きていたのかも興味深いです。

私の計算が正しければ、ノアの息子セムはヤコブの時代まで生きていたことになります。アブラハムはセムよりも早く亡くなりました。セムは自分の子孫が亡くなるのを見て、どう感じたのでしょうか。

「なんかおかしい。どうして私の子供たちや孫たちはみんな私より早く死んだのだろう。なぜ平均寿命がこれほど縮まっているのだろうか。なんかおかしい」と思ったかもしれません。

確かに何かがおかしいのです。遺伝子に異常が起こり、人間の寿命はだんだん短くなってしまいました。テレビで110歳の人を見たら、私たちは驚きますよね。

誰も死について考えたくはないでしょう。私はもうすぐ40歳になりますが、私の人生はすでに半分ぐらい終わっているかもしれないと思うと信じられない気持ちになります。

私の高校の同級生の2人はすでに亡くなりました。親友ではありませんでしたが、彼らとはよく話していましたし、同じ授業も受けていました。そのうちの1人が心臓発作で亡くなったと聞いた時、私は驚きました。

ある人は、自分を慰めるために「人生とはそういうものだろう。死は自然なものだ」と言います。

しかし、それが本当ならば、人が死ぬときにどうして私たちはそんなに苦しむのでしょうか。

ソロモンはこう言いました。

神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。(伝道者の書3:11)

それは本当です。「死は自然なものだ」と何回言っても、私たち皆は死後の世界を望むでしょう。死が終わりということを信じたくないものです。

真理は、死は終わりではないのです。

ある人は、こう言いました。

「私たちの人生は車の運転のようなものだ。結局車は古くなって、故障してしまいます。

けれども、車が壊れても、私たちが死ぬわけではありません。私たちは新しい現実を体験するだけです。つまり、もう運転できなくて、歩かなくてはならないということです。

そのように、私たちの身体は車のようです。いつか、私たちの身体は老いて壊れてしまいます。

けれども、身体が壊れても、私たちが死ぬわけではありません。私たちは新しい現実を経験するだけです。つまり、この世界を去り、新しい世界に入るのです。」

ある曲によれば、「もし、イエス様を知れば、私はいつまでも生きます。もし、イエス様を知れば、私は死ぬことはありません。」

しかし実際には、誰も死なないのです。私たち皆が永遠のものとして造られたからです。

自分に問いかけなければならないのは、私たちが永遠に生きるかどうかではなく、私たちがどこに行くのかということです。

今日、もしあなたが亡くなったなら、どこに行くのかを知っていますか。

ヨハネはこう言いました。

そのあかしとは、神が私たちに永遠の命を与えられたということ、そしてこの命が御子のうちにあるということです。

御子を持つ者は命を持っており、神の御子を持たない者は命を持っていません。(第一ヨハネ5:11-12)

もちろん、私たちは自分のことも考えなくてはならないけれど、私たちが愛している人たちのことも考えなくてはいけません。

私たちが愛している人たちは、死んだらどこに行くのでしょうか。そしてその人たちのために、私たちは何をするべきなのでしょうか。

パウロはこう言いました。

しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。

聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。

宣べつたえる人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

遣わされなくては、どうして宣べつたえることができるでしょう。

次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんと立派でしょう。」(ローマ人への手紙10:14-15)

いつか、私たち全員が亡くなります。

あなたが愛している人は、もう準備ができていますか。

そして、あなた自身は準備ができていますか。

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創世記

神様から離れた人生

はい、分かりました。10章を飛ばしました。それはミスではありません。10章を読んだ際、心に響くものが特にありませんでした。

時にはそのような箇所もあるでしょう。今後も、ある箇所を飛ばす可能性があります。ご容赦ください。🙂

さて、バベルの話では、神様がまるで暴君のように描かれていると感じませんか。

一見すると、神様が弱い人々を虐げたり、散らしたりされたかのように思えます。なぜ、神様はそのようなことをされたのでしょうか。神様の動機は明確には示されていません。

なぜバベルの人々は団結を求めてはならなかったのでしょうか。なぜ素晴らしい塔を建てることが許されなかったのでしょうか。そして、なぜ名を上げることが禁じられていたのでしょうか。

聖書はこれらの疑問について明確に答えることはありません。私たちは理由を想像するほかないのです。

もしかすると、バベルの人々は神様中心の文化ではなく、人間中心の文化を築こうとしたのかもしれません。

さあ、我々は町を建て、頂きが天に届く塔を立て、[自分自身の]名をあげよう。(創世記4:11)

大洪水の前、そのような考え方が広がり、人間の文化は堕落してしまいました。その結果、神様はすべてを滅ぼされました。

しかし、そのような考え方は再び現れてしまいました。もしかすると、そのために神様は彼らの計画を止められたのかもしれません。

9節にはとても興味深い内容があります。

それゆえ、その街の名前はバベルと呼ばれた。主が地の言葉をそこで混乱させたから。。。

「バベル」とは、「混乱」という意味です。人々が神様を見捨て、自分たちの文化を築こうとするならば、最終的に彼らは混乱してしまいます。

多くの人は神様の人間関係に関する教えを拒絶し、「どうして私の人間関係がめちゃくちゃになったのか」と混乱してしまいます。

多くの人は神様の結婚に関する教えを拒絶し、「どうして私の結婚生活がうまくいっていないのか」と混乱してしまいます。

多くの人は神様の子育てに関する教えを拒絶し、「どうして私の子供がそんなに乱暴になったのか」と混乱してしまいます。

多くの人は神様の性に関する教えを拒絶し、「どうしていろいろな社会問題があるのか。性病、中絶、愛されていない子供、壊れた心など、なぜこんな問題があるのだろうか」と混乱してしまいます。

多くの人は喜びを与えてくださる神様から離れ、「どうして本当の喜びが見つけられないのか」と混乱してしまいます。

神様から離れた人生は、混乱に終わります。バベルの人々はその真理を知ることになりました。今もなお、多くの人々がその真理を学んでいるところです。

解決策は何でしょうか。それは、私たちの創造主のもとに戻ることです。そうすれば、秩序のある生活を見つけ、本当の命を見つけることができます。なぜならば、神様自身が命だからです。

イエス様はこう言われました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。私は来たのは、羊が命を得、またそれを豊かに持つためです。

この世の人々がそう信じたらいいのにと思います。

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創世記

聖徒だけど、罪人です

大学生の頃、私は宗教の授業を受講していました。ユダヤ教を学んだ際、私たちはノアの話について取り上げました。教授はノアの話を、他の文化における大洪水の伝承と比較しました。

教授はこう言いました。 「他の文化の話では、大洪水の後、主人公はある島にたどり着き、天国のような場所で永遠に暮らしました。」

そして、教授は続けてこう言いました。 「しかし、ノアの話は全然違います。大洪水の後、ノアは酔っ払って死にました。」

生徒たちは大笑いしました。けれども、ある生徒が「それは本当ですか?」と尋ねると、教授は少し訂正しました。 「まあ、ノアは酔っ払ってすぐ死んだわけではありません。」

もちろん、私の教授はクリスチャンではありませんでしたが、重要な点を指摘していました。聖書に登場する最も敬虔な人物でさえ、神様を疑ったり、失敗したり、罪を犯したりしました。要するに、彼らも皆、弱い人間だったのです。

ノアも例外ではありませんでした。神様はノアを「全き人」と呼ばれました。それでも、この話では、ノアはぶどう酒を飲みすぎて酔っ払い、天幕の中で裸のまま気絶してしまいました。

それでも、この話を読んだとき、私は少し励まされました。私は疑いや弱さ、罪などをたくさん抱えているので、もし聖書のヒーローたちがすべて完璧だったら、きっと絶望してしまっていたでしょう。

神様はノアや他の聖書のヒーローたちの弱さや罪を隠されません。それでも、神様は彼らを絶えず責め続けておられるわけではありません。

創世記9章以外で、神様がノアについて話されるとき、ノアの失敗に言及することはありません。ノアの義についてのみ語られています。

神様は私たちのことも同じように考えておられるのです。詩篇103:8-12で、ダビデはこう歌いました。

主は、哀れみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。

主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱う事をせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れるものの上に大きい。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

また、ヘブル人への手紙の著者も同じようなことを言いました。

もはや、彼らの罪を思い出さないからである。(ヘブル8:12)

この記事のタイトルは「聖徒だけど、罪人です」です。しかし、たぶん神様は私たちをそのようには考えておられないでしょう。

神様の記録には、私たちの罪や失敗が記されているかもしれませんが、それは私たちの記録のほんの一部です。記録された内容の主な部分は、イエスが私たちを救い、贖ってくださったという事実です。

イエス様の血によって、私たちは神様の前に、聖く、傷のない者となりました。私たちは神様に愛されている聖徒となったのです。

それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ1:6)

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あわれみの契約

今日、少し悲しい事実に気づきました。もしかしたら、天国にはステーキがないかもしれません。万が一バーベキューがあったとしても、野菜しか出てこない可能性があります。

なぜなら、大洪水の前、人々は野菜と果物だけを食べていました。そして大洪水の後にだけ、神様は人々に肉を食べることを許されたのです。それ以前は、人々は肉を食べてはいけませんでした。

天国には美味しい代替肉があるでしょうか?ステーキが恋しくならない日本人もいるかもしれませんが、天国には寿司や刺身があるのでしょうか。

とにかく、創世記9章には初めてのことがたくさん記されています。例えば最初のステーキや最初のバーベキューなど、そのようなものが存在しなかった時代を想像することは難しいですね。

それらは素晴らしいことでしたが、その時に動物と人間の関係に恐怖が初めて入り込みました。また、動物と動物の関係にも恐怖が初めて入り込んだのです。

イエス様が再びこの世に来られるまで、ライオンが羊と共に暮らすことはないでしょう。

さらにもう一つの「初めて」があります。それは、神様が人間と初めて契約を結ばれたことです。

ただ、その契約は双方的なものではなく、一方的なものでした。つまり、神様が何かをなさると約束されましたが、人間は何もする必要がありませんでした。

実際、神様が人間と神の両方に何かを求める契約は珍しいものです。

もしかすると、神様がよく知っておられたのは、人間が弱く、そのような契約をすぐに破ってしまうということだったのかもしれません。

数百年後にイスラエル人との契約は双方的なものでしたが、イスラエル人は何度もその契約を破ってしまいました。

しかし、最初の契約は一方的なものでした。人間がしなければならないことはまったくなく、神様だけが約束されました。

「もはや大洪水が地を滅ぼすことはない」と神様が約束してくださったのです。

一方的な契約でよかったのです。もしその契約が人間の行いに基づいていたなら、地はすぐに滅ぼされていたでしょう。なぜなら、大洪水の直後に人間は再び罪に陥ったからです。

神様はそのことをすでに知っておられました。神様は私たちの弱さを熟知しておられました。人間がすぐに罪に陥る性質をよく知っておられたのです。

おそらく、こうした理由から、神様は一方的な契約を結ばれたのではないでしょうか。

以前にも言ったように、神様は悪者の死を喜ばれることはありません。むしろ、神様はその死に心を痛められます。

大洪水の時、その雨は神様の涙のように思えます。だからこそ、人間がどんなに悪くなっても、神様は二度と大洪水を起こそうとはされませんでした。

今日に至るまで、神様はその約束を忠実に守っておられます。年月が経ち、悪が増え続けても、神様はその約束を覚えて守り続けてくださいます。そして虹はその契約の印です。本当に神様の恵みは素晴らしいですね。

そのあわれみの契約も素晴らしいですが、さらに素晴らしいあわれみの契約があります。

最初の契約は大洪水による裁きを防ぐものでした。しかし、ある日、私たち全員は神様の裁きを受けることになります。その裁きは水によるものではなく、火によって行われます(第二ペテロ3:6ー7)。

その時には最初のあわれみの契約は無効になるでしょう。

けれども、もう一つのあわれみの契約があります。裁きの日、その契約は依然として有効です。それは、イエス様の十字架の働きを信じる信仰によって、私たちの罪が赦されるという契約です。

パウロはこう言いました、

しかし、私たちの救い主なる神の慈しみと人への愛とが現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分の哀れみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:4ー5)

ノアとその家族は、神様のあわれみによって救われました。同じように、神様のあわれみによって、私たちも裁かれることはありません。

むしろ、裁きの日に神様のみ顔を見るとき、イエス様とその十字架の御業を信じる私たちは、あわれみを受け、救われます。

あなたも神様のあわれみを深く知ることができるように祈ります。

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待つのが辛いとき

数年前、節約のために私は韓国経由でハワイに帰ることにしました。けれども、その決断をすぐに後悔することになりました。

韓国に到着したとき、霧のため飛行機は着陸できず、しばらく空を飛び回った後、旧空港に着陸しました。そこで私たちは1〜2時間ほど待たされました。

狭い席でじっと待たされ、退屈な時間を過ごす羽目になり、それは本当に大変でした。

やがて飛行機は再び離陸し、ついに新しい空港に到着しました。その後、私は二度と韓国を経由しないと決めました。

箱舟にいるノアとその家族も、似たように感じたかもしれません。40日間雨が降り続いたものの、彼らが箱舟に滞在した日数をご存じですか?

雨が止んだ後、水は徐々に引いていき、箱舟は山の上にとどまりました。それでも、彼らはさらに7ヶ月もの間箱舟に滞在しなければなりませんでした。

最終的に、ノアとその家族は箱舟に1年以上滞在しました。そして神様はついに「出てもいい」とおっしゃいました。

私はその状況を想像することができません。箱舟が海に浮かんでいた間も大変だったでしょうが、山の上にとどまった後もさらに7ヶ月待たなければならなかったのです。

毎日、動物にエサをあげたり、動物のふんを掃除したりしなければなりませんでした。けれども、その仕事は彼らの日々の『娯楽』でもありました。

しかし、その後、彼らは退屈し、ただ待つことしかできなくなりました。もし私だったら、気が狂ってしまったかもしれません。

私たちはどれほど神様のタイミングを待たなければならないことがあるでしょうか。そして、そのような時に私たちはどのように反応するのでしょうか。

大学を卒業した後、私は日本に移住しようと思っていましたが、神様はその扉を閉じられました。私は約1年待たなければなりませんでした。その間、神様は私にコンピューター会社での仕事を与えてくださいました。

実は就職活動はまったくしていなかったのですが、ある会社が突然面接の連絡をしてくれたのです。大学では私はITを専攻しましたが、その会社で働いてみて気づいたのは、そのような仕事は私には不向きだということでした。

もし卒業後すぐに日本に来ていたら、「コンピュータの仕事をしていたらどうなっていただろうか」と振り返っていたかもしれません。けれども、今はまったく後悔していません。

いい人と結婚するまで待っていたことも覚えています。

私は27歳までに結婚すると思っていましたが、最終的に34歳で結婚しました。最もフラストレーションを感じていたときに、神様は私に最もふさわしい人を与えてくださいました。

最近、私のミニストリーがあまり進んでいないようなので、フラストレーションを感じています。今、私は神様の計画をよく理解できていません。

それでも、神様は再び私の人生に働き始めていると感じています。神様が何をしてくださるのか分かりませんが、私は待ち望んでいます。

私は主を待ち望みます。私の魂は待ち望みます。私は主のみ言葉を待ちます。(詩篇130:5)

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神様のさばき

こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、また全ての人も死に絶えた。

命の息を吹き込まれたもので、 かわいた地の上にいたものはみな死んだ。

こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥にいたるまで消し去った。それらは、地 から消し去られた。

ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。(創世記 7:21-23)

上の言葉は本当に切ないですね。

多くの人々は尋ねます。「どうして神様はそのような恐ろしいことをされたのでしょうか。どうして神様は地上のすべての生き物を滅ぼされたのでしょうか。」

旧約聖書では、神様は人々を裁かれ、時にはある民族を完全に滅ぼされることもありました。そのため、ある人々は言います。

「旧約聖書の神様はあまり好きではありません。その神様は本当にひどい方ですから。新約聖書の神様の方が好きです。その神様は愛の神、恵み深い神ですから。」

けれども、そのような考え方は間違っています。旧約聖書にも神様の恵みと愛がはっきりと現れています。

そして、新約聖書にも神様の裁きがはっきりと現れています。特に、黙示録にその裁きが記されています。

どうして神様は人々を裁かなくてはならないのでしょうか。

多くの人々は神様について二つの誤解を持っていると思います。

一つ目は、神様は愛の神でしかないという考えです。

だから彼らは尋ねます。「どうして愛の神様はそのようなことをされるのですか。」

しかし、その人たちが知らないのは、神様が聖なる方であるということです。神様は罪を見過ごすことができません。また、神様は正義の神です。神様は永遠に罪を容認することはできません。

いつか神様は罪を罰しなければなりません。もしそうしなければ、神様はもはや正義の神ではないからです。

もう一つの誤解は、神様が裁きを喜んでいるということです。けれども、その考え方も間違っています。神様は預言者エゼキエルを通してこう言われました。

私は悪者の死を喜ぶだろうか。神である主の御告げ。かれがその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル書18:23)

また、

彼らにこう言え。「私は誓って言う。神である主の御告げ。私は決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。

悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33:11)

真理は、神様が正義の方であると同時に、忍耐強い神であるということです。

時々、神様の正義に文句を言う人が、神様の忍耐を見て苛立ち、こう言います。

「神様が正義の方であるならば、なぜこれほど多くの悪が存在しているのですか?悪い人が罰せられずに、栄えているように見えます。」

けれども、そのようなことを言う人々は、自分自身の罪にはほとんど気づいていません。

聖書によれば、すべての人々は罪を犯します。もし今、神様がすべての罪人を裁くとしたら、誰も生き残ることはできないでしょう。

でも、神様は忍耐強い方です。この世の歴史の中で、神様の裁きが来る前に、神様はいつも大いなる忍耐を示されます。人々を裁く前に、神様は必ず悔い改める機会を与えてくださいます。

ノアを通して、神様は差し迫った裁きについて繰り返し警告されました。しかし、誰も悔い改めなかったため、神様は大洪水を送られました。

カナンの民を裁く前に、神様は約400年を待たれました(創世記15:16)。

イスラエルの民が罪を犯したとき、神様は多くの預言者を遣わして警告されました。

そして、今、神様は私たちにこう言われます。

まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざけるものどもがやってきてあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょ う。

「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

こう言い張る彼らは次のことを 見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神の言葉によって水から出て、水によってなったのであって、当時の世界は、その水により、洪水に覆われて滅びました。

しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

しかし、 愛する人達。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておれるのではありません。

かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、一人でも滅びる事を望まず、すべての人が悔い改めに進む事を望んでおられるのです。(第二ペテロ3:3-9)

もちろん神様は愛の神です。けれども、神様は正義の神でもあります。

もちろん神様は正義の神です。けれども、神様は忍耐強い神でもあり、すべての人が救われることを望んでおられるのです。

もちろん神様は忍耐強い神です。けれども、その忍耐は永遠に続くものではありません。

だから、イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

そして、洪水が来てすべてのものをさらってしまうまで、彼らは分からなかったのです。

人の子が来るのも、そのとおりです。

その時、畑に二人いると、一人は取られ、一人は残されます。二人の女が臼を引いていると、一人は取られ、一人は残されます。

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつこられるか、知らないからです。(マタイ24:37-42)

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神様を悲しませる、神様を喜ばせる

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を作った事を悔やみ、心を痛められた。(創世記6:5)

この言葉を読んで、私は本当に心を打たれました。

この世のさまざまな悪を見るとき、私たちはよく悲しみますが、神様の感情について考えたことがあるでしょうか。

神様も悲しんでおられます。この壊れた罪深い世界の苦しみを見るとき、神様は心を痛めておられるのです。

私の行動によって、神様はどれほど悲しまれるでしょうか。私の行動によって、神様はどれほど心を痛められるでしょうか。

私が以前申し上げたように、神様は目に見えない方なので無視しやすいです。特に罪を犯すとき、神様を無視するのは簡単なことです。しかし、そのような態度を取れば、私たちは神様を悲しませてしまいます。

一方で、ノアを見たとき、神様は微笑まれました。8節には、「ノアは、主の心にかなっていた。」と書かれています。

罪人だらけの世の中で、神様は「ノアが全き人」と呼ばれました。

ノアは、「私の周りはみんな自分のやりたいことをやっているから、私もそうしよう」と言うこともできたでしょう。けれども、ノアは神様に従うことを選びました。

神様はノアに大変な仕事を与えられましたが、ノアは神様に従いました。

ノアが海のないところで箱舟を造っていたため、周りの人々はノアを馬鹿にしましたが、ノアは文句も言わず、神様に従いました。

すべてにおいて、ノアは神様が命じられたとおりに行いました。

私もノアのようになりたいです。私はすべてのことにおいて、神様を喜ばせたいです。

神様、時々、私はあなたを無視し、罪を犯してしまいます。そして、私の罪をご覧になり、あなたは心を痛められました。どうか赦してください。

私はノアのようになりたいのです。この世の考え方に従いたくありません。

時には、あなたを信頼することが難しい時もありますが、あなたを信じて従うことができるよう助けてください。

時には、あなたの計画が分からない時もありますが、それでもあなたに従うことができるように助けてください。

私は本当にあなたを喜ばせたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神様と共に歩む

認めましょう。私たち全員、時々、聖書の中のある箇所を読み飛ばすことがあるでしょう。

特に、「誰々が誰々を生んだ」という系図の箇所は、よく飛ばしがちです。正直に言うと、私もそうすることがあります。

とはいえ、そのような箇所を読むことで、私たちは興味深い事実を学ぶことができるかもしれません。

例えば、メトシェラのことです。彼はこの世界の歴史上、最も長生きした人間でした。彼はいつ亡くなったのでしょうか。計算すると、メトシェラは大洪水が起こった年に亡くなったことになります。

それでも、私が知りたいのは、メトシェラが大洪水の前に亡くなったのか、それとも大洪水の最中に亡くなったのかということです。

ノアはメトシェラの孫でした。ノアとその曾祖父エノクは神様と共に歩んでいたと聖書に書かれています。けれども、メトシェラとその息子レメクはどうだったのでしょうか。

レメクは大洪水の5年前に亡くなっていましたが、メトシェラには箱舟に入る機会があったかもしれません。

ノアが箱舟を作っている間に、メトシェラはその作業を手伝っていたのでしょうか。それとも、「ノアは馬鹿だ」と考えていたのでしょうか。

それらは興味深い質問ですが、その答えは明確ではありません。もしメトシェラとレメクが神様と共に歩んでいたなら、それが聖書に記されているはずですが、何も書かれていません。

一方で、エノクとノアは神様と共に歩んでいたと聖書に記されています。それはどういう意味なのでしょうか。

おそらく、神様と共に歩むことの一面は、彼らが神様の臨在を常に意識していたということです。

もちろん、彼らが一日中ずっと神様のことを考えていたわけではありません。それは不可能でしょう。毎日、仕事をしたり、友達と遊んだり、さまざまな活動があったはずです。

けれども、例えば家にいるとき、私は妻と常に話しているわけではありませんが、妻がどこにいて何をしているのかはだいたい分かっています。だから、妻と話したいときには、いつでも話すことができます。

神様との関係も同じです。私はいつも祈っているわけではありませんが、神様の臨在を意識し、神様が何をなさっているのかを見ることができるので、神様と頻繁に話をします。

私は一日中祈っています。時には些細なことについて祈ります。「やれやれ。神様、その生徒はかなり大変でした。」

もっと重大なことについて祈るときもあります。「神様、妻と喧嘩してしまいました。どうしたらいいでしょうか。」

しかし正直に言うと、私にとって神様がなさっていることに気づくのは難しいことです。

時々私は自分がしていることにあまりにも集中しすぎて、神様と協力することを拒んでしまうことがあります。

例えば、職場で昼食をとるとき、私はよく本を読みます。けれども、時々誰かが部屋に入ってきて、私に話しかけることがあります。

その際、きちんと本を閉じて相手と話すこともありますが、時には「はい、はい、はい、そうですか」と返事をして、すぐに本に戻ってしまうこともあります。

しかし、その後で「神様からの機会を逃してしまったなぁ」と思うのです。

多くのクリスチャンは朝に聖書を読み、祈りますが、その後「じゃあね、神様。また後でね」という態度を取ることがあります。そして、その日の残りの時間は神様のことを全く考えないのです。

けれども、もし私たちがそのような態度を取るなら、神様が私たちの中で何をしておられるのか、また神様が他の人々の中で何をしておられるのかに気づくことはないでしょう。

私はエノクとノアのようになりたいのです。周りの人々が私を見たときに、「あの人は神とともに歩んでいる」と言ってほしいのです。

神様、あなたの臨在にもっと気づきたいです。あなたがこの世界で何をしておられるのかをもっと知りたいです。私のスケジュールが中断されるとしても、私はあなたと協力したいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

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創世記

硬い心

アダムとエバが罪を犯した後、すぐに人々の心は硬くなりました。

カインは自分のやり方で神様を礼拝しようとしましたが、その礼拝は拒絶されました。カインが怒ったとき、神様は彼に問いかけられました。

なぜあなたは憤っている。なぜ顔を伏せているのか。 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。

ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。(創世記4:6ー7)

けれども、カインは自分の心を硬くし、弟を殺してしまいました。

神様がカインに面と向かわれたとき、アダムとエバとは異なり、カインは言い訳をしませんでした。むしろ、「私の咎は大きすぎて、担いきれません」と言いました。

彼は悔い改めることはなく、ただ文句を言っただけでした。

カインの子孫であるレメクはさらにひどい人物でした。レメクは傷つけられると、相手を殺してしまいました。そのとき、レメクは自慢しながら、このような歌を歌いました。

私の受けた傷のためには、ひとりの人を私のうけた打ち傷為には、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讎があれば、レメクには七十七倍。(創世記4:23ー24)

どうして人間の心はそんなに硬くなるのでしょうか。その答えは創世記6ー7節に書かれています。

私たちは常に罪と戦っています。そして、私たちが罪を治めなければ、罪が私たちを治めることになります。

さらに、私たちが誘惑に負けて罪を犯せば犯すほど、私たちの心は硬くなります。

多くの場合、誘惑が最初に来たとき、神様は私たちの良心を通して注意を促されます。その時、私たちは自分が悪いとすぐに分かります。

しかし、もし悔い改めなければ、私たちの心は少しずつ硬くなります。

その結果、神様からの次の警告を無視しやすくなり、自分の罪に対する罪悪感が薄れてしまいます。

そして、もし神様の警告を無視し続ければ、私たちの心はさらに硬くなり、神様の声がだんだん聞こえなくなり、自分の罪を認識できなくなります。

そのような危険を避けるためにはどうすればよいでしょうか?私たちは柔らかい心を保つべきです。

罪悪感を覚えたとき、それを無視してはいけません。むしろ、良心に従うべきです。

そして、もし罪を犯したなら、すぐに悔い改めるべきです。

また、神様の声に対して開かれた心を持ち続けるようにしましょう。

あなたの心が硬くならないように。
あなたの愛が冷めないように。
あなたが常に子供のような心を保てるように。
あなたの心が老いることがないように。

あなたの心が硬くならないように。
あなたが常に硬い心の治療を覚えておくように。
それは、イエス様の前で砕かれる心を持ち、
感謝の心、へりくだる心、清い心を保つことです。

ーーボブ・ハートマン

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創世記

信仰によって

人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。(創世記3:20)

私はエバという名前が大好きです。その名前は「生きる」という意味です。

たぶん、神様がエバの子孫を通して救い主が来ると約束された後、アダムはエバにその名前を与えたのでしょう。つまり、「あなたを通して救い主が来て、すべての人々が生きるようになる」という意味です。

それは本当に素敵な名前だと思います。

そして、創世記4章では、私たちはカインとアベルの話を読みます。

その話を読んで、一つの質問が私の頭に浮かびます。どうして神様はアベルのささげものを受け入れたのに、カインのささげものを拒絶されたのでしょうか。

ある聖書学者の意見によれば、そのささげものは罪のためだったので、動物をささげなくてはいけなかったのだそうです。

他の学者の意見によれば、カインは最も良いものをささげていなかったのだそうです。

その二つの意見が正しいかどうか分かりませんが、ヘブル人への手紙の著者によれば、もう一つの理由がありました。

信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいきにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。

神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかしてくださったからです。(ヘブル人書11:4)

その著者によれば、アベルは信仰によって神様にいけにえをささげたのです。けれども、カインはそうしなかったようです。

もしかすると、カインにとって、そのささげものは意味のない儀式だったのかもしれません。

彼は、「どうして私の最上のものをささげなくてはならないのだろうか。どうして動物をささげなくてはならないのだろうか」と考えていたのかもしれません。

カインが具体的に何を考えていたのかは分かりませんが、カインの態度は神様を喜ばせるものではなかったようです。

神様が受け入れなかったささげものを、私もささげたことがあるだろうか?正直に言うと、什一献金をささげるとき、私が税金を払っているように感じることもありました。

時には、本当にささげたくないけれど、しなくてはならないと思うときもあります。献金をささげるのは痛みを伴うこともありますが、それでも義務だからと考えたこともあります。

しかし、それは信仰によってささげる態度ではありません。パウロはこう言いました。

一人一人、いやいやからでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(第二コリント 9:7)

正直に言うと、私にとってその言葉は難しいです。特に貯金があまりないとき、神様にささげるのは非常に難しいと感じます。だから時々、喜びをもってささげるのではなく、むしろ渋々ささげてしまうことがあります。

自分自身に問いかけなければならないのは、「どうして私はささげているのだろうか。ささげなくてはならないと思うからなのか。それとも、心からささげたいと思っているのだろうか」ということです。

とはいえ、これは献金だけの話ではありません。

私のお祈りはどうでしょうか。神様が受け入れてくださらない祈りをささげている時があるでしょうか。

時々、食事のために祈るとき、私はただ言葉を口にしているだけです。そのような時、私は本当に祈っているわけではありません。

また、時々教会で祈るとき、私の心がさまよっていることがあります。それも、信仰による祈りとは言えません。

神様、私を赦してください。カインのような態度を取りたくありません。習慣的な祈りだけはしたくありません。献金を喜んでささげたいです。

アベルのような心が欲しいです。これからは、何をささげても、何をするにしても、信仰によって、愛に溢れた心から行いたいです。

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創世記

壊れた

最近、私は「ワンス・ブラザーズ」というバスケットボールのドキュメンタリーを見ました。

それは、ユーゴスラビア出身のブラディ・ディバッツとドラゼン・ペドロビッチという選手の話でした。二人はユーゴスラビア代表選手でした。

そして、1989年に彼らはアメリカに移住し、NBAに入りました。その時、その二人は親友でしたが、ユーゴスラビアで内戦が発生し、すぐに彼らの関係は壊れてしまいました。

ブラディ・ディバッツが言ったのは、「長年築かれた友情を破るのは、ほんの一瞬のことだ」ということです。

創世記3章を読んだとき、その言葉が思い浮かびました。

罪を犯す前に、どれくらいアダムとエバがエデンに住んでいたか分かりませんが、その時、彼らは素晴らしい関係を持っていました。彼らは互いに愛し合い、受け入れ合っていました。また、神様とも親しい関係を持っていました。

私たち皆がそのような結婚生活を望んでいるでしょう。私たち皆が神様との親しい関係を望んでいるでしょう。アダムとエバには実際にそのような関係がありました。

毎日アダムとエバは庭で一緒に働き、その後で、多分ハイキングをしたり、美味しい物を食べたり、楽しい時間を過ごしたりしました。

そして夕方に神様が庭に来られると、彼らは神様と楽しい時間を過ごしました。

神様はその二人の行動や冒険のことを聞いて、喜ばれたと思います。また、アダムとエバがこの新しい世界について質問をしたとき、神様は答えてくださいました。

多分、何年も経ってその関係はもっと、もっと親しくなったと思います。けれども、その関係は一瞬にして壊れてしまいました。

あなたもその話をご存じでしょう。アダムとエバは禁断の木の実を食べました。その瞬間、アダムとエバの間に恥と不安が入り込みました。いちじくの葉で服を作り、自分たちの体を隠しました。

さらに、彼らの信頼関係は失われました。「受け入れてくれているだろうか」、また「本当に愛してくれているのだろうか」という不安が生まれました。

そして、神様がエデンに来られたとき、アダムとエバは神様を迎えるのではなく、むしろ逃げて隠れました。

神様がアダムとエバに面と向かわれたとき、その関係の亀裂が明らかになりました。

「神様。私のせいではありません。それはエバのせいです。一体どうして、あなたは私にエバを与えたのですか。私はあなたに妻をくれとは頼んでいませんでした。」

エバはそんな言葉を聞いて、どう感じたでしょうか。裁かれ、拒絶されたと感じたでしょう。

神様はどう感じられたでしょうか。

「私を拒絶しているのか。私がせっかく造った貴重なギフトも拒絶しているのか。」

ずっと親しい関係を持っていたのに、一瞬にして壊れてしまいました。

しかし、アダムとエバとの関係が壊れたその瞬間から、神様はその関係を回復するために働き始められました。神様はアダムとエバのために服を作ってくださいました。

そのとき、神様はどのようにその関係を回復するかを示してくださいました。神様は動物を殺されました。死は初めてこの世界に入りましたが、その動物の皮によって、神様はアダムとエバの恥を覆われました。

そのように、数千年後、神様はご自身のひとり子を送られ、十字架でイエス様の死によって、私たちの罪と恥を覆ってくださいました。

この壊れた世では、人間関係は難しいものです。時には、人間関係によって、私たちは深く苦しむことがあります。

私の結婚生活が完璧だとは言えません。時々私は妻と喧嘩しますし、時にはお互いをがっかりさせることもあります。

神様との関係も難しいものです。アダムとエバのように、神様と親しくなりたいです。神様の声をもっとはっきりと聞きたいと思います。

けれども、イエス様を通して、神様は回復の道を備えてくださいました。その道を求めましょう。

神様との関係をやめるのは簡単なことです。どうかそうしないでください。神様との関係を求め、人間関係も大切にしましょう。

そのために、私たちには努力と謙遜な態度が必要です。しかし、神様の恵みと力によって、壊れたものは回復することができます。

神様はアダムとエバとの関係を回復されました。神様はあなたとの関係も回復してくださいます。

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創世記

恥がない

この箇所を読むとき、私が一番印象に残っているのは、神様の愛と親切さです。人間を創造するとき、神様は愛を持って、アダムとエバのすべてのニーズに備えてくださいました。

例えば、美しくて美味しい食べ物を造られました。納豆のような食べ物ではなく、美しくて美味しそうなものを造ってくださいました。(納豆が美味しいと思う人が本当にいるのでしょうか。)

それに、神様は彼らに楽しい仕事を与えてくださいました。

そして、アダムが自分の必要性を知る前に、神様はエバを創造してくださいました。

アダムはエバを初めて見たとき、本当に嬉しかったようです。もしかしたら彼は、「すごい!この人こそ私が探し求めていたものだ。神様は私のためにこの人を造ってくださった。やった!」と言ったかもしれません。

そして聖書によれば、彼らは裸でも恥じることがありませんでした。

結婚はそのような関係であるべきです。夫婦は裸でも恥じることがないはずです。

けれども、私はセックスのことだけについて話しているわけではありません。夫婦は恥じることなく、心のすべてをさらけ出すべきです。夫婦は互いを完全に受け入れるべきです。

相手のすべてを知り、受け入れ、喜ぶべきです。

「すごい。この人は素晴らしい」と言う態度を取るべきです。

しかし、たくさんの結婚はそうではなく、早々に崩れてしまいます。

私たちみんな、相手のことを知りたいし、自分を知ってもらいたいと思っています。また、相手に受け入れられたいとも思っています。

一緒に笑い、遊び、話し合うという喜び。それこそが神様がデザインされた結婚生活なのです。けれども、サタンは私たちからそのような結婚生活を奪いたいとどれほど強く望んでいることでしょうか。

拒絶されることを恐れ、相手に私たちの心をさらけ出すことができないと思う人が多いです。もしかしたら、あなたは過去に傷つき、自分の心をさらけ出すことがもうできないと思うかもしれません。

しかし、もしあなたが命の創造主に立ち返り、その無条件の愛と受け入れを受け取るなら、あなたは癒されます。そして、あなたは相手を愛し、受け入れることができるようになります。

さらに、神様はあなたの死んだ結婚を復活させ、新しくしてくださいます。

そして、アダムとエバの関係のように、あなたは裸で恥じることのない結婚生活を送ることができるようになります。

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神のかたちに創造された

私は27節を何度も読んだことがあるため、深く考えずに読み流してしまうことは簡単です。しかし、神様はこの真理が非常に重要だと思われたため、27節で同じことを二度繰り返して言われました。

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(27)

つまり、神様は人間を造られたとき、御自身の反映を造られたのです。

私たちが親切であるとき、神様のかたちを反映します。

恵みとあわれみを与えるとき、神様のかたちを反映します。

私たちの中にある愛やその他の良いものがあれば、それらは神様の性格を反映します。

ですから、他人を見るときは、私たちを造られた神様のかたちとして見るべきなのです。

とはいえ、時にはそうすることが難しいものです。私たちは神様のかたちを反映しますが、アダムとエバとは異なり、そのかたちは歪んでいるのです。罪の傷によってそのかたちは歪んでいるのです。

時々、梅田の地下道を歩いていると、とても悪い匂いに気づきます。目を上げると、ホームレスの方がいるのです。

もしかしたら、その方は何週間もお風呂に入っていないのかもしれません。その方を見るとき、神様のかたちを認識することは私にとって難しいのです。

また、学校では、時々私の生徒たちが本当に悪い態度を取るので、さまざまな問題が生じます。

そのような時も、神様のかたちを認識するのは難しいです。そのため、その人ちを見下すことは簡単になってしまいます。「その人たちはあまり価値がない」と考えてしまいます。

けれども、神様はその人たちを見るとき、私にこう言われます。

「そのかたちは歪んでしまったけれど、それはやはりわたしのかたちなのです。それでも、あなたはその人たちを見下すのですか。その人たちは非常に価値があり、イエスはその人たちの罪のために死んだのです。」

正直に言うと、私のかたちも歪んでいます。人を裁いて見下すと、私の中の神様のかたちも歪んでしまいます。

私の人生、特に私の罪を見ると、他の人たちはどう考えるでしょうか。私の中の神様のかたちはどれほど歪んでいるでしょうか。実のところ、私はそんなことを知りたくないのです。

しかし、神様は私のことを諦められません。毎日神様は私を新しくしてくださいます。神様は毎日私の内で働いてくださり、私をご自身のかたちのように変えてくださいます。

第二コリント3:18では、パウロはこう言います。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです.

もし神様が私のことを諦められなかったのなら、どうして私が他の人を簡単に諦めることができるでしょうか。どうして私が他の人たちを見下すことができるでしょうか。

私が受けたのと同じ恵みによって、神様はその人たちの中でも働いておられるかもしれません。

ですから、私が自分に問いかけなくてはならないのは、「私が受けたあわれみを彼らに与えているだろうか」ということです。

私が他の人たちに見てもらいたいのは、
私の中にいるあなたのかたちです。
私があなたの心を映す鏡になれるように。

あなたのかたちをもって、歩みたいのです。
自分の父を真似する子どものようになりたいのです。
あなたの心を映す鏡になりたいのです。

--クリス・クリスチャン

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創世記

神様の力と知恵

創世記1章を読むとき、私にとって印象的なのは、神様の力と知恵です。御言葉だけで、神様は全てのものを造られました。神様が「光よ、あれ」と言われると、光は突然現れました。

そして、神様が「動物と木と花よ、あれ」と言われると、それらはすべてたちまち現れました。

神様はどのようにしてモーセにこの場面を説明されたのでしょうか。言葉だけで伝えられたのでしょうか。それとも低速度撮影の動画を見せられたのでしょうか。私もそれを見たいと思います。

ところで、もし神様が現代の科学者と話されるとしたら、創造についてどのように説明されるでしょうか。もし神様がすべてを説明されるとしたら、科学者はその説明を完全に理解できるでしょうか。

私たちは賢くて、たくさんのことを既に知っていると考えがちです。

もちろん、現代の科学者は、モーセよりも多くのことを知っています。それでも、神様が説明されたら、彼らはそのすべてを理解できるでしょうか。おそらく、それは不可能でしょう。

科学者が天国に行って、神様とこのような事について話す時、興味深い話になるでしょう。「ああ、そうでしたか。私たちは大体正しかったけれど、少し間違っていました」と言うかもしれません。

または、「へえ、私たちは全く間違っていましたね」と言うかもしれません。

それでは、私は何を言いたいのでしょうか。神様の力と知恵について考えるとき、私たちは神様を恐れるべきです。

恐れると言っても、「神様が怖い」という意味ではありません。むしろ、「神様は素晴らしい」という意味です。

時々、私たちはこの世界を見て、多くの地震や竜巻、戦争、病気などを目の当たりにします。そして、私たちは「どうして」と問いかけます。

「神様、どうしてそのようなことをお許しになるのですか。」

自分の健康問題について考えるとき、「どうして私は糖尿病を発病したのだろうか」、または、「どうして胃潰瘍を発病したのだろうか」と問いかけます。

時々答えは簡単です。

「あなたがコーラを飲みすぎたから糖尿病を発病したのです。」

けれども、ある場合には、そのような疑問には答えが見つからないことがあります。そして私たちは苦しみます。

しかし、私たちが科学的な疑問を理解できないのに、どうして哲学的な疑問を理解できるでしょうか。

神様の知恵は私たちの知恵よりもはるかに優れています。

この世に生きている限り、私たちには理解できないことがあるのは当然です。私たちはただの人間ですから。

神様が説明しようとしても、私たちはまだ理解できないかもしれません。

それでも、神様が望んでおられるのは、私たちが神様に信頼することです。つまり、神様は私たちが次の3つのことを信じることを望んでおられます。

一つ目は、神様は御自分が何をなさっているのかをよく知っておられるということです。

二つ目は、神様は良い方であるということです。

三つ目は、神様はあなたを愛しておられるということです。あなたがどのような状態になっても、神様はあなたを愛しておられるのです。

ヨブはその真理を学びました。彼の人生は突然困難なものになりました。

「なぜ」と尋ねたとき、神様は全く答えてくださいませんでした。

しかし、最終的にヨブは神様の素晴らしさを目にしました。そしてヨブはこう言いました。

あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、 私は知りました。

あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。

確かに私は、 自分の理解できないことを告げてしまいました。 自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。

あなたは言われます。「さあ、聞け。わたしが語る。 わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ」と。

私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。それで、私は自分を蔑み、悔いています。 ちりと灰の中で。(ヨブ42:2-6)

ヨブが謙虚な態度をとった後、神様はヨブの人生を回復されました。それだけではなく、神様はヨブを以前にも増して祝福されました。

ですから、どんな状況に直面しても、どんな疑問があっても、どんな困難があっても、私たち以上に知恵を持っておられる神様に信頼しましょう。神様が私たちの状況の中で働いておられることを信じましょう。

そうすれば、私たちは神様の栄光を目にすることができます。

パウロが言ったように、

ああ、神の知恵と知識との富は、なんと底知れず深いことでしょう。そのさばきは、なんと知り尽くしがたく、その道は、なんと測り知りがたいことでしょう。

なぜなら、誰が主の御心を知ったのですか。また誰が主のご計画にあずかったのですか。また、誰が、まず主に与えて報いを受けるのですか。

と言うのは、全てのことが、神から発し、神によってなり、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ書11:33-36)

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はじめに神

「はじめに神」

それらはシンプルな言葉ですが、私の目に留まりました。なぜだろうか?どうしてその言葉は私の心に響いたのでしょうか。

おそらく、そのシンプルな言葉には本当に深い意味があるからでしょう。

「はじめに神様」。

「はじめに進化」ではなくて、「はじめに神様」と書いてありました。

もし私たちが進化によって生まれたのであれば、私たちは自然の偶然にすぎません。

けれども、私たちが偶然の生物だとすれば、結局私たちの人生には全く意味がないのです。私たちは動物と同じように生まれて、いつか死ぬのです。

しかし、私たちは偶然の存在ではありません。はじめから神様は、私たちを知り、私たちのために計画を持っておられました。私たちの人生の意味は神様にあります。

ですから、私たちの人生の意味を見つけたいのであれば、神様から始めなくてはなりません。

それ以外のところから始めようとするなら、私たちには虚しさしか見つけられないのです。私たちの大前提が間違っているからです。

ソロモンという王はその真実を深く理解していました。ソロモンはイスラエルの最も偉大な王でした。最も裕福で、最も賢く、彼の王国には平和がありました。

けれども、神様を捨て、自分の幸せを追求しました。多くの女の人と結婚し、多く働き、多くのことを学びました。

ところが、結局ソロモンが言ったのは「空(くう)の空、すべては空」ということです。

つまり、「すべては虚しい。神様から離れては、私を満足させるものは何もないのです。私の人生は無意味です。」

なぜでしょうか?神様自身が命なのですから。もし神様から離れたら、私たちの人生は虚しくなります。

私の人生について考えると、自分に問いかけなくてはならないのは「私は本当にそれを信じているだろうか」ということです。

私は毎日、起きてから寝るまで神様と共に歩んでいるでしょうか。神様は私の全てでしょうか。それとも、私は神様から離れて歩んでいるのでしょうか。

実際、神様から離れて歩むことは簡単です。神様は目に見えないからです。だから神様を無視することはとても簡単なことです。

私はよく仕事をしたり、スポーツ観戦をしたり、インターネットを見たり、ゲームをしたりします。

それらは悪いことではありませんが、ソロモンが言ったように、私が神様から離れていては、私の人生は虚しくなります。

一時的に満足するかもしれませんが、結局私の人生は虚しくなってしまいます。

この世界のものは神様からのギフトです。しかし、ギフトは一時的なものです。そのため、そのものには永遠に満足させる力がありません。

その一方、神様は永遠の方です。神様は満足を与えてくださる方です。

だから一時的なギフトを求めてはいけません。むしろ、ギフトを与えてくださる方を求めましょう。

そうすれば、私たちの人生の意味を見いだすことができます。

また、私たちは本当の満足を見いだすことができるのです。

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このブログについて

はじめに

2011年に、私は英語の聖書ブログを始めました。聖書を読みながら、自分の考えを書き始めたのです。

しかし、日本人の友達は「読みたいけれど、英語が分からない」と言いました。

彼はインターネットの翻訳ソフトを使おうとしましたが、その翻訳はあまり良くないと思いました。そこで、私はこのブログを始めることにしたのです。

実は、私の日本語もあまり上手ではありません。日本語で何かを書くと、妻から「ちょっと変ですねえ」とか「可愛い日本語ですねえ」とよく言われます。

とはいえ、多分私の日本語は、その翻訳ソフトよりは分かりやすいと思います。

ですから、私のつたない日本語をどうか許してください。 :) 

そして、このブログを楽しんでいただければ幸いです。

このブログを通して、あなたが神様とその言葉をもっと深く理解するように願っています。