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エペソ人への手紙のデボーション

私たちはすでにそのような者だから

ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。(エペソ人への手紙5:1)

天のお父さん、その言葉が私の目に止まりました。

恐れのためではなく。

あなたの愛や受け入れを得るためではなく。

むしろ、あなたの愛に根差し、愛を土台として生きる者として、私たちはあなたに倣おうと努めます。

私たちはすでにあなたに愛されている子どもたちです。(1節)

私たちはすでにあなたの聖徒たちです。(3節)

私たちはすでにあなたにあって光です。(8節)

私たちはそのような者になろうと努める必要はありません。

私たちはすでにそのような者となりました。

そのような者として、私たちは毎日、大喜びをもって、あなたを喜ばせたいと願います。

あなたにあって、自分たちのアイデンティティを覚えていられるように助けてください。

私たちはあなたを愛しています。あなたがまず私たちを愛してくださったからです。

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神の愛に根差している

そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3:17ー19)

最近、教会で私は「初めの愛」についてのメッセージを語りました。特に、イエス様への初めの愛を保つことがどれほど大切かについて話しました。

しかし、初めの愛を保つということは、単に聖書をもっと読み、祈り、神様に仕えるという話ではありません。

むしろ、それは、この基本的な真理に、自分自身を根差すことなのです――「神がまず私たちを愛してくださいました。」

初めの愛を保つために、私たちは毎日、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを、より深く理解するべきです。

けれども、私たちは当たり前だと思っているものに自分自身を根差すことはできません。思い巡らすことのないものに根差すこともできません。

例えば、エペソ人への手紙1ー3章にあるパウロの言葉を軽く読んで、「はい、はい、もう知っている」と言ってしまうのは、とても容易なことです。

けれども今日、私はこの三つの真理を思い巡らし、心の中で把握しようとしています。

世界の基が据えられる前に、神様は私を自分の子どもとするように選んでくださいました。(エペソ1:4ー5)

私は罪の汚れのすべてから清められました。神様は私を聖なる者、傷のない者として見なしてくださいます。(エペソ1:4、7)

私は神様の作品です。神様は、私が御国に仕えるために、良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ2:10)

それらを思い巡らすとき、また、自分がそれにどれほどふさわしくないかを思うとき、私は驚きに満たされます。

パウロも、きっとそのように感じたでしょう。(エペソ3:8)

エペソ1章から3章を読むとき、あなたは「もう知っている」と言っていませんでしたか。それとも、その真理を思い巡らし、再び驚いていたでしょうか。

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あらかじめ備えられた道を歩む

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ人への手紙2:10)

昨日、私は来日30年の記念日を祝いました。1995年に来たとき、これほど長く日本にいることになるとは思っていませんでした。

しかし、私が気づいてきたのは、神様が私のために日本での働きをあらかじめ備えてくださっていたということです。

そのことを思い起こすたびに、私は深く感動します。

そして神様が私に思い出させてくださったのは、まだまだあらかじめ備えてくださっている働きがあるということです。それがどのようなものであるか、私は知りませんが、その導きに注意を払い、その良い行いに歩みたいと願っています。

あなたもそのように歩むことができるように祈ります。

なぜなら、私だけではなく、私たち皆が神の作品だからです。

私たちは皆、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られました。

私たち皆が良い行いに歩むように、神様はその良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

そして、私たちは一人でではなく、むしろ共に歩むように呼ばれているのです。

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霊的な記憶喪失

クリスチャンとして、忘れることは容易なことです。

神様がどれほど私たちを恵まれたかを忘れてしまいます。

世界の基が据えられる前から、神様が私たちを選んでくださったことを忘れてしまいます。

神様が私たちにふんだんに与えてくださった恵みを忘れてしまいます。

神の召しにより与えられる望みを忘れてしまいます。

私たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものであるかを忘れてしまいます。

私たちの中で働いている神の大能の力を忘れてしまいます。

私たちの王の偉大さを忘れてしまいます。イエス様は、「全ての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」(エペソ人への手紙1:21)

だから、エペソ人への手紙では、パウロは神様が私たちの霊的な記憶喪失を癒すように祈ります。パウロは、私たちが上記の真理をしみじみと感じるように祈ります。

この箇所を読むとき、その言葉、その真理は心に響いているでしょうか。

それとも、全然何も感じていないでしょうか。あなたの心の喜びは冷めたでしょうか。

私はあなたのためにパウロの言葉を祈ります。

でも、私のためにも祈ってください。なぜなら、私も霊的な記憶喪失がある時もあるからです。

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すべての武具を身に着けて

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。。。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。(エペソ人への手紙6:11~13)

「すべての武具。」

今朝、神様はその言葉を私の心に刻まれました。

すべての武具を身に着けなさい。すべての武具を取りなさい。一部の武具ではなく、すべての武具なのです。

サタンは私たちに攻撃するため、一つの策略ではなく、さまざまな策略を使います。だから、毎日、すべての武具を身に着けなければ、私たちは攻撃に対して脆弱になります。

パウロの言葉を言い換えると、すべての武具を身に着けなければ、あなたは悪魔の策略に対して堅く立つことができません。

神様のすべての武具を取らなければ、あなたは抵抗することも、堅く立つこともできません。

だから、真理の帯を締めましょう。つまり、神様の言葉をあなたの思考の土台にしましょう。また、あなたの言葉が真理によって特徴づけられるようにしましょう。

そして、仮面を捨てましょう。つまり、教会では一人の人間、教会の外ではもう一人の人間という二面性を持たないことです。

胸には正義の胸当てを着けましょう。正義をもって、周りの人々に接しましょう。また、あなたの失敗のためにサタンがあなたを責めるときは、イエス様を信じる信仰によるキリストの義を着けましょう。

恵みの福音の備えをも履きましょう。そうすれば、自責の念や律法主義、そして意図的な罪に陥ることはありません。

信仰の盾をも取りましょう。でも、一人で立ってはいけません。ほかのクリスチャンたちと共に立ちましょう。クリスチャンの交わりを優先しましょう。

そうすれば、あなたの盾は強い亀の甲羅の一部となります。その甲羅は、あなただけでなく、周りのクリスチャンたちをサタンの攻撃から守ります。

救いのかぶとを受け取りましょう。感謝をもって、受け取りましょう。なぜなら、あなたは神様の恵みによって救いを得たからです。

そして、サタンが嘘であなたを攻撃するときは、神様のことばという剣を振るいましょう。

あなたはどうですか。神様の武具のすべてを身に着けているでしょうか。もしかしたら、その武具の一部は床に残されたままになっているのではないでしょうか。

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あなたのようになるように

しかしあなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません。ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。(エペソ人への手紙4:20~24)

天のお父さん、私たちは初めにあなたの似姿に造られました。(創世記1:26-27)

しかし、その似姿は私たちの罪によって歪められ、腐敗しています。

私の人生においても、あなたの似姿は私の罪によって歪められ、腐敗しています。

それでも、あなたは私を愛してくださり、あなたの恵みによって私を救ってくださいました。あなたの望みは、私があなたの御子のようになることです。(エペソ4:13)

ですから、私があなたにかたどって造られた新しい人を着ることができるように助けてください。私があなたの義、真理、愛、恵、親切さ、優しい心によって特徴づけられる者となるようにしてください。

周りの人々が私を見るとき、彼らがあなたを見てくださるように。私はあなたのようになりたいのです。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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近い者となった

そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。。。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なので。(エペソ人への手紙2:12~13)

多分、上記は、私が最も気に入っているエペソ人への手紙の箇所です。その箇所は、クリスマスの意味、つまり、イエス様がこの世に来られた理由を要約しているからです。

私たちは、かつて神様の家族の部外者であり、アブラハムとその子孫への祝福の約束の契約から除外されていました。しかし今、イエス様にあって、かつて神様から遠く離れていた私たちは、近い者となりました。

イエス様の系図を見ると、それがよく分かります。

タマルはカナン人でした。カナン人の罪のため、神様はイスラエル人たちに、カナン人たちを滅ぼすように命じられました。(マタイ1:3;創世記10:15-18,15:16;レビ記18:24-28;申命記7:1-4)

ラハブもカナン人で、遊女でした。(マタイ1:5)

ルツはモアブ人でした。神様はイスラエル人たちに、モアブ人が主の集会に加わってはならないと言われていました。(マタイ1:5;申命記23:3-4)

彼女らは皆、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神様もおられない者たちでした。けれども、彼女らは近い者となり、聖徒たちと同じ国の民となり、神様の家族に加えられました。

私たちも同じです。

クリスマスはもう終わったかもしれませんが、パウロの言葉に思いを巡らしましょう。その言葉を反芻しましょう。

そして、喜びましょう。

私もそうしています。

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ふんだんに恵まれている

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ人への手紙1:3-6)

私は6節の英訳が大好きです。「神様は私たちに恵みの栄光をふんだんに与えてくださいました。」

「ふんだんに与える」と訳された言葉は、新約聖書では2回しか使われていません。2回目は、上のエペソの箇所です。一回目は、マリアへのガブリエルの言葉です。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)

ガブリエルの言葉を言い換えると、「マリア、神様はあなたにふんだんに恵みを与えてくださいました。」

あなたは、御使いがマリアにそのような言葉をかけたのは、マリアが本当に特別な人だったからだと思うかもしれません。

でも、神様は同じようなことを、私たちにも言ってくださいます。

「わたしの子を通して、あなたに恵みをふんだんに与えました。世界の基が据えられる前から、あなたをわたしの子供とするように定めていました。」

マリアへの神様の言葉は、あなたにも当てはまります。あなたは、ふんだんに恵まれた人です。そして、イエス様において、神様はインマヌエルです。「神様は私たちと共におられます。」

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神の御心を悟る

ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。

知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、 機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。

ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。(エペソ人への手紙5:15-17)

天のお父さん、この世界を歩むとき、私があなたの御心の大局を心に留めることができますように。あなたの御心は、すべてのものが御子の支配下に集められることです。(エペソ1:9〜10)

それは、私を含み、私の周りの人々を含み、被造物の全体を含みます。

しかし、あなたの御心の大局を心に留めながら、あなたが今日、私に何を望んでおられるのかを理解することができますように。

周りの人々に触れる、あなたが与えてくださる機会を見いだすことができますように。私がサタンの捕虜を救い出し、あなたの御国へ導くことができますように。彼らに対する、あなたのあわれみ深い心を私に与えてください。

私が毎日、あなたの愛のうちに歩むことができますように。そして、あなたが与えてくださる機会を十分に活かすことができますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちのうちに働く神の御力

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に。。。(エペソ人への手紙3:20)

今日、「私たちのうちに働く御力」という言葉を考えました。

今まで、それを読むと、神様の力が私を通して働き、周りの人々に触れることを思い浮かべていました。

しかし、今日私が考えたのは、神様の力が私を変えるために、私のうちに働いておられるということです。そして、その過程において、神様は私が願うところ、思うところのすべてを、はるかに超えて行うことができる方です。

問題に直面するとき、私はしばしば、神様が私の問題を取り除いてくださるように祈ります。私の状況を変えてくださるように祈ります。

神様の恵みによって、そうしてくださる時もあります。

しかし、多くの場合、神様は私たちの状況を変えようとはされません。

むしろ、神様は御子のかたちと同じ姿に、私たちを変えたいと願っておられます。(ローマ8:28)

けれども、時には私たちは、それは無理だと思ってしまいます。

最近、私の牧師は、自分の心を導くことについて語っています。(箴言23:19)

しかし、それは時に難しいものです。特に、人に傷つけられて、私たちが許さなければならないときです。

私たちは、相手に謝ってほしいと思います。相手が変わることを望みます。

そして同時に、まず相手が変わらなければ、まず私たちの状況が変わらなければ、自分たちの心が変わるのは無理だと主張します。

しかし、神様は、私たちが願うところ、思うところのすべてを、はるかに超えて行うことのできる方です。

なぜでしょうか。

それは、イエス様を復活させた力が、私たちのうちにも働いているからです。

しかし、私たちはそれを本当に信じているでしょうか。

天のお父様、あなたの愛に私を根差してください。私がその愛の確信をもって生きることができますように。

私が、あなたの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、私の心の穴が埋められ、私の傷が癒されますように。

私の状況や周りの人々を変えてくださるようには祈りません。むしろ、私自身を変えてください。

私たちが願うところ、思うところのすべてを、はるかに超えて行うことのできるあなたの力によって、私をイエス様のように変えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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しかし神は。。。

しかし、あわれみ豊かな神は。。。キリストとともに生かしてくださいました。。。

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。。。

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ人への手紙2:4ー6,10)

今朝、神様の恵みに驚嘆していました。

ギリシャ語では、パウロが「私たちは神の作品」と書いたとき、「神の」という言葉を強調しています。

私は、「なぜ『神の』という言葉を強調したのだろうか」と思いました。

でも、4節をもう一度読みました。「しかし、神は。。。」

私の犯した罪によって、私は霊的に死んでいて、神様から遠く離れていました。自分の罪によって、私は御怒りを受けるべき子であり、地獄にふさわしい者でした。

しかし、神は。。。

神様は私を生かしてくださいました。イエス様の血によって、神様は私の罪を赦してくださいました。神様は私をともによみがえらせ、イエス様とともに、天上でご自分のそばに座らせてくださいました。

なぜでしょうか。

私が素晴らしい人だからではありません。私の良い行いのためでもありません。

むしろ、私たちへの神様の愛とあわれみのゆえです。

神様が母の胎の内で私を形づくられたとき、私は神の傑作(英訳)でした。(詩篇139:13〜14)

私の罪によって、その「傑作」は傷つき、壊れてしまいました。でも、恵みによって、神様は私を新しく造り直してくださいました。

私は、神様が二度造られた傑作です。

しかし、神様は人々が私を観賞するためだけに造られたのではありません。私は特別な目的のために造られたのです。それは、神の国のために、人々に触れることです。私は毎日、その良い行いに歩みたいのです。

あなたも神の傑作です。あなたは、神様が二度造られた傑作です。その真理を喜びましょう。そして、毎日、神様が備えてくださった行いに歩みましょう。

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御霊を悲しませるとき

神の聖霊を悲しませてはいけません。(エペソ人への手紙4:30)

たくさんの人々は、天の父と御子が人格を持っておられることを認めます。

でも、多くの人は、御霊も人格を持っておられることを認めません。

しかし、スターウォーズのフォースと違って、御霊はただの力ではありません。御霊は人格を持っておられます。そして、御霊も悲しまれるときがあります。

私たちは、神様に対する頑なな心を保つと、御霊は悲しまれます。(18節)

私たちのプライドのゆえに、私たちが神の民の一致を破るとき、御霊は悲しまれます。

私たちの言葉が、恵みではなく、むしろ、無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどに満ちているとき、御霊は悲しまれます。(29、31節)

私たちが御霊を悲しませないように。むしろ、神とその民に対して、謙虚な、柔らかい心を保ちましょう。

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願いと思いを超えて働かれる神

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に。。。(エペソ人への手紙3:20)

主よ。私があなたを小さな神と見なすことがありませんように。なぜなら、あなたは私が願うところ、思うところのすべてを、はるかに超えて行うことのできる方だからです。

イエスを死者の中からよみがえらせた力は、今、私のうちに働いています。(エペソ1:19–20)

だから、不可能と思われることのためにも、私がためらわずに祈れるように、私を助けてください。また、私が人々やさまざまな問題について祈るとき、もしあなたが私にしてほしいことがあれば、教えてください。

時々、自分の信仰が小さいと感じます。でも、あなたは、ほんのわずかな信仰心で十分だと言われました。(マタイ17:20)

だから、私の小さな信仰を用いてください。そして、私の小さな信仰を増し加えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神の国に仕えるために造られた

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ人への手紙2:10)

その箇所を読んで、「良い行い」という言葉を反芻しました。

パウロによれば、私たちは良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られました。

でも、「良い行い」とは何でしょうか。それは、ただ聖書を読んだり、祈ったり、教会に行ったり、機会に気づいたら人に親切にしたりすることなのでしょうか。

もちろん、それらは良いことですけれども、パウロは続けてこうう言います。

その良い行いをもあらかじめ備えてくださいました。

神様が私たちのために、もっと具体的なプランを持っていることに聞こえます。

神様は、私たちそれぞれのために役割を整えておられました。だから、神様を求めて、私たちの役割が何であるかを訊きましょう。

天のお父様、私が生まれる前に、あなたは私のために良い計画を持っておられました。その計画は、私があなたの御国に仕え、周りの人々にあなたの愛で触れることです。

だから、聖霊様、私に語ってください。あなたが私のためにあらかじめ整えてくださった良い行いを教えてください。

わが主は、何をこのしもべに告げられるのでしょうか。聖霊様、私に教えてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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神様の御手から救いを受ける

今日、興味深いことを見つけました。 エペソ人への手紙6章17節で、パウロはこう言いました。

救いのかぶとをかぶり(なさい)。

「かぶる」という言葉は、普通、聖書では「受ける」と翻訳されます。 パウロが描写するのは、兵隊がしもべからかぶとを受け取ることです。もちろん、彼は受け取ってから、そのかぶとをかぶります。

とにかく、私たちは大切なことを覚えていなくてはなりません。 それは、私たちが自分の救いの方法を作らないことです。 また、私たちは自分の救いのために働きません。 むしろ、私たちは神様の御手から救いを受けます。

サタンはよく私たちの心に火矢を放ちます。「あなたは救いに値しない人です。」

でも、私たちはサタンに大胆に答えることができます。

「それはそうです。でも恵みによって、神様は救いを私に与えてくださいました。イエス様はしもべの姿を取り、十字架で私の罪のために支払ってくださいました。私はイエス様の御手から救いを受けました。」

その真理を喜びましょう。そして、私たちの訴えるものに直面するとき、その真理の上にしっかり立ちましょう。

私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。

「今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。(黙示録12:10)

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私たちはもうすでに。。。だから

エペソ人への手紙5章にあるパウロの言葉は、私の心を打ちました。

「あなたはもうすでに神様に愛される子なので、天のパパに倣う者となりなさい。」

「あなたはもうすでに聖徒なので、性的な罪や貪りや汚い言葉を捨てなさい。」

「あなたはもうすでに光の子なので、そのように歩みなさい。」

パウロが言わなかったことに注目してください。

「神様の愛を知り、神様の子になりたいなら、神様の倣う者となりなさい」とは言いませんでした。

「聖徒になりたいなら、性的な罪や貪りや汚い言葉を捨てなさい」とは言いませんでした。

「光の子となりなさい」とは言いませんでした。

私たちはもうすでに神様に愛されている子供たちです。 私たちはもうすでに聖徒たちです。 私たちはもうすでに光の子供たちです。

だからパウロが意味したものは、「あなたたちはもうすでに神様に愛されている子供たちや聖徒たちや光の子供たちなので、そのように生きましょう」ということです。

そして、私たちが倒れるときに、神様は私たちを引き起こしてくださいます。

でも心に留めておきましょう。神様の子供や聖徒や光の子となるように努める必要はありません。

神様の恵みによって、私たちはそんな身分をもう持っています。 だから恵みによって、毎日、神様の子や聖徒や光の子として生きましょう。

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なぜこの世の民に従ってはいけないのか

この世にあって、私たちは、その考え方を受け入れるように促されます。特に、聖書の教えを曲げて、この世の道徳的価値観を受け入れるよう強いプレッシャーを受けています。

人々はこう言います。「道徳に関して、社会の考え方は変わりつつあります。だから、私たちは歴史の流れに乗らなくてはなりません。聖書の教えはもう時代遅れです。」

しかし、私たちはそのような考え方に従ってはなりません。

なぜでしょうか。

パウロは、この世の人々をどのように描写しているでしょうか。

彼らの心はむなしいのです。(エペソ人への手紙4:17)

彼らの心は神様に対して、頑なで、また無感覚なのです。

そのため、彼らの知性は暗くなり、神のいのちから遠く離れてしまっています。(18〜19)

さらに、彼らは自分の罪深い情欲に惑わされています。だから、彼らは神様が憎まれるものを「良い」と呼び、神様が「悪」とされるものを喜びます。

その結果はどうなるでしょうか。

彼らの人生は腐敗し、破滅に至る道を歩んでいます。(22)

だからこそ、パウロは私たちにこう訓戒します。「彼らの模範に従ってはいけません。」

むしろ、私たちは彼らの考え方を脱ぎ捨てる必要があります。反対に、私たちは「真理に基づく義と聖を持って、神にかたどり造られた新しい人を着なければなりません。」(24)

だから、聖書の教えを曲げ、この世の教えを受け入れるように誘惑されるとき、この世の人々の本当の状態を覚えておきましょう。

彼らのために祈りましょう。

彼らに神様の光を照らしましょう。

しかし、彼らの考え方や模範に従ってはなりません。

私たちが救い主イエス様のようになるために、そして本当のいのちを受けるために、イエス様は十字架でご自身のいのちを捧げられたのです。

 

 

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自分が悪いクリスチャンだと思っているのか?

パウロがどのように自分を見なしていたかは、興味深いことです。

第一コリント15:9では、パウロは自分を「使徒の中では最も小さな人です」と呼びました。

エペソ3:8では、彼はさらにこう言います。「私はすべての聖徒たちのうちで最も小さな者です。」

(「聖徒」とは、「とても聖いクリスチャン」ではなく、「神に属する人」を意味します。ですから、パウロが意図したのは、「私はすべてのクリスチャンたちのうちで最も小さな者です」ということです。)

第一テモテ1:15では、パウロはそれ以上のことを言います。「私は罪人のかしらです。」

注目すべき点があります。パウロは「私は使徒の中では最も小さな人でした」や「私はすべての聖徒たちのうちで最も小さな者でした」、また「私は罪人のかしらでした」とは言いませんでした。

「でした」ではなく、「です」と言ったのです。

現代だったら、パウロがそんなことを言ったとしたら、多くの人はこう言うかもしれません。「パウロ、自分についてそんなことを言ってはいけません。もっと自己肯定感を持たなくては。」

でも、その謙遜な態度ゆえに、パウロは自分が受けた恵みに驚いていました。毎日、その恵みを思い起こすたびに、彼はその不思議さに心を打たれました。きっと、そのたびに涙ぐんだことでしょう。

彼は、天の父に近づくことができるという事実に驚きました。

彼は、神様の代表として人々に福音を伝える権利が与えられたことに驚きました。

だからこそ、彼は大いに喜んだのです。

あなたは、自分が悪いクリスチャンだと思うでしょうか。あなたは、自分が「クリスチャン」と呼ばれることにふさわしくないと思っているでしょうか。

確かに、あなたはふさわしくない人です。私も、ふさわしくない人です。

でも、どうか恥じ入らないでください。

むしろ、自分の惨めさを見つめながら、もう一度神様の恵みに目を向けて、あなたが受けたものを喜びましょう。すなわち、赦し。神様に近づく権利。神様のために周りの人々に触れる使命。そして、永遠の遺産。

そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3:17-19)

 

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私たちに対する神様のご厚意

エペソ人への手紙1章を読んだとき、一つの言葉が私の注意を引きました。その言葉は5節と9節にあり、日本語では「みこころの良しとするところ」や「みむね」と訳されていますが、実はギリシャ語では、どちらも同じ語が使われています。

その語のニュアンスは、神様が私たちのために良い計画を持っておられることです。その良い計画は、私たちに対する神様のご厚意に基づいています。言い換えれば、神様は私たちを祝福することを喜んでおられるのです。

考えたことがあるでしょうか。神様は、私たちを祝福することが大好きなのです。神様は、私たちを祝福することを喜んでおられます。

だからこそ、神様はキリストにあって、私たちにあらゆる霊的な祝福を与えてくださるのです。

神様の愛のゆえに、世界の基が据えられる前から、神様は私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされました。

さらに、神様は、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

また、神様は、私たちの人生に恵みをふんだんに注いでくださいました。

イエス様の血によって、私たちの罪は赦され、私たちは贖われました。

そして、イエス様にあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。

では、どうして神様はそうしてくださったのでしょうか。

なぜなら、神様は、私たちに対してご厚意を持っておられるからです。神様は、私たちのためにそれらすべてを行うことを喜んでおられるからです。

だから、どんな試練に直面しても、その真理を心に留めていましょう。

十字架を仰ぎましょう。あなたが受けた恵みを思い起こしましょう。そして、自分自身に思い出させましょう。

「神様は、私たちに対してご厚意を持っておられます。」