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ヨハネの福音書のデボーション Uncategorized

私たちの主の土台を持って生きる

イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。(ヨハネの福音書13:3)

今日の箇所では、イエス様は卑しい仕事を引き受け、弟子たちの汚れた足を洗ってくださいました。

すこし考えてみてください。

数時間後、ペテロは「イエスを知らない」と言い張ってしまいます。イエス様はそれをよくご存じだったのに、ペテロの足も洗ってくださいました。

また、ユダはすでにイエス様を裏切ろうと企んでいました。イエス様はそれをよくご存じだったのに、ユダの足も洗ってくださいました。

さらに、イエス様は、その夜ご自分が逮捕されるとき、ほかの弟子たちが逃げてしまうこともよくご存じでした。それでも、イエス様は彼らの足をも洗ってくださいました。

これこそ、驚くべき愛と謙遜です。どうしてイエス様はそのような愛と謙遜を持っておられたのでしょうか。

  1. イエス様は、天の父との関係について確信を持っておられました。天の父がイエス様を愛しておられることをよくご存じでした。また、天の父がイエス様にすべての権威を与えてくださったこともよくご存じだったのです。
  2. イエス様は、ご自分がどこから来られたのかをよくご存じでした。天の父がこの世を救うためにイエス様を遣わされたことを、はっきりと理解しておられました。
  3. イエス様はご自分がどこに行かれるのかもよくご存じでした。十字架で死なれることをご存じだっただけでなく、その後、天の父のもとに帰られることもご存じだったのです。

私たちも皆、イエス様のようになりたいと願っているでしょう。イエス様のように、人々を愛し、許し、仕えようと努めているでしょう。

しかし、私たちはイエス様と同じ土台を持っているでしょうか。

私たちは、天の父との関係について確信を持っているでしょうか。つまり、天の父が本当に私たちを愛しておられるという確信、そして私たちが神の子どもとされているという確信を持っているでしょうか。(ヨハネ1:12;第一ヨハネ3:1–2)

私たちは、自分がどこから来たのかを知っているでしょうか。神様が愛をもって私たちを造られたことを、心から理解しているでしょうか。(詩篇139)

また、神様が私たちを使節としてこの世に遣わされたことを知っているでしょうか。(第二コリント5:18–21)

そして、私たちはどこに行くのかを分かっているでしょうか。イエス様が復活されたので、私たちも復活の希望と永遠のいのちの希望を持っていることを理解しているでしょうか。(ヨハネの福音書14:2–3)

さらに、苦しむときも悲しむときも、イエス様がすでにこの世に勝っておられ、私たちが永遠にイエス様と共にいるという確信を持っているでしょうか。(ヨハネの福音書16:33)

どうぞ、上記の箇所を読んでください。そのみことばに思いを巡らしましょう。私たちの土台を心にしっかりと留めておきましょう。

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エペソ人への手紙のデボーション

なぜこの世の民に従ってはいけないのか

この世にあって、私たちは、その考え方を受け入れるように促されます。特に、聖書の教えを曲げて、この世の道徳的価値観を受け入れるよう強いプレッシャーを受けています。

人々はこう言います。「道徳に関して、社会の考え方は変わりつつあります。だから、私たちは歴史の流れに乗らなくてはなりません。聖書の教えはもう時代遅れです。」

しかし、私たちはそのような考え方に従ってはなりません。

なぜでしょうか。

パウロは、この世の人々をどのように描写しているでしょうか。

彼らの心はむなしいのです。(エペソ人への手紙4:17)

彼らの心は神様に対して、頑なで、また無感覚なのです。

そのため、彼らの知性は暗くなり、神のいのちから遠く離れてしまっています。(18〜19)

さらに、彼らは自分の罪深い情欲に惑わされています。だから、彼らは神様が憎まれるものを「良い」と呼び、神様が「悪」とされるものを喜びます。

その結果はどうなるでしょうか。

彼らの人生は腐敗し、破滅に至る道を歩んでいます。(22)

だからこそ、パウロは私たちにこう訓戒します。「彼らの模範に従ってはいけません。」

むしろ、私たちは彼らの考え方を脱ぎ捨てる必要があります。反対に、私たちは「真理に基づく義と聖を持って、神にかたどり造られた新しい人を着なければなりません。」(24)

だから、聖書の教えを曲げ、この世の教えを受け入れるように誘惑されるとき、この世の人々の本当の状態を覚えておきましょう。

彼らのために祈りましょう。

彼らに神様の光を照らしましょう。

しかし、彼らの考え方や模範に従ってはなりません。

私たちが救い主イエス様のようになるために、そして本当のいのちを受けるために、イエス様は十字架でご自身のいのちを捧げられたのです。

 

 

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ピリピ人への手紙

キリストの模範に従う(2)

数日前、私は「イエス様の模範に従うこと」についてお話ししました。

ピリピ人への手紙3章では、パウロは自分自身について語っていますが、2章の内容を踏まえて読むとき、彼の言葉をまったく別の視点から見ることができるように思います。

そこで、パウロの言葉に耳を傾けてみましょう。

「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。」(ピリピ人への手紙3:7)

クリスチャンになる前、パウロは自分がユダヤ人であること、 そしてパリサイ人であることを誇っていました。

また、彼は律法を忠実に守ろうとする努力そのものを誇りとしていたのです。

しかし、クリスチャンとなったとき、パウロはキリストのゆえに、そのような誇りをすべて捨てました。

それだけではなく、イエス様との関係と比べて、パウロはこの世のすべてのものを、価値のないものと見なしたのです。

イエス様を得、イエス様の義に包まれたいという願いのために、 彼はそれらを「ちりあくた」と見なしました(3:8〜9)。

そして、パウロの主な願いは、イエス様とその復活の力を知り、 イエス様の苦しみにあずかり、キリストの死と同じ状態にまで達することでした。

最終的には、イエス様と共に復活させられることを熱く望んでいたのです(3:10)。

それと同じように、イエス様もまた、私たちのために、ご自身にとって益であったすべてのものを、損と見なされました。

私たちとの関係と比べると、イエス様は、天にあるご自身の栄光さえも、価値のないものとされたのです。

私たちを得て、ご自身の義によって私たちを包むために、イエス様は、天のすべてのものを“ちりあくた”と見なされたのです。

イエス様の望みは、私たちがイエス様とその復活の力を知り、 イエス様の苦しみにあずかり、イエス様の死と同じ姿にあずかって、ついには栄光のうちに復活することです。

そのゆえに、イエス様は十字架へと進み、苦しみを受けられました。

それならば、私たちもイエス様のために、同じ道を歩むべきではないでしょうか。イエス様が私たちのためにすべてを捨てられたのだから、私たちもまた、イエス様のためにすべてをささげるべきではないでしょうか。

さあ、日々、イエス様の模範に従って歩みましょう。